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Dave Edmunds/Rockpile/2001 Repertoire Records REP 4966



我々ロック・ミュージック・ファンのほとんどは、その主の名に見当をつける前に、デイヴ・エドマンズの猛烈なギターの腕前を喜んで受け入れてしまった。その日付は―1968年11月初旬。ソースは―BBCラジオ・ワンで放送されたジョン・ピールの重要番組TOP GEAR。ピールは聴く耳をもつ革新的なディスク・ジョッキーだ。その出来事とは―えり抜きの我々のDJは、番組の締めくくりにラヴ・スカルプチャーという名のバンドのインストゥルメンタル・トラックをかけた。そのバンドは大胆にもSABRE DANCEの猛烈なカヴァー・ヴァージョンをプレイしていた。そう、そのとおり。“生真面目な”ロシアの作曲家/指揮者アラム・イリッチ・ハチャトゥリアンが、1940年代に作ったバレエ音楽GAYANEH(あるいはGAYNE―あなたの気分次第だ)で聞かせた、コルホーズ(共産国の集団農場)の豊穣と愛国心を祝った大作だ。それで間違いないだろ?

実際は7分ほどだったが、その見ものは永遠に続くかのようだった。ピールはニュースの時間にフェイドアウトさせるのではなく、番組のエンジニアにテープを巻き戻させ、大混乱を引き起こした。結果?BBC本部への手紙の殺到だ。世界の災難を伝えるニュースを拒絶した彼らを嘆く野暮な奴らの中にいた2人の変わり者は、寝る前のココアとともにその晩を真剣に扱っていた。SABRE DANCEをやっているのはどこの何者で、このレコードはどうすれば購入することができるのか、というかなりの要望があった。その中の一通が、普段グレン・ミラーとブレンダ・リーを愛していた私の年老いた父親からだった。ミラーとリーといえば、使い勝手のいい素材として常に局に認められていた男性(女性)であるが、私の親父は・・・

エドマンズ(ギター、ヴォーカル)、ジョン・ウィリアムズ(ベース)、そしてその頃トミー・ライリーと交代したボブ‘コンゴ’ジョーンズ(ドラムス)からなるラヴ・スカルプチャーは、幸運にもすでにEMI傘下のパーロフォン・レーベルとレコーディング契約を交わし、2枚のシングルをリリースしていた。RIVER TO ANOTHER DAY(68年2月リリース)とウィリー・ディクソンへの偏愛であるブルース・クラシックのWANG TANG DOODLE(同9月リリース)はどちらもチャート入りしなかったが。しかしながら、前者はピールにスカルプチャーの存在を十分に見せつけていた。さらに予期せぬ幸運として、ラヴ・スカルプチャーのギグを目撃していたザ・ナイスのメンバーたちが、ジョン・ピールに熱烈にすすめたらしい。

こうしてジョンは68年の4月と11月にトリオのためのBBCセッションを手配した。2回目からはミスター・ハチャトゥリアンの“剣の舞い”改造ヴァージョンが披露され、EMIは45回転シングル用の5分間編集ヴァージョンを急遽こしらえ、それは同月英国でチャートを急上昇し、5位に達した。親父と私の助けを借りて。私たちは2人とも1枚ずつ買った。

英国とアイルランドでしか流通しなかったパーロフォンと提携した英国デッカのUS子会社、ロンドン/パロット・レコードは、全世界へ向けてラヴ・スカルプチャーの作品を宣伝しようと、うわさによれば12月に25万ポンドの契約金を用意して介入し、みなのポケットには大金が転がり込んできた。一夜のうちに成功してしまったグループには、6週間のアメリカ・ツアー含むツアー・スケジュールが待っていたが、とりわけエドマンズはそれを喜ばなかった。南ウェールズ、カーディフ出身のこの男は、自動車工になるべく修業を積み、当時の彼は夜や週末にセミプロのグループでギグをこなし、昼間はエンジンをいじっている方を好んでいた。続く1年半の間にさらなるシングル群と2枚のLPを制作したが、SABRE DANCEほどの成功を収めず、デイヴはラヴ・スカルプチャーを解散させ、ウェールズにある故郷に“隠遁”してしまった。

それでも運命の女神は、1950年代に兄のジェフのスキッフル・グループで初めてプレイした時から、この若者にほほえんでいた。デイヴの友人の中には、兄弟だったチャールズとキングズリー・ワードがいたが、その兄弟はモンマスシアに大きな酪農場を所有していた。また彼らは敷地内に小さなレコーディング・スタジオを建て、そこからの微々たる収入によってミルクの産出高を増やそうと目論んでいたらしい。彼らはデイヴのヴィジョンに賛同し、“ケルティック・モータウン”のようなものを創り上げるべく、ミスター・エドマンズのSABRE DANCEによって手に入れた金を一部資金として充て、防音ルームなどの設備を整え、そのスタジオを“ロックフィールド”と命名した。こうして我々のテーマの未来が具体化していった。

現金投資の返礼として、デイヴはまだ予約の入っていなかったロックフィールド・スタジオを無制限に使える権限を手に入れた。彼はのちに1970年の春と夏のことを回想している―「僕は自分が満足できるまで思いどおりにできたし、レコードの作り方を学んだ。ひとりでやりたければそれもできたね。誰もいなかったから、全ての楽器を自分でプレイしたんだ」 それでもその機会はそれほど頻繁ではなかった。旧友のジョン・ウィリアムズがベースを弾き、デイヴの作品にバッキング・ヴォーカルを加えていた。そのうちのひとつが、深いエコーの効いた1955年のステイトサイド・レーベルのR&Bヒットであるスマイリー・ルイスのI HEAR YOU KNOCKINGだった。さらに加えれば、デイヴ・バーソロミューとアール・キングのヴァージョン、そして同時期のメジャー・ポップ・ヒットとして、テキサスのシンガー/TVスター、ゲイル・ストームのヴァージョンがある。

見たところ、EMIのすばらしい人たちはそれをリリースする機会を見送ったようだが、エドマンズのマネージャーだったゴードン・ミルズ―トム・ジョーンズとエンゲルベルト・フンパーディンクのキャリアを監督した―は、自分の聞いたものを気に入った。英国デッカを通じ、まさに自身のレーベルを立ち上げようとしていた、このソングライター/プロデューサー、そして元ハーモニカ・チャンピオンで今や興行主の彼は、I HEAR YOU KNOCKINGをMAMレーベルの第一弾シングル(c/w BLACK BILL 型番MAM1)としてリリースすることをデイヴにアドヴァイスした。

グレイト・デイは10月30日にやって来た。エドマンズはまもなく1位の座についた(11月21日)。1970年のボクシング・デイには、アメリカでMAM 45-3601としてリリースされ、大西洋の向こう側でもその新しい型番のシングルはホット100に入るスタートを切った。その地でKNOCKINGは12週間圏内にとどまり、最高4位まで登りつめた。その期間、他のあらゆる国々でもヒットし、金もうけの天才ミルズによれば、総数300万枚を超えるセールスを上げた。

しかしいくつかの問題があった。エドマンズはロードに出るためのグループをもっていなかったし、次に出すレコードのストックも用意してはいなかった。そして英国ではEMIがデイヴの次の作品を出すための依然大きな選択権を保有していた。世界的な宣伝活動は何も考えられてはいなかった。

デイヴ・エドマンズを系列レーベルのリーガル・ゾノフォンに移したI'M COMING HOME/COUNTRY GIRLは、UKでは71年3月にRZ 3032としてカップリングされリリースされたが、週間のベスト・セラー編集者を煩わせることは全くなかった。アメリカでは(MAM 45-3608)、5月1日にホット100にじりじりと入ってきたが、チャート・リストの2階席で28日間を過ごし、最高75位に終わった。そして3枚目の7インチは、再び我々のヒーローをデイヴ・バーソロミューへと引き戻した―BLUE MONDAY(UK:RZ 3037 7月/US:45-3611)だ。

このナンバーは、ルイジアナ生まれの無比なるトランペッター/ヴォーカリストのバーソロミューと、アントワーヌ‘ファッツ’ドミノの共作だった。ファッツにとってのこれは、彼がロックンロール映画のTHE GIRL CAN'T HELP ITで、へヴィ級ピアノ・マンのパフォーマンスを披露したあとの1957年に、1人のアーチストとして全国のレジをチリンチリンと鳴らすナンバーとなっていた。エドマンズは寛大にも、彼の特別なこのヴァージョンを、ジョン・ウィリアムズが著作権をもつI'LL GET ALONGのB面に配置した。しかし残念ながら、英国の購買層があまり注目することはなかった。同様にアメリカでも9月に104位に達したのみにとどまった。

I HEAR YOU KNOCKINGのあっという間の成功の悲劇は、純粋な「Rockpile」のマテリアルが不十分であったため、シングル群を利用しなければならなかったことだった。待つ甲斐のあったアルバムは遅まきながら1972年6月にリリースされ、タイトルはシンプルにROCKPILE(UK:Regal Zonophone SLRZ 1026 / US:MAM3)となった。あなたが今手にしているのは、前述の半ダースのシングル・トラックがうしろにつけ加えられたものだ。16曲全てがデイヴ・エドマンズ・プロデュースだ。

LPのために、デイヴとジョン・ウィリアムズはペダル・スティールの巨匠B.J.コール、セカンド・ギターに元エーメン・コーナーのヴォーカリストのアンディ・フェアウェザー・ロウ、ドラムス/パーカッションにテリー・ウィリアムズを起用した。すでにヴェールのはがされていた「Rockpile」マテリアルとしてはKNOCKINGのステレオ・ミックスだけを含み、エドマンズと仲間たちはニール・ヤング(DANCE DANCE DANCE)を挟みながら、チャック・ベリーのロックンロール(THE PROMISED LANDSWEET LITTLE ROCK & ROLLER)から、ボブ・ディランのOUTLAW BLUES(1965年のアルバム、BRINGING IT ALL BACK HOMEから)まで網を広げていた。

また彼らはリズム&ブルース・ナンバーを散りばめた―(I'M A)LOVER NOT A FIGHTEREGG OR THE HEN、そして自作のHELL OF A PAINだ。アルバムからのあとの2曲―元ムーヴ/ボールズのスター、トレヴァー・バートン作のDOWN DOWN DOWNとロン・デイヴィスのIT AIN'T EASYは、R2 3059として72年7月に英国のみでシングル・リリースされた。おもしろいことに、デヴィッド・ボウイにもカヴァーされたここでのデイヴィスの歌は、レコーディングされたが最終的に外されたフェアウェザー・ロウのYOU AIN'T NO FRIEND OF MINEの一部を含んでいる。

あるいはI HEAR YOU KNOCKINGの最も幸福な日々を味わったあとに、ROCKPILEが商業的大成功を収めなかったのは、ある程度必然だったのかもしれない。それでも常に幅広いオーディエンスが何年にもわたってこれをふり返り、敬意をもって語り継いできたすばらしいアルバムであることに変わりはない。それはデイヴ・エドマンズと彼お気に入りの50年代末のギブソンES 335セミ・アコースティック・ギターが、ロカビリー、ブルース、その他似たようなものを再創造することへの愛情を具現化したこと以上の、もっともっと多くの意味を含んでいる。デイヴが他人の作品に記したプロダクション・クレジットは、量と質において同等にすさまじく、それはシェイキン・スティーヴンス、k.d.ラング、ザ・フレイミン・グルーヴィーズ、そしてエヴァリー・ブラザーズのような個人的アイドル(私のアイドルでもある。何とうらやましいことか・・・)までを含んでいる。

1972年のROCKPILEのリリースをもって、デイヴ・エドマンズはロックフィールド・スタジオに戻り、今や全てのレコーディング業務の自由を手に入れ、まさにロックフィールド全体の権威を拡大させようとしていた同名のレーベルと契約を結んだ。再び深夜まで1人で働いた彼は、我々の永遠の恩恵のために、ヴォーカルと多くの楽器をオーヴァーダブした。今度はフィル・スペクターに捧げた、ザ・ロネッツのBABY I LOVE YOUのカヴァーだった。その結果、1973年1月、再び彼はブリテンのトップ・セールス・ランクに戻ってきた。以降、彼はいく度かこういった返り咲きを果たすことになった。

デイヴの車輪は回り続けた。世界的なヒット、シングル群、そしてツアーが生じることになった。後者の娯楽の側面については、偶然にも、とりわけのちのロックパイルの中心メンバーとなるニック・ロウと一緒になった時に、彼はツアーを楽しむようになった。1974年は思慮深くも、メジャー映画への登場とサウンドトラック・ミュージックの提供を果たした―デヴィッド・エセックスのSTAR-DUSTだ。これはエドマンズの履歴書を広げることになった。彼のソングライティングは自信たっぷりに発達していった。

これに加え、無数のプロデュース・ワークとゲスト・ミュージシャンとしての仕事は、音楽ジャンルを飛び越え、我々の誇るべきウェールズ野郎の30年間は、申し分なくやり遂げられたと見ることができる。

このように考慮すれば、このCDの内容は、デイヴ・エドマンズの進化における重要なステップを表明しているといえる―ブリティッシュ・ロック界最高の人気者の1人として。何よりもまず、依然我々の中の熱狂的な1人として理解することができる―つまり本物の音楽‘ファン’であることだ。

(C)ジョン・トレイシー 2001年ロンドンにて



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