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Echo And The Bunnymen/Heaven Up Here/2003 Warner Music UK Ltd. WPCR-11812



塀を越えて、危険を感じながら、ゆるゆるのズボンで、

1981年、エコー&ザ・バニーメンは波に乗っていた。未熟な純真さは跡形もなく消えてきた。デビュー・アルバムCrocodilesにおける若者の意気込みは残っていたが、彼らのセカンド・アルバム、Heaven Up Hereには新しい知恵ある表明が示されていた。これはまさに傑作であったが、彼らが今や世界最高のライヴ・バンドではなく、スタジオ内でのドキュメントとして捉えた場合だ―そう、彼ら及びUSのサイアー・レーベル仲間であったトーキング・ヘッズのことだ―我々はその理由を突き止めたくはないか?

EP、The Shine So Hard(初期のナンバー、“Stars Are Stars”の詞から名付けられた)は目標を達成した。マネージャーのBill Drummondはその勢いとチャート内での健闘を見抜いていた。EP、The Shineはバクストン・パヴィリオンで短期間上映していた映画と密接につながっていた―最も有名なのが、マックによるアイスクリームの注文、“ベティ、2つくれるかい?”というセリフで、それはイタリアン・ツアーのドキュメンタリー、La Via Longaと対になっていた。そこでバニーメンは郊外のサッカー・スタジアムでプレイするために内地の供給電力を独占し、ナポリ人マフィアの忍耐力を試してみた。しかしバニーズが命からがら脱出したことによって全滅は避けることができたのだった。ナポリを見て死ね。か?

そういったエピソードは時折マネージャーのBill Drummondとバンド、そしてBillの地元ブリストルの仲間Bill Butt(まさにバニーメンのson et lumiere((史跡などで夜、照明・音響効果とともに録音された説明を用いてその由来を語る催し物のこと:ソン・エ・リュミエール))としての友人だった)らが共謀して考え出し、それは生意気さと厚かましさを持ったありがたい雑誌記事として載ることになった。しかし一方でU2やシンプル・マインズ(適切なネーミングだ)らの‘ウェンブリー・スタジアムに僕らがやって来る’といった宣伝文句とは一線を画していた。

バニーメンは自分たちについてのプレスの記事を読むというより、むしろそれを評価し始めた。マックは将来の因縁の対決のためにその一字一字を入念に調べ上げ、自分の中に溜め込んでいった。知的な先見の明のなさを自ら見誤っていた伝説的なJohnny Journoにあらゆる災いあれ!しかし彼は剃刀のように鋭く文句をいうためにすぐに立ち上がってきた。

バクストンはさておいて、初期の頃にはもうひとつの奇妙な世界が繰り広げられていた(other strange days, early doors)。例えばザ・リーズ・サイエンス・フィクション・フェスティヴァルでは、Daniel Day-Lewisがバニーガールならぬバニーマン・ローディーを演じ、Bill Buttのガールフレンド、Greta Scacchiと、Paul McGann(のちのWithnail & I fame)が舞台脇から見ていた。他の忘れられない日々として、ブリストルのカーワーディンズ・ティー・ルームとリヴァプールのティングル・タングル、マンチェスターのアイスクリーム店があった。その場所でオーディエンスはバンドがプレイする中、ソーセージとチップスを食べ、法的規制を打ち破ってしまった。

威厳あるハマースミス・オデオンでプレイする時までに、バニーメンは‘迷彩’ルックを放棄したが(雑草の在庫が尽きてきたからだ)、GAP(愛国行動隊:イタリアの諸都市でファシズムやナチスに反対した秘密武装組織 1943-47)の哲学を後世に残した。今や彼らはレインコートを好んでいた。マックはザ・フォールのマーク・E・スミスから贈られた一風変わった杉あや模様の服を着ていた。マックは彼とは気の合う気難し屋同士だった。

バンドがモンマスのロックフィールド・スタジオに戻った時、新しい自信がみなぎっていた。DrummondとBalfeはもはやプロデューサーの座を降り(音楽的相違のため)、Crocodilesのエンジニアを務めていた若いHugh Jonesがプロデュースに当たっていた。マッシュルーム(麻薬)と強いLSDがメニューに載っていた。チーズトースト(The Welsh Rabbit 原文のまま)がほどよく泡立っていた、そうだろ?

マック:“僕らはヨーロッパへ行った。僕らはイングランド外にファンを持っていたし、自分たちのサークル外に新しい生活を発見したんだ。僕らはアメリカに行ってグルーヴを身につけようとし始めた。奥の方にはドアーズみたいなファンキーさがあったね。僕らは自分たちにとってのソウル・アルバムを作ろうとしていたし、ソウル・グループになろうとしていた。イングランドの音楽はあまりに堅苦しくてセクシーじゃないんだ。僕の心の片隅にはいつもヴェルヴェッツの‘What Goes On’(訳注:Velvetsのサード・アルバムVelvet Undergroundの収録曲)があったね。ドローン音(訳注:インド音楽、シタールに聞けるようなブーンという持続低音)のあるリズムだ。”

いずれにせよ、何か得体の知れない黒魔術のような効果・力学をバニーメンが有り余るほど持っていたのは明らかだった。副次的なものとして、彼らは木管楽器のLeslie Pennyを雇った。これは小さな変化だったが重要な点だ。Heaven Up Here収録曲は彼らのその時までの最も深みあるレパートリーとしてのベースを提供した。“Over The Wall”、“All My Colours”(別名Zimbo)、“Show Of Strength”、そして見事なシングル“A Promise”などだ。

コックニー演劇学校のつまらないニュー・ロマンティックが、一斉に砂糖菓子の妖精のごとくアホみたいにピーチクパーチクとさえずり歌い出した時、バニーメンはすでに大物ぶりを発揮していた。彼らはU2やシンプル・マインズ(彼らはかつてロンドンのライシーアム劇場でバニーメンの前座を務めた)のような大物さえも凌駕していたし、ニュー・オーダーと肩を並べていた。デュラン・デュランはほとんど視界に入っていた。ちくしょうめ!

マックによれば:“あれ(Heaven)は驚くべきレコードだったし、最も楽しんで作ったレコードだったな。僕らはロック界のレアル・マドリード(訳注:スペインまたはヨーロッパ最強のサッカー・クラブ・チーム)だった。でも僕らはそれでもおちょくってたよ。ここには天国の音楽があるが(heaven up here)、あっちは地獄の音楽(hell down there)だってね。僕らは誰も手の届かない気配を持っていたんだ。まずCrocodilesで人々の関心を引いて、僕らはこのアルバムで人々を打ちのめした。僕は自分たちのリヴァプールなまりを愛していた。うん、特に自分のね。つまり誰も僕らみたいにできないのさ。その外観の下にはとんでもない深みがあったんだ。” ボルヘス主義者バニーメンだ(Borges:ボルヘス警部、英推理作家John and Emery Bonettの作品に登場する探偵の一人)。

ベーシストのレス・パティンソンとドラマーのピート・デフレイタスは少しばかり自制的な判断をしていた。レスはこう信じる:“僕らはリズム・セクションとしてひとつの独自なことばに発展していったんだ。僕らは明らかにライヴ・バンドとして良くなっていた。僕らはステージとスタジオの間のつなぎとしてジョン・ピール・セッションなんかを利用した。それから僕らはリヴァプールのミニストリーに自分たち専用のリハーサル・ルームを手に入れた。僕らは怠け者だったから、おかげで練習に励むようになったね。”

普段は寡黙なウィル・サージャントでさえ少しリラックスし始め、グレイト・ロック・バンドにいることを楽しんでいた。“僕らは自分たちが最高に乗っていることを分かっていた。それは確信していたね。ある意味それは皮肉っぽいリヴァプールの自己防衛本能だったんだ。マックはよくHeavenは自分のアルバムだと言っていたよ。なぜなら彼が親分で・・・しかもコントロールの効いたフリークスだからだってね。その頃のプレイはまだちょろいもんだった。僕らはあらゆるシンセサイザーを張りめぐらせた。ARPシンセサイザーを漂わせたことを除いては、ホワイトノイズ(あらゆる可聴周波数を含む白色騒音)を多用した。たくさんのマイナー・コードを使ったことによって全体が暗くなって、興味深いサウンドを作ることができたんだ。”

“僕はライヴをするのが楽しくてしょうがなかったね。その頃の僕らは全くの騒音から、針が落ちる音まで操ることができていたからね。ピートはタムタムを使った実験を試していた。‘All I Want’で聞ける隙間のある連打だ。あれはアフリカン・パーカッション効果を背景に添えることになった。”

Heaven Up Hereは徐々に大きくなるマックのフロントマン、作詞家としての自意識過剰ぶりを示していた(あたかもそう思わせるように)。一方で“Rescue”はCrocodilesを予告するような哀歌だったが、あくまで‘前向きな’アンセムだった。“The Disease”ははるかに寒々としていた。“僕には差し迫っていた破滅のようなものが感じられるね。” マックは推測する。“多くの曲はその1年後に起こることを暗示させるね。僕は自分自身に対する警告みたいなものを発していたんだ。でも運命は変えられなかった。でも‘The Disease’は全てが絶望的なわけじゃないよ。自分が何者であれ、それを受け入れようともがいているんだ。”

もううんざりかい?若く未熟な青年時代のバニーメンの愛好者たちは、よりロマンチックな“Over The Wall”に注目する。それはOh! What A Lovely War(1969年の英反戦映画)のトレンチコートの場面へと突然切り替わるように、無邪気な自由への絶賛を表すかのようだ。他では“With A Hip”、悪意に満ちた“Show Of Strength”、そして魅惑的なつぶやきである“It Was A Pleasure”が、このバンドの全てを愛することが万事間違いないことを保証している。

マック:“僕はHugh Jonesといっしょに夜中にキャプテン・モーガン(ラム酒)を飲みながら、イチかバチかヴォーカル録りをしたんだ。すると全てがうまくいった・・・まるで僕らはモナリザを描いているような感覚だったね。”

時折、アルバムというのはそのジャケットから内容を判断することができる。Heaven Up Hereのジャケットはさらに魅力を高める象徴的なムードを持っていた。これはある休日の日に、ロス-オン-ワイ(イングランド、ハルフォードアンドウスター州の市場町)の喫茶店から南ウェールズの海岸へ向かい、Brian Griffinによって撮影されたものだ。彼はのちにブリティッシュ・ウールマークの仕事で有名になった!

バニーメンはHeavenのトップ10入りを祝うスカンジナヴィアのクラブとフェスティヴァル・ツアーのために、暖かいセーターが必要となった。このスモールガスボールド(ヴァイキング料理:北欧ツアーのこと)はノルウェーのSmogrockでの伝説的な1日を含んでいた。そこでは23人の人々と2頭のヘラジカが水浸しになった原っぱで彼らを見た。DrummondとButtの大きな支えとなった投資であったSmogrockがウッドストックとオルタモントを合わせたものより素晴らしかったかどうかは確かではない(皮肉)。しかしこれはエコー、ノルウェーのいかしたウサギがいいところを見せる理想の実現でもあった。一方で誰もがおびただしい量の最高級のホセ・クエルヴォ(テキーラ)を飲み干した。

この壮大な浮かれ騒ぎの土産がこのCDで聞ける。あまり知られていないが長尺で素晴らしいB面だった“Broke My Neck”だ。“Show Of Strength”同様、バニーメンのプロデュースだった。これはロッヂデール(イングランド北西部)のCargoでのセッションを別にすれば、ノルウェーのフレドリクスター近くのTistedalスタジオでのレコーディングだった。Drummondはフィヨルドに向かう途中にスタジオを見つけた。ウィルは覚えている。“この曲に取りかかろうとしたんだけど、あそこに行くバンド用のバスが手に入らなかった。僕らは全ての機材を手で運ばなきゃならなかったよ。”

1981年は2度目のアメリカン・ツアーとオーストラリアへの旅で幕を閉じた。ここに収録されているThe Live In Sydneyのトラックは、エコー&ザ・バニーメンが故郷のクラブ、エリックスから飛び立ち、いかに遠いところまで来たかを鮮やかに示している。それもヒップに(With a hip)。

―マックス・ベル
2003年9月


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