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Fairport Convention/Live In Finland 1971/2016 Real Gone Music RGM-0459



1971年8月22日、フィンランドのトゥルクで行なわれたルイスロック・フェスティヴァルでフェアポート・コンヴェンションがプレイした時、彼らはほんの4年前にスタートした時とは全く違うバンドになっていた。彼らは多くのラインナップで6枚のアルバムをリリースし、まさにアメリカン・フォークロックに影響を受けたグループから、トラディショナル・ブリティッシュ・フォークに没頭する一団へと変化を遂げていた。4人編成の中でサイモン・二コルだけがオリジナル・メンバーとなり、他はドラマーのデイヴ・マタックス、フィドラーのデイヴ・スウォーブリック、そしてベーシストのデイヴ・ペグだった。

1970年代を通じてフェアポートの顔ぶれはさらに何度も変わっていき、大黒柱のスウォーブリックとペグは常にいたが、二コルとマタックスは様々な時期に脱退したり再加入したりしていた。トゥルクでプレイした4人はいっしょになってまだ1年、他のバンドならほとんど立ち往生してもおかしくはないようなメンバーの離脱があったにもかかわらず、ロックに仕立てたブリティッシュ・フォークの旗を降ろさず、戦い続けていた。このCDは初期のLPには収録されなかった数曲に加え、1960年代後半から1970年代初頭にかけてリリースされたマテリアルを通じて、彼らのエネルギッシュなライヴでの興奮をフィーチャーしている。

フェアポートの重々しいブリティッシュ・フォーク風味への移行は1960年代遅くに始まり、1969年暮れにスウォーブリックとマタックスをメンバーとして迎えた最初のアルバム『Liege & Lief』によって全面開花した。そのLPは同傾向のオリジナル・マテリアル同様、“Matty Groves”や“Tam Lin”といったトラディショナル・ブリティッシュ・フォーク・ソングにフェアポート・コンヴェンションが施したエレクトリック・ロックのアレンジメントをフィーチャーし、以降彼らがこだわり続ける音楽のひな型となった。しかしその6人組はそのアルバム・リリース直後に、シンガーのサンディ・デニーがフォザリンゲイを結成し、ベーシストのアシュリー・ハッチングスがスティーライ・スパンを創設したことにより分裂してしまった。ペグがハッチングスに代わって以降、彼らは5人組として活動を続け、ギタリストのリチャード・トンプソンとサイモン・二コルだけがフェアポートのデビューLPから在籍するメンバーとなった。

それにもかかわらず、1970年のアルバム『Full House』はライヴ及びレコーディング・アクトとしての彼らの人気を維持し続け、彼らの3番目のブリティッシュ・トップ20LPとなった。しかし『Full House』で多くのマテリアルを書き、歌ったトンプソンが、1971年初めにソロ・キャリアを始めるために去って行った。バンドはリチャードの代わりを見つけることはせず、二コルをリード・ギターとする4人編成の道を選択した。

「僕たちはみな、リチャードが自分の曲作りに専念するためにギグに来なくなったのを大きな損失だと感じていた」 二コルは考察する。「彼は依然同居人だったし、僕たちのヴァンがギグから遅くに帰ってきた時にも彼は起きて何かをしていたから、すごく変な感じだったね。果てしなく優秀で器用で想像力に富んだミュージシャンをサポートする役割から、突然その2人分をカヴァーしなくちゃならなくなって、僕は他のメンバーよりはるかに大変だったと思う。幸い他のメンバーは僕をとてつもなく支えてくれて、僕のへまやひどいプレイも大目に見てくれた!でもお金は4人に5人分が支払われていたと思う!」

「リチャードがリード・ギターを弾いて、サイモンが彼のうしろでだいたいリズム・ギターを弾いていた以前のバンドとは違っていた」 ペグはつけ加える。「リチャードが去ったあと、サイモンは2人分の役割をかけもつことになったんだけど、とてもうまく順応したんだ。彼はテレキャスターのギターとアンプのVox AC30を購入した。僕たちはCCRみたいな音を出すバンドになったんだけど、グレイトなフィドラーがいたんだ」 サイモン―「大部分はスウォーブリックのフィドルがバンド・サウンドの中心になって、そのプレイに対抗するリチャードがいなかったから、同時に彼がフロント・マンとなるのは明らかだったね」

残されたミュージシャンたちは生き残っただけでなく、成長した。彼らがトンプソン脱退後に制作したアルバム『Angel Delight』は、ルイスロック・フェスティヴァルでプレイする6週間ほど前に、UKトップ10に入った。1970年以来、毎年開催されるそれは、そういったフェスティヴァルではヨーロッパで最も古いものの1つだった。「屋外イヴェントで、整備された土地をもつ大学のキャンパスで開かれたのを覚えている」 二コルはいう。「少なくとも2つのステージがあった。食事は大学の食堂で、寝泊まりは寮の学生ホールだった。紙のシーツに寝たのはそれが最初で最後だった!」

「食堂については、色違いの食券によって配る決まったシステムがあった。出演ビラにはキャンド・ヒートも載っていて、彼らの仲間の1人だと思うけど、プエルト・リコから初めて海外旅行をした奴がいたんだ。彼が間違った色の食券をもって現れた時に、乗り越えなきゃならない言葉の壁があった。彼は1時間早すぎたんだ。言葉で伝えられなかった彼は車に戻って、自分の要求を通すために拳銃をもってきた(当時は今よりも空港のセキュリティ・チェックがゆるかった)。彼のローディーがそれをとりあげたけどね」

ルイスロックではフェアポートの最新アルバムだった『Angel Delight』から3曲がフィーチャーされた―“Bridge Over The River Ash”、“The Journeyman’s Grace”、そして最後の“Sir William Gower”だ。ペグ―「“The Journeyman’s Grace”ではスワブとサイモンの即興ソロがあるから全く違うヴァージョンになった。スタジオ・ヴァージョンのコピーじゃないんだ」 二コルは肯定する―「僕たちはいつも向こう見ずなライヴをやっていたし、例えば違うテンポでもそれが魅力的に思えば、レコーディング・ヴァージョンをかたくなに守るべきだとは考えていなかったね」

このトゥルクでの2つの曲は以前のフェアポートのLPからであるが、もちろんその時とはメンバー構成が異なっている。アルバム『Full House』のハイライトであるトラディショナルの“Sir Patrick Spens”は、実際1960年代の終わりのグループのレパートリーだった。サンディ・デニーが歌うスタジオ・アウトテイク・ヴァージョンは、2002年の『Liege & Lief』のCDリイシューで、ボーナス・トラックとして収録されていた。また彼女は1969年9月のBBCセッションでもリード・ヴォーカルをとっていた。もう1つのトラディショナル・フォーク・ナンバー、“Matty Groves”は『Liege & Lief』でデニーが歌っていたが、トゥルクでのショーまでにすでに変化していた。ペグ―「そのあたりの曲は違うヴォーカリストと演奏で新しいアレンジメントを創っていた」

1971年夏の時点で、多くのレコード購買者たちにとってはなじみの薄かった2曲がある。“Sir B. Mckenzie’s Daughter’s Lament for the 77th Mounted Lancers Retreat from the Straits of Loch Knombe, In the Year of Our Lord 1727, On the Occasion of the Announcement of Her Marriage to the Land of Kinleakie”―そう、これがフル・タイトルだ―は、フェアポート・コンヴェンションのLP未収の1970年のシングル、“Now Be Thankful”のB面だった。普段は“Sir B. Mckenzie’s Daughter’s Lament”、あるいはもっと省略されるこれは、最も長い歌のタイトルとして一山当てようとバンドがギネスブック登録を狙ったものだったが、その栄誉は目下のところ与えられていない(現在の記録保持者には容赦してあげよう)。

“Sir B. Mckenzie’s”はまず間違いなく、この気合の入ったセットの中で最も熱狂的なナンバーだろう。スウォーブリックのフィドルは、途中の早口言葉のアカペラ・ヴォーカルで休止する以外は異常な速さだ。トラディショナルなソースからのもう1つのインストゥルメンタル、“Mason’s Apron”は、LP未収でシングルにもならなかった。これはライヴ盤『Live at the L.A. Troubadour』の中で1970年9月のヴァージョンが収録されていた(リリースは1977年)。なぜこれら2曲がライヴ・ショーの一部になっていたかについて、ペグは説明する―「“Sir B. Mckenzie’s”と“Mason’s Apron”はデイヴ・スウォーブリックのユニークですばらしいフィドル・プレイを強調するためのナンバーだった」

『Angel Delight』のチャート上の成功にもかかわらず、このフェアポート体制は長くは続かず、二コルは数ヶ月後の1971年の終わりに去って行った。もちろんフェアポートはオリジナル・メンバーが1人もいなくなっても活動を続けた。1970年代終わりから約5年の休止をした以外、彼らは以来、活動を続けてきた。二コルとペグは80年代半ば以来、今日に至るまでフェアポートでプレイしている。

「このパフォーマンスはとてつもないエネルギーにあふれているし、この4人組でのライヴ音源は以前に聴いたこともなかったから、僕にとっては1つの喜びだね」 このライヴから約45年後にペグはそう述べている。さらに二コルは詳しく説明する―「僕たちは本当に自分たちを誇示していた。僕たちは自分たちの威力を示すことが大好きで、これだけの‘おはこ’を一貫して疲れ知らずに大量に作りだすことができるんだってことを見せびらかしていた。僕たちは若くて男性ホルモンムンムンの野郎たちだった―だから今じゃ信じられないね。僕たちは異国の地にいて、太陽の下にいて…そして最高の時を過ごしていた!」

Richie Unterberger



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