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Eggs Over Easy/Good‘N’Cheap/2006 Hux Records Ltd. HUX 081



バンドがなぜ大成功を収めることができなかったのかを説明するのは、容易なことではない―とりわけそのバンドがグレイトなシンガーと才能あるソングライター、おまけに熟達したミュージシャンまでをもそろえている場合だ。エッグス・オーヴァー・イージーがそんなバンドだった―彼らはそれら全ての実績を兼ねそろえていた。3人のカリスマ的なマルチ・プレイヤーのフロントマンたち、伝説的なマネージャーと申し分のない神秘性。1970年、ロンドンに上陸すると彼らはただちにギグにとりかかった。彼らはパブ・ロック・ムーヴメントを活性化させたグループとして、すぐに名声を勝ちとった。しかし彼らを手本として大スターになったグループがある一方で、彼らはその中の一員となることはなかった。

元々はアメリカ東海岸の少年たちであったが、偶然西海岸で出会い、バンドが動き出すことになった。ジャック・オハラは西ペンシルヴェニアの小さな町で育ち、1965年にハイスクールを卒業したのちニューヨークに向かった。そこにはぞくぞくするようなグリニッチ・ヴィレッジ・シーンがあった(ディランが大成功を収める基礎を築いた場所だ)。しかし様々なフォークロックのアーチストたちとともにプレイしたのち、ジャックは西へ向かい、そこで一人のシンガー/ギタリスト、オースチン・デ・ローンに出会った。彼は話す。‘ジャックと僕は68年の夏にカリフォルニアのバークレーで会った。彼はスカイ・ブルーというバンドにいて、僕はアレン・シルヴァーマンっていうソングライターの友人とバンド共同の家にいた。その友人と僕は“One for One”という曲を書いて、それはストーン・ポニーズというバンドのファースト・シングルになった。そこのシンガーがリンダ・ロンシュタットだったんだ。ジャックと僕は友達になってアリス・スチュワートといっしょにプレイし始めた。まもなく僕らはデュオになって、69年の秋までにグリニッチ・ヴィレッジに住み始めたんだ。’

グリニッチ・ヴィレッジのマクドゥーガル・ストリートにあったクラブ、‘The Feenjon’で、二人はうまの合うミュージシャン、ブライアン・ホプキンスと出会った。ジャックは回想する。‘僕たちはお互いの趣味が似通っているのが分かったから、ある晩に集まろうってことになった。ヴォーカルのブレンドは奇跡的だったね。それでいっちょうやってみるかってことになったんだ。’ またジ・エッグスはマクドゥーガルのもうひとつのクラブ、‘The Underground’(そのまんま!)にもたびたび出演していた。クラブのオーナーでマネージャーだったのがベティ・スミスだ。(彼女の娘が当時若かったパティ・スミスだ) またベティは当時リンク・レイのマネージャーを務め、バンドが彼を知るきっかけとなった。

ヴィレッジの6番通りにあった小さなカフェで、ある朝早くグループ名を思いついたのがブライアンだった。‘僕らはグループ名について話し合っていたんだ。’ デ・ローンは回想する。‘それで彼はメニューを見ていて“エッグス・オーヴァー・イージー!”っていったと思う。決まりだったね。’ 個々のメンバーはそれぞれレイ・チャールズ、チャック・ベリー、ウィーヴァーズらの影響を受けていたが、オースチンはグループとして次のように考察する。‘僕らは見て分かるとおり、ビートルズ、ストーンズ、ラヴィン・スプーンフル、ディラン、トラフィック、ザ・バンドなんかが好きなんだ。オリジナリティあふれるアーチストが好きだったね。’

バンドはヴィレッジ周辺のストリートやクラブでギグをこなし、ついにピーター・カウフのマネージメント下に収まった。‘僕らはピーター・カウフが運営していたニューヨークのキャノン・フィルムズと契約したんだ、最前線ブランドのバンドとしてね。ピーターは“ブリティッシュ・インヴェイジョン”の時代に呼び屋をやっていて、ビートルズ、アニマルズなんかと仕事をしていた。それで彼は当時チャス・チャンドラー(訳注:アニマルズのオリジナル・ベーシスト)と仲良くなっていたんだ。’ オースチンはいう。‘そんなわけでチャスがロンドン録音をオファーして、僕らはその話に乗ったってわけだ。’

もはやジミ・へンドリクスのマネージャーではなかった元アニマルズのベーシストは契約アーチストを探していた。ジャックは回想する。‘僕らはある日、空っぽのクラブで彼に演奏を聞いてもらってUK行きが決まった。レコーディング費用は当時の3分の1くらいだった。’ グループは1970年11月にロンドンに到着し、まずはシェパーズ・ブッシュのB&Bに滞在した。グラントリーで彼らはフレディ・キング、スレイドと親しくなった。後者はチャスの秘蔵っ子で今にもブレイクしようとしていた。チャンドラーはバーンズのオリンピック・スタジオを押さえ、仲間の元アニマルズのジョン・スティールが毎日バンドを車で送り迎えしていた。ドラマーはレス・サンプソンが務め、セッションは順調に進んだ。グループはライヴも行なった。オースチンはいう。‘最初のいくつかのギグはグローヴナー・スクェアの米国大使館で開かれた文化交流のショーだった。そのショーにはアメリカ人の芸術家も含まれていて、ロビーには彼の作品が展示されていたね。僕らが到着するまでのつなぎとして、二人の詩人が詩をうたっていたね。’ ‘当時僕らにはまだドラマーがいなかったからトリオで演奏していたよ。’

バンドはクリスマス休暇を取り、いったんアメリカに戻った。1971年1月にUKに戻った彼らは、ケンティッシュ・タウンのアルマ・ストリート10番地に引っ越した―ことが起こり始めるところだ。いよいよエッグスの年になるはずだった!彼らは近隣の雰囲気を気に入っていた―スコットランド人のコンボ、ライティング・オン・ザ・ウォールのベース・プレイヤーでワイルドな性格のジェイク・スコットはすぐ近くに住んでいた。しかしバンド(その時にはドラムスにジョン・スティールが収まっていた)は故郷でやっていたようなライヴの場を渇望していた―運よくある日曜日、ジャック・オハラが地元のパブ、タリー・ホーにふらっと立ち寄った。そしてパブのマネージャーに月曜の晩にプレイさせてくれないかと尋ねた。月曜は唯一、店がジャズをフィーチャーしない日だった。

すぐに会場とバンドはぴったりとウマが合った。ジャックは回想する。‘タリー・ホーはグレイトだった。最初はぱらぱらとしゃがんだ人たちとカナダ人の元愛国者たちだけだったけど、それが月曜の晩だけじゃなく週3日になった―とてもくつろいだ雰囲気で、カッコつける必要なんてなかった―ミュージック・ビジネスとは無関係で―活気だけがあったんだ。’ オースチンも同意する。‘たくさんの聴衆が集まるのにそれほど時間はかからなかったね。その年の終わりまでには満杯になっていた―あそこにはいかしたグランド・ピアノが置いてあった。僕らはできる限り長くノリノリの状態を続けようとした・・・オリジナルは全てプレイしたね。その場で作った歌もあった。僕らは即興で作った曲(歌詞つきの)や思いつきのインストゥルメンタル・ジャムで2ステージ目か3ステージ目を始めたりしていた。僕らには(未リリースだった)ファースト・アルバムの曲に加えて、もっとずっとたくさんのレパートリーがあったんだ。僕らはアルマ・ストリートの家で絶えず曲を書いていたから。それから楽器の持ち替えもたくさんやっていた。ジャックはリード・ギター・プレイヤーだったけどベースもたくさん弾いたし、時にはピアノも弾いた。ブライアンはベーシストだったけど、ギターとピアノも弾いた。僕は主にピアノとギターで、時にはベースも弾いていた。その後ろではいつもジョン・スティールが完璧なビートを刻んでいたね。彼はとてつもない才能の持ち主だったのに、大いに過小評価されていたよ。’

エッグスのライヴがすごかったのは、彼らが何の気もなしに完璧なカヴァーをさらっとやってしまうことだった―ストーンズの‘Brown Sugar’からレイ・チャールズの‘Hide Nor Hair’まで何でもだった。ある晩、一人のファンが彼らのところへやって来てこういった。“ねえ、君たちの曲をジョーン・バエズがレコーディングしたよ。” それは彼らがあざやかにカヴァーしたザ・バンドの‘The Night They Drove Old Dixie Down’のことだった!その場所が話題になったのは不思議なことではなかった。彼らはすぐにバック・トゥ・ベーシックスに夢中になっていた当時最前線のミュージシャンたちをひきつけることになった。ブリンズレィ・シュウォーツのメンバー、ビーズ・メイク・ハニー、ダックス・デラックス、そしてシンガーのフランキー・ミラーらが参列した。

パブ、Inde Coope Brewyでの小さなツアーが行なわれ、ニューカッスルに帰らねばならなかったジョン・スティールに代わってドラマーのジョージ・バトラーが参加し、郊外でジョン・メイオールの前座としてすばらしいギグをしたにもかかわらず、彼らにはUKのレコード会社から正式な契約オファーは来ず、ヴィザの期限切れに伴ってピーター・カウフは帰国することを提案した。彼らがそのまま滞在していたとしても、何かが起こっていたかどうかは誰にも分からない―あるいはチャスがスレイドを1972年のベスト・ブリティッシュ・バンドに変えたように、彼らもチャスの手腕によって大きな利益をもたらしたかもしれない。

しかしながら全てが失われてしまったわけではなく、バンドはイエス、イーグルスからエドガー・ウィンター、Jガイルズ・バンドに至るまであらゆるアーチストのサポート・アクトとしてUS中を2年間ツアーして回った。また彼らはアルバムのレコーディングにこぎつけた。ジャックはいう。‘僕らはUKから帰ってきてニューヨークで数ヶ月間過ごしていた。それでA&Mと契約したんだけど、おそらく彼らはチャスとのセッション・レコーディングがデモ・テープになると考えて、それを再録音させたかったんだと思う。僕らはガスライト(ライヴハウス?)でリンク・レイといっしょに出演して、アリゾナのトゥーソン―当時彼が住んでいたところ―で、彼にプロデュースしてもらおうと考えたんだ。’ オースチンが回想するように、レコーディング設備は快適だった。‘スタジオは8トラックで(7トラックしか使わなかったけど!)、リンクの兄弟のヴァーノンと彼のエンジニアリング・パートナーのケーシーが所有していた。彼らは多くのメキシカン・コンジェント(ラテン・アメリカのダンス・バンド)・バンドを手がけていた。当時有名だったのはジーザス・カーンだった。僕らはトゥーソンを気に入っていたね。1ヶ月くらいいたかな。’

Good ‘n’ Cheap―ジャックがアルバム・タイトルをつけた―はオープニングにふさわしいタイトルのオースチン作、‘Party Party’で幕を開ける―もちろんこれはエッグスのギグのことを歌ったものだった。それはデ・ローンのいくらかソウルフルな歌唱とグレイトなコール&レスポンスのバッキング・ヴォーカル、そして抗しがたいファンキーなビートをフィーチャーしていた。快いハーモニー・ヴォーカルと強力なメロディを持つジャック・オハラの美しいバラッド、‘Arkansas’は、享楽的なオープニングに続いてムードある雰囲気を提供する。この最高に雰囲気ある曲についてジャックはいう。‘僕は実際アーカンソー生まれじゃないよ。ある種のフィーリングを伝えるために、ちょっとしたストーリーを作ったんだ。そうとしか説明できないな。’ 彼はこの曲で確かにうまくそのフィーリングを表している。この見事な南部風カントリー・ロックはアルバムの中でも傑出した1曲だ。

ブライアン・ホプキンスの‘Henry Morgan’はそれに続く傑作だ―あるいはアルバム中、私のお気に入りトラックかもしれない。すばらしくレイドバックしたグルーヴは、当時国を離れてロンドンに住み、活動していたアメリカ人バンド、フォーマリー・ファット・ハリーを強く思い起こさせる。ジョン・スタインバックの小説、Cup of Goldにインスパイアされたその歌は、17世紀の船乗りを主人公としたものだった。オースチンによれば、‘ブライアンが1970年にブルックリンの友人ロバート・フレイカーの家で書いた曲だ。バンドはそこでリハーサルしたりぶらぶらしたりしていたね。’だそうだ。

ある晩、マーキーでエッグスのギグを目撃したブリンズレィ・シュウォーツのマネージャー、デイヴ・ロビンソンは彼らをブリンズレィズが共同生活していたノースウッドの家へ招待した。そこでどうやらニック・ロウは何か直感的なものを感じたようだ―たしかにデ・ローンの辛辣な‘The Factory’を聞くと、英国の同種のアーチストたちへ大きな影響を与え続けたソングライターとしての彼が見えてくる―この曲はブリンズレィズののちのアルバム群そのままの雰囲気がある。現在オースチンは冗談交じりにこう話す。‘もちろん僕が彼に全てを教え込んだんだ・・・まあ、間違いなくニックはエッグスから気軽に引用したね(大歓迎だ)、他の多くのカヴァーとか・・・全てのアーチストたちがやるようにね。’

ブライアン作の‘Face Down in the Meadow’は死んだ友人についての鎮魂歌であり、哀愁漂う‘Home to You’は、1971年秋にケンティッシュ・タウンでジャックが書いた曲だ。これはソウル・ナンバー、‘Tracks of Your Tears’(訳注:おそらくスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズの‘The Tracks of My Tears’のこと)をなんとなく思い起こさせるところがある―その絶妙な効果を上げている種々のヴォーカル・スタイルのブレンドに耳を傾けてみてほしい。前述したロバート・フレイカーの‘Song Is Born of Riff and Tongue’がそれに続く―ブライアンの大学の旧友が書いたラヴ・ソングをバンドが取り上げたものだ。ほとんどがアコースティックでいくらか可愛らしいギター・リフで飾られている。

オースチンとブライアン共作による‘Don’t Let Nobody’はエッグス・オーヴァー・イージーの真髄だ―効果的で、きびきびした調子で、いかしたリフにスマートな詞とすてきなギター・ソロが入る。それとは対照的に‘Runnin’ Down To Memphis’はラヴィン・スプーンフル/ヤングブラッズ・タイプののん気でグッドタイムなナンバーだ―60年代後半のピュアなグリニッチ・ヴィレッジ・フォークロック!ブリティッシュ・ロックへのザ・バンドの影響力は決して過小評価することはできない。1971年までにザ・グリース・バンド、ロジャー・モリスからブリンズレィズ、フェアポートに至るまで全ての者たちが、自らの音楽の中にその要素を吸収していた。古い南部のメランコリックな匂いを漂わせるオースチンの‘Pistol on the Shelf’はロビー・ロバートソンとその仲間たちを強く偲ばせるが、それでもなお、エッグスのレパートリーにはもうひとつの心地よいフィルターがかけられている。オリジナル・アルバムはジャック作の騒々しいナンバー、‘Night Flight’で幕を閉じる。これはLPを録音するためのトゥーソン行きの飛行機の機内で書かれた曲だ。

オハラがいうように、このアルバムは‘僕たちがプレイしていた中からほんの一握りの曲を収めただけ’であるのは容易く分かることだが、それでもグループが伝える全てがここで聞ける―つまり見事なソングライティングとミュージシャンとしての才能が難なく発揮され、とりわけ彼らのロック・チューンを聞けば、彼らは偉大ではなくとも単純にロンドンでベスト・ライヴ・バンドだったのに、なぜこんなにも短期間で別れを告げなければならなかったか、不思議に思うことだろう!

今回のリイシューは4つのボーナス・トラックが追加された。‘111 Avenue C’はバンドが初めてジョン・スティールといっしょにレコーディングしたトラックで、1971年1月にロンドンのオリンピック・スタジオで録音された―そのタイトルはジャックがガールフレンドのRani Kugelといっしょに住んでいたニューヨークの住所のことだ。曲中で彼女の歌が聞ける。ホプキンスの‘Across From Me’は1970年12月にオリンピックで行なわれたチャス・チャンドラー・セッションでの最初のもので、ドラムスはレス・サンプソンが担当している。

初お目見えとなったのが、デ・ローンのユーモラスな‘Bar in My Car’で、これは最初バッファロー・レコーズから1976年にエッグスのシングルA面としてリリースされた。グループのこの時のドラマーはジェイ・デヴィッド(元Dr Hook)だった。彼らはウェスト・コーストに移住していた。元々のタイトルは‘I’m Gonna Put A Bar in the Back of My Car(And Drive Myself to Drink)’で、同タイプの楽しげな片面‘Horny Old Lady’(ヨーデルのごろ合わせが入っていた)とともに、このシングルはあっという間に行き場を失ってしまった。なぜならオースチンの回想によると、この小さなサンフランシスコのレコード会社(バンドの古い友人でベーシストのスチュワート・グレイサーが興した)は、‘レコードが出たとたんほとんど潰れてしまった’からだそうだ。

今回のリイシュー盤はオハラ作の‘Scene of the Crime’で終わる。これは1980/81年のグループのLP、Fear of Fryingのためのセッションの一部として録音されたものだった。このトラックがたっぷりと示すように、この時までにジャックのリード・ギターの腕前は見事に開花していた。オースチンによると、‘ミルヴァレーのリー・マイケルのスタジオでリーとジャックのプロデュースによって録音された。またリーが彼のStevens24トラック(テープ・マシンとボードが完備した途方もない機材)で録音した3枚のレコードのうちの1枚だったけど、またしても不運なレコード会社、Squish Recordsはレコードがリリースされるや潰れてしまった。なんというかね・・・’

グループは1981年ついに解散した。彼らが務めた最後のギグのひとつは、バッキング・ヴォーカルも取るグループ、‘The Opinions’としてダン・ヒックスとともにプレイしたものだった!バンドの消滅についてジャックは考察する。‘ブライアンは本当にバンドを見捨てたりはしなかったね―ブライアン、オースチン、そして僕のいないエッグス・オーヴァー・イージーなんてありえなかった。約10年間で力尽きてしまった―ほとんどライフスタイルみたいなものだった。キャリアに対する野心なんてのは全くなかったんだ。’

あるムーヴメントが起きると、A&Rマン、メディアの侵入、そして時流に便乗する者たちが吸い寄せられ殺到する中で、その先駆者たちは度々忘れ去られてしまうことになる―エッグスは最初にそこにいたし、彼らが示した見本がなければ、スティッフ・レコーズもエルヴィス・コステロもロックパイルもイアン・デューリーも出てこなかっただろう!ジェスロ・タルやELPのようなバンドと直面しながらも、エッグスはパンクの拠り所となるその簡潔でシャープな楽曲が、最終的にプログレッシヴ・ロックの時代に終止符を打つようなトレンドを開始したバンドだったが、彼らには決してそんな意図などなかっただろう。

かつてのメンバーたちは今も音楽に関わり続けている―ブライアンはミルヴァレーに住み、すばらしい歌を作り続け、ジャックはクローヴァーのアレックス・コールとともにプレイしていたが、1982年にニューヨークに戻り、現在サウンド・エンジニアとして働きながら自らのバンドを組み、42番街のBBキングのナイトクラブ、ルシールで月数回のギグを行なっている。オースチンは最も目立った活動をしてきた。彼はボニー・レイト、エルヴィス・コステロ、そしてニック・ロウのような様々な大物アーチストから、ビル・キルヘン、(同世代のサンフランシスコの)シャーラタンズに至るまで共演、レコーディングを行なってきた。

じゃあ、このへんでくつろいでコンテンポラリー・ミュージックの中で全てがグレイトだったパブ・ロックの時代から、ひとつの記念の品を楽しんでみてほしい。

ナイジェル・クロス
2006年5月ロンドンにて

測り知れぬほどの貴重な素材を提供してくれたオースチン、ジャック、そしてブライアン、またコリン・ヒル、ウィル・バーチ、そしてラウドン・ウェインライト3世に特別の感謝を申し上げます

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僕は70年代の初頭にロンドンでエッグス・オーヴァー・イージーと知り合い、親しくなった。アニマルズのオリジナル・ベーシストでジミ・ヘンドリクスを“発掘”したチャス・チャンドラーは、すでにバンドに会っていたか聞いていたかして、その3人組をイングランドに連れて来ていた。彼は北ロンドンに彼らの家を用意し、彼らのためにアニマルズのオリジナル・ドラマー、ジョン・スティールを紹介した。ブライアン、ジャック、そしてオースチンはニューヨークのクラブでプレイしながら、大きな成功を収めないままレコード契約を探していた。彼らは母国でショービジネスのパイの一切れをプレイすることに大きな喜びを感じていた。ジョニー・スティールは3人の若く熱狂的なアメリカ人とともにプレイを楽しんでいたが、彼は世慣れていて現実主義者だった。彼は本業を持っていた。僕はその頃、レコード契約を交わしていて、すでに大きな成功を収めていたけど、西ロンドン、ホランド・パーク通りのたった週5ポンドの借家に住んでいた。実際、僕は“the new Bob Dylan”だったんだけど・・。

ジャック、オースチン、ブライアンは歌い、曲を書き、3人ともギター、ベース、ピアノをプレイした。特にオースチンがその頃ミュージシャンとして傑出していたと思う。ジャックはバンドの中で僕のお気に入りのシンガーだったけど、彼はすごく元気が良くてステージ上でスウィング感あふれる動きを見せていた。ちょっと僕は盗んだね。ブライアンはそのクレイジーな二日酔い/キャンベルスープ(米加工食品メーカー)の子供みたいなキャラクターと、生まれつきの演技能力ってことではトリオの中心人物として、いつも僕を驚かせてくれた。バンド全体に漂うナイスな“屁とも思わない”態度はすごく平和的で、タリー・ホーのような満杯になったパブでとても魅力的なバンドだった。そこはエッグスのプレイが見られるおなじみの場所だったんだ。

ザ・タリー・ホーはケンティッシュ・タウンにあったパブで、ロンドンの70年代初頭のパブ・ロック・シーンでホットな会場のひとつだった。ブリンズレィ・シュウォーツ、キルバーン・アンド・ザ・ハイ・ロウズ、ダックス・デラックス、そしてチリ・ウィリみながそこでプレイした。エッグス・オーヴァー・イージーはすごく人気があって、それは客だけじゃなく英国のミュージシャンたちからも好かれていたね。なぜなら彼らは本物のアメリカン・バー・バンドで、当時の英国の多くの者はそんなバンドなんて見たこともなかったからなんだ。そこにはR&Bの要素、カントリー・ミュージック、ロックンロール、サーフィン・ミュージックさえあった。そして全てのすばらしいバー・バンド同様、エッグスはカジュアルだけど熟達していた。ルーズだけどタイト、彼らが歌の中でいっているように“ファンキーだけどクリーン”だった。見せかけなんてのはなくて、それは当時流行っていたハイヒールのブーツやグリッター・ロックなんかの誇張やポーズとは全く違った新鮮な快さがあった。ニック・ロウのような人たち、それからイアン・デューリーはエッグス・オーヴァー・イージーから影響を受けたといって差し支えないと思うね。

僕はタリー・ホーの駐車場について話す時間もスペースも持っていないけれど、あの頃を振り返ってみると、僕らは本当に楽しんでいたことは保証するよ。残念ながらバンドはイングランドで成功しなかったけれど、ブライアン、ジャック、オースチンはアメリカに戻ってリンク・レイのプロデュースによって、この彼ら唯一のアルバムを制作した。その後、彼らはカリフォルニアのミルヴァレーに移って、ベイエリアで2年間プレイした。しかしながらそのパラダイスの中で意見の相違と問題があった。僕のセオリーでは、北カリフォルニアはグループにとってあまりにすてきな環境すぎたってことだ。彼らはニューヨークやロンドンのような活力ある場所が必要だった。とにかく彼らのパイのひと切れに対する苦闘は消え去り、多くの偉大なバンドと同じように、エッグス・オーヴァー・イージーは解散した。

ブライアンが最初に去った―彼はサンフランシスコで仕事についた。ジャックとオースチンはさらに数年間、様々なラインナップで共に活動を続けた。それからジャックは東部へ戻った。僕は去年のクリスマス・パーティーで彼と会ったが、彼はとても元気で、今は家族を持ってニューヨークで音楽を作ったりプレイしたりしている。オースチンとは電話で何年にも渡って連絡を取り合っている。彼も元気で、たくさんのツアーでコマンダー・コディのキーボードとして活躍している。ブライアンのことは会ったり聞いたりすることはなかったが、4日前に突然彼自身から郵便でテープが送られてきたんだ。テープの中には多くのすばらしい曲が入っていたけれど、僕のお気に入りは以前聞いたことのない1曲だ―そのタイトルは―‘彼らは僕をバンドから追い出した’

ラウドン・ウェインライト3世
1986年6月

(このライナーノーツは元々1986年にエドゼル・レコードからリイシューされたGood‘n’Cheapに載っていた。ラウドン・ウェインライト3世の承認によってここに再掲された)


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