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Dave Edmunds/Chronicles/1994 The Connoisseur Collection Ltd VSOP CD 209



“伝説的な”ステイタスを正当に主張できる英国産のロックンローラー―想像すると多くはこの世からすでに去ってしまった。ジョニー・キッドしかり、ビル・フューリー然り。しかし間違いなくデイヴ・エドマンズも英国産ロックンローラーとして絶対的な存在といえる―彼はロックンロール第一波の次の世代としてやって来たのであるが、セッション・ギタリスト/プロデューサー/ライター/アレンジャーとして、25年以上に渡って卓越した功績を残してきた。そして彼は発展し続ける音楽的トレンドに、どうにかまともに向かい合って人気を維持してきた。確かにエドマンズはコンテンポラリーなロックのフォーマットの中で、基本となるエネルギー、責務とルーツR&Rの熱狂を常にうまく並列させてきた、数少ないパフォーマーの一人として今も健在だ。

そしてこのことは真っ先に、彼が本質的に一人の(ロックンロール・)ファンのままであることにほとんど起因している。それは彼が何年にも渡ってエヴァリー・ブラザーズ(すばらしい80年代のカムバック・アルバム)、カール・パーキンス(デイヴは85年にカールのスペシャルTV番組を立案した)、ジェリー・リー・ルイス(彼は1989年のスペシャルTV、The Killerで、ジェイムス・バートンその他とともに喜んでサポート役を引き受けた)、ディオン(彼はDiMucciの1989年のカムバック・アルバム“Yo Frankie”をプロデュースし、続いて彼とツアーを行なった)のような人たちと働いてきたことが証明している―あるいはさらにいえば、70年代後半にエドマンズがチャック・ベリーのプロデュースを断ったことだ。理由はつむじまがりのベリーのひどい態度と、エドマンズの作品に対するbrown-eyed handsome(ベリー)のリスペクトの欠如があっては、うまい連携が取れないと判断したからだ。彼は完全に見透かしていたのかもしれない―キース・リチャーズに頼んでくれ!

今、私はエドマンズが自分の過去の作品をどう感じているかは分からない―あるいは私がインタビューした他のミュージシャンたち同様、彼も過去のことは全く興味がないのかもしれない。しかしながら、私は“I Hear You Knocking”、“I Knew The Bride”、“Girls Talk”、そして“Queen Of Hearts”らを、まばゆいばかりのクラシックとして見なさない者に未だ会ったことがない―そういうわけでこのコンピレーションは、エドマンズの豊富なキャリア全体を初めて包括的にとらえたものだ(すなわち彼の重要なヒット曲全てと、2,3の‘イマイチ’な作品を含む)。つまり彼の最高のアルバムであることに異議はないだろう。

1944年4月15日にカーディフ(ウェールズ南東部)に生まれたエドマンズは、十代を自動車整備工になるための訓練生として過ごし、その代償として南ウェールズ周辺で様々なR&B/ビート・グループに参加しギグに明け暮れていた。中でも注目すべきは99’ers(彼の兄弟もいた)とThe Raidersだ。1966年、彼はロンドンに向かい、The Imageに加入した。そのグループは(EMIの命令によって)すぐに名前をThe Human Beansに変えた。ラインナップはエドマンズ(ギター/ヴォーカル)、ジョン・ウィリアムズ(ベース―のちに彼はジョン・デヴィッドとなる)、そしてトミー・ライリー(ドラムス)だった。

1枚のシングル―ティム・ローズ/ボニー・ドブソンのプロテスト・ソング“Morning Dew”のカヴァー―をリリースしたのち、彼らはLove Sculptureに進展し(これもEMIが犯人だと考えられる)、メンバーのうちライリーがボブ“Congo”ジョーンズに交代した。68年初頭、失敗に終わったシングル、“River To Another Day”に続いてラヴ・スカルプチャーは、はからずもブルース・バンドになっていた。当時人気を増しつつあったフリートウッド・マック/チキン・シャックらの路線に便乗するためだった。EMIはメイオール/クラプトンの独創的なアルバム“Blues Breakers”を持たせ、エドマンズを24時間監禁したらしい。そして短期間で丸々同じものを作らせ、彼をアビー・ロードに送り込んだ。

それでもエドマンズは確かにベストを尽くした。プロデューサーのキングスレィ・ワード、マルコム・ジョーンズとともに必死に働いた彼は作品を量産し、優れたアルバム“Blues Helping”を作り上げた(ちょうど15時間で録音とミックスをしてしまった)。十分に妥当なそのデビュー作は、メインストリームのシカゴ・ブルースと、よりソウルフルなマテリアル、例えばレイ・チャールズ、BBキング、エルモア・ジェイムス、ココ・テイラーなどをミックスしたものだった。しかし68年11月(アルバム・リリース直前)にジョン・ピールの名高い番組“トップ・ギア”出演において、エドマンズは8分間の猛烈なエンジン全開ギターの嵐によるはハチャトゥリヤン(1903-78:ソ連の作曲家、アルメリア人)の“Sabre Dance”をぶっ放していた。たしかにあまりに高速なエドマンズのプレイは、テープの回転を上げたものだという主張を招き、大いに彼(とピール)を悔しがらせることになった。

にもかかわらず、すぐにショート・ヴァージョンが録音され急いでリリースされた結果、チャート5位にまで達し、エドマンズに初のチャート・アクションをもたらした。しかし続くシングルと急ごしらえのセカンド・アルバム、“Forms And Feelings”は失敗してしまった・・・。しかし“Feelings”のごたまぜな内容―ストレートなポップとロックに加えて、偽サイケデリアとさらにロック色増した古典的なトラックの並列の中には、エドマンズが終生に渡ってこだわり、カヴァーすることになるチャック・ベリーの数々の名曲の中で初のトラックと信じられている“You Can’t Catch Me”が含まれていた。しかしながらエドマンズはスカルプチャーが焦点を欠いていたことを率直に認めている。“僕らは準備不足だった・・・僕らは自分たちの歌を持っていなかったし、真のアイデンティティも持っていなかった・・・” 結果的にセカンド・ギターにミッキー・ジーが、ドラムスにテリー・ウィリアムズが収まったものの、彼らは短期USツアーのあと解散した。

エドマンズはキングスレィ・ワードのロックフィールド・スタジオ(ウェールズ南東部モンマスにある農家を改造したスタジオ)で、専属プロデューサー/エンジニア/セッションマンとして自身を確立すべく、本腰でレコーディングの仕事にとりかかった。シェイキン・スティーヴンス&ザ・サンセッツの素晴らしい“伝説”は、彼の初期プロデュースに当たる。そして最終的にスマイリー・ルイスの50sクラシックである“I Hear You Knocking”のパワフルなリメイク/改作が送り出されることになった。究極のdo-it-yourself精神によって、エドマンズは何でも彼自身で録音し、オーヴァーダブを重ねた―ヴォーカル、ギター、ドラムス、バッキング何もかも一切だ。それは彼の巧みな技と彼の鼻声が特徴的に示されていたが、全体的には時代遅れだった。

しかし驚くなかれ、ジョン・レノンはローリング・ストーン誌のインタビューの中でいく度となく、それをクラシックとして同調する発言をしていた。EMIによって即座に却下され、何ヶ月間もリリース待ちの状態で放置されたが、最終的に1970年11月にゴードン・ミルズのMAMレーベルのファースト・シングルとしてリリースされた。“僕は数ヶ月間ほったらかしにしてたんだ・・・それでEMIに持ち込んだら断られてしまった。僕はマネージャーのゴードン・ミルズのところへ戻ると、彼はすぐに‘MAM1としてリリースしよう’っていったよ。” 結果的にそれは4週間UKチャートのトップに立ち、アメリカでも4位に達した。さらに世界中で300万枚売れた。

しかしこの大成功を利用する代わりに、エドマンズは70年代初頭の大半をほとんど隠遁者として過ごすことを選択し、ロックフィールドに閉じこもり、レコーディングの仕事に没頭した(この時期に彼は驚異的な数のマテリアルを蓄積していったと考えられている)。そして散発的にレコードを発表した―例えばあっぱれなアルバム、“Rockpile”はトレヴァー・バートン(訳注:ザ・ムーヴのオリジナル・メンバー)作の“Down Down Down”のカヴァーを含んでいた(これはのちにエドマンズがフレイミン・グルーヴィーズのためにプロデュースし、今でも彼自身がステージで取り上げる曲だ)。プロデュースとして関わったのは、ブリンズレィ・シュウォーツ、デル・シャノン、マン、フォガット、フレイミン・グルーヴィーズ、ダックス・デラックス、アーサー・ブラウン、モーターヘッドなどがある。

そして時々彼はヒットも放った―すなわち1973年の彼のフィル・スペクターへのオマージュである“Baby I Love You”(英8位)と“Born To Be With You”(英5位―オリジナル・ヒットは50年代のザ・コーデッツ)だ。これら2枚はロックフィールド自身のレーベルからの最初のリリースだったが、彼はプロモーションをほとんど行なわなかった。彼の名が知れ渡ったのは、1974年のデヴィッド・パットナム/デヴィッド・エセックスの映画“Stardust”に出演した時だった。そこで彼は多くのサウンドトラック・ミュージックを提供し、70年代の半ばまでにエドマンズはロックのメインストリームに戻ることになった。そして最初にリリースされたのが、75年の見事な“Subtle As A Flying Mallet”だ。

翌年、彼は派手な宣伝が行なわれる中、レッド・ツェッペリンのレーベル、スワン・ソングと契約し、77年2月にロックパイル結成をアナウンスした。ラインナップは彼自身がギターとヴォーカル、ビリー・ブレムナー(ギター/ヴォーカル、ニール・イニスのファット・マットレスから)、ニック・ロウ(ベース/ヴォーカル、ブリンズレィ・シュウォーツから)、そしてテリー・ウィリアムズ(ドラムス、マンから)だった―“このバンドはバーとクラブでクサいロックンロールをやるっていうコンセプトで結成したんだ。”・・・博学なニック・ロウはこうおっしゃる。一度だけエドマンズは確かにふさわしい時にふさわしい音楽をプレイしていた。大西洋の両側のロック評論家から称賛され、ロックパイルはともかくやすやすとパブ・ロックとパンクを両足でまたいでいたかのようだった―そして彼らのマネージメントと、いかれた手に負えないパッケージ・ツアーを介したスティッフへの参加によって、彼らのストリートでの評判は全く異常なしだった。彼らはサーキットを牽引する一貫して人気の高いライヴ・アクトの一つとして、続く4年間を順調に進んで行った。

当時の彼らは断然傑出したバンドだった。彼らはほとんど不当ともいえる並外れたタレントをそろえていた。二人の別格のフロント・シンガー、エドマンズとロウ(そしてブレムナーもなかなかのものだった)、二人のセンセーショナルなギタリスト、エドマンズとブレムナー、優れたソングライティング・チーム(特にロウとブレムナー)、二人の素晴らしいプロデューサー(エドマンズとロウ)、それら全てが地球上最高のR&Rドラマーによってバックアップされていた。しかし真のプロセスはもちろん、エドマンズがみなをレコーディングのための要員として手をつけずに置くことができたことだ(実際は契約上の問題が3年間ロックパイルとしてのレコード・リリースを妨げていたのであるが)―彼らの最初の成果は77年春のクラシック、“Get It”となった(エドマンズの究極的アルバムとなった)。

13のグレイトなトラックの中で際立っているのが、ボブ・シーガーのロック・ナンバー、“Get Out Of Denver”とニック・ロウの見事な“I Knew The Bride”だ―もちろんそれ以外にエドマンズ最高の瞬間が刻まれている(チャック・ベリーが書くことがなかったグレイト・ソングだ)。これは彼をUKチャートに復活させることになった(26位)。その年早くのUSツアーによって、ロックパイルは最高のカルト・バンドとしての名声を確立した。彼ら独特のミクスチャー―ロカビリー、バラッズ、ブギ、緊密なハーモニー、そしてエドマンズとブレムナーの超人的な創造性のルーツには、チャック・ベリー/ジェイムス・バートン/スコッティ・ムーアなどの偉人たちの音楽が息づき、このことは同時代のアメリカのバンドから何100万光年もかけ離れた彼らの独自性を形作っていた。

評論家に称賛された78年リリースの“Tracks On Wax 4”は、ブレムナー(クレジットは旧姓のマレイ)のねじれたロック・ナンバー、“Trouble Boys”を含んでいた。しかしエドマンズはタイトなスケジュールのロックパイルの他に、別のプロジェクトを続けていった。その中で注目すべきは、ハマースミス・オデオンでのエミルー・ハリス・ホット・バンドへのゲスト出演と、サウス・バンクTVの特別番組でのカール・パーキンスのバッキングだ。しかしエドマンズにとってのビッグ・イヤーは1979年だった。彼の初のアルバム・チャート入りとなった“Repeat When Necessary”(英39位、米54位)からは3枚のヒット・シングルが生まれた。エルヴィス・コステロの“Girls Talk”(英4位、米54位)、“Queen Of Hearts”(英11位)、そしてグレアム・パーカーの熱狂的な“Crawling From The Wreckage”(英59位)だ。

また同年には絶え間ないUKツアーに加えて、US、オーストララシア(Australasia:オーストラリア、ニュージーランドと近海の島々/オセアニア)そしてヨーロッパをツアーし、カンボジアのチャリティ・コンサートでもプレイした。またこのチャリティ・コンサートは、うっとりさせるような(独善的な)グラナダ-TVドキュメンタリーに対する懐疑の目をうながすことになり、“Repeat When Necessary”(必要あらばくり返す)的なセッションに対して議論すべきテーマとなった。ロックパイルはまたその時期、2枚のニック・ロウのアルバムを生むことになった―“Jesus Of Cool”(1978年英22位、米127位)と“Labour Of Lust”(1979年英43位、米31位)だ。そしていうまでもなく、ミッキー・ジャップの“Juppanese”(1978)だ。

80年のあたまにエドマンズはマーティ・ロビンズ/ガイ・ミッチェルのオールディーズ、“Singing The Blues”(英28位―ちょっと目を閉じればほとんどステイタス・クォーだ)をリヴァイヴァル・ヒットさせた。そしてジョニー・キャッシュの継子カーレン・カーター(ニック・ロウ夫人)とのデュエット、“Baby Ride Easy”でUSカントリー・チャート76位に入った(エドマンズ、ロウ、ブレムナー、ウィリアムズはカーレンの受賞アルバム、“Musical Shapes”のバッキングを担当していた)。ロックパイルは80年の秋になって、ついにバンド自身のアルバムをリリースすることを許可された―しかし皮肉なことに“Seconds Of Pleasure”(英34位、米27位)―デイヴとロウによる“Beverly Brothers”のキャピタル・ラジオでのライヴEPがオマケとして付いていた―は、がっかりするような寄せ集め的アルバムだった。それでも“Teacher Teacher”はアメリカでチャートインした。

ロックパイルは解散した―残念にもきびしい言葉を浴びる中であったが、数ヵ月後、エドマンズは一向に衰えないソロ・キャリアを続行し、81年あたまにジョン・フォガティの“Almost Saturday Night”(英58位、米54位)のヒットを放った。プレスリリースされたアルバム“Twangin”(英34位、米48位)にはジョージ・ジョーンズのメガ・ヒット“The Race Is On”(英34位)が含まれ、ストレイ・キャッツがバックを務めていた。デイヴはその頃、彼らの優れた2枚のアルバムをプロデュースしていた。

81年の暮れにはコンピレーション・アルバム“The Best Of Dave Edmunds”(米163位)がリリースされたが、それをもって彼はスワン・ソングとの契約を終了し、Aristaに移籍し、82年春に“DE 7th”(英60位、米46位)をリリースした。それに続いたシングルが、ブルーグラス・アレンジの“Warmed Over Kisses”で、ギターにアルバート・リー、バンジョーにデイヴ・ピーコックをフィーチャーしていた。アルバム中、目を引くのがブルース・スプリングスティーン作の“From Small Things Big Things Will Come”だろう。“僕がギグのあと、ウェンブリーの楽屋からふらふらと出てくると、‘ブルースが君に会いたがっているよ’っていわれた。彼が僕のことを知ってるなんて驚きだったね。ブルースは僕をテーマにして作ったこの曲をギターでプレイして聞かせてくれたんだ。” この曲のリリース後、USツアーに続いてエドマンズは脳出血で短期間入院したが、それにもかかわらず彼はレディングと夏遅くのサン・バーナーディーノ・フェスティヴァル(カリフォルニア州南部)でプレイするまでに回復した。

彼の次のアルバムは大きく音楽的方向性を変えることになった。2曲がELOのジェフ・リンによってプロデュースされていた。“Information”(英92位、米51位)は83年の春にリリースされ、親しみやすいリン作のタイトル・トラック、“Slipping Away”(英60位、米39位)が含まれていた。この一見ありそうもないコラボレーションは翌年も続けられ、半分以上を越えるトラックをリンがプロデュースした“Riff Raff”(米140位)はデイヴの初期作品とは大きく異なるサウンドを聞かせていた。そしてこれはエドマンズの80年代最後のスタジオ・アルバムとなった。アルバムからは2曲がシングル・カットされた。1曲がラジオでよくかかったフォー・トップスの古いヒット、“Something About You”だ。

87年にリリースされたライヴ盤、“I Hear You Rockin’”(米106位)はデイヴ・エドマンズ・バンドとクレジットされていた(ラインナップはラヴ・スカルプチャー時代の同胞、ミッキー・ジーとジョン・デヴィッドを含んでいた)。この時までにエドマンズは大半をUSで過ごすようになっていた。80年代を通じて彼が行なった課外プロジェクトは、プロデューサーとして、フライング・ピケッツ、ミッキー・ジャップ、ポールキャッツ、キング・カート、スクィーズ、ファビュラス・サンダーバーズ、ディーク・レナード(マンのギタリスト)、メイソン・ラフナー、KDラング、ステイタス・クォー、再編ストレイ・キャッツらとの仕事があり、2つのあっぱれな映画、“Party Party”と“Porky’s Revenge”への様々な楽曲提供がある。後者からは“High School Nights”のUSマイナー・ヒットが生まれている。

90年代に入り、彼は再びレコード会社を移籍し、キャピトルと契約、“Closer To The Flame”(1990年米146位)をリリースした。このアルバムからシングル・カットした“King Of Love”(英68位)は、83年の“Riff Raff”以来のUKシングル・チャート入りとなった。現在LAに住むエドマンズはここまでのところ90年代唯一の作品として、US拠点のインディ・レーベル、ピラミッドからリリースした“Plugged In”があるのみだ。興味深いのが“Sabre Dance”の再録だ。テリー・ウィリアムズ(ロックパイルのドラマー)と働いた人間がどうしてドラム・マシンを使ってしまうのか、私には全く理解できないが。

デイヴ・エドマンズはあるいは今日、一人の指導的ベテランとして見なされているかもしれない。それでもなお彼の人気と影響力は依然大きく(実際今でも彼は世界中どこへ行ってもソールドアウトだ)、彼はたしかにかつてと同じように今でもロックンロールに夢中のようだ。そして結局のところ、彼の変わらぬ情熱と、今のサウンドにチャック・ベリーのリフをうまく組み合わせることに喜びを感じる彼がある限り、その成功と長いキャリアはこれからも続いていくことを保証するものである。

ロジャー・ドプソン
John Tobler, Lorne Murdoch, Stuart Colmanに感謝する



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