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Echo And The Bunnymen/Porcupine/2003 Warner Music UK Ltd. WPCR-11813



ワオ!奴らはまたやってくれた。

追われるスリル。苦しい選択。当時ファンの間でそういったことばがささやかれていた中、彼らのサード・アルバム、Porcupineが1983年2月にリリースされた。うす気味悪く閉所恐怖症的なアルバム、Porcupineは誰に聞いても厄介で過敏な作品だった。

幻想的でダイナミックなHeaven Up Hereのあと、バニーメンは手を持て余していた。その時の成功によって、他の様々な活動に着手することが可能になっていた。ピート・デフレイタス(別名ルイス・ヴィンセント)は唯一のワイルド・スワンズのシングル、Revolutionary Spiritをプロデュースした。一方ウィル・サージャントはずっと続けていたソロ・プロジェクト、Grindと仮想ムーヴィーのサウンドトラックの仕事に戻った。

4月にバニーメンはギターにイアン・ブラウディーを迎え、ミキシング装置を携え、スコットランド北部をツアーした。ブラウディー、別名キングバードは以前Crocodilesの“Rescue”と“Pride”をプロデュースしていた。マックとばったり出くわした彼は、今ではできうる限りのことをやることに同意していた。結果は驚くべきものだった。インドのシタールの巨匠ラヴィ・シャンカールが情熱的なモード様式のオーケストレーションを加えた―67年のビートルズの荘厳さを匂わせるものだ。そのすばらしいシングル、The Back Of Love(元々“Taking Advantage Of”と呼ばれていた)は、幸運にもHey Jude/Ziggy Stardustに関わったスタッフとともにソーホーのトライデント・スタジオで録音された。そのような場所で行なわれたことは重要だった。ビル・ドラモンドはいつもバニーメンを誘惑の多いロンドンから遠ざけておくことを望んでいた。それは悪い考えではなかった。なぜならロンドンはマックの日に日に増していくロック・スター的欲求を満たすところだったからだ。“The Back Of Love”はバンド初のトップ20ヒットとなった。B面はいつも暖かな雰囲気漂うものだった。“The Subject”はバニーズをリヴァプールの原点に立ち戻らせていた。“Fuel”はさらにいっそう地元色強いナンバーだった。これはウィル・サージャントのベッドルームでピートがマリンバを担当し、4トラックで手早く仕上げられた。

濃厚な夏のスケジュールはシェプトン・マレット展覧会場で開催された趣向を変えたWOMAD(World of Music, Art & Dance)での2日目のトリとしての出演を含んでいた。グラストンベリーよりもはるかに好ましい体験が、基本的にカムデン・タウンの野外で行なわれたWOMAD的な週末イヴェントだった。

ウィルは回想する。“ピーター・ゲイブリエルが雑誌で僕らの名前を知って招待してくれたんだ。出演者の中にThe Royal Drummers from Burundiが載っていたから、僕は2曲で参加してもらおうと思ってビルに頼んでみた。WOMADは世界中の文化交流の場として開かれたんだ―ともに参加してジャムるというようなね―でも誰もそういうことをしていなかった。僕らはワゴン車に寝泊りさえしてたよ。”

WOMADのその後はいつもようにビジネスに成り下がっていた。ともに旅行するような団体形式はヨーロッパのフェスティヴァルに取り入れられ、それはすぐにニューヨークに飛び火した。名高いショーはリヴァプールのセフトン・パークで開かれた。バンドは6つのビデオ撮影と共に散発的なリハーサルを始め、サード・アルバムのレコーディングを開始した。アイスランド旅行でバンドのフォトグラファー、ブライアン・グリフィンは、彼らに薄い氷の上をスケートさせ間欠泉をひょいとかわす写真を撮った。

WEAの保険会社はそれほど感銘を受けなかったが、シングル“The Cutter”がバニーメン初のトップ10ヒットとなった時、新年においてその正当性が証明されることになった。それは結果的に大海の一滴とはならなかった。

再びシャンカールのヴァイオリンがトレードマークとなった。ウィルは彼にキャット・スティーヴンスの1967年のヒット、“Matthew And Son”のメロディを使うことを提案していた。そこには常に新しい試みがあった。ザ・ビートルズの“Within You Without You”もまたその陰鬱な想像力をかき立てるのに一役買っていた。“The Cutter”のそのタイトル自体が、それまで用いられてきたヒット・レコードの中で最も気味の悪いものだったに違いない。

Porcupineの仮タイトルはThe Happy Lossだったが、音楽プレスの者たちからは前作よりもお粗末な反応しか得られなかった。多くの者にとって、それは賢明ではないが上手く行き過ぎたような困惑を伴う息苦しさを感じさせるタイトルであった。

バニーメンの作品におけるある一定のムードについて尋ねられた時、イアン・マカロックは次のように述べている。“冷淡さだ。アルバムはすばらしいんだけど、ちょっと無干渉主義なところがあるんだ。分からないだろうけど。僕は全てを抒情詩調にすることを心がけている。いつも曲のタイトルはふざけてつけていたね。ありふれたフレーズや標語を使って新しいことばを創造するんだ。”

もしくはそれは彼らにうってつけでさえあったかもしれない。ボリビアノ(ボリビアの通貨単位)の暗喩とは程遠い“My White Devil”((The White Devil:「白い悪魔」John Websterの悲劇(1612) 題名は平然として潔白を装う悪女のこと))は、劇作家ジョン・ウェブスターの残忍な復讐者の悲劇にインスパイアされていた。いくらかは。“僕は妻のロレインが持っていた英国の古い本の1冊を読んでいて、その言葉が飛び出してきたんだ。僕はそれほど読書はしなかったけど、学校でオセロ(Othello:シェイクスピア作の悲劇)を演じるのは好きだったね。イアーゴー(Iago:オセロに出てくる妻Desdemonaが不貞を働いているかのように状況をつくりあげてOthelloを誤解させる)を擁護していざこざになっちゃったけど。僕は彼がオセロを罠にはめたやり方が好きだったんだ。”

“The Back Of Love”はほとんど軽い息抜きだった。マックにとっては“それは愛とかロマンスっていうのは正反対のことを意味しているってことを理解している人たちについての歌だったんだ。でもPorcupineはセクシーなレコードだよ。手を汚すようなね。”

“Higher Hell”はマックお気に入りのHieronymus Boschの絵画、The Garden of Earthy Delights(1500年頃:現世的な快楽にふける人々を戒めるために、様々な難解な寓意を怪奇な動物や植物などに託して描いた教訓画)に対して彼がいったセリフに基づいていた。それは彼がマドリッドのプラード(国立美術館)で見て驚嘆したものだった。同様に空想的な“Clay”は壊滅的な国とシェイクスピア風な皮肉を伴った詩的要素を含んでいる。またこれはカシアス・‘クレイ’の暗喩も含んでいる―ヘビー級ボクサー、モハメド・アリのことだ―彼の不滅のセリフ、“俺が最強だ”はマックの大口叩き、リヴァプール・リップにおあつらえ向きだった。

自分たちを何かシェイクスピア風一団として見ていたバニーメンは、曲作りにおいて普段から狡猾な手法を用いていた。ウィルはその展開の欠点を認めている。“グレイトなサウンドのグレイトなアルバムだったけど、Heaven Up Hereと同じようなダイナミックさはなかったね。僕らはばらばらに曲を仕上げていった。イアン・ブラウディも立て直しに協力してくれた。ビル(ドラモンド)とレコード会社は初期のテイクを気に入ってなかったんだ。”

Porcupineを完成させるために、4つのスタジオを使ったエコー&ザ・バニーメンと旧友のヒュー・ジョーンズは、ミッキー・モストが所有するロンドンのRAKレコーディング・スタジオで仕事に専念していた。モストはホット・チョコレートやスージー・クワトロなどを主に顧客としていた。

バニーメンの知らないうちに、U2のプロデューサー、スティーヴ・リリーホワイトがビル・ドラモンドによってニュー・シングルのために呼ばれていた。しかし彼がやって来ると、やはりウィルの妨害に会ってしまった。“ここで何をしてるんだ?プロデューサーのことなんて何にも聞いてないぞ。” キャプテン・オーツ(英探検家のことか?スコット大佐率いる南極探検隊に参加、1912年1月、南極に到達したパーティーのメンバーで、帰途、自分の病が一行を遅らせるのを恐れて吹雪の中を独行して死亡)のように、リリーホワイトは身を引き、去って行った。当面の間、ジョージ・マーチンのAIRスタジオにいたウィルは、ゲーム・ルームでTVゲームをしていたポール・マッカートニーとばったり出くわした。いつも陽気なマッカは新しいリヴァプールの仲間に親指を立てて挨拶した。あるいは彼らはポールにプロデュースを頼むべきだったかもしれない。

結果生み出された夏のシングル、“Never Stop(Discotheque)”は流行に乗ったダンス/ロック路線で、いくらかFear Of Musicでの自意識強い陶酔状態の白人ディスコ・ビート、トーキング・ヘッズやデヴィッド・ボウイの“Boys Keep Swinging”、そしてニュー・オーダーのアーサー・ベイカー期を思わせるものだった。いずれにせよ、それは穴埋め的ヒットとなったし、On Golden Pond(黄昏:1981米映画)のヘンリー・フォンダを真似たマックのイントロでの物憂げな歌いぶり、“Good Gahd…”が懐かしく思い出される。

もしPorcupineがDas Boot(U・ボート:1981独映画)の中での1ヶ月のように感じられるのなら、“Never Stop”の新鮮な空気は乗組員を元気づけたことだろう。続くショーの光景は屋外向きの荒々しいものとなった。1983年7月、彼らはスカイ、ルイス諸島へ向かった。そこはビールと真理が全てだった。そしてラム(スコットランド西岸沖)とエグ島(同)、悪いジョン・ローリーのイメージ、手ごわいアナグマ、キルトを身につけた男たち。ビル・ドラモンドはタータンを身につけ、バニーメン軍団はSound of Sleatを渡るフェリーのバンドに加わった。

“すばらしい時を過ごしたね。” ウィルはいう。“サッカーチームの一員になったようだった。ファンが一緒にバスに乗っていたことを除いては。” レスはいう。良好な天候のおかげでわずかに使用したに過ぎなかったが、レインコートが目についた。Portreeのギャザリング・ホールでの奇妙で独特なショーでは、地元の知事がバンドを紹介した。そしてストーノウェイ(スコットランド北西)とともに記憶に残るものとなった。ドラモンドは楽しんでいた。彼にとっては魔術的なことばを理解しただけでなく、紋章、立石、服地を含むエキサイティングな旅路であった。セックスとドラッグとハリス・ツィード(商標:スコットランドOuter Hebrides諸島産の手紡ぎ・手織り・手染めのツィード)。いや、セックスはなしだ。

鼻の詰まった20年前のスミスのすばらしいシングルにバニーメンはストリングスを加え、ケンジントン・ゴアのロイヤル・アルバート・ホールで彼ら最高の絶対的にすばらしい2つのライヴを堂々とやってのけた。各シートには“あなたのレインコートとグルーヴを置いてください”と書かれていた。

もう一対の重要ですばらしいコンサートは、ストラトフォード・アポン・エイヴォンのザ・ロイヤル・シェイクスピア・シアターで行なわれた。プログラムの中には口先の上手い司会者、ベン・エルトンとヒュー・ローリーという無名の悲劇役者が含まれていた。後者の真面目くさった朗読、“I have been up to Villiers Terrace…”は、1965年のクリスマスにローレンス・オリヴィエが“It has been a hard day’s night”と詠唱したことをおちょくったピーター・セラーズを思い起こすものだった。

ハハハ・・・全てはマックにとっていい思い出となっている。“モーカムとワイズ(英国のコメディ・コンビ)よりストラトフォードの方が速く売り切れたね。僕はエリック(モーカム)が好きだったからね。”

82/83シーズンは幕を閉じた。悪い針路じゃないだろう?

―マックス・ベル
2003年9月

■お詫びと訂正:文中の「インドのシタールの巨匠ラヴィ・シャンカール」は間違いのようです。原文は「インドの弦楽器の達人シャンカール」とありますが、ラヴィ・シャンカールのことではないようです。申し訳ございませんでした。


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