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Echo And The Bunnymen/Ocean Rain/2003 Warner Music UK Ltd. WPCR-11814



単純な頭では理解できない
良くないことと正しいこと、良いことと間違ったことを見分ける―これは永遠に続く


どこかにエコー&ザ・バニーメンの場所があるはずだった。しかしブリティッシュ・ロック・ミュージック・ビジネスの毎日のごたごたの中にではない。彼らはその中の一部であるかのように聞こえたし、見えてはいたが、適合してはいなかった。まさか。しかしPorcupine後、幸福感は衰え始め、マックと仲間たちは1983/84のクリスマスと新年の時期に曲作りをする機会をあちこちに設けた。Crocodiles, Heaven Up HereそしてPorcupineでの若さの償いである楽曲の数々は、はらわたをきれいにかき出し、その後イアン・マカロックは自分のロマンチックな側面を前面に押し出し始めた。一方“Never Stop”は元々I Wish I Was A Gardenと呼ばれていたが、彼らが乗り出そうとしていた新しい航海はほとんどI Wish I Was A Galleon(ガリオン船:15-18世紀初めのスペインの大帆船)といえるものだった。

新しいウォッシュバーンのアコースティック・ギター一式で武装したバニーメンは、“The Killing Moon”をレコーディングするためにバースのクレセント・スタジオに向かった。そのふさわしいスタジオ名(crescent:三日月)にもかかわらず、マックのジョージア王朝様式の保養地への興味がいったん薄れると、彼は風をひいてしまった。“The Killing Moon”は故郷の慣れ親しんだアマゾン・スタジオに戻り、元気を回復したマックがヴォーカルを入れて完成した。またドラマーのピート・デフレイタスは初めてブラシを使い、それに付き合った。

“The Yo Yo Man”(元々は“Watch Out Below”と名付けられていた)、“Seven Seas”そして“Silver”がまず優先され、いつものように信頼できるピール・セッションでの試みに続いて、バニーメンはパリでレコーディングすることを決めた。マックによればこうだ。“僕らはもうすぐリリースするアルバム‘Ocean Rain’を‘最高傑作’として宣伝した。そう思っていたからね。僕はよく‘The Killing Moon’を‘今まで最高の曲’として言及したね。そう信じていたし。シンプルだけどすごく美しかった。他に聞いたこともないような曲だ。とてつもなく深いんだけど、ラヴソングのヴェールの内側には隠されたものがある。それは運命についての歌なんだ。中心になっているキャラクターは船長で、それぞれの詞の変わりゆく緊張感によって歌はいろんな変化を見せるんだ。それが不気味な印象を与えるってわけだ。コーラスがキーだね。女性というより神についてなんだけど、あくまで主題は愛なんだ。僕はパリに恋してしまったんだな。”

“Ocean Rainは町と深く結びついているんだ。のちに彼ら(訳注:英国ジャーナリズムのことか?)は僕らと接触を断ってしまった。僕は悲しかったし、イラついたね。あのアルバムは批判しようがなかったし、トップレベルの影響力を誇っていたから。彼らは最大限にあのアルバムに取り組むべきだったんだ。”

モンマルトル(パリ北部)にいたバニーメンは、スタジオdes DamesとスタジオDavontに予約を入れた。そこはムーランルージュ(ミュージックホール)からすぐ近くにあり、ウィル・サージャントとレス・パティンソンは自転車で通っていた。彼らは気晴らしのために10段変速の自転車を購入し、一方マックとピートはボジョレーヌーヴォー(ワイン)にはまっていた。

des Damesでバンドはフランス人のクルーナー(crooner:低い声で歌う流行歌手)、Sacha Distelが提供したスタジオを使っていた。フランスのロックンロールの伝説的人物、ジョニー・アリデーが隣の部屋で不滅のロカビリーをぶちかましていた。ジョニーは“ボンジュール”といって顔をのぞかせたが、リヴァプールのコーラスをおもしろがっていたに違いない。彼は返礼に“ワオ!いいんじゃない?”といった。‘ハッピー’アリデーだ。

アンリ・ロンスタンによる様々なストリングスにクラシックの素養があった仲間のアダム・ピーターズは、今やチェロとピアノのアレンジメントにおいて中枢的人物となっていた。その時期、このアレンジの根底にあったのは、ジャック・ブレル(ベルギー人シャンソン歌手)、ブレヒトとヴァイルのエロティックなキャバレー的演出法、そしてスコット・ウォーカーのバロック調様式だった。

ウィルの目にはこう写っていた。“僕らは豊富なオーケストレーションを使って何かコンセプチュアルなものにしたかったんだ。マントヴァーニみたいなのじゃなくて、ダンスのリズムがあるようなね。全体にはかなり暗いね。‘Thorn Of Crowns’は東方の音階に基づいている。全体のムードはすごく風にさらされた感じだ。ヨーロッパの海賊、ちょっとベン・ガンみたいな。暗くて嵐のようだったり、打ちつける雨だったりね。”

しかしマックが“The Killing Moon”のレコーディングをバースで見切ったように、彼はゴロワーズ(フランスの強い香りをもつ紙巻タバコ)とシャトーブリアン(ステーキ)から何の利益も得ていないことを悟った。崇高から滑稽へ向かって彼はパリ流のほとんどを放棄し、カービーに戻って歌入れを終了させた。

バニーメンの残りのメンバーは何の問題もなかった。全ての手は出揃っていた。ピート・デフレイタスは鉄琴と木琴含む自分のドラムスの幅を拡げていた。ウィルとレスはdes Damesの初期のリヴァーブ・マシンのような見たこともない機械を楽しんでいた。ウィルは“My Kingdom”でウォッシュバーンのアコースティック・ギターを使ってソロを弾いた。それはラヴのアルバムForever Changes収録の“A House Is Not A Motel”でのアーサー・リーのパリパリしたサウンドを真似ようとして、古い真空管ラジオを通して音を歪ませたものだった。今日レスが回想するように可笑しなこともあった。“どでかいフィリップスのCDプレイヤーを手に入れたんだ。町の新しいおもちゃみたいなもんだったね。”

1984年5月にリリースされたOcean Rainのセールスは、その宣伝文句だった“最高傑作”に見合うだけのものにはならなかった。それに対して“The Killing Moon”はトップ10ヒットになり、ニュー・シングル“Silver”はトップ30に届くだけにとどまり、ゴールド・ディスクは獲得できなかった。

5月12日は次に重要な日付だった。A Crystal Dayは新しい冒険であり、前年以来バニーメンが撮影し続けてきたチャンネル4のドキュメンタリー・シリーズ、Play At Homeは一部未完となっていた。Life At Brian’sは元ボクサーのブライアンの食堂で撮影されたフィルムだった。そこは二日酔いを覚ますため、伝統的で完璧なイングリッシュ朝食スタイルでバンドが使用した大衆食堂だった。

A Crystal Dayは音楽番組The Tubeのスペシャル版としてチャンネル4によって撮影され、司会はジュールズ・ホランドだった。それに加え、Brian’sの中で多くのガラクタ番組がバニーメンを撮影するためにリヴァプールに向かうことになった(もちろんマック抜きだ)。そこではその日のショーのチケットが用意されていた。It’s A Knock Outのロックンロール版のような番組に加え、マージー河のフェリーを訪れたり、そびえたつ英国教大聖堂を訪ねたりといった企画が実行された(大聖堂でバニーメンはLife At Brian’sのためにザ・ビートルズの“All You Need Is Love”を録音した)。またビル・ドラモンドによって、周期的なツアーとリヴァプールの遺跡を散策するイヴェントが組まれた。夜のコンサートはグループがキング・ジョージズ・ホールでプレイした時に最高点に達した。そこは1961年にザ・ビートルズがアート・スクールのクリスマス・パーティーで使ったところだった。

“僕はA Crystal Dayが好きだったよ。” マックはいう。“セント・ジョージズ・ホールでのギグは、僕と僕の親父との会話から実現したアイデアなんだ。これはまさに僕らの出生地を意味していたんだ。僕らはビルなんかの建築物、河、チャイナタウンなんかを利用してギグをやったけど信じられなかったね。他の誰もこんなことできないだろ?唯一嫌だったのがフェリーの旅だった。(景色を眺める)みんなに僕を見てもらうことができなかったから(訳注:この人は本当にナルシシストだ)。”

レスは全てのバニーメンは打ち込んでいたと指摘する。“ビル(ドラモンド)が‘イヴェントの日’を決めたけど、みんなが主役だったね。僕らはあやつり人形じゃなかった。僕らは実権を持ってたから何でも可能だった。僕はセント・ジョージズ・ホールの別のステージのチャイニーズ・ダンサーが大好きだったね。人々の庭をサイクリングしたり、Fyffes(スコットランド俳優・コメディアンのことか?)のうちからただでたくさんのバナナをもらったり、ウォーカー美術館(リヴァプールにある美術館)に行ったりね。全ての日々がいい思い出だ。”

ドキュメンタリーの抜粋であるPictures On My Wallのビデオで1984年を締めくくったエコー&ザ・バニーメンは‘1年間の休養’を宣言した。バンドは精神的に消耗しきっていたが―彼らはアメリカ電撃作戦によるひと儲けには全く関心がなかった―それは1年間をはるかに超えることになった。無駄に過ごす長い週末のような様相を呈し、ひびが現れ始めた。ビル・ドラモンドはフルタイムのマネージメントから身を引くことを決め、愛想のいいブラミー・ミック・ハンコック(あるいは人が良すぎたのかもしれない)にその手綱を手渡し、ビルはWEAでのデスクワークを選んだ。

ピートは旅行中だった。ウィルとレスは家庭的な生活を送っていた。マックは?彼は“September Song”のカヴァーでソロの領域を試していた。彼はフランク・シナトラやウィリー・ネルソンにごく自然に取り組んだりと、ノスタルジックな欲求を増幅させていた。一方でRicher Scale(競走馬/訳注:おそらくライバル・バンドのこと)をわずらわせることはほとんどなく、この時期それはふさわしい墓碑銘であった。なんとかのあと知恵によるたくさんの抒情詩調のセリフがバンド周辺に添えられた。

このオーウェルの(Orwellian:組織化され人間性を失った/ジョージ・オーウェルの小説‘1984’から)年に発表されたエコー&ザ・バニーメンの土産が2枚組EP“Seven Seas”で、バンド最後の実質的ヒットとなった。しかし誰がそんな端数など気にかけようか?Ocean Rainが偉大なアルバムなのであり、マックにとっての“代表作”だ。“このアルバムがミケランジェロにとってのダビデ像なんだ。腕が1本なかろうとね。それからこのアルバムは僕にオーディエンスの中に、多くの女の子がいたってことを気づかせてくれたんだ。フットボール軍団が全てじゃないってことをね。”

これ以上何がほしい?血か?

―マックス・ベル
2003年9月


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