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Nick Drake/Fruit Tree-The Complete Recorded Works/1979 Island Records Ltd. NDSP 100



君はあまりに深い
君は固いかすみを食べて生きている
君はずっと眠りを忘れている
君は張り詰めた空気の中を歩んできた

ジョン・マーティン―‘Solid Air’(ニック・ドレイクについてニックのために書かれた歌)


もし歌が会話になるのなら
きっとうまくいくだろう


ニック・ドレイク―‘Hazy Jane 供


スピーカーの仕様を最大限に活用したニューヨークのパンク・ロック・コンサートのあと、英国人プロデューサーのジョン・ウッドは楽屋へ向かう。彼はそこでスター・バンド、テレヴィジョンのリーダー、トム・ヴァーラインを紹介される。ウッドが驚いたことに、ヴァーラインは彼について全てのことを知っていた。「僕は長い間あなたのレコードを愛聴してきました」 ひょろひょろのブロンドのギタリストはそういい、彼の好きなアーチストの名前を挙げる:マガリグル・シスターズ、ジョン・マーティン、フェアポート・コンヴェンション。「でも」 ヴァーラインはいう。「一番はニック・ドレイクです」

「彼のレコードはどれも途方もなく素晴らしかった」 カクテル・パーティーでデヴィッド・ゲフィンはそういう。アサイラム・レコーズの創設者ゲフィンは、ジョ二・ミッチェル、ジャクソン・ブラウン、ローラ・ニーロらソフト・ロックの興行主だった。「それでも彼はこの国(USA)で完全に無視されている。ニック・ドレイクはスターになるべきだったと思うし、私は彼に手助けできたはずなんだ。私はアイランド・レコーズに彼のことをずっといい続けていたが、彼らは私を避け続けた。そうするうちに手遅れになってしまった」

英国の小さな村、タンワース・イン・アーデンで、モリー・ドレイクは電話に出た。相手はモリーの息子のファンでアメリカ人だった。そのファンの女の子は、バーミンガム近くのタンワースの町から電車に乗ってやって来た。電話帳に載っていた全てのドレイク名に電話をかけたあと、彼女はタクシーの運転手にタンワース・イン・アーデンかもしれないと告げられた。その地にはドレイク姓は1つしかなかった。彼女はニック・ドレイクの残り物を求めてテキサスからイングランドにやって来ていた。

「ニック・ドレイクについてどう思う?」 ‘ニューヨーク・タイムズ’のインタビューでそのロック評論家は尋ねられた。「ニック・ドレイク・・・」彼は何度かくり返し、思案し、こういった。「僕の記憶を呼び覚ますんだ」

写真がその特徴的な彼のたたずまいを暗示している。彼は身長6フィート3インチ(約190センチ)で、背を丸めて歩いていた。彼の手はとても大きく、指は美しかった。「ニックの第一印象は信じられないくらい優雅だったってことだね」 友人だったポール・ウィーラーは話す。「そのあとにボロボロの編上げの靴と体に合わない上着に気づくんだ」 普段の彼は黒のコーデュロイのズボン、黒の靴かブーツ、そして黒のスポーツ・ジャケットだった。そういったコスチュームを身につければ、たいていの人はこっけいな気取りに見えただろうが、ニックはなんなくやってのけていた。

もしニック・ドレイクがその短い人生の中であらゆる戦いに勝っていれば、彼は本物の野心作をものにできただろう。彼は首尾一貫していた。彼の衣服同様、その歌は病的にふさぎこんでいた。それでも彼はいくらかわがままだった。スタジオ・ミュージシャンだった若き日のエルトン・ジョンは、デモテープとしてドレイクの曲を録音した。彼は「美しくて忘れられない歌だ」と回想している。彼の歌の中には、何か心をかき乱す純粋さと、けがれのない素朴な姿が残されている。音楽的には、少年聖歌隊が歌うフォーレ(フランスの作曲家)の‘レクイエム’の冷えびえとした美しさがある。文化的には、60年代のカウンターカルチャーの壊れやすい純真さと共振している。記念碑として残す花のような性質ではないが、ニック・ドレイクの音楽は永遠にレコードに残るヒッピーのヴィジョンだ。その美しい音楽を聴けば、あなたは世の中の醜さに恥じ入ってしまうことだろう。

ニック・ドレイクは1948年6月19日にビルマで生まれた。中産上流階級の典型的な英国の家庭だった。父親ロドニー・ドレイクは英国の材木企業で働いていた。母親のモリー・ドレイクはノエル・カワード(英劇作家・俳優・作曲家)の流れを汲むアマチュアのソングライターだった。ニックが赤ん坊の時、家族はボンベイに移り、それから彼がまだ2歳にも満たない頃イングランドに戻った。向かった先は、コヴェントリー近くの田園集落タンワース・イン・アーデンにあった素晴らしい赤レンガの家だった。その広い家はアン王女様式で1912年に建設されていた。家の裏側は見渡す限り英国の田園風景が広がり、心地よい緑の丘へと続いていた。

ニックはマールバラ(イングランド南部)に送られるまでは、地元の学校に通っていた。マールバラのパブリック・スクールは彼の曾祖父、祖父、そして父親が通っていた。ニックは陸上競技のスターだった。彼は今でも破られていない100ヤード走の記録を持っている。マールバラで彼は13ポンドのギターを買い(両親はその値段にぎょっとした)、歌を書き始めた―それも物悲しい歌ばかりだった。その多くは彼のファースト・アルバム‘Five Leaves Left’に収められた。アルバムから外され、レコーディングされなかったのが“Magic”だ(訳注:実際はレコーディングされた)。“私は誰も愛さないように生まれた/誰も私を愛さない/背の高い草の上に吹く風だけが/朽ちた木に降りた霜だけが”―彼は多くの役を演じなければならない未熟な王女の歌を歌った。それは本当に悲しみを誘う青年期の不安を表していた。

彼は大学へ行く前に、フィッツウィリアム・カレッジ(ケンブリッジ大学の学寮の1つ)に受け入れられ、その夏をエクサン・プロヴァンス(フランス南東部)でフランス語の勉強をして過ごした。ニックは遊び仲間たちと付きあうようになり、車で北アフリカを旅して回った。それは素晴らしい夏だった。10月になると、彼は大学へ戻った。

ケンブリッジ大学はメランコリーを育むところだった。その緑の牧草地とゴシック様式の大学は、遠い過去をロマンチックに空想させ、10代のノスタルジアを刺激した。最初ニックはそれを愛していた。彼は陸上競技をやめた。あるいは彼はあまりに多くのフランス象徴派の詩を読んでいたのかもしれない。彼は黒づくめの詩人となり、マリファナを吸い、ギターを弾き、誰よりも先にランディ・ニューマン、ティム・バックリー、ヴァン・モリソンを聴いた。彼の書く歌はフランス象徴主義の影響を受けた月と海と風景が描写されていた。時折、彼は夜になると友人といっしょにサフォークの海岸へドライヴに出かけた。夜の闇の中で、彼らは打ちつける波の音を聞いて過ごしていた。

18歳の時、彼は世の中が自分を置き去りにしていると感じていた。新しい服を買ったり、髪をとくことを拒絶した彼は、自ら訪問者のように振る舞うようになった。なぜ彼は落ち着いてしまったのか?しかし彼は歩みを止めてしまったが、その動きは優雅だった。彼は身体的接触に不快を覚えるようになった。「彼がドアのところに現れたら、私は愛情を持って彼を抱きしめたいと思ったわ」 ニックの友人だったシーラ・ウッズは回想する。「でもできなかった」

彼の感性は盾のようになった。彼の友人たちは時々、ニックがホモセクシャルであることを抑えているのではないかと考えるようになった。これは彼の18歳の時の挫折感、プライヴァシーへの激しい欲求、他人の身体に触れることができない、身体的接触の拒否、女性への理想像、そしてガールフレンドができなかったことで説明できるかもしれない。しかし彼がホモセクシャルであったとしても(訳注:ジョー・ボイド始め多数は否定している)、彼はゲイからは程遠かった。彼は身体的癒しなど想像すらできないほど深く自己を抑圧していた。

自分の気持ちを伝えるにはあまりに内気だったニックは、その憂うつを正確に自分の歌に反映させていた。オーディエンスに向かって歌うことで、彼はコミュニケーションをとることができた。大学での最初の年に彼はメイ・ボール(毎年5〜6月にオクスフォードとケンブリッジ両大学で催される公式ダンスパーティー)でプレイした。それは学生によるダンスパーティーの上品なケンブリッジ版だった。デニムの衣装を着た彼はギターを弾きながら歌い、バッキングには黒のイヴニング・ガウンと白い羽毛の衣装を着た10数人の女性弦楽隊がついていた。ニックは飲み騒ぐオーディエンスとシャンペン・グラスの割れる音のする中、プレイし歌った。途中、ヴォーカル・マイクが壊れてしまったが、ニックは歌を歌い終えた。その歌は誰にも聞こえなかった。

ケンブリッジでのニックのライヴを見たフェアポート・コンヴェンションのメンバー(訳注:ベーシストのアシュリー・ハッチングス)は、プロデューサーのジョー・ボイドに彼を推薦した。ボイドがニックに電話をかけ、デモテープがほしいことを伝えると、ニックはにわかに活気づいた。その時20代だったボイドは、すでに地元の伝説的人物だった。彼はハーヴァードを卒業するとイングランドにやって来てウィッチシーズン・プロダクションズというレコード会社を設立していた。そこにはリチャード・トンプソン、ジョン&ベヴァリー・マーティン、インクレディブル・ストリング・バンドらが在籍していた。彼は所属アーチストたちに大きな関心を持ち、彼らの自我を育て、その音楽を育て、危機を救っていった。ニックのデモテープを聞いた時、彼はそのクォリティに仰天してしまい、その才能を確認するために何度も聞き返すほどだった。

ボイドはこの20歳の若者と契約を交わし、1968年、‘Five Leaves Left’をプロデュースした。そのファースト・アルバムのタイトルは英国のタバコ巻紙の表記だった‘残り5枚’から取られていた。つまり、もうじき巻紙を使い尽くすことを知らせるものだ。‘Five Leaves Left’は、その特異な首尾一貫性と独白的な傾向から、同時期にリリースされたヴァン・モリソンの‘Astral Weeks’と比較されてきた。しかしニック・ドレイクを特徴づけているのは、その喪失感―怒りを表現する能力だ。彼のまじないのような声は決して高揚することなく、詞は告発的ではない。彼の音楽は苦々しいわけでもなく冷笑的でもない。それは消極的な攻撃性でさえまとってはいない。

それでも彼はとても頑固な一面があった。「私がニックに強い印象を受けたのは、‘Five Leaves Left’の2回目か3回目のセッションだった」 ジョン・ウッドは回想する。会社は15人のオーケストラによる伴奏を加えようと、有名なアレンジャーを用意した。「ニックはみるみる苛立ち始めたんだ」 ウッドは思い出す。「彼はとても若かったし、最初はこっちのいいなりになるような人間に見えたんだ。でも彼はどんどんといらいらし始めて、最後には頑として譲らない態度になって、そのアレンジメントを却下した。彼はケンブリッジにロバート・カービーという友人がいるといった。ニックはカービーが自分の曲につけたアレンジメントがぴったりだと考えていた。ロバートはレコーディング・スタジオでの経験はなかったが、2週間後に私たちは数人のミュージシャンたちとともに彼とスタジオに入る手はずを整えた。最初の時より小さな楽団だったことを覚えている。そして私たちがびっくり仰天したことに、ロバートはとても素晴らしかったんだ」

‘Five Leaves Left’でのカービーのアレンジメントは、ストリングスと一部チェロ、バス楽器を多用したヘンデル以降のみずみずしいバロック・スタイルだ。“River Man”ではアレンジャーのハリー・ロビンソンが呼ばれ、ラヴェル(フランス作曲家)の‘ダフニスとクロエ’の渦巻くような豪華なアレンジメントが施された。しかし前面には常に感情を抑えたソフトなニックのヴォーカルとギターが配置されていた。それはムードや感情の変化を繊細に彫刻していくような最高のパフォーマンスだった。

アルバムは高い評価を受け、ニックはプロモーション活動をすることに同意した。彼はロンドン、サウスバンクにあるロイヤル・フェスティヴァル・ホールに、ジョン&ベヴァリー・マーティン、フェアポート・コンヴェンションとともに出演した。いっぱいになった会場で彼はいすに座り、オーディエンスの方を向かずにずっと下を向きながらギターを弾き、歌った。続いて彼は北方の8つのクラブ・ツアー含む一連のコンサートを行なった。しかし彼は意気消沈して帰ってきた。オーディエンスはプレイを聴かずにずっと飲んだりおしゃべりをしていた。

ツアーはニックにとって耐え難いものとなった。それでもスターダムの座は依然手招きしていた。‘Five Leaves Left’への評論家筋からの称賛に励まされたニックは、最初の1年だけで大学をドロップアウトした。彼の父親はニックに考え直すよう促した。「私はニックにケンブリッジにいることの安全性について長い手紙を書いたんだ」 ロドニー・ドレイクは回想する。「彼は安全こそが自分の嫌うものだといったよ」

ニックはロンドンに引越し、最初は友人の女の子と彼女の飼っていたサルとともに、ノッティンヒルのフラットで共同生活を始めた。それから彼はハムステッド・ヒース近くで1人暮らしを始めた。彼はヴィクトリア様式の建物の1階に住んだ。見上げるほどの天井からは1つだけ電球が垂れ下がっていた。冬になると部屋はこごえるほど寒くなり、彼はベッドからマットレスをはがし、ガスストーブまで引きずっていき、毛布を重ねて暖をとっていた。彼は1人で曲作りをしたいといっていた。

数ヶ月のうちに、彼は孤独感漂う‘Five Leaves Left’を前進させ、セカンド・アルバム‘Bryter Layter’の曲を書き上げた。誰も‘Bryter Layter’のことを陽気なアルバムだとは見なさなかったが、悲哀は乾いた自己憐憫(じこれんびん:自分に対するあわれみ)として抑え込まれていた。ジャジーなピアノのリズムと快活なサキソフォンとフルートは、メランコリックな詞をあざけっているかのようだ。ある曲では、その嘲笑は女性コーラスによってあからさまに表現されている;“オー、哀れな青年/しょげてしまって/オー、哀れな青年/からだが気にかかる”。この哀れな青年はなぜ心配しているのか?手がかりは輪廻の夢想である“One Of These Things First”の中で見つけることができる。ニックが“〜なのかもしれない”とつぶやく時、その不安定な声によって奇妙さは弱まり、他でもない濃厚なノスタルジアがその場を支配する。

“過去の面影を感じるかい?” ドレイクは“Hazy Jane 機匹婆笋いける。“時が過ぎ去っていくのがだんだん早くなると思わないかい?” 彼はこのアルバムの中でこれらの問いに対して肯定して答えている。ファースト・アルバムの見開きジャケットの中で、ハーフシャドウになった彼はじっと座っている。裏ジャケットでは、ニックが立っているわきをピントのぼけた通行人があわただしく通り過ぎている。‘Bryter Layter’の裏ジャケットでは、ハイウェイの車が走り去っている。いずれもニック自身は鮮明に映っていて、じっと過ぎ去っていくものを眺めている。プロフェッショナルな目で見れば、彼は時代に乗っていなかったといえるだろう。彼はそこにはいなかったのだ。

英国の伝統であるロマンチックな側面として、ドレイクの歌は祝いのテーマであっても、そこには悲哀が漂っている。それらの歌が祝うものは、喪失したもの、あるいは喪失しつつあるものだ。わずかな押し付けと田園風景の自然な姿の上に乗っかるコマーシャルな構造の中で、ニックは自分の任務を全うした―ウィリアム・ブレイクの野心作のように―

“一粒の砂に世界を見る/一本の野の花にある天国/手のひらにある無限大をつかみとれ/ひとときにある永遠も”

このヴィジョンが‘Bryter Layter’をマジカルに純真にしている。

“僕はこんなにすてきに夢中になったことなんてなかった” 

ニックは最高に美しい歌、‘Northern Sky’の中でそう歌っている。私たちは感じとる―これは純真さのマジックなのだと。ニックの歌の数々がこれほど悲しいのは、私たちがその魔法が解かれるのを知っているからだ。

プロデューサーのジョー・ボイドとエンジニアのジョン・ウッドは‘Bryter Layter’を彼らが作ってきた中で完璧なアルバムだといった。それがリリースされた時、ボイドはその傑作によってニック・ドレイクはスターになるだろうといった。しかし彼は間違っていた。アルバムは売れなかった。ニックはがっかりしてしまった。小銭をポケットに入れて持ち歩かなかったニック同様、金を毛嫌いする人たちにとって、商業的成功は象徴的意義を帯びていた。「彼は僕が会った中で、完璧にピュアで誠実な数少ない人間のうちの1人だった」 ロバート・カービーはいう。「もしかすると、彼は人々を変えることができると考えていたのかもしれない。でも彼の音楽が人々を変えることができないことを彼は悟ってしまった」 

ニックは親しい人間関係をほとんど築いてこなかった。現在の何100万という彼への称賛は、とうてい彼の理解の及ばないことのように思える。その後まもなく、ボイドはウィッチシーズンをアイランド・レコーズのオーナー、クリス・ブラックウェルに売却し、ロサンゼルスに移住した。金銭的にはニックに影響は及ばなかった。彼はそれからも週給20ポンドを受け取っていた。アーチスト的には、ブラックウェルは他の者と同じくニックのことを高く評価し、彼のレコードをずっと配給し続けていた。しかし状況は以前と全く同じではなかった。

「ジョー・ボイドが去った時に、ニックは大きなショックを受けたんだと思う」 父親のロドニー・ドレイクは回想する。ジョーはニックにないものを全て持っていた―洗練され、攻撃的で、成功を手にし、美女に囲まれていた。彼はニックのことを気にかけていた。そしてある意味、ニックは誰よりもジョーのことを気にかけていた。

「当時はそんなふうに考えていなかったよ」 ボイドはいう。「でもそのあと私は驚いてしまった。彼の両親がロサンゼルスにいる私のところへ電話をかけてきたんだ。両親はニックを精神科医に会わせたがっていたんだが、彼は嫌がっていた。精神科医にかかることで、彼は友人たちが自分に失望してしまうんじゃないかと恐れていた。それで彼が私の名前を出したから、両親はニックに電話で話してほしいと頼んできたんだ。もちろん私はそうした。彼はたまたま電話に出たかのように答えたが、受話器から出てきた私の声を聞いて驚いていた。私たちはしばらく会話した。彼はとても落胆しているといっていたから、私は彼に精神科医に会うべきだ、何も間違ったことじゃない、ひょっとすると良くなるかもしれないと助言したんだ」

精神科医は抗うつ薬を処方したが、あまり効くことはなかった。ニックは薬を飲むことをひどく嫌い、頭痛薬のアスピリンを飲むかのように断続的に服用していた。「私のフラットで彼と話をしていると、彼はよく‘キッチンに行って薬を飲んでもかまわないかい?本当にごめん、本当にごめん’っていってたわ」 友人だったソフィア・ライドは回想している。ロドニー・ドレイクはいう。「薬を飲むと多少は良くなるようだった。でもそれから彼は飲むのをやめて‘自分のやり方でやっていく’といった」

うつ病はますます進んでいった。それは単なる一過性の傷心や、一時期の不運に対する反応ではなくなっていた。その黒い霧は苦痛の3年間となって彼を覆うことになった。彼は何時間もいすに座り、手を握りしめ、ひざをピクつかせながら窓から外を眺めたり、自分の靴を見つめるようになった。仕事から戻ってきたソフィアが真っ暗闇の中でじっと座っているニックを発見する晩もあった。‘Bryter Layter’リリース後、彼は両親の家に戻ったが、時折ロンドンへ出て行こうと画策することもあった。たびたび車でドライヴに出かけ、気が変わり引きかえしてくるようになった。ことばを口にすることがなくなった彼は、質問されてももごもごとイエスかノー、あるいは‘大丈夫’、‘そうでもない’くらいしか発しなくなった。彼は神経質に笑ったかと思うと、急に口をつぐんだ。

「僕と同じような体験をした人に会えればいいな」 彼は友人のデイジー・バーリソン-ラッシュにそういったことがある。ブライアン・ウェルズにはこういっている。「僕には対処できない。皮膚がなくなって神経がむき出しなんだ」 もう1人の友人ポール・ウィーラーもその時のことをよく覚えている。「彼はとても孤立していた。彼は消えて無くなってしまうまでどんどんと引きこもっていった。どんどんとね」

ニックは時々何もいわずに家を出るようになった。悲観した両親は知りうる限りのニックの友人たちに電話をかけた―「ニックを見なかった?大丈夫かな?電話をしたことは内緒にしておいてね」 ニックは曲を書けなくなっていた。「いつも頭の中を音楽が通り抜けていくんだ」 彼は父親にそういった。依然、彼は書き始められないでいた。

アイランドの社長クリス・ブラックウェルは、ニックにスペイン沿岸にある彼の別荘を使ってはどうかと提案した。その後、ニックはエンジニアのジョン・ウッドに電話をかけ、ニュー・アルバムを制作したいことを告げた。

彼はアルバム‘Pink Moon’を二晩で録ってしまった。歌とギターと少しのピアノのオーヴァーダブ以外は一切何も行なわれず、ほとんどの曲はワン・テイクだった。ウッドは当然仮トラックだと思い、ニックにどうアレンジしてほしいかを尋ねた。「アレンジはいらないんだ」 ニックは答えた。「何の飾りもいらない」 アルバムは短く、ウッドはニックに追加の曲があるかを聞いた。「彼はそれで十分だと考えていた。彼にはもう曲がなかったし、それで契約を果たしたと考えていた。彼は正しかったんだ。私はあのレコードをひっくり返すときに短すぎると思ったことはないね。あの強烈さは時間で測れるようなものじゃないんだ」

ニックは‘Pink Moon’の曲を友人たちに向かってプレイすることはなかった。ほとんどの曲はとりつかれたように荒涼とし、痛々しいほどに憂うつだ。それでもレコードを締めくくるのは、新しい夜明けについての希望の歌だ。その響きは絶望ではない静寂を残している。ニックの最初の2枚をアレンジしたロバート・カービーは、次のように考察する。「‘Pink Moon’はニックの最高作だね。彼の個人的なことばで成り立ったアルバムは驚くべき地点に達している。曲を書いてアルバムをレコーディングした頃のニックは激しいうつ状態で、ほとんど口も利かなかった。彼は交差点にどうしようもなく立っていて、渡ることもできずに困惑していたんだ」

ウッドはニックに彼の望むとおりに完成させたテープをアイランド・レコーズに持ってくるように告げた。ニックはアイランドへ車で向かったが、玄関を通って中へ入っていくことができず、何もいわずに包みを受付に置いて帰ってしまった。数日後、誰かがその包みを開け、テープをかけたところ、それがニックのニュー・アルバムだったことが判明した。

‘Pink Moon’は彼のレコードの中で最も暗く難しい。他のレコードがみずみずしくゴージャスであるのに対し、‘Pink Moon’はその簡素さにおいて遠く隔たっている。青春期のポップ・アルバムにおいて‘絶望’はありふれたテーマではあるが、‘Pink Moon’はそれとも違う。

“君を愛していること/それはどうでもいいこと/君に会うこと/でも僕はそこにはいない” 

これは心地よさを伴ったわがままではない絶望を表している。そこにはぞっとするようなむき出しの美があふれている。これはあまりに早熟なアーチストの最後の仕事だ。

‘Pink Moon’のあと、ニックはさらに悪くなった。彼は自ら地元の精神科医施設に5週間入院した。彼は生きる目的が分からないといっていた。数週ごとに、彼はサフォーク州に住んでいたジョンとシーラ・ウッド夫妻のところへ車で出かけていったが、ウッズ夫妻の2人の子供たちが、ニックを散歩やチェスに誘うまで、彼は何時間もおとなしく座っているだけだった。彼はギターを弾こうともしなかった。「ニック、そんなに悲しいのならなぜ自殺しないの?」 一度シーラ・ウッズは勇敢にもそう尋ねたことがある。「臆病すぎるから」 彼は答えていた。「それに僕にはそんな勇気もないし」 彼女は別の機会に、過去にも同じように悪くなったことがあるかどうか尋ねた。「ないよ」 彼はいった。「変わってしまったんだ」

再びニックは曲を書けなくなった。彼は他にすることを探し始め、軍入隊を考えたが、面接で落ちてしまった。また彼はレコーディング・スタジオで働くことも考えたが、それもうまくいかなかった。「ニックはコンピュータ・プログラマーになることを考えていたよ」 父ロドニーは回想する。「私はその世界についてはよく知らなかったが、コンピュータを扱っていた会社の知り合いに急いで連絡した。それでニックはそこへ行って知能検査をパスして、グループ会社の1つが彼を雇ってくれた」 「彼は金曜日から働き始めたわ」 モリー・ドレイクは続ける。「月曜になると会社はニックをロンドンに送って、彼はホテルで1人暮らしをしなければならなくなったんだが、ホテルを出てどこかへ行ってしまった。すぐにいなくなってしまったんだ」

ニックはなぜ自分のアルバムが売れなかったのかを理解できなかった。怒りの気持ちが彼を巣食っていったが、彼はほとんどそれを表しはしなかった。まれに表に出すこともあったが、彼はすぐにがっかりしたようにしょげ返ってしまった。

ニックが怒りを表したのを最後に見たのは驚くべき人物だった。それはジョー・ボイドだ。ニックはもう一度レコードを作る用意があると告げたが、彼は昇給を望んでいた。彼は学生の小遣い程度の給料にうんざりしていた。ボイドはいつも彼に向かって、彼は最高のスターだといっていた。でもそれなら彼の印税はどこにある?なぜ彼はお金を稼げない?ボイドは驚いた。ニックが金のことを気にかけているのか?彼は信じられなかった。もちろんニックは彼が望むなら昇給していてもおかしくはなかった。クリス・ブラックウェルは彼のために何でもするようになった。しかしニックは現実に向かい合わねばならなかった。アルバムは利益を生み出してはいなかった。ボイドはその事実を理解できなかったが、バランスシートに記されていることは単純明快だった。

ニックは最後の4曲をレコーディングした。彼はその4曲に満足してはいなかった。そのうちの2曲―“Voice from the Mountain”と“Rider on the Wheel”は、‘Five Leaves Left’の頃を思わせるほどみごとだ。一方、“Black-Eyed Dog”はニックがそれまで書いてきた中で、最も冷えびえとする歌だ。彼が甲高いスキャットを発する時、彼の抱く恐怖が歌全体に行き渡る。

曲を書いた時の彼は病的なほど落ち込んでいた。彼がバッキング・トラックを録り終えた深夜のスタジオで、ジョン・ウッドは彼にいった。「詞に困っているようだね」 「うん」 ニックは答えた。「詞が浮かばないんだ。何に対しても感情が湧かない。泣きたいとも笑いたいとも思わない。自分の内側が死んだように無感覚なんだ」 彼は(ボイドのいる)ロサンゼルスに行こうと考えていたが、ボイドが思い直すように説得した。アメリカでコンピレーション・アルバムがリリースされた時(最初の2枚のアルバムはアイランド・レコードの廉価レーベル、Antillesからリイシューされていた)、トルバドールではレコードがかけられ、ニックのステージ写真のパネルが飾られた。彼がツアーをしなかったとしても、あるいはその孤独好きが彼の売りになっていたかもしれない。

その後、ニックは突然元気を取り戻した。彼はパリへ行き、セーヌ川に浮かぶ居住設備のある船に住み始めた。彼はその地を愛し、フランス語にみがきをかける決心をした。彼は母親のリンガフォン(語学録音教材)のレコードを借りた。「私たちはニックが元気になったと思うととてもぞくぞくしたわ」 母親のモリーは笑う。「だってニックはもう何年も幸せな時を過ごしていなかったものね」 彼は自分のレコードを作るのをやめ、他人のために曲を書くといった。フランス人女性歌手のフランソワーズ・アルディは、かつてニックに曲を書いてほしいと頼んだことがあった。その時の彼はひどい鬱状態にあったが、ひょっとすると今回、彼は本気で乗り出そうとしていたのかもしれない。

それは1974年11月25日だった。ニックは時々遅くまで寝ていたが、その日は午後になっても起きてこなかった。モリー・ドレイクは朝食のために2階までニックを呼びに行った。母親が息子の部屋のドアを開けると、ステレオの近くにリンガフォンのレコードが見えた。ターンテーブルの上にはブランデンブルグ協奏曲のレコードが載っていた。そしてニックはベッドの上で死んでいた。

検視補佐官は自殺だと説明した。ニックはトリプチゾールという三環系抗うつ薬を服用していたが、彼は過剰摂取していた。不眠症だったニックは睡眠薬としてそれを使っていた。モリー・ドレイクはそれが危険な薬だと疑ったことはなかった。「私たちはアスピリンや他の薬は注意して鍵をかけてしまい込んでいた」 彼女はいう。「でもニックが医者から処方された薬について考えたことはなかったわ」

ニックが自殺しようと思ったのかどうかは誰にも分からない。彼は遺書も何も残さなかった。彼が最後にパリから戻った時、彼は母親にカミュの‘シシュフォスの神話’を持ち帰ってきた。それは今でも母親の部屋の小さなテーブルの上に載っている。ニックの死後、彼女はそれを読んでみた。「ニックは私に何かをいおうとしていた違いないと思ったのよ」 彼女はいう。

それは自殺についての本だ。しかし決してそれを奨励するような内容ではない。それは不条理な世の中で命を絶つことに異を唱えた実存主義者の主張だ。カミュにとって、シシュフォスの神話は人生についての寓話だった―永遠に大石を山に押し上げる罪を負わされ、石が山頂に近づくたびに元のところへ転がり落ちる話だ。「重要なのは山頂に達することではない」―カミュはいっている。「重要なのは押すことだ」―と。

アーサー・ルボウ



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