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Echo And The Bunnymen/Crocodiles/2003 Warner Music UK Ltd. WPCR-11811



一体どこへ行ってたんだ?

25年前の1978年秋、リヴァプール周辺で結成されたエコー&ザ・バニーメンは3人編成だった。イアン・マカロックはシンガーでリズム・ギターを担当していた。ウィル・サージャントはリード・ギタリスト、ウィルの級友レス・パティンソンがベーシストだった。彼らは3人とも初心者であった。それぞれ夢想家、シェフ、ボート建造人だった。おっと、エコーを忘れちゃいけない。彼らの倍速ドラム・マシン、扱いにくい厄介ものだ。

3人の青年とドラム・マシンは、パンク・ムーヴメントが世に浸透した時に意気投合した。ロンドンとマンチェスターは‘シーン’を持っていた。しかしブリティッシュ・ロックンロールの発祥地リヴァプールは、事が起こり始めるのをずっと待っていた。1978年11月15日、町はついに声を上げた。マシュー・ストリートのエリックスというクラブの中だった。そこはキャバーン・クラブのある通りだ。そう、例のあの場所だ。

雨の降る水曜の晩、バニーメンは地元の聴衆の前で初のギグを行なった。彼らは自分たち自身のシーンを作り上げようとしていたが、それは他よりも崇高で自制的なものだった。ある意味、健全で誠実で、そして尊大だったかもしれない。いや大部分は自慢げな振る舞いに満ちていた。

ウィルの父親の家でリハーサルをしていたが、マックは大半を休息の場として使っていた。エリックスが理想の着手と突飛な発想のきっかけとなった―これは彼らが単に酔っ払っていたからではなかった。ウィルとレスがマックの歌を聞いたのはこれが初めてだった。ふわふわとしたマルチ・カラーのヘアスタイルをしたマックは異彩を放っていた。その頭は彼のヒーローだったデヴィッド・ボウイの影響だった。

そして幸運が訪れた!ドラム・マシンは彼らのレパートリーの一つ、“Monkeys”で主人たちの人気をかっさらってしまった。ヤツは曲を12分間全く自由な空間にしてしまった。またバニーメンはデビュー・シングル、“Pictures On My Wall/Read It In Books”で物議をかもしていたが、“Monkeys”はリヴァプールのコンピレーションLP、Street to Streetに収録されることになった。“Pictures”はインデペンデント・レーベル、Zooからリリースされたが、そのレーベルを運営していたのがBill Drummondとキーボード・プレイヤーのDavid Balfeだった。Bill Drummondはハンサムで不条理な一匹狼そのものであり、のちにKLFで大儲けすることになった。彼らは多くの正体不明のアーチストたちをプロデュースした。

この独創的で美しいリリースは敏速な青年期の前触れとなるものだった。ワーナー傘下のKorovaは彼らと契約を交わし、音楽プレスはユーストンから中心地へとバニーメンに道を切り開いていった。彼らはまたラモーンズ、トーキング・ヘッズと契約した情熱的なニューヨーカー、シーモア・ステインに注目されていた。トテナム・コート・ロードから少し離れたYMCAで彼らを見たあと(ジョイ・ディヴィジョンも一緒だった)、ステインは彼らがドラマーを加えるなら、アメリカのサイアー・レコーズと契約することに同意した。

北北西に進路を取れ。機は熟していた。マックとウィルはゲームが始まったことを分かっていた。マックはいう。“長い旅路だったね。ほとんどバンドの体をなしていなかったから。僕はいつもバンドを何とかしようと思ってやってきた。自分の書く詞も良くなってきたし、僕らは自分たちのサウンドを身につけていた、ネオ・サイケデリアとか何とかってやつだ。僕らはギグのための曲も十分に持っていたし準備は整っていると思ってたよ。”

すぐにオーディションが行なわれ、ピート・デフレイタスが現れた。運命だった。グレイトだった。最初の一人だった。ピートを覚えているだろうか?もしあなたが覚えているなら彼の才能を知っているだろう。他のメンバーよりもあか抜けたデフレイタスは、オックスフォードへ行こうとしていた。彼はトリニダードで生まれたが、育ちはイングランド南部だった。ピートはヨークシア人の家のリハーサル・ルームにドラム・セットを運んだが、そこで希望あふれる一団と出会った。“僕らはすぐに彼に入ってほしかったんだ。” ウィルは回想する。“他の奴なんて考えられなかった。ピートはすごく礼儀正しくて上品だった。ファンシー・グッズのことを知っていたし、社会的たしなみも身につけていたね。彼は僕らに多くのことを教えてくれた。僕らは彼に卵サンドイッチやブラック・プリンの作り方を教えたよ。彼は何にでもチャレンジする自由なスピリットを持っていた。それで彼はリヴァプールに移ってきたんだ。” コートニー・ラヴも同様だった。“彼女はイカレていたね。どえらい15歳だった。” 脱帽だ。

マックの最初の反応が、“もっとマシなドラム・マシンを使わない?”というものだった。しかしピートの加入はエキサイティングだった。“彼が入ったあと、僕はうちに帰って考えてみた―グレイトだけど何かが変わってしまったな。でもこれは改善だ。僕らはいいドラマーとそうじゃないドラマーの区別なんて分かっちゃいなかった。たしかにピートは僕らのレコードで驚くべきプレイをしていたね。”

1980年5月、新生4人組は才気ほとばしる“Rescue”をリリースした。B面は、より荒々しく唸るような“Simple Stuff”だった。後者が初期のバニーメンの所信表明ソングだとするなら、それは彼らの苛立ちを表明した1曲だった。“Rescue”は人間の最初の哲学である愛に対する嘆願と開放を併せ持った、魅惑的なポップ・クラシックだった。皮肉交じりの苦悩が表れている。

“僕は‘Rescue’を自分のベッドルームで書いたんだ。” マックは回想する。“僕らはNorris Greenの家を引き払っていた。なぜかっていうと壁が腐って崩れてきたからなんだ。僕らが地元に戻ってきた時には、以前慣れ親しんでいたものは跡形もなく消え去っていたね。‘Rescue’には素晴らしいフレーズがあった―‘もし僕が道に迷ってしまったと言ったら’―これは予感みたいなものだった。つまり僕は新しいベッドルームが気に入らなくて、うんざりしてしまったってことなんだ。”

ベッドルームと戯言はさておいて、バニーメンはモンマスのロックフィールド・スタジオでの3週間のアルバム・セッションを控えていた。ウィルはCrocodilesを複雑な気持ちで振り返る。“パンクっぽいけど素晴らしいね。僕らはパンクの政治的な側面も流行的な側面も分かっちゃいなかった。バニーメンはとにかくクールであろうとしていたね。それってあんまりレコードを売るには役立たないとは思っていたけど。僕らは不器用な連中だったんだ。” 人間性とは本質的に変わらないものである。

ベーシストのレス・パティンソンは、あまりに退屈なレコーディング・セッションに驚いていた。“ほとんどスタジオの中をぶらぶらしていたね。僕は全く‘パンチ・イン’(修正のため、ある一ヶ所にプレイを差し込むこと)や‘編集’をしなかったんだ。でもナーヴァスな純真さはレコードに刻まれていた。それは素晴らしいと思うね。あと、イギー・ポップが僕らの前にロックフィールド・スタジオにいて、アシスタントの女の子を追いかけ回していたな。” レスはいつも冷静な目を持っていた。

一方バンドの頭脳、ウィルは満足のいくプレイができなかったと考えている。“要求どおりに完璧に曲を成り立たせるようなソロはできなかったね。でもアルバムが完成した時はうれしかったよ。やってる時は楽しめなかったんだけどさ。裏ジャケットでマックが一人で写っているのはうんざりさせられたな。” 彼らの最初の4枚のアルバム・カヴァーを撮ったBrian Griffinによるものだ。

マックがCrocodilesで弾いたリズム・ギター・テクニックは、ルー・リードの“Waiting For The Man”(訳注:Velvet Undergroundのファースト収録曲)をモデルとしたものだった。“ピリッとしたサウンドだ。すごくもろくて、そのアプローチはミニマリズム的だ。僕らは当時1本のエレクトリック・ギターとアコースティック・ギターしか持っていなかった。全く無駄な使い方なんてしなかったね。僕のピーンっていうリズム・ギターは刺すような感じだ。” 彼はいつもの謙虚さでつけ加える(訳注:皮肉。当時のマックは大口を叩くことで有名)。

自画自賛してもよいではないか?Crocodilesは傑作デビュー・アルバムであり、DrummondとBalfe、別名The Chameleonsによって究極的に表現されていた。マックがグループの束縛から離れて自分たちの経緯とミステリーを描写したのが、“All That Jazz”と“Pride”のような歌だった―それまでバンドが書いた中で切れ味鋭い若さが光る2曲だ―しかしまた彼らは“Villiers Terrace”で不可解な細かさを探求した―これは純然たるドラッグ・ソングのように聞こえるが、もっとはるかに興味深い1曲だ。マックによれば、タバコと辛辣な男のことだそうだ。“‘Villiers Terrace’は僕の弟(兄)のピートが思いついたフレーズだった。ヒトラーがチェコスロヴァキアに対抗して非協定条約にサインする前に会議を開いたリヴァプールにあった場所のことだ。アドルフは気が狂ってあの忌々しい爆弾集中投下を始めてしまうような荒っぽい男だったんだ。”

“トニー・ウィルソン(ジョイ・ディヴィジョン/ファクトリー・レコーズの師)は、これは僕らのベスト・ソングの1曲だと言ったね。僕らは周りを出し抜いて天性の知性を使い、これに取り組んでおちょくったんだ。これはちょっと他とは違った視点だった―‘ナチスなんておもしろくない みんな知っている どっか行ってなんか始めろよ’ってね。”

下位ではあったがCrocodilesがチャートをかすめたことにより、バニーメンは迷彩服を着込んで作戦行動に着手していった。ウィルが捜しまわって見つけた彼の古い仲間が使っていた第8師団の軍服にインスパイアされながら。非精密な軍事作戦によって彼らは沼地を這い上がり、バクストン・パヴィリオンでの神秘的なギグによって何とかいっぱしのギャラをもらえるようにまでなった。ファンとジャーナリストたちは地図を手渡され、長距離バスに乗って会場に向かった。野ウサギたち(Bunnymen)は攻撃を開始した。エコー&ザ・バニーメンはライヴEP、Shine So Hardでバクストンを祝った。ピーク地方(イングランド中北部のDerbyshire北部)を去った彼らは、じらすようにチラチラと現われながら、Heaven Up Here(セカンド・アルバム)のくねくねと曲がりくねった道に向かって歩いて行った。彼らがバッチリ決める時が来ていた。

―マックス・ベル
2003年9月


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