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Ernie Graham/Ernie Graham/2002 Hux Records ltd. HUX 032



お気に入りのアルバムについて述べているうちに、次第に気分が高揚してくるのは常に楽しいものだ。しかしこのアーニー・グレアムの傑出した71年のソロ・アルバムのリイシューにおいて、スリーヴノーツを書くために情報収集を行なっていたところ、これを書くちょうど1年前、彼は天国のグレイト・ロックンロール・ギグに旅立ったという悲しい知らせを受け取ってしまった。

アーニーのキャリアを追ってきた人々は、彼は大物と肩を並べるべき存在だったと感じることだろう―彼はジミ・ヘンドリクスからフィル・リノットに至る音楽的才人たちと一緒に働いてきた。彼は紛れもない真のロックの才能を持っていたが、悲しいことに彼の望む名声を得ることはなかった。我々は今、無菌化され、パッケージ化されて売られるペットフードのような冷めた時代を生きている。アーニーはポピュラー・ミュージックの中でのキャリアが称賛される―あなたは称賛する側だろう―よりもむしろ嘲笑されていた時代に、より理想主義的な立場に属していた。彼が最後の20年間を現実の世界の中で普通の人間として過ごしたのはもっともなことだろう!

グレアムが最初にロック・シーンに身を投じたのは、1960年代のベルファストでのことだった。若者にとっては、早口でまくし立てるようなものこそ重要な音楽だと思われた。その頃のアイルランドは、ロックンロールが根付くには困難なところだった―ショーバンドがシーンを支配していた。もし君が一人の少年で、音楽をプレイしたければ、ショーバンドに入るしかなかった。しかしヴァン・モリソンとゼムが新風を吹き込みチャートで成功したことによって、とりわけベルファストに大きなインパクトを与えることになった。

アーニーの最初のバンドはトニー・アンド・ザ・テルスターズだった。のちに彼はジグザグ誌にこう語っている。‘彼らは3〜4ヶ月間活動していてリズム・ギタリストを探していた。それで僕はオーディションを受けたんだ―全くありふれた体験だ。彼らはセミプロで、僕はその時、自動車修理工の見習生だった。僕らは基本的にイングランドのチャートやクラブで流行っていた曲をプレイするポップ・バンドだった。バンドのうちの3人、僕とベース・プレイヤー、ドラマーは共通して自分たちの究極的な目的としてイングランドでの成功を望んでいた。’

いく人かの国外在住のアイリッシュ・ミュージシャン、とりわけブラックプール(イングランド北西部)に住んでいたRod Demickに励まされ、アーニーと仲間たちはイングランドへ移ったが、その企ては困難であることが分かり、故郷へ戻ることになってしまった―しかしそれがきっかけで、アーニーはギタリストのヘンリー・マッカロウといっしょにバンドを組むことになった。

ダブリンに戻ったアーニーとヘンリーは、新バンド、ザ・ピープルをゆっくりと立ち上げていったが、その頃彼らはデイヴ・ロビンソンという一人の男と出会った。以後10年に渡って、グレアムの人生にのしかかるようになる人物だ。親愛を込めて‘ロボ’と呼ばれたこの人物を通じて、グループはカムデン・タウンを拠点としてスピークイージーとUFOクラブで数回のギグを行なった。そこはトテナム・コート・ロードのあか抜けたヒッピーたちの中心地だった。そしてUFOクラブでプロコル・ハルムのサポート・アクトとして出演していた彼らに、幸運の女神が微笑んだ。

彼らの薄汚いロックンロールがその場を圧倒し、その後、彼らの楽屋にはマネジメント契約をオファーする業界トップのマネージャーたちが押しかけてきた。彼らは最終的にヘンドリクスの黒幕、マイク・ジェフリーズと契約を結んだ。そして彼の妻は、アイルランド人による功績に基づいて、グループ名をEire Apparentに変えることを提案した。それが彼らの出世の瞬間だった―続いて彼らはエクスペリエンスやピンク・フロイドのような大物のサポート・バンドとしてブリティッシュ・ツアーを敢行した。真偽はともかく、伝えられるところによると、ヘンリーは毎晩ステージの袖に隠れ、日々崩壊していくシド・バレットの代わりにギターを弾いていたそうだ。

グループは悪名高い1968年のソフト・マシン/ヘンドリクスのUSツアーにも参加したが、ヘンリーがヴァンクーヴァーで逮捕され、国外退去の身となる災難が降りかかってしまった。彼らはヘンリーの代わりとしてミック・コックスをメンバーに加えたが、彼はマッカロウがバンドに持ち込んだ魔法のようなギターを再現することはできなかった。バンドはトラック・レコーズから1枚のシングルをリリースし、ブッダ・レコーズからヘンドリクスのサポート(プロデュース)によって1枚のアルバムをリリースしたが、どういうわけか名声と幸運の好機を逸してしまった。バンドが米国本土で惨めな状態に陥る中、ロボはロンドンで新しい画策をもくろみ、フェイムプッシャーズという組織を市場に売り込んでいた。そこには映画スター、オマー・シャリフを使ったテレビ用のサーカス・フィルム含む様々な詐欺的計略が含まれていた。

フェイムプッシャーズの全ストーリーは、ウィル・バーチの優れたパブ・ロックのヒストリー本、“No Sleep ‘Till Canvey Island”で読むことができる。そこには有名なブリンズレィ・シュウォーツのフィルモア・イーストでの大失敗―全世界に向けてバンドを売り出しにかかったが大失敗に終わり、一定期間彼らに大きな傷を残すことになった―を始めとするあらゆるマヌケな事件が含まれている。1970年4月のショーの余波がくすぶる中、デイヴ・ロビンソンと彼の共謀者ジョン・アイヒラーは詐欺的売り込みから手を引き、Down Home Managementを立ち上げた。それはビッグ・アップル(ニューヨーク)で展開したメディアによるお祭り騒ぎとは対照的に、明快さと誠実さを打ち出したものになった。Down Homeは、‘全ての者は一人のために、一人は全ての者のために’というモットーのもと活動した。その中にはブリンズレィズとヘルプ・ユアセルフも含まれていた。

アーニーはその間、英国に戻り、ケントのヘンリー・マッカロウ宅で立ち直るべく日々を過ごしていた。マッカロウはアラン・スペナー、ニール・ハバードとともにグリース・バンドを結成していた。そのグループはハーヴェストから1枚の珠玉のアルバムをリリースすることになる。アーニーは彼らと4曲を録音することになったが、残念ながらアルバムは完成しなかった。のちに彼は述べている。‘僕は実家の親父が重体だという知らせを受けて容体が危なかったから、帰らなきゃならなかったんだ。デイヴ(・ロビンソン)はすでにスタジオを押さえていたんだけど、僕はまた戻ってきてバンドと何回かリハーサルして、アルバムに取りかかればいいと思って実家に帰ったよ。で、僕が戻ってくると、デイヴがヘンリー、アラン、ニールたちといっしょに働くのを嫌がっていたことが分かった。彼らはすごく頑固な奴らだったから、デイヴはミュージシャンを入れ替えたがっていたんだ。’

ブリンズレィ・シュウォーツに加入したばかりだったギタリストのイアン・ゴムは回想する。‘デイヴ・ロビンソンはユナイテッド・アーチスツ(リバティ)から、より多くの金を引き出そうと考えて、ノースウッドのブリンズレィのコミューンに会社の重役夫妻を招待した。日曜の午後に彼はダウン・ホーム・リズム・キングスを演奏させた。つまり僕ら(ブリンズレィズ)とヘルプ・ユアセルフとアーニー・グレアムだ。彼らは僕らのコミューンをうろつく徹底したビジネスライクな業界の一味に見えて奇妙だったね。僕らの浴室やなんかを点検したりね!’

契約はアーニー・グレアムのソロ・アルバム制作として交わされ、ブリンズレィズとヘルプスはアーニーのバッキング・バンドとして起用されることになった。イアンは回想する。‘デイヴはオリンピック・スタジオと契約していた。エリック・クラプトンがあそこにある大きなスタジオで“Layla”をレコーディングしていた―僕らは小さい方のスタジオで夜中の空いた時間を使ってレコーディングしたよ。アルバムは本当に素早く仕上げてしまった―僕らは少しだけリハーサルしてはすぐに録音していた。みんな楽譜を読めたかどうかは覚えてないね!’

結果はグリース・バンドがその前のセッションに持ち込んだような力強さと音楽的才能には欠けるかもしれないが、その入り組んだメンバーたちが作り上げたマジカルな雰囲気が、今日に至ってもそのアルバムを特別な1枚にしていると言えなくもない。それは唸るようなヘヴィ・メタル、重々しいプログレッシヴ・ロック、そして人気を博しつつあったグリッター・ロックが、カツカツとブーツを騒々しく踏み鳴らす中で、静寂と癒しの芳香を漂わせたオアシスだった。‘Ernie Graham’(Liberty LBS 8485)の当時のプレスリリースにはこうあった。‘アーニーの全ては抑制された穏やかさである。そこには多くのアイルランド、多くの仲間たち、そして多くのヤクの香りが存在する。’

‘Sebastian’がまず我々の気持ちを和らげてくれる。大きくうねるようなアコースティック・ギターで埋められ、ふわふわとした素朴なこの歌は、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ジャック・ブレル(ベルギー生まれのシャンソン歌手)の魅力的なミクスチャーだ。確かにアーニーはミネソタ出身の若者のごとく、鼻にかかった物憂げな歌い方で‘ヤク売人に対する報酬’を歌っている。対照的に‘So Lonely’はビッグ・ピンク(ザ・バンドの1st)から届けられた魅力的な音楽の断片である。まぎれもなくこのバッキングはブリンズレィ・シュウォーツだ(彼らはザ・バンドへの英国からの回答となっていく)。彼らはレイドバックした‘もの言わぬほうがより多くを語る’プレイをしている。雰囲気ある‘Sea Fever’―ジグザグ誌のピート・フレイムの長年のお気に入りナンバーであり、彼はのちにスティッフのプレス責任者としてアーニーを担当することになった―は、このレコードの中でも傑出した1曲に違いない。マルコム・モーリーのピアノがこの曲にメランコリックな味付けをたっぷりと加えている。

これはアーニーが引きこもっていた時期に書かれた歌だ。アーニーはいう。‘はっきりいって、これは僕がすごく落ち込んでいた時期に書いたんだ。僕は溺れて死ぬのがいいと思っていたふしがあるね。それはつまり水が脳に酸素を送り込むのをシャットアウトするってことに関係がある。そうなると脳は信じられないくらいハイな状態になるんだ。’ 一方でそれとは対照的に、‘The Girl That Turns The Lever’は純粋なアメリカンの匂いがする。ブリンズレィズ(プラス、ギターにヘルプスからマルコムとリチャードが参加)はボブ・アンドリュースの飾り程度のアコーディオンとともに、控えめなバッキングを提供している―全体の印象は‘Working Man’s Dead’(訳注:グレイトフル・デッドのカントリー調のアルバム)の中のベストの1曲を偲ばせる。
‘For A Little While’でオリジナル・アルバムのサイド2は幕を開ける。これは絶対的に作者(アーニー)の十八番だ―束の間の情事に対するせつない賛歌であり、感情に訴えるその魅力的な瞬間は、とりわけラララと入ってくるコーラス部分に訪れる。ディーク・レナード(訳注:マンのギタリスト)がアーニーのことを‘本物の女たらし’だと呼んだのもうなずける!

‘Blues To Snowy’はテンポを上げてリズムを刻む。アーニーの未来の義兄(弟)のために書かれたナンバーであるこれは、ヘルプスがバッキングの名誉を授かったシャッフル・ビート・ブギだ。グレアムのしわがれ声と簡潔で刺すような見事なギターのリードは、ヘルプスのトゥリースらによるものだ―‘小さなアンプで大音量のギター・サウンドを鳴らしたんだ。’―今日のリチャード・トゥリースは考察している。‘Don’t Want Me Round You’は愛と運の尽きた関係を歌ったもうひとつの物語だ。ブリンズレィズがバックをつけ、特にボブ・アンドリュースが審美なオルガンを提供している。アルバムの全行程は‘Belfast’によって終わりを告げる。これはアーニーが1970年のクリスマスに故郷(ベルファスト)へ帰った時に書いた歌だ。またこれは初めて彼の政治的立場と怒り、挑戦的な主張が表明された1曲だった―崩壊した町(訳注:北アイルランドで68年頃から続く新旧両教徒間の抗争のこと)への賛歌だ。クリス・カニンガムのフィドルが強烈なケルティック・フィールを与えている。

これは美と誠実のレコードだ―ひとりの男が存分にプレイし、自分の人生を歌う。そして驚くなかれ、当時リリースされてほとんど売れなかったこのレコードは30数年後の現在、90ポンドの値が付いているのである。このレコードのファンには例えば最先端のアンダーグラウンド誌Ptolematic Terrascopeの発行人、フィル・マクマレンがいる。

‘僕はアーニー・グレアムに会ったことがないのに、時々彼のことを知っているように感じることがある。彼の音楽は絹の糸のように僕の人生のタペストリーの中に入ったり出たりして進んでいくんだ。時折、人生のビッグ・スリーである愛と死と負担を同時に描きながらね。僕は恋をしたり、友人を失ったり、人生のある時点で大きな決断をしたりする―起きるべきか、ベッドの中にいるべきか―不思議なことに、僕が朝目覚めた時や家に帰ってきた時に、なぜかアーニー・グレアムのLPがレコード・プレーヤー近くに積んであるアルバムの一番上に載っかっているんだよ。まるで僕が知らないうちに、ひとりでにレコードが棚から飛び出してきたようにね。僕はアルバムがなにか僕の摂理というものを導くために、僕の方を向いているんだとさえ信じるようになった。タバコをくわえたフロント・カヴァーは、熟考することを僕に促していて、裏側では悪魔を振り払って素晴らしい時を過ごすように笑顔が僕を励ましてくれるようなね。まあ、最も確実な説明としては、このレコードを僕が何度もかけるって事実はなにも魔法とは関係なくて、このレコード自体がただただ素晴らしいっていう事なんだけどね。’

アーニーは続いて、以前マールバラ・パブリック・スクールの同級生だったギタリストのジョナサン‘ジョジョ’グレムサーとともに、新バンド結成に動き出した。グレムサーはそれまでヘルプ・ユアセルフに参加していた―ヘルプスはドーセットのヘッドリー・グランジに向かっていたが、ベーシストのケン・ウェイリーを失っていた。ダウン・ホーム・マネジメントはジョジョとアーニーを彼らに参加させ、リチャード・トゥリースにベースを弾かせることを決めた。

のちにマルコム・モーリーは簡潔に述べている。‘これはデイヴ・ロビンソンの壮大な計画だったんだ。どうしたらいいか分からない厄介なデュオと、どうしたらいいか分からない厄介なロック・バンドをくっつけるっていうね!でも僕はアレンジングのスキルと経験のある他のソングライターこそ僕らにとって有益だってことを考えていたね。’ 5人組のヘルプスは注目すべきラジオ・ワンのIn Concertに出演し、今では伝説となった71年6月のグラストンベリー・フェアでプレイしたが、この試みは短命に終わってしまった。ヘルプスのセカンド・アルバム‘Strange Affair’のハイライトの1曲が、‘Movie Star’だった。これはグレアムが巨大なスターダムの落とし穴について瞑想した素晴らしいナンバーだ―彼の嫉妬が見て取れる!彼らがグレアムの‘Home Farm Road’をレコーディングしなかったのは残念なことだ―彼らの当時のギグでは重要なレパートリーだったのであるが・・・

アーニーとジョジョが次にもくろんだグループがクランシーだった。残念だが彼らのストーリーは、別の機会に譲らねばならないだろう。以下のことを言うにとどめておく。彼らがワーナー・ブラザーズに残した2枚のアルバム、‘Seriously Speaking’と‘Everyday’は1975年にリリースされたが、グループの初期の足元にも及ばなかった。それらは一様にクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスと比較され称賛を受けたが。クランシーの解散は70年代後半のロック界に起こった大きな様変わりと時期を同じくした―パンク・ロックだ。かつてのマネージャーだったデイヴ・ロビンソンは、強力なスティッフ・レコーズの共同オーナーとして一人前になっていた。スティッフは急速に名を揚げ、彼はアーニーに1枚のシングルをリリースするチャンスを申し出た。

元ピンク・フェアリーズのギタリスト、ラリー・ウォリス(スティッフ専属プロデューサーだった)は話す。‘ある日デイヴが僕をつかまえてこういった。“ほら、アーニー・グレアムだよ”ってね。もちろん僕はHairy ParrotもEire Apparentも知っていた。そして彼はいった。“フィル・リノットだ” その時デイヴはアイリッシュのコネクションをもっていた。彼はフィルの仲間でフィルが書いていたこのグレイトな“Romeo”のことを考えていたんだ。その曲は全く手つかずの状態だったから、アーニーがそれを取り上げて日の目に当てるべきだった。僕は全く信じられなかったが―アーニー・グレアム―素晴らしいじゃないか!ってね。彼は当時Streathamに住んでいたから、僕は彼に会いに行った。彼は酒好きだったね。デイヴは一方でグレアム・パーカー&ザ・ルーモアのマネージャーも務めていた。パーカーが曲を書いていようが何をしようが、常にデイヴが何かの予定を入れて、ザ・ルーモアは忙しく働いていなきゃならなかったね。それで結局、“バーティー”・ボドナーとスティーヴ・グールディングをつかまえた。当時の彼らの仕事のやり方で、まずはPathwayに行って“Romeo”のバッキング・トラックをさっさとリハーサルする。それからイーデン・スタジオへロジャー・ベキリアンといっしょに入るんだ。彼は当時全ての(スティッフの)レコーディング・エンジニアを務めていた。そして僕らはアーニーのところへ行って、彼のヴォーカルを録ったんだ。’

‘想像どおり素晴らしい奴だったんだけど、その時はその数年前に僕がピンク・フェアリーズといっしょにいたところに、レコーディング・アーチストとしての彼がいたわけだ。僕はこういったね。“なあ、オレたちはレコーディング中なんだよ!オレたちに必要なものは何なんだ?ギター、ピック、ストラップ、ウィスキーのボトル2本、コカコーラかい?!”ってね。アーニーはその場に自分のバーをこさえてたよ。ウィスキーかウォッカのブランドははっきり覚えてないけど、彼はヴォーカル・マイクに向かわない時は飲んでくつろいでいたね。あの頃僕はまだ大して飲めなかったから、彼の気楽さ加減に驚いてしまったな。でもアーニーがいうように、いかに集中できるかが大事なんだ。今ここで彼の悪口は言いたくないな。だって全てはグレイトだったんだから。’

‘彼はアコースティック・ギターを弾きながらリード・ヴォーカルをとっていた。その方が彼にとってはうまくいくんだ。でもしばらくすると、クォリティがだんだんと落ちていく―つまりボトルの中にね。それで彼は椅子に座ろうとしたんだけど、運の悪いことに高い椅子を選んでしまった。そう、彼は何回か転げ落ちてた!僕はミキシング・テーブルに座るのは気が気じゃなかった。アーニーと目を合わせようと彼の方を見るだろう?確かに彼はそこにいる―でもこっちがまばたきしたその瞬間、彼はもう見あたらなくなってしまう―ウィスキーかコークを飲みに空中を浮かんで移動してしまうんだ!そしてやっとヴォーカル録りにかかる。終われば彼をタクシーに放り込んで帰宅させるわけ。後日ルーモアのボブ・アンドリュースにピアノを被せてもらって、夜遅くにブロックヘッズのデイヴィ・パインに素晴らしいサックスを吹いてもらう。デイヴ・ロビンソンがやったことにはちょっとした秘密があってね―彼はプレイバックを聞いた時に、少しだけテープの速度を上げることにしたんだ。Gコードがちょっとだけシャープしてテンポがわずかに速くなってるよ。’

配布されたプロモ・コピーにはカーマ・スートラのデザインが入った素晴らしいフライヤーが付き、シングルは1978年5月にリリースされたが、スウィート・パワー・ポップの‘Romeo’(B面もこのCDに含まれている)はニュー・ウェイヴのオーディエンスに火をつけることはできなかった。

現在、これだけ一流のものを作り上げたにもかかわらず、もはやアーニーもフィル・リノットも我々とともにいないことが残念でならない。悲しくもこれはまたアーニーが公式にリリースした最後のレコードとなってしまった。

彼は80年代のあたまに、初期のクランシーに参加していたラリー・プラットとともに一つのバンドを始めていた。しかしバンドはものにならず、プラットはその後ブリティッシュ鉄道で働き、オリエント急行の車掌も務めた。

病気がアーニーの命を奪う前に、彼は2年間、ロンドンの改宗施設で勉学に打ち込み、カウンセラーとしての資格を取る計画を立てていたが、ロックンロールの世界での彼の経験とキャリアは疑いなく優れたものだった。

Terrascope誌でフィル(・マクマレン)がいった言葉は多くの者たちを代弁している。‘ありがとう、アーニー。僕たちは本当に素晴らしい時を一緒に過ごした。それは君なしにはあり得なかっただろう。’

アーニー・グレアム:
1946年6月14日ベルファスト生まれ
2001年4月27日ロンドンにて死去

Rest In Peace

ナイジェル・クロス 2002年5月


Ernie Graham/Ernie Graham
All Music Guide Review by Bruce Eder


これは英国のパブ・ロック・シーンから出てきた永遠に忘れることのできない美しいソロ・アルバムの1枚であり、ボブ・ディランとザ・バンドが引き合いに出されるのに全くふさわしい1枚だ。なぜならここにあるのは彼らの作品と共通する伝統的なフォーク・スタイルだからだ。またこの作品はブリンズレィ・シュウォーツ、ダックス・デラックス、エッグス・オーヴァー・イージーその他の素晴らしい作品と肩を並べるものだ(ブリンズレィズがこのアルバムに参加しているのは驚くに当たらない)。リリカルなアコースティック・ギターが光るゴージャスかつディラン風のオープニング、“Sebastian”は、グレアムがずば抜けた感性を持ったソングライター/プレイヤーであることを示している―もし彼が売れるバンドに加入したか、あるいは自らのキャリアに屈しなければ、彼はたやすくもう一人のアラン・ハル(リンディスファーン)か、それ以上の存在になっていたに違いない。

このアルバムでは実際のところ、ディラン風に始まって、彼とブリンズレィズはザ・バンドのサウンドと肩を並べるほどのエレクトリック・ナンバー群を披露している。“So Lonely”の出だし部分―ここに聞けるルーツ・ロック・サウンドは全く本物のアメリカンであり、彼の出自について多くのリスナーを夢中にさせるものだ。このアルバム中、“The Girl That Turned the Lever”と“For a Little While”は、ザ・バンドの“The Night They Drove Old Dixie Down”に相当する最良の労働者階級/フォーク・スタイルの2曲であり、“Blues to Snowy”はグレアムをレナード・スキナードの領域へと誘い込んでいる。刺激的な“Belfast”は、最後にグレアムの真のルーツである大西洋の一方(アイルランド)のフィドル・ベースによるフォーク・スタイルへとリスナーを導くことになる。


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