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Fairport Convention/Liege & Lief Deluxe Edition/2007 Universal Island Records Ltd. IMCD 586 929-2



1960年代半ば以降からは、レコードによっては過度な称賛がなされてきたが、フェアポート・コンヴェンションのLiege & Liefは真に傑出した作品だ―それは多くのミュージシャンにとってひな型となりインスピレーションとなり、長きに渡って英フォーク・ミュージックの最良の手本として見なされている。1969年にアイランド・レコードからリリースされて以来このアルバムは廃盤になることなくプレスされ続け、2006年のクロップレディ・フェスティヴァルでユニヴァーサル・アイランド・レコーズは累計セールスにおいてフェアポート・コンヴェンションの現存のメンバーたちにゴールド・ディスクを送った。2005年にはLiege & LiefはBBCラジオ2のリスナーによって“かつて例のない最重要フォーク・レコード”として選出され、2000年にはMVCレコード・チェーン・ショップによってAlbum of the Milleniumにノミネートされた。出版物における最近のレビューは以下の様に多様だ。Uncut誌―“Liege & Liefはいかにロックとブリティッシュ・フォークを同時に体現するかを提示して見せ、それは神秘的で活力に満ちたものとなった。”Wire誌―“グループの代表作だ・・・これは過去40年間において不朽の作品の一枚である・・・焦点が定まり首尾一貫し全体がエキサイティングなテンポで進んで行く。”これらの賛辞はこのアルバムの地位を証明している。Qマガジンはシンプルにこういった。“フォーク・ロックの決定的瞬間だ。”

フェアポート・コンヴェンションの歴史は1967年に始まる。北ロンドン、マスウェル・ヒル郊外で学生の一団がサイモン・ニコルの実家であったFairportに集まった。彼らはバンドを結成することにし、Tim Turner’s Naration、続いてEthnic Shuffle Orchestra、そして最後にFairport Conventionとして知られるようになった。彼らはデビュー・シングルとグループ名を冠したファーストLPをレコーディングした。ラインナップはジュディ・ダイブル、アシュリー・ハッチングス、マーチン・ランブル、イアン・マシューズ、サイモン・ニコルそしてリチャード・トンプソンであった。デビュー・アルバムをリリース後すぐにダイブルは脱退し、代わりに元ストローブスのヴォーカリストであったサンディ・デニーが加入した。マシューズはセカンドLPWhat We Did On Our Holidaysリリース後グループを去った。

1969年までにフェアポート・コンヴェンションは若いロック・バンドとしてキャリアを順調に積み上げていき、クリス・ブラックウェルの有力レーベル、アイランド・レコードと契約し、メロディ・メーカーの年間投票ではベスト・ブリティッシュ・グループとして8位にランクされた。5月、グループのヴァンがバーミンガムのマザーズ・クラブでのギグの帰り道、M1高速道で事故を起こした。その事故によりドラマーのマーチン・ランブル―当時19歳だった―と、彼らの友人で有名なドレスメーカーだったジーニー・フランクリンがこの世を去った。残りのメンバーたちも重傷を負ってしまった。先の見えないまま彼らはウィンチェスター郊外11マイルのところのハンプシア丘陵のファーレイ・チェンバレンにあるファーレイ・ハウス、Queen Anneカントリー・ハウスで療養することになった。そこはバンドにとって健康を取り戻すのに幸運な土地となり、彼らはブリテン諸島の伝統音楽を題材として新しいレパートリーを創り出していくことにした。丘には鉄器時代の古墳や古代ローマ時代の遺跡がそこいら中に残っていた。アシュリーの村はMount Downから数マイルのところだ。午後は大抵グループは家の周りにある広大な芝生の上でサッカーをしたり丘の上でたこあげをして過ごしていた。

グループは木でできた大きな客間に機材を設置し、まさに木の香りのする新しい音楽的アイデアを実現させていった。その夏、ファーレイ・ハウスではスウィーニーズ・メンとザ・バンドのそれぞれ名盤であるデビュー・アルバムが好んで聴かれていた。フェアポートの新しいレパートリーは英国伝統音楽に根ざしたものになることがはっきりと示され、それはUnhalfbrickingに収められた‘A Sailor’s Life’の解釈を下敷きにいわば発展させたものだった。そのアルバムでゲスト・プレイヤーだったフィドルのデイヴ・スウォーブリックは今や正式メンバーとなっていた。そしてギタリスト/ソングライターのリチャード・トンプソンと見事なパートナーシップを作り上げ、グループで力を発揮するようになった。スウォーブリックはファーレイでの夏を回想する。“信じられないほどクリエイティヴで、みんな本当に集中していてエキサイティングだったね。僕らはその時、新境地を切り開いているんだと感じていたね。フォーク界から訪ねてきてくれた僕の友人たち―トレヴァー・ルーカス、ジョー・ボイド―みんな僕らに少しずつインスピレーションを与えてくれた。” 一方バンドはダンス・バンドにいたドラマー、デイヴ・マタックスを正式メンバーに迎え、将来の方向性を計画し始めた。アイランド・レコーズは彼らの魅力的なサードLP、Unhalfbrickingとシングル‘Si Tu Dois Partir’をリリースした。トニー・ブラックバーンはシングルを彼の‘今週のイチオシ’に推薦し、すぐにチャート21位に上るヒットとなった。

ローリング・ストーン紙の最初の英国版は第一面に‘続編の始まり’と題してフェアポートをフィーチャーしていた。そこにはエリック・ヘイズによる、朝食のテーブルにつくサンディの秀逸な写真が載っていた。ヘイズはバンドの友人であり、新しいローリング・ストーン・ロンドン支社のカメラマン・スタッフだった。彼は写真を撮るためファーレイ・チェンバレンに特派されていた。サイモンは覚えている。“ちょうどニール・アームストロング船長が月面着陸した頃だった。時代の大きな変化を感じてたな。”8月、NMEのニック・ローガンにインタビューを受けたサンディは次のアルバムのことをこういった。“ほとんどストレートなフォークよ、エレクトリックのみのね―ヘヴィ・トラディショナル・フォーク・ミュージックね。” “僕らは自分たちのやっていることを明確に分かっていたし、いかに重要なことかも知っていたね。”アシュリーは最近になって回想している。“あの家にいたことが音楽を作り上げる源になっていたのは確かだ。僕らはあの事故のことをずっとくよくよ考えているわけじゃなかった。新しい冒険の意味もあったね。あの頃を思い出すと今でも興奮するよ。あの家では信じられないような快い陶酔感があったし、僕らは毎日が待ち遠しかったよ。全員が重要な役割を担っていて、全てが魔法のようだった。ああいった方法で古い歌に取り組んだのはみんな初めてだったからね。”

2001年アシュリーが語ったところによると、彼は熱中しながら決断した時のことを覚えているという。“僕はバンドの中で学究的な立場にいた。で、セシル・シャープ・ハウスの図書館に行って蔵書を引っぱり出してきたり、古いレコードを聴いたりしたよ。まあいつもそうしなきゃならなかったわけじゃないよ。なぜならサンディとスワブの頭の中にすでにフォークのレパートリーがあったからね。”サイモン・ニコルは新メンバーのドラマー、デイヴ・マタックスのことを回想する。“とてつもない役割を担うようになったね。民謡なんて知らずに新しいドラミング・スタイルを発明したんだよ彼は。”フェアポートは決してシリアスになり過ぎないように、度々リハーサルはジャズのジャム・セッション風に演奏してストレス発散したり、休止してサッカーの試合を楽しんだりしていた。

ペンブルックシア(ウェールズ南西部にあった州)にあったスウォーブリックの家の近くでさらにリハーサルを重ねた後、この時期にサンディとアシュリーは‘Come All Ye’を書き上げた。フェアポートは世界に向けて新曲を発表する準備が整ったわけだ。プリマス(イングランド南西部Devon州の港市)のヴァン・ダイク・クラブでのギグに続いて、9月24日に大盛況となったロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのギグで彼らは新曲を披露した。フェアポートはその前日の午後、29日に放送されることになっていたピール・セッションをレコーディングしていた。長くフェアポートを支持してきたジョン・ピールは、これらの曲をいみじくもこうコメントしている。“彼らを未到の地へと船出させることになった。”

バンドはチェルシーの慣れ親しんだサウンド・テクニクスでレコーディングを始める前に数回のギグを行った。レコーディング・セッション・テープの記録には、いかに素早くアルバムが録音されたかが示されている。

10月16日 The Deserter, Farewell,Farewell
10月19日 Crazy Man Michael, Ballad Of Easy Rider
10月21日 Matty Groves, Reynardine
10月22日 Reynardine, Ballad Of Easy Rider, Matty Groves
10月29日 Come All Ye, Jigs and Reels, Tam Lin, Quiet Joys Of Brotherhood
11月1日 Sir Patrick Spens


Liege & Liefはフェアポートの重要な解釈である二つのスコティッシュ・バラッドの大作、‘Tam Lin’と‘Matty Groves’を中心に組み立てられていた。最終的にアルバムから外された2曲のアメリカン・ソングについての判断は、アルバムの一貫性を強め革新的となるいわば ‘完璧なLiege & Lief’ にとって重大な意味を持っている。またバンドはお決まりのディラン・ナンバー2曲―‘Open The Door, Homer’と‘Down In The Flood’―そしてもう2曲のトラディショナル―‘The Bonny Black Hare’と‘Adieu Adieu’をファーレイ・ハウスでプレイしていたがこれらは音源としては残されなかった。

11月初め、グループはデンマークの放送局によるコンサートの収録のためデンマークに飛んだ。これがサンディのフェアポートでの最後のギグとなった。ただし1973年の終わり、レインボーでゲスト出演した彼女は翌年に再加入することになるのだが。

Liege & Lief(ILPS 9115)は69年12月にリリースされた。このアイランドからのフェアポートのサード・アルバムはその年の1月に出たWhat We Did On Our Holidays(ILPS 9092)と7月に出たUnhalfbricking(ILPS 9102)に続いてリリースされたことになる―今日の常識からすれば全く驚くべきリリース・スケジュールだ。フェアポートにとっても信じられない年であった。ニューLPはフォーク・ミュージックからの影響をサウンドに取り入れたロック・バンドから、トラディショナル・イングリッシュ・ミュージックを再解釈することに特化したバンドへの移行を示していた。彼らはフォークロックに対する実験がどこまで行けるかわからない不確かな状況に身を置いた―ハッチングスはさらに深くトラディショナル・ミュージックを掘り下げようとしていた。一方デニーは自身のソングライティングを発展させることに興味を持っていた。Liege & Liefの初回版がレコード店に並ぶ前に、新しいバンドを結成すべく二人がグループを去った。サンディはトレヴァー・ルーカスと共にFotheringayを結成し、アシュリーはSteeleye Spanをスタートさせた。そして1年半以内に、つまり次作Full Houseの後、リチャード・トンプソンもバンドを去っていった。

傑作Liege & Liefの最初の音楽誌での宣伝文句は、“初の(文字通り)ブリティッシュ・フォークロックLP、その(まさに短命な)幕開けのドキュメント”だった。“一回限りのプロジェクトだったんだ。”リチャード・トンプソンはいう。“それが完成した時もバンドの方向性は定まってなかったよ。でも初のフォークロック・アルバムになった。みんなそれぞれ自分たちの文化に応用したね。” 彼はレコードを聴いてインスパイアされ、それぞれの伝統音楽のプレイ・スタイルの可能性を実現化していったスカンジナヴィア、オランダそしてアメリカのバンドの例を引き合いに出している。“アメリカではロス・ロボスがこれを聴いてブルースはもちろん彼らの伝統音楽で実証して見せたよね。”

Liege & Liefは、そう、サンディ・デニーが断言した“ヘヴィ・トラディショナル・フォーク・ミュージック”だ。

デヴィッド・サフ 2007年4月


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