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Fair Weather/Beginning From An End/2008 Cherry Red Records ECLEC2028



1970年代のブリティッシュ・ポピュラー・ミュージックは絶え間ない進化の過程にあった。いわゆる“プログレッシヴ”は、ある音楽スタイルをプレイすることに飽き足らなくなったミュージシャンたちが、その束縛から逃れてより気持のよい音楽へと向かうものであった。一つの好例が60年代半ばのビート・ブームの騒乱の中、すぐれたリズム&ブルース・バンドを率いていた創立メンバーのマンフレッド・マンのキャリアだろう。マンはどんどんと“ポップ”な方向へと発展していくバンドの一員となっていることに気づいてしまった(それでも十分素晴らしいバンドであったが)。オーディエンスの大部分は10代の少女たちであり、彼女たちはステージ上のバンドの演奏を聴くというよりはコンサートで金切り声を上げるのが目的であるかのようだった。1969年までにマンはこの状況にうんざりし、名声を勝ち取っていたバンドは解散することになった。そしてメンバーのマイク・ハグと共にマンはChapter Threeを結成し“プログレッシヴ”な方向へと進み、以降ジャズ寄りの傑出したレコーディング作品を生み出していった。

もう一つ似たようなパターンのグループが南ウェールズに存在していた。やはりすぐれたミュージシャンであった彼らも、自分たちがティーンエイジャーの少女たちに取り囲まれている状況に気づいた。Amen Cornerはブルースとソウルに影響を受け、1966年にカーディフで結成された。グループは当時の他の多くのバンドの中で、その特徴的なブラス・セクションによってひときわ目立っていた。アンディ・フェアウェザー・ロウがリード・ヴォーカル、ニール・ジョーンズがギター、クライヴ・テイラーがベース、デレク“ブルー”ウィーヴァーがキーボード、アラン・ジョーンズとマイク・スミスがサキソフォン、そしてデニス・バイロンがドラムスだ。バンドはロンドンのライヴ・サーキットを回り、すぐにデッカ・レコードと契約を結んだ。デッカ傘下のデラム・レーベルからの初のシングル・リリースは“Gin House”b/w“I Know”であった。シングルA面はラジオによってすぐさま火がつき、UKチャートの12位まで上がった。これは“Bend Me Shape Me”と“High In The Sky”含む一連のヒット・シングルの始まりだった。

全てに渡って巧妙に仕上げられたこれらポップ・シングルは、アンディ・フェアウェザー・ロウの魅力的なルックスと声のおかげもあって幸運なチャート・アクションを獲得した。1969年までにエーメン・コーナーはアンドリュー・ルーグ・オールダムのイミディエイト・レーベルに移籍し、そこで彼らはナンバー・ワン・ヒット“(If Paradise is)Half As Nice”含む2曲のトップ10ヒットを放った。しかしその年の終りまでにバンドのメンバーはその“ティーニー・ボップ”レーベルに嫌気がさし、よりシリアスな音楽性の追求を切望するようになっていった。あるいはこれは、その年のイミディエイト・レコーズ倒産によって決定的になったのかもしれない。アラン・ジョーンズとマイク・スミスはJudas Jumpを結成するためにグループを去っていった。その興味深いプログレッシヴ・バンドはEMIのパーロフォン・レーベルから3枚のシングルと1枚のアルバムをリリースしている。

アンディ・フェアウェザー・ロウ、ニール・ジョーンズ、クライヴ・テイラー、ブルー・ウィーヴァーそしてデニス・バイロンは、“プログレッシヴ”な方向をさらに追求し、よりハードな音を目指して共に活動していくことになった。バンドはFair Weatherと名乗り、そのサウンドは急速に増加していた“シリアス”なロック・ファンにアピールすることを目標としていた。1970年5月、RCAレコーズと契約したフェア・ウェザーは1970年7月、デビュー・シングル“Natural Sinner”b/w“Haven’t I Tried”をリリースした(RCA 1977)。シングルA面はフェアウェザー・ロウの手によるもので、エーメン・コーナー時代にデモテープが作られていたが、リリースはお蔵入りになっていたものだ。再録されたこの曲は素晴らしいアップテンポのロック・ナンバーとなり、ラジオDJたちの耳に止まり結果1970年7月11日にUKチャートに入り12位に達した。またヨーロッパ中でヒットとなった。フェア・ウェザーは1970年8月、ファースト・シングルのプロモーションのためにロードに出た。そして8月29日、スカボローの“Scene Two”クラブにおいてライヴ・デビューを果たした。

依然英国の音楽紙においては、エーメン・コーナー時代のメンバーに関する記事が載っていたが、フェア・ウェザーは徐々に実力を発揮し好意的なレヴューを受けるようになっていった。過去のイメージから脱却するためにフェア・ウェザーは1970年、モンマスシアのロックフィールド・スタジオで彼らの唯一となったアルバムのレコーディングを開始した。レコーディングされた最初期の一つが、“I Hear You Knocking”で、これはロックフィールドの住人であり、ミュージシャン、ライター、エンジニア、そしてプロデューサーであったデイヴ・エドマンズの初期のヒットだ。これはエドマンズのヴァージョンとは対照的に、パワフルで騒々しい仕上がりとなった。しかしこれはエドマンズがエンジニアを務めていた。1970年1月、RCAレコーズは“Natural Sinner”の成功を受けて次なるシングル、“Road To Freedom”とリトル・リチャードのカヴァー、“Tutti Frutti”をリリースした(RCA 2040)。しかしこれはチャート上では失敗に終わってしまった。

この時RCAは新しいレーベル、Neonの発足に必死に取り組んでいた。この企ては例えばEMIのHarvest、デッカのDeram、パイ・レコーズのDawnそしてフィリップスのVertigoのように、メジャー・レーベルが手を出していた“アンダーグラウンド”レーベルの成功と張り合おうとするものであった。NeonはA&R幹部に元ヴァーティゴの上役だったOlaf Wyperを迎え、フェア・ウェザーのアルバムはその新しいレーベルからの第1弾となることに決まった。“Beginning from an End”は1971年春にリリースされた(RCA Neon NE 1)。ジャケットを飾ったのはヴァーティゴ・レーベルでの仕事で名が知られていたマーカス・キーフによる写真だった。アルバムは数々の素晴らしいトラックがフィーチャーされていた―“Sit and Think”、“God Cried Mother”、“Don’t Mess with Cupid”、“Looking for the Red Label”などだ。エーメン・コーナーからは遠くかけ離れた最高に自信たっぷりの出来ばえであった。“Beginning from an End”のリリースと同時に、RCAはまたシングルとして“Lay it on Me”と“Looking for the Red Label, Part Two”をリリースした(RCA Neon NE 1000:これもレーベル初の7インチシングルだ)。

アンダーグラウンド雑誌Zig Zag始め、英国のミュージック・プレスはアルバム、シングルとも熱狂的に支持したが、どちらも商業的には失敗に終わってしまった。1971年半ばフェア・ウェザーは、過去の“ティーン・アイドル”的視線で受け入れる“プログレッシヴ”ファンと商業的不成功の犠牲となりその活動を止めた。ブルー・ウィーヴァーはすぐにストローブスに加入し、デニス・バイロンは名の知れたセッション・ミュージシャンとなった。彼は70年代後半にウィーヴァーと再び組み、ビー・ジーズのバッキング・バンドのメンバーとなった。アンディ・フェアウェザー・ロウは将来の展望と新たな曲作りのためにしばらくウェールズで過ごしていた。1974年彼はソロとしてA&Mレコーズと契約し、アルバム“Spider Jiving”をリリース、“Reggae Tune”はUKトップ10ヒットとなった。さらに彼は1975年にシングル“Wide Eyed and Legless”をヒットさせ、ソロ・パフォーマー、セッション・プレーヤーとして高く評価され、レオ・セイヤー、ロイ・ウッド、リチャード・アンド・リンダ・トンプソン、ザ・フーそしてエリック・クラプトンのバンド・メンバーとしても活躍した。また彼はピンク・フロイドの創立メンバー、ロジャー・ウォーターズのグループの音楽ディレクターとなった。そしてこれは書かねばならないが、彼はついに26年ぶりのソロ・アルバム、“Sweet Soulful Music”をリリースし高い評価を受けたのである。彼は英国最高のミュージシャン、アレンジャーとして今も活躍中だ。

マーク・パウエル


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