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Duncan Browne/Journey the anthology 1967-1993/2004 Sanctuary Records Ltd. CMEDD 753



デヴィッド・ボウイを明らかな例外として、故Duncan Browneほど完全なる自信と静かなる威信をもって、様々な分野をカヴァーしたアーチストを思いつくのは容易いことではない。残酷にも短縮された25年間という期間においても、あらゆる音楽スタイルに取り組んできたダンカンは、不安を抱かせながらも一定の間隔を置いて復活してきた。1967年春のサイケデリック・ヒッピー・フォーキー、室内楽ポップ歌手、まじめなシンガーソングライター、実存主義的なユーロ・アート・ロック教養人、クラシック/ロックのフュージョンとしてのパイオニア、量産型サウンドトラック・コンポーザー、ギターの巨匠、熟達したヴォーカリスト、才能あるソングライター・・・ブラウンはそれら全てを単なる好事家の印象を与えることなしにモノにしてしまった。このJourneyは60年代中頃のブリティッシュ・ポップ・シーンから始まって飛躍までの、数少ない文芸復興者のうちの一人の全キャリアを振り返った初のものであり、長く待ち望まれてきたある才能の最高の瞬間(1967〜68年のアウトテイクである重要な未発表曲2曲を含む)をとらえたアンソロジーである。それはほとんど果たされてこなかった彼に対する誠実さであり、間違いなく価値ある彼の作品に対する敬意が今まで広く払われてこなかったということである。

1947年3月25日に生まれたダンカン・ブラウンは職業訓練校に通い、最初は父親を継いで英国空軍(Royal Air Force)の道を志したが、健康上の問題からその道は閉ざされてしまった。RAFに拒否された彼は俳優の道を目指すようになり、3年間ロンドン音楽演劇芸術アカデミーで演劇を学んだ。しかしながら彼は次第に演劇の音楽的側面に興味を持つようになっていった。ダンカンの人生の転換点となったのは、彼が1963年BBC TVが放映したボブ・ディランの放浪テレビ・ドラマ、The Madhouse On Castle Streetを見た時だった。大いにインスパイアされたダンカンはアコースティック・ギターを手に取り、Lorelを結成した。そのフォークをベースとしたグループは、彼自身と仲間のシンガーソングライターだった(いうまでもなくかつてのジョー・ミークの子分の) Davy Morganからなり、当時のブラウンのガールフレンドも参加する案もあった。

長い間忘れ去られ、回り道はあったものの、Lorelはローリング・ストーンズの黒幕、Andrew Loog Oldhamの目にとまり、1967年夏、彼のImmediateレーベルと契約を交わした。オールダムはLorelをMike D’Aboと組ませた―イミディエイト・ファミリーの一員となっていたマンフレッド・マンのフロントマンであったダボは、クリス・ファーロウ、ロッド・スチュワート含む様々なレーベルのアーチストのためにプロデュースや曲作りを行なっていた。また彼はこの時期、自作の‘Handbags And Gladrags’を巡って版権闘争をしていた。ダボはLorelの可能性あるデビュー・シングルをプロデュースしたが、デイヴィ・モーガンがグループを離脱する決心を表明したため、その計画は失敗に終わってしまった。A面に予定されていた‘Here And Now’―象徴的に野心あふれる作品であり、チェロと少年聖歌隊のハーモニーがミックスされた華麗なサマー・オブ・ラヴの1曲―は何年にも渡ってダンカン・ブラウン支持者たちと60年代後半のバロック・ポップ愛好家たちが好む、半ば神話的で聖杯のような特徴を持っていた。幸い最近になって、イミディエイトのデモとアウトテイクの一部として発見され、この我々のダンカン・ブラウン・アンソロジーの1曲目として初めて日の目を見るという栄光の座についた。

オールダムはさらにブラウンの曲をリリースすることを熱望していたが、ダンカンはまだ作詞能力に欠けていた。絶望の中、彼は仲間の大学生で野心あふれる詩人だったDavid Brettonに救いを求めた。彼はのちにブラウンとの会話を回想している。“ダンカンはある日僕のところへやって来てこう言ったんだ。‘困ったことになった。イミディエイトとレコード契約したんだけど詞が書けないんだ。何かいいアイデアはないかい?’ってね。僕は‘もちろんあるよ’と言って一緒に歌を書き始めて、それがダンカンのイミディエイトからのアルバムに収録されたんだ。”

シングルとして発表された2曲、憂愁を帯びた幼少期の思い出である‘On The Bombsite’と、同様のテーマを持つ‘Alfred Bell’(両方ともオリジナル・シングル・ミックスでこのアンソロジーに収録した)に続いて、アルバムGive Me, Take Youは1968年7月にリリースされた。それは弱々しくも美しく胸を打つ合唱アレンジによる室内楽ポップの寄せ集めであった。自由と兄弟愛の時代らしい詞と、ブラウンのフォーク・イディオムを使ったメロディあふれるGive Me, Take Youは、今やカルト・クラシックであり、その優しく上品なポップ古典主義は、レフト・バンクやOdessey And Oracle期のゾンビーズ、そしてVillage Green Preservation Society期のキンクスに匹敵するものとして見なされている。たしかにそのセピア色のイングリッシュネスは古臭いものであったが、一方でその暗い自己疑念は来たるべきニック・ドレイクのようなシンガーソングライターの領域を暗示させるものであった。しかし当時は例えばムーディー・ブルースやヴァン・モリソンのAstral Weeksらと同じ市場で競い合う作品として広く考えられていたのである。本当はそっくりそのまま全曲を聴くべきアルバムであるが、ここに収録した繊細で教養ある‘Ninepence Worth Of Walking’‘Chloe In The Garden’と同じように、‘The Cherry Blossom Fool’は、同アルバム・セッションからの未発表曲であり、あるいはわずかにまとまりのないパフォーマンス(もちろんデモ状態といっていいが)であるかもしれないが、ダンカン・ブラウンが見事な出来のこの曲をアルバム収録から外す度量があるほど、Give Me, Take Youは強力であるということを示しているのである。

大衆の心をつかむには間違いなく内省的で神秘的過ぎたが(前述のキンクスとゾンビーズのアルバムも同じように商業的恩恵を獲得することに失敗したことを覚えておく価値がある)、にもかかわらずGive Me, Take Youは重要な功績であった。ブラウンはイミディエイトの組織に相応しい一員となり、The Niceによるウェスト・サイド物語の改作‘America’に合唱アレンジメントを提供した。しかし財政上の管理ミスからイミディエイトは大量の作品を生み出した60年代の10年間の終わりに、そのずさんな運営によって倒産しかかっていた。これは事実上、ダンカン・ブラウンの2枚目のアルバム制作を断念せざるを得ないことを意味していた―彼とデヴィッド・ブレトンはすでにオーストリア‐ドイツ合作映画、Zeit Fur Traume(Time For Dreams)のために曲作りを始めていた―一方でアンドリュー・オールダムの自暴自棄な潰れかかったレーベルへの投資は、ブラウンに対しGive Me, Take Youのレコーディング費用として法外な請求を求める決定を下すことになってしまった!

ブレトンは音楽界を離れ、演劇の道を追求し始めたため、ダンカンは以前のLorelの仲間であったデイヴィ・モーガンとシンガーソングライターのTom Yates(ついでながら、彼の1967年のCBSからのアルバム、Second City Spiritualは一聴の価値ありだ)と手を組み、Bellレーベルからワンショット契約でシングルを1枚制作した。そのぼんやりとしたマッカートニー風のヴォーカルとメロディックなアプローチである‘Resurrection Joe’(B面はよりマッカートニー風な‘The Final Asylum’)は、よりコマーシャルな路線へと大きく傾いていたが、残念ながら1970年7月にリリースされるや石のごとく海底へ沈んでしまった。

ブラウンはやがてイェーツの1973年のアルバム、Love Comes Well Armedで再び彼と仕事をしたが、この時点でブラウンはMickie MostRAKレーベルと契約を交わしていた(彼の曲を聴いたモストはブラウンにヒット曲を書くよう進言し、ダンカンは翌週‘Journey’を引っ下げて戻ってきた)。外観上は内気な耽美主義者と、誰もが知るヒットメーカーであるプロデューサーとのコンビは奇妙に思われるかもしれない。しかしモストは自分の受け持つ様々なアーチストからベストな才能を引き出す巧妙なコツを心得ていた。彼による60年以降半のドノヴァンの方向転換は、偽ディランとしての名声を振るい落としながらも、ディランと同等な存在として一個の神秘的なMR. リーチ(ドノヴァンのこと)を確立させることに成功したのである。

かくしてそれは証明されることになった。モストはその影響力を使ってブラウンの才能を引き出した。彼の共同アレンジメントとプロダクション・ワークはパワーで圧倒することなく、ダンカンの歌に漂う瑞々しく牧歌的なロマンティシズムを効果的に行渡らせることに成功していた。もちろんこの頃最も有名なのが、スパニッシュ・ギターをベースとした‘Journey’だ。これは1972年8月に思いがけなくも、しかし全く妥当なヒットとなり(23位まで上がった)、Top Of The Popsへの明らかに神経質なライヴ出演をもたらした。しかしもっと重要なことは、ダンカンの遅きに失した作詞家としてのキャリアが、ここでは今や完全に彼の本質的なスタイルとして成就している点だ。それは‘Journey’の詞(“ああ、この24年間はなんていうジョークなんだろう”)に見られるような少なくともある意味自伝的な部分にあった。

彼の高度な成熟と自意識は、1973年初めにRAKからリリースされたセルフ・タイトルのセカンド・アルバムで確認できる。依然モストの指揮下に制作されたアルバムは、Suzi QuatroとArgentのリズム・セクションであるJim RodfordRob Henrit(特に‘Journey’と素晴らしい‘Ragged Rain Life’で聞ける)らによる気の利いた名演が散りばめられていた。一方ブラウンの成長しつつあった印象的な叙情スタイルは‘Babe Rainbow’とドラマチックなシンセ調のエンディングを伴った効果的な終末論的思想である‘The Last Time Around’で表されていた。アルバムの他の傑出したトラック、‘Country Song’は、華麗なヴォーカルとある意味クラシック的なアレンジメントを誇り、それは多くの点で5年前のGive Me, Take Youから必然的な成長を示していた。

残念ながらアルバム、Duncan Brownは‘Journey’と同等の商業的成功を収めることはできなかった。あるいはそのアルバムは彼のリスナーをより多く獲得するための企てだったのかもしれないし、あるいはプロモーターは彼の弱々しい甘いルックスと胸まで伸びたグラム・ロック風の長髪にだまされただけなのかもしれない。しかしブラウンは度々場違いな宣伝を打たれ、公の場にかり出されていた。そのうちの一つがMetal Machine Music期のルー・リードのオープニング・アクトだった!LPリリース後に出た1枚の興味深いグラム・ロック風シングル、‘Send Me The Bill For Your Friendship’(もしかしてアンドリュー・オールダムへのあてつけか?!)が1973年10月に失敗した後、ダンカンは共同作詞家として手を組み芽が出始めていた友人のシンガー、Peter Godwinの勧めによって、新しい方向性を探ろうとRAKを去った。

“Metroの話は1973年9月に実際に始まったんだ。” ゴドウェインは最近になって回想している。“ある晩、ダンカンと僕はロンドンのホランドパークにあったプリンス・オブ・ウェールズ・パブにいたんだけど、僕は共通の友人だったセクシーなルイーズについてちょっとした考察をしたんだ。彼女は生身の肩に黒のレースの肩掛けをしていた。僕はその時ダンカンに‘あのルイーズの黒のレースを見てみなよ!’って言ったんだ。”

数日内にブラウン(彼はキャリア史上初めてエレクトリック・ギターを弾いていた)とゴドウィンは‘Black Lace Shoulder’‘Precious’を書き、他にも一握りの新曲を書き上げていた。1974年夏、二人はセッションマンのCozy PowellJohn‘Rabbit’Bundrickと共に、‘Precious’と‘Mono Messiah’のデモを録るためにオリンピック・スタジオに入った。パウエルとバンドリックは以前ダンカンのRAKのアルバムで手を貸していた(なるほど後者は‘The Last Time Around’で見事なシンセサイザーを提供していた)。しかしアンドリュー・ルーグ・オールダム(そしてトニー・ヴィスコンティ、ガス・ダッジョン)の関心の深さにもかかわらず、事が運ぶまでに中断期間があった。まだ名前の決まっていなかったグループは、1976年6月についに契約を交わした。またダンカンが一緒に住んでいたガールフレンド、Naomiのいとこで10代のギタリスト、Sean Lyonsもグループの一員となっていた。

彼らがデビュー・アルバムをレコーディングしていた夏の間に、トリオはついにグループ名をMetroとすることに落ち着いた。ゴドウィンが説明するように、この名はグループのサウンドと作られたイメージを要約するようなものだった。“メトロっていうのは、都市に住む都会人、白人、地下鉄みたいないつも変わることのない黒服の実存主義者の響きがあるんだ。芸術家気取りで、挑発的で、低俗で皮肉っぽい意味が込められている。それからほんの数年後に、The Metroっていうゾッとするようなハッチバック(上に開くドア)の車が出た時は、正直言って懐疑的になっちゃったね・・・”

その名を冠したアルバム、Metroは2年間に書かれた曲で構成され(その頃シングルとしてリリースされる予定となっていた‘Paris’含む)、1977年2月にTransatlanticレーベルから順当にリリースされた。しかし評論家からは好意的に受け入れられたにもかかわらず、売るには困難なアルバムであった。洗練され、グラマラスで、ボヘミアン的で、わずかにユーロ・ポップ/ロック的なデカダンスが漂っていたグループのブランドは、ロキシー・ミュージック全盛後のことであった。その数年前にデュラン・デュランと彼らの一派であるニュー・ロマンティックスは、メトロの斬新なヴィジョンに接近した市場性の高い商品をイメージ化させていた。もちろんアルバム・リリースの1ヶ月前に出したヒット・シングル、‘Criminal World’が完全な名刺代わりとなっていた。不幸なことにその歌詞―(主に“彼女は君のピストルの前にそれをあらわにする”であるが、少なくとも我々は最初‘gun’ではなく‘come’と聞き取ったわけで、それほど露骨ではなかった!)―はラジオ・ワンでのオンエアの妨げとなってしまったが、その性的な独自性といかがわしさの漂う神秘的な雰囲気の混同はデヴィッド・ボウイの目にとまり、彼の大ヒット・アルバムである1983年のLet’s Danceでカヴァーされることになった。それでもなおオリジナル・ヴァージョンが最高であるが・・・

メトロはもう2枚のアルバム(プラス、すぐれた1枚のシングル、‘Girls In Love’)をEMIに残したが、この時までにダンカンはソロ・キャリアの再開に乗り出していた。

The Wild Placesはブラウンのメトロ時代の装いを引き続き保った(モリッシーのことばを借りれば)世界的に有名なプレイボーイの最後であり、ヨーロッパ的感性とロキシー・ミュージックが‘Roman Vecu’と徐々につのる怒りを表した‘Kisarazu’に影響を与えていた。ピーター・ゴドウィンと共作した‘Planet Earth’はブラウンに再び12弦アコースティック・ギターに向かわせたが、ひょっとしたら最も素晴らしいのはアルバムのタイトル・トラックだったかもしれない(The Wild Places)。それはイアン・マシューズによってカヴァーされリリースされたのである。さらに興味深いことに、その曲は1983年にバリー・マニロウによってレコーディングされた。しかし彼のプロデューサーが、バリーの本来保守的なファンたちがそのロック的な曲にどう反応するかを心配し、実際にはリリースされなかったらしい!最終的には1992年にマニロウの4枚組アンソロジー・ボックスCD、The Complete Collection And Then Someで日の目を見ることになった。

セカンド・ソロ・アルバム、Streets Of Fireは1年後の1979年にLogo(イメージチェンジをはかったトランスアトランティックのレーベル)からリリースされた。それはThe Wild Placesと似た音楽性を持っていたが、複雑なインストゥルメンタルであるタイトル・トラックから、かなりコマーシャルな‘American Heartbeat’までを含む強力な1枚であった。特に後者の映画風な特性はダンカンのキャリアにとって大いに役立つものとなった。しかしながら最も興味深いトラックは‘Fauvette’かもしれない。そのギター・スタイルとヴォーカルの抑揚は桁外れに商業的成功をもたらすかもしれなかった―しかし残念ながらそれはダンカン・ブラウンというよりもマーク・ノップラーであったが・・・

マーク・ノップラーのダイア・ストレイツは大ヒットとなったが、ブラウンのLogoからの2枚のソロ・アルバムはセールス的にほとんど前進を見せなかった。80年代に彼はほころびを見せていたシンガーソングライターの道から手を引き、劇場、映画、テレビのための曲を書き始めた。彼が書いた‘Salva Me’(ソプラノ歌手、Isobel Buchananが歌った)は、BBCの2つのドラマ・シリーズ、Shadow Of The Nooseの曲であり、その他様々な同様なテーマで曲を提供した。この音楽的方向の転換の重要な触媒者となったのがSebastian Graham-Jonesだ。彼のブラウンとの交友関係は1960年代終わりにまでさかのぼる。1980年代初頭、グレアム-ジョーンズはグラナダTVに雇われ、Travelling Manの指揮監督を務めていた。いくらか切なくとも感傷的ではないインストゥルメンタルのBGMを探していた彼は、ダンカンに何かふさわしい曲を書けないかとたずねた。“1週間もしないうちに僕らはスタジオに入って、新しいテーマ曲のためのアイデアを6つか7つ創り出したよ。” グレアム-ジョーンズは10年ほど経った後そう回想している。

Travelling Manの指揮を務めたことは成功を導くことになり、13のシリーズを製作するよう依頼を受けることになった。そしてこれはブラウンとグレアム-ジョーンズにサウンドトラック・アルバムを制作するための十分な楽曲提供を促すことになった。Malcolm Duncanによる印象的なサックス・プレイは、ジェリー・ラファティの‘Baker Street’でのRaphael Ravenscroftのプレイと同様に素晴らしいものだった。その忘れられないメランコリックなメイン・タイトル・テーマは1984年のクリスマスを通じてマイナー・シングル・ヒットにさえなり、UKシングルズ・チャートの下位を2週間とどまったのである。

そういったプロジェクトと同様に、ダンカンはSian Philipsが主演したステージ・ショー、Brelのための音楽ディレクターと作詞家の一員として活動し、ロイヤル・ナショナル・シアターのための曲を書いた。ポップ界の華々しい世界から離れ、彼は間違いなくその長いキャリアのどの時点よりも成功を実現させていた。しかし80年代がまさに終わりを告げようとしていた頃、彼はガンと診断されてしまった。あるいは彼は自らのキャリアの中でとりわけ未完となっていた領域に心残りがあったのかもしれない、彼はシンガーソングライターの道に戻る決心をした。彼は仲間の経験を積んだミュージシャンたち、例えば元Enid、スティーヴ・ハケットのキーボーディスト、Nick Magnusらを集め、昔のお気に入りナンバー、‘The Wild Places’を‘The Wild Places ‘91’としてCDシングルの形でリリースした。これはヨーロッパ中部で人気を呼び、特にドイツでは一般のTVコマーシャルで使われるほどになった。

しかしながら、悲しいことにニュー・アルバムのレコーディング中にダンカンは死んでしまった。1993年5月28日、彼はまだ46歳の若さであった。

当時アルバムは未完成であったが、友人と彼の未亡人Lin含む家族がニック・マグナスに対し、アルバムをできるだけ最高の形で完成させるよう駆り立てた。共感を得たミュージシャンたちの助けによってトラックは様々に肉付けされ、マグナスは2曲でダンカンの旧友で以前のフラットメイトであったColin Blunstone―ダンカンと彼はCamioというバンド・プロジェクトでその頃活動を共にしていた(70年代初期のブランストーンの偶然にもJourneyという名のソロ・アルバムでダンカンはプレイし、また最近でもオリジナル・メンバーの一部で再編されていたゾンビーズのアルバムでもゲストとしてプレイしていた)―を起用した。コリンは2曲の未完成デモで、あの例のスリリングなリード・ヴォーカルを提供し、それを収録したアルバムSongs Of Love And Warは、1994年にZomatレーベルからリリースされた。

このように死後リリースされたという悲劇的な状況下においては、感情に流されることなくアルバムの判断を下すことは難しいものである。それでも私にとってSongs Of Love And Warは、ダンカン・ブラウンのキャリアの中でも価値ある作品を多く含むアルバムである。気絶するほど素晴らしい‘Scull Twins’は、彼の詩才がピーター・ゲイブリエルや他の英国の因習打破主義者、元ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレイターのリーダー、ピーター・ハミルらと同等のNew Ageミュージックであることを示しているし、一方で‘Rainer’(冒険的で堂々としたサビのメロディ・ラインは25年前の‘Chloe In The Garden’を思わせる)と特徴的な巧みなギター・インスト‘Berceuse’―Travelling Manでの最初のレコーディング曲だ―は、ダンカンの変わることのないメロディ・メーカーとしての才能が、その最後の日々においてもなお光り輝いていたことが確認できるのである。

日本リリースのアルバムにだけ強力な2曲、切望を歌った‘No-Name Girl’と伝染性あるシンセ・ポップの至宝‘The Toys’が収録されていた。我々は今回初めて世界に向けてこのアンソロジーに収録した。それでもなお我々はダンカン・ブラウンの光り輝くキャリアを締めくくる曲として、Songs Of Love And Warからの1曲を選んだ。相応しく改題された‘Journey ‘93’は、彼が最もコマーシャルな成功を収めた曲のリメイクであり、この状況においてはほとんど耐えられないような胸の痛みと、巨大で機知に富んだ才能があまりにも早く奪われてしまったことに対する墓碑銘なのである。彼の一生の作品であるこのアンソロジーは、彼の記憶をもちろん最小限に収めたものとして価値あるものだ。

デヴィッド・ウェルズ

感謝のことば:David Bretton, Peter Godwin, Sebastian Graham-jones, Sean Lyons, Nick Magnus, Alan Robinsonに対して。特別にLin BrowneとMandy Oatesに対して感謝する。

ダンカン・ブラウン・ウェブサイト: www.insyncnet.com/duncan


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