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Fairport Convention/Live At L.A. Troubadour/1976 Island Records Ltd HELP 28



およそ2年前、寒い日曜の真夜中だった。私たちは後期フェアポートのラインナップによる見事なコンサートを見たあと、ドルリー・レーンの王立劇場から出てきたところだった。グレイトな夜だと言葉は必然的に安っぽくなってしまう。大げさな言葉がまき散らされ、歪曲された賛辞が口にされ、陳腐な言い回し―“彼らはamazingか?それともAMAZINGか?”が引っぱり出される。他のバンドに使われる似たような賛辞と比較するのは馬鹿げたことだ。普通、よく分からない1から10までの馬鹿げたランキング格付けによって、ベスト・パフォーマーが順位付けられる。それによって評価されたアーチストはほとんどが箸にも棒にもかからない存在だ。愉快だが無益なことだ。こういったふざけたことは、最後には見識ある者によってくじかれるものだ。

真にグレイトなアーチストは、ステージ上で“無二”の存在を見せつけるものだし、あなたをいてもたってもいられなくしてしまうはずだ。少数のアーチストは、あなたの気をちらちらと引くようなことはしない。彼らはあなたの不信感を完全にシャットアウトし、あなたの心の中に入って音楽を奏でてしまう―他のことを全て除外してしまうほどに。しかしそのようなことには誇張と一般論も、同様に明らかに存在する。

振り返ってみると、その晩のショーはザ・フェアポート・コンヴェンション・ストーリー・ライヴ・オン・ステージと銘打って告知されたはずだった。それはある種、才能を持ちながらもバンドは大きな成功を収めなかったような思いにさせられる。しかし一方で、無造作に彼らの過去を紐解いてみると、そこにはほとんどのバンドが打ち立てられなかった説得力あるナンバーと威光が満ちあふれていることが分かる。生きいきとしたフェアポート・コンヴェンションを反映したこのレコードとは対照的に、彼らはリード・シンガーのサンディ・デニーと気違い科学者のアシュリー・ハッチングスを失った直後だった。しかし彼らはそういった状況に折り合いをつけ、彼らの中でおそらく最高に活気に満ちた直感的な音楽に取り組んでいる。

彼らに起こった決定的大変動によって、彼らは“リージ&リーフ”がまとっていた大理石模様の外観を捨て去り、サイモン・ニコルとリチャード・トンプソンの鋭角的なギター、デイヴ・ペグの堂々としたベース・ライン、デイヴ・マタックスの攻撃的なドラムスが発するやすりのようなロックンロール・バンド・サウンドへと発展した。そして活気を取り戻した状況に対抗するかのように、トンプソンはトラディショナリストとしての自らの立ち位置から卒業する自信を身につけ、今日の円熟した“孤高”のソングライターへと進化した。アルバム“フル・ハウス”用に書かれた“Sloth”と“Poor Will and the Jolly Hangman”(後者は今回初めて日の目を見た)はどちらも彼の初期のスタイルを完全に示したものであり、彼の独特なヴィジョンを二次的なものとした“リージ&リーフ”のトラディショナル・ソングの真髄といえるものだ。その熟達は全く抜け目のないものだ。ふさわしいことばを選び出す天性の才によって、ひとつのフレーズへと結実し、歌のじゃまになるようなアレンジメントを切り詰めるために、無造作に冷酷なほどの過程を経ていく。陰鬱であるが、その執拗な誠実さは、ほんの一握りのライターたちにしか比類しえないものだ。

もちろんミュージシャンとしての技量は非の打ち所がない。この青年たちはさらにもっと多くのものをプレイできる。デイヴ・マタックスのドラミングには超人的なロジックが存在する。彼はスロー・ナンバーで注意深くビートを強調し、ジグとリールでは思いのままにフットペダルをキックする。信じられないほど機敏なフィドルをプレイするデイヴ・スウォーブリックは、“Mason’s Apron”をけたたましく鳴らし、トンプソンが自分のギター・ソロに“入って”いる時と同じように集中し、“Sloth”のクライマックスでは新たなトーンと調和を創造すべくその中に切り込んでいく。一方、他の者たちは自らの楽器を何か違うもののように響かせようと苦闘している。この青年たちは数世紀にわたる音楽的進化を楽しんでいるように見える。彼らは嬉々として“自分たち自身”を改良しようと取り組んでいるようだ―テクノロジーによってではなく。

人々は単にフェアポートを称賛したわけではなかった。多くの者は彼らのことを気に入った。それはおそらく彼らの腕前や成功よりももっと重要なことに対してであろう。彼らは音階の重要性を理解しているように見えた。かたやトラディショナリストたちはエレクトリック化による音楽の劣化を嘆き、もう一方のヘヴィ・メタル行商人たちは、その音楽のもろさについて軽蔑的な言葉を口にしていたが、彼らはいつも共通基盤としてあらゆるフォーク・ミュージックが密接に関連していることを突き止めていた。体験、ユーモア、直観力を共有することによって、それは本物の音楽の主因となる。“大衆音楽”といったようなあたりさわりのないことばを使う誘惑に駆られるが、一般的には、そのことばは謙虚にコミュニケーションをとることを意図するマヌケな純真さを意味する。本当は上から人を見下ろして使うような語句だ。しかし全くこの音楽を指す言葉だともいえよう。

これはライヴだ。ロサンゼルスのクールで粋なカウボーイのメッカ、トルバドールで、フェアポートはアメリカのオーディエンスを口説きにかかる。もし興奮したければ、“Matty Groves”がある。もし感傷に浸りたければ、“Banks of the Sweet Primroses”がある。もしあざけりを望むなら、“Yellow Bird”がある。そしてもし大いに楽しみたければ、世界最高のマヌケ・ダンス、スウォーブリックの“Mason’s Apron”が‘踊る托鉢僧’(Whirling Dervish)を保証してくれるだろう。彼らがNews of the World(英日曜大衆紙)について“全ての人間の営みがある”といったように。

さて今、我々はバランス感覚に欠けたバンドたち、ユーモアセンスのないバンドたち、全くセンスのないバンドたちに取り囲まれているが、そういったバンドがあなたの耳元でうなり声を上げても、あなたの注意を引くことはできないだろう。また、笑みを浮かべ、ニタニタしながら、あるいは悲しそうにしながらあなたの耳にまじないをしてくれたとしても、彼らはむなしいスキルとさらなる空虚なイマジネーションを延々と垂れ流すのみだろう。

ならこれを聞けばいい。いわゆる変わり者だ。彼らはそのキャラクターを豊富に持っているから。

デヴィッド・ヘップワース



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