Welcome to my homepage


Dransfield/The Fiddler’s Dream/2004 Sanctuary Records Group Ltd. CMEDD943



The Fiddler’s Dreamが1976年7月に発表された時、正直言えば多分その頃の時代精神からは確実にはずれていただろう。当時のポップ評論家と文化コメンテーターにとっては、より重大な事件がその月に他のところで起こっていた。当時暑さにうだるロンドンは果てしない熱い波にさらされていた。その年は事実上パンク元年であった。それと同時にラモーンズは‘Blitzkrieg Bop’のリリースと共にラウンドハウスでデビュー・ライヴを行なった。のちにクラッシュの要となるジョー・ストラマーは101’ersの一員として最初のシングルをリリースし、バズコックスとダムドはセックス・ピストルズの前座として、一般大衆の前に姿を現した。ピストルズは一時的に初期ヴァージョンの‘Pretty Vacant’と英国パンクの明言である‘Anarchy In The UK’含む一連のスタジオ・デモ・レコーディングを打ち切った。

疾走する時代の中、フィドル・プレーヤーの村のコミュニティーへの定着をテーマにした、フォークロックのコンセプト・アルバムは、グレン・ミラーが未だに消息不明であることと同じくらい今日的な問題であったに違いない(米国のトロンボーン奏者で指揮者だったミラーは、英国からパリに向かう途中搭乗機ごと消息を絶った)。しかし時に、忌まわしきロック四季裁判所がその数ヶ月前に開かれていたのだ。ちょうどパンクがそういったアーティスティックな着想をこてんぱんにするために出現し、コンセプト・アルバムの概念は力を失っていた。それは肥大したプログレッシヴ・ロックの大作、Tales From Topographic Oceansのような月並みなテーマを追求する精神だった。そう、イエスの他のアルバムもほとんどそれに当てはまる。

しかし一方、The Fiddler’s Dreamは音楽的流行から絶望的に切り離されているように見えたが、良い音楽というものはいつも最後には時を越えて再び姿を現すものだ。そのアルバムはフォーク・ファンから誠実なフォークロック・クラシックとして長い間注目されてきたし、RobinBarry、つまり高く評価されていたDransfield兄弟が自らの名を適切に表現した最高の1枚なのである。彼らのそれ以前、以後にレコーディングされた作品のクォリティを考えてみてもなかなかの功績だ。この夏できわめて重要なリリース28周年を記念するために我々はThe Fiddler’s Dreamの完全版というだけでなく、短命に終わった兄弟のその名を冠したバンドの欠くことのできない活動をコンプリートした。オリジナルLPにボーナス・ディスクとして同時期1975〜76年の時間枠に行なわれたBBCセッションを加えた。

ハロゲイトに生まれ育ったDransfield兄弟は、最初60年代初頭にブルーグラス・バンドのクリンプル・マウンテン・ボーイズで活動を共にしていた。バリーより3つ年上のロビンは、50年代の終わりまでは全英を席巻していたスキッフルに夢中になっていた。ロビンが教員養成学校へ通うためバンドを抜けた後、クリンプル・マウンテン・ボーイズは結局解散してしまったが、彼とバリーはずっとハロゲイト・フォーク・クラブの雰囲気に魅了されていた。そこに出演していたのは、名高きイワン・マッコールとペギー・シーガー、ウォーターソンズそしてマーチン・カーシーらであった。フォークに感化されたロビンはウスター(イングランド西部)でフォーク・クラブをオープンさせた。一方バリーは自らの音楽的技術の幅を広げるためにフィドルを選び、ハープ・メーカーで仕事を見つけるためにロンドンへ向かった。

しかし二人とも自分の仕事に満足できず、バリーは神経衰弱に陥り故郷へと戻ってきた。一方迷うことなくロビンも教師の仕事をやめることに決めた。これが彼らがデュオとして音楽的指向を共有する転機となり、1969年夏、彼らはプロ・ミュージシャンとしてデビューした。

兄弟はお互いを完璧に補い合い、彼らの類まれな兄弟としてのアピールはさらに強いものとなり、そのハーモニーはイアン・A・アンダーソンをして“イングリッシュ・フォーク・ミュージックにおけるエヴァリー・ブラザーズ”と称賛されるほどであった。しかしながらロビンは、彼らの一体となったヴォーカル・ハーモニーは50年代後半のアメリカン・ポップとロックの影響というよりは、むしろブルーグラス・バックグラウンドによるものだと主張する。それらアメリカン・ミュージックは今なおバリーによれば軽蔑すべきものだとされている。確かに彼が最近コリン・アーウィンに語ったのは、アメリカ文化のグローバル化によってもたらされた彼の絶望感とフラストレーションが、ブリティッシュ・フォーク・トラディションの促進へと彼を駆り立てる個人的使命となったに他ならないということだ。“僕がみんなに伝えたいことっていうのは、もし君がこの美しい自国の歌を歌わず、そしてフィドルとギターさえあればできる自分自身の曲をみなに示さないなら、イングランド中のパブはジュークボックスで埋め尽くされてしまうってことなんだ。僕らは正しかったと思ってるよ。イデオロギー的には反資本主義、反アメリカだったね。僕は初期のロック・ミュージックが大嫌いだし、今日までエルヴィス・プレスリーに憎悪の念を持っている。”

フォーク・クラブを回り、大きな名声をつかもうとしていた初期の頃、すでにDransfieldsはビル・リーダーによって彼のフォーク専門レーベル、トレイラーでアルバムをレコーディングする話を持ちかけられていた。Rout Of The Bluesは順当に1970年、メロディ・メーカーによってフォーク・アルバム・オブ・ジ・イヤーに選出された。そしてトレイラーからのセカンド・アルバム、1971年リリースのLord Of All I Beholdは、アシュリー・ハッチングスに強い印象を与え、彼は兄弟に初期のスティーライ・スパンに参加するよう求めたが、これは断られてしまった。その代わり彼らはクライヴ・パーマー/ラルフ・マクテルのマネージャーを務めていたジョー・ラスティグと契約を交わした。商業的成功をもくろむ彼の兄弟に対する努力は実を結ぶかに思われたが、その時Drandfieldは突然コンビ解消を決めた。バリーはパンクが反・体制順応主義を表明する中、音楽産業のメインストリームにすり寄ることは危険だと感じていた。“僕は基本的にまだフィドルの訓練中だったんだ。”続いて彼はこういう。“体制側につくのは僕の趣味じゃなかった。僕は外側にいる方を好んでいた。100人くらいに向かって、みな大騒ぎすることもなくプレイする方をね。もし僕がロック・スターになることを望んでいたのなら、18の時にロック・バンドに入っていただろうから。”

幸いにもバリーの体制嫌いが、大メジャー・レーベルであったポリドールからのレコード・オファーを妨げることにはならなかった。レーベルの今やコレクター好みとなったフォーク・ミルによって1972年にリリースされたBarry Dransfieldは真にソロとしての1枚であり、全ての楽器とヴォーカルをこの弟が提供している。より重要なのが、トラディショナル・ソングとオリジナル・ソングがうまく溶け込んでいる点であり、間違いなく最も印象的なのが、David Acklesの‘Be My Friend’とMichael Hurleyの素晴らしい‘The Werewolf’の決定的ヴァージョンだろう。明らかにアメリカン・カルチャーのある側面が他よりも許容されているのが見て取れるが・・・

こういった情勢の中、バリーはリチャード・トンプソン、シャーリー・コリンズ、そしてアシュリー・ハッチングスら同僚と共に独創的アルバム、Morris Onの一員として参加した。一方ロビンもまたソロとして、1974年2月、ラジオ・ワンのジョン・ピール・ショーのレコーディング・セッションを行なった(兄弟は遡ること1970年3月に最初のBBCセッションを行なっており、ピールは以降、彼らの仕事を絶賛していた)。また彼は短期間、フォーク仲間のDavid & Toni Arthurのローディーも務めた。

しかし彼らがいうには血は水よりも濃いものである。1974年夏のロビン&バリー・ドランスフィールドの再開はある程度必然性のあるものだった。それと同時に起こったのが、兄弟のフォークロックというジャンルに対する姿勢の大変身であり、トラディショナル素材のエレクトリック化であった。ロビンはジョン・ピールのためのソロ・セッション用に自作で繊細な哀歌、‘It’s Dark In Here’を書いた。彼はその頃、自分の信念について語っている。“その頃(70年代初頭のミュージック・シーン)最も関心があったのは、リンディスファーン、ホースリップス、そしてミスター・フォックスのようなバンドだった。そこではフォーク・ルーツはそのプライドを垣間見せてはいたけど、自作曲っていうのは新しい試みだったんだ。バリーと僕はこれに大いに興味を持った。トラディショナル・ソングのフォークロック化はちょっと袋小路に入ってることも明らかだった―で、僕たちは自分たちの曲を書き始めたんだ。”

ロビンの大学の古い友人でベーシストのブライアン・ハリスン(以前、のちにユーリズミックスを結成するデイヴ・スチュワートと共にLongdancerに在籍していた―また二人はその前には北東地域でスチュワート&ハリスンというフォーク・デュオを組んでいた)を加え、トリオとなった彼らはDransfieldsとしてツアーに乗り出した。この頃のステージでバリーのフォークロック・コンセプト・アルバムのアイデアがゆっくりと軌道に乗り始めた(最終的にThe Fiddler’s Dreamで日の目を見る一握りの曲、主なところで‘The Ballad Of Dickie Lubber’It’s Dark In Here‘Up To Now’が1974年初頭のライヴ・レパートリーとしてすでにプレイされていた)。‘Violin’‘What Will We Tell Them?’含むさらなる新曲群は、1975年11月27日のジョン・ピール・ショーで、トリオとしてまず最初にレコーディングされた。しかしそれはクリスマス前の1週間は放送されなかったのである(そのため‘Christmas Is Coming’はこのアンソロジーで初お目見えとなった)。もう1曲、バリーによって新しく書き下ろされたばかりのグッド・ユーモア・ソング、‘You Can’t Change Me Now’は、アルバムのコンセプトからは、はずれる曲と考えられた。しかしそれにもかかわらず、この曲は当時のバンドのライヴ・ショーでは重要な1曲であり、その頃のBBCセッションでは必ずプレイされ、1976年1月のラジオ・ワンのIn Concertシリーズでは、パリ劇場でレコーディングもされた。

イングリッシュ・フォーク・サーキットにおける彼らの素晴らしい功績にもかかわらず、Dransfieldsは彼らの可能性を感じさせる楽曲群を見抜いてくれるレコード会社を見つけるのに苦労していた。しかし数多くのアプローチの末、ついに名高い英国フォーク専門レーベル、トランスアトランティックと1976年の初めに契約を交わした。アルバムをプロデュースすることになったブライアン・ハリスンは、彼の同僚であったLongdancerのチャーリー・スミスをドラマーとして呼び寄せ(チャーリーは当時60年代のヒット・グループで‘Falling Apart At The Seams’によって幾分息を吹き返したMarmaladeと活動を共にしていた)、大きな信頼を集めていたニック・キンゼイがエンジニアを担当することになった。

The Fiddler’s Dreamのセッションは1976年の3月から4月にかけて、バーネットのリヴィングストン・スタジオで行なわれた。そこでは小さな同志バンド(ロビンによればニック・キンゼイは事実上共同プロデューサーだったようだ)が、わずかなレコーディング予算を埋め合わせるため、目立たなくとも奇跡的な仕事をした。バンドの名前はわずかに修正され、Dransfieldとなり、The Fiddler’s Dreamは滞りなく1976年7月にリリースされた。予想通り惜しみない称賛が音楽週刊誌のフォーク評論家から送られたが、最初に述べたようにパンクがまさに爆発寸前の時であった。ロビンは簡潔に同意する。“僕らのタイミングはベストじゃなかった。”

しかしそれがどうであろうと、決意表明のオープニング・トラック‘Up To Now’(詞:“古いイングリッシュ・ミュージックが僕を捕らえてはなさない”)から、どこかフェアポート・ヴァージョンの‘Matty Groves’のクライマックス部分を思わせる雰囲気のあるラストの‘Violin’まで、The Fiddler’s Dreamはいつの時代においても偉大な1枚である。一方で表面的には70年代初頭のフェアポート/スティーライ・スパンのフォークロックが雛形として使用されてはいるが、兄弟自身のソングライティング・ヴィジョンとすぐれた発声法(‘The Handsome Meadow Boy’の最後の30秒ほどを聞いてみてほしい)は、ヒネリが加えられたアコースティック/エレクトリック楽器奏法に見事に共振している。それは誰の恩義をも受けていないThe Fiddler’s Dreamの絶対的存在としてのヒネリだ。

予想されたとおり、トランスアトランティックの不十分な宣伝予算と低セールスによって、The Fiddler’s Dreamはあっけないものとなってしまった。にもかかわらずしばらくの間は、フォーク・クラブ・サーキットにおける兄弟の長きに渡る人気が、あたかも彼らの活動を許可したかのように見えた。元Decameronのドラマー、Bob Critchleyが他のことで忙しくなったチャーリー・スミスと交代し、Dransfieldはツアーに出る前にアルバムのプロモートのために、もう一つジョン・ピール・セッションでレコーディングを行なった。“僕らはフランスに行って、楽屋でスティーライをぶっとばしちゃったんだ。”ロビンはコリン・アーウィンに打ち明ける。“イングランドに戻ってフェアポートのサポートを頼まれたんだけど、彼らのマネージャーがスティーライの事件を聞いて僕らの出演を中止させたんだ。”その代わりにフェアポートのマネジメントは、Dransfieldをトム・パクストンのツアーに同行させが、これは凶と出た。“僕らは落ち込んでツアーの終わりまでにあきらめたよ。”ロビンは認める。“‘ママとパパ’ばかりのオーディエンスはトムにとっては完璧だったけど、僕らには全く相応しくなかったね―彼らは音楽はおろか、まずそのヴォリュームについていけなかった。そんな状況ではライヴ・バンドは台無しになってしまう・・・”

彼らの大胆な実験は終わり、ロビンとバリー・ドランスフィールドは基本に戻り、1977年に1枚のアルバムをリリースした。ウィットに富んだ辛辣なタイトルが付けられたPopular To Contrary Beliefは、再び彼らをアコースティック楽器とトラディショナルな素材に立ち戻らせていた。兄弟は続く20年間を超えて散発的に活動を続け、The Fiddler’s Dreamがゆっくりとその偉大な幻のイングリッシュ・フォーク・アルバムとしての名声を打ち立てるにつれて、レコーディング・スタジオに戻るようになっていった。このアルバムが出た当時は全く時代と調和せず、1976年7月にリリースを予定していたミュージシャンたちのほとんどのアルバムよりも、はるかに年寄り臭く上品であった。それは90年代に一度だけリイシューされた時にロビンが記していた通りだ。聴くほどに不思議なアルバムだ・・・

デヴィッド・ウェルズ
2004年1月


コリン・アーウィンとフリー・リードのニール・ウェインに感謝の言葉を送る


ホームへ