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Fairport Convention/House Full/2001 Universal Island Records Ltd. IMCD 289/586 376-2



フェアポート・コンヴェンションはほとんどメンバーの固定しないバンドだった。それぞれのメンバーが美学を持っていたということだ。ある評論家はこのバンドの歴史を、丘あるいは山の形のグラフのようなものとして見ている。初期の数年間は進化の連続だったし、それぞれの変化が融合に改良を加えていた。悲劇的なマーチン・ランブルの死でさえ、‘Liege and Lief’のラインナップを直接導いたんだ。レコーディングに関する限りにおいてはこの時最も有望なメンバーが揃ったと考えられている。アシュリー・ハッチングスとサンディ・デニーを擁していたバンドに、続いて起こった‘右’(保守)と‘左’(革新)の翼が折れたこと(訳注:保守のハッチングスと革新のデニーの脱退)は、最初の頃は徐々に、ゆっくりとだが、時にぎこちなく、しかし常に生気は減退していくことになった。レコーディングという観点から見ればこれは真実だ。

しかしおかしなことが1969年から70年にかけての冬の間に起こった。まずは、サンディの代わりを入れないことを決定したことだ。この決定はベストだったね。第一誰がサンディの代わりを務められる?そして同時にこれは、あまり気乗りしないデイヴ・スウォーブリックとリチャード・トンプソンがフロントでヴォーカルを取ることを意味していた・・ リチャードの歌唱は後天的嗜好性(徐々に好きになるような)があるといわれていたし、1970年には多くの人が彼の歌を好きになり始めていた。私はフェアポート史上最も感動的なヴォーカル・パフォーマンスはその年のリチャードとスワブだったと思う。

次の仕事がベース・プレイヤーを見つけることだった。グループは前年の夏、メロディ・メーカーのメン募広告によってデイヴ・マタックスを見つけていた。今回はすでにみんなの頭の中に多くの候補者がいた。ほとんどは他のバンドのメンバーだった。覚えている限り、みんなの考えは本当のロックンローラーに向いていたね。バンド内にあったフォーク・ミュージック的傾向はグレイトなコンセプトだったけど、一人のベース・プレイヤーが何時間もセシル・シャープ・ハウスの書庫で過ごすのを見て、みんなちょっといらいらしてたんだ。アシュリーは古いバラッドのテキストを続々と仕入れてきては、無伴奏シンガーの古いテープを聴き倒していたからね。彼らは真面目で賢明なロッカーを探していた。そこにはツアーで真価を発揮できるマッチョな男が必要だっていう明確な雰囲気があった。その頃多くのツアーの予定があったし、サンディと彼女の飛行機嫌いはもう存在しなかったから。

そこでスワブがバーミンガムの友人で、イアン・キャンベル・フォーク・グループでアップライト・ベースを弾いていた男のことを話したんだ。みんなは彼にもうたくさんだって言って、ロックのことが分かってる奴をベーシストの候補に残しておくべきだって言った。スワブはその友人が‘へヴィ・メタル’好きで、レッド・ゼッペリンのメンバーの友人だと話しても無駄だった。“彼はエレクトリック・ベースが本当にうまいんだ、うそじゃないよ。”デイヴは言った。最後にはみんなは彼を黙らせて、そのフォーク野郎を午後のオーディション最初に呼ぶことに同意した。私はそのオーディションが始まった直後に到着した。メンバーたちはTam Lin(訳注:Liege & Lief収録のハイライト曲)を通常のテンポより速く演奏して、さっさと彼を追っ払ってしまおうと考えていた。しかし彼らが最後のコーラスに突入するまでに、私はドアに頭を突き出すことになってしまった。リチャード、サイモン、そしてドラム・キットの後ろにいたマタックスでさえ、口をぽかんと開けて、寸分の狂いもなくベースを操るデイヴ・ペグを見ていたね。彼はアシュリーの複雑なベース・ラインを、アシュリーでさえ弾かなかった力強さと正確性をもってプレイしていたんだ。これでFull Houseのラインナップは決まったようなもんだった。

その日からリチャードが脱退する1971年までの間に、バンドはアメリカ、ブリテンそしてヨーロッパをツアーして回り、1枚のLPを制作した。Full Houseは確かに前作(Liege & Lief)ほどの評価は受けるに至らなかった。そして多分それがいい理由になると思うが、私はもう一度ここで不満を表明しようと思う。リチャードが私にPoor Will and the Jolly Hangmanを除外させた理由は私にとって今なお釈然としないことだ。あのトラックは全体のバランスを取っていたし、さらに強力なLPにしていたはずだからね。あるいはいつの日かそれを証明するレコードをリリースするかもしれない(訳注:2001年に実際に拡大版CDが出た)。人々が言うには(それも多くの人だ)、1970年のフェアポートがとりわけベストな時期だっていうけど、私たちはその証拠をどこに求めたらいいかな?

幸運なことに、今あなたはまさにその瞬間をとらえたドキュメントを手にしている。私はロサンゼルスのあの週末に可動式のレコーディング機材が持ち込まれたのは、素晴らしい先見の明があったからだと思いたいね。確かに彼らはその時グレイトな編成だった。そして私はすでにロンドンから撤退することを計画していたし、将来もうアルバムをプロデュースすることもないに違いないと思っていた時期だ。一方で彼らはトルバドールでプレイすることに喜びを感じていた。

実は彼らの最初のアメリカ・ツアーはその年の初めに行なわれていて、成功を収めていた。宣伝には故リック・ネルソンの次に載っていたんだけど、リックは体の調子が悪くて、その晩のライヴを見合わせようとしていた。フェアポートはその最初の夜のコンサートのために、夜中の12時から3時の間にクラブに到着していた。そして1週間のコンサートを敢行した。その晩は素晴らしい演奏が続けられたあと、2回目のアンコールが起こった時に、彼らはステージに戻り最後をしめくくろうとしたんだ。彼らはオーディエンスにもうやる曲がないと言ったよ。唯一の解決策は、客席にいたリンダ・ロンシュタットにステージに上がってきてもらって一緒に歌ってもらうことだった。リンダはその晩ずっとステージに魅了されていたんだけど、メンバーとは言葉を交わさなかった。彼女は慌てふためいていたんだ。なぜなら彼女は英国のフォーク・ミュージックを一つも知らなかったからなんだ。“That’s OK”サイモンは言った。“僕らが君の曲を全部知っているから。”

彼女は一緒に来ていた友人に押されてステージに上がってきて、サイモンにSilver Threadsをレコードと同じキーで歌えるかどうか聞かれた。彼女はうなずいて最初の2コーラスをアカペラで立派に歌った。バンドがそのあと入ってくるのは知らずにね。彼女とオーディエンスが驚いたのは、フェアポートが彼女のアレンジを完璧にプレイし、サイモンとリチャードがコーラス・ハーモニーを取り、さらにリチャードがユニークなナッシュヴィル風のギター・ソロを取ったことだ。残念ながらテープレコーダーは7ヵ月後まで到着しなかったんだが。

7ヵ月後、ついにテープレコーダーがやってきた。あの素晴らしい週末が後世まで残るんだ!Slothはライヴにおいて頂点に達していた。ジグとリールはちょっとだけコントロールを欠いていたが、速くなるにつれてタイトになっていった。彼らは英フォークロックをメチャメチャに破壊してしまうほどエキサイティングだった。幸いなことに、このテープのいくつかのパフォーマンスが私の言ったことを裏付けている。Matty Grovesはあなたが想像するとおりパワフルだ。リチャードはサンディの解釈に改良を加えたとはいえないが、この猛烈にハードなヴァージョンはおそらくここでのアレンジにフィットしている。(サイモンがこの曲を歌うのを聴いたことがない人のために。彼は現在のラインナップで昔を懐かしむようにこれを歌っているらしいよ) Staines MorrisとBanks of Sweet Primrosesは、この編成で作られることのなかった次のLP用に予定していた曲(トラッド)だ。

あなたが聴くことがないだろうBanks of Sweet Primrosesの一つのテイクが存在する。ある晩、Birmingham Water Buffalo Club(会員制のうんざりするようなビール飲み行事)のメンバーであるレッド・ゼッペリンの仲間が、何曲かのバラッドとジグを破壊してしまった。スウォーブリックの出だしの独唱部がゼップの優しいマネージャー、ピーター・グラントの甘美な声でかき消されてしまった。彼は自分のテーブルからビールを持っていこうとしたウェイトレスに抗議したんだ。音楽に続いたのは、グラントの悪態、ののしりとBWBC(前述のClubの略)の会員の仲裁だ。ファミリー・アルバムに相応しくない1枚があるとすれば間違いなくこれだね。11曲目に収録してくれなんて要求しないように。私がこのテープをリリースするのを知って、ピーター・グラントはその甘美な歌声を私に聴かせてくれたのかもしれない。

こういったことが好きなコレクターの人たちへ。70年代半ばに英国でリリースされたこのレコードの初期ヴァージョンが存在する。そこではアイランドのアート部門による最悪のジャケットと違う曲とテイクがフィーチャーされていた。私はもともとはオリジナル・ヴァージョンでリリースするつもりだったんだが、その頃Frank Kornelussen(Flypaperの有名人)にアイランドのアーカイヴを調査させていて問題が起こり、悩んでいたんだ。彼は私が却下したSlothか何かのもっといいテイクが存在すると主張し続けていた。明らかに私はそのようなミスはしないから彼に黙れと言ったよ。

ペグのオーディションを思い出すなあ・・・
そう、ここには4曲のニュー・テイクが追加された・・・・ しかし私はリベンジを果たしたよ。彼はライナーノーツの締め切りをミスったから私が代わりにこれを書いたんだ・・・

ジョー・ボイド、1986年4月


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