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Nick Drake/Family Tree/2007 Bryter Music 1734041-1




最愛のニックへ・・・
ガブリエル・ドレイクより

親愛なるニック。あなたが死んで何10年もたってから手紙を書くなんておかしな気分だわ!それでもあなたは今でも私と、それに多くの人たちといっしょにいるし、私(とあなたを愛するみんな)はあなたに説明する義務があると感じている。

あなたに代わって、あなたの音楽に関してこれまで私が決めてきたあらゆること―許される範囲で―は、あなたの承認がもらえるものと確信したことに基づいて実行してきた。私は確かに紛れもない過ちを犯してしまった。あなたは自分の望みを完全にかなえるには、あまりに自分の生き方をし過ぎてしまったし、私にとってあまりに完璧に謎めいていた。それでも私はあなたの立場になって不十分だけどベストを尽くしてきたし、これからもあなたに代わって決めていこうと思う。もちろん、これまでに何度か私の管理を離れて決定されたこともあった。私は“著作権消滅”状態の中で、他の人たちがあなたの思い出とあなたの作品を傷つけていたそばで、どうすることもできないで立ちつくしていた。それはニック、残念だけど名声の代償ね。それはあなたの頑固な無欠さをもってしても防ぐことはできなかったのよ。

でも今、私はあなたが承認するかどうか全く確信をもてないアルバムのリリースを認めようとしている。そう、とにかくあなたがこのリリースの理由を聞いていたわけではないものに、私は許可を与えようとしている。

あなたが死んだ時、私たちは奈落の底へ落ちていった。ある程度までは、私たちはあなたといっしょにずっと落ちていた。私たち―お母さんとお父さんと私は、どうにかして這い上がらなきゃならないことは分かっていた。当時は人生なんて虚しい、これからはもう二度と笑うことなんてないと考えていたことを覚えているけれど。もちろん、それから私は笑った。深い悲しみはそんなに役に立たないものよ。あなたは本当に笑っている。その笑い声は永遠に変わってしまったかのよう。私たちはあなたの葬儀のあとに開かれたパーティーで笑った。私たちは会ったこともないあなたの友人たちといっしょに、あなたがいた時の喜びと、あなたが去ってしまったあとの荒地を体験して不思議な時間を過ごした。彼らの多くもお互いに会ったこともなかった。あなたは生きている間に、多くの人に喜びをもたらしたけれど、あなたが死んでからさらに多くの喜びを人々にもたらしたから、そのことをあなたが知ることができたらと思う。

でもあの奈落と、そこから抜け出そうとした日々を思うと、私にとってはまだたやすいことだった―あなたは私の息子ではなくて弟だったから。私には自分の人生と仕事があって、恋人もいた。全てがエキサイティングで、当時の私にとってはいつもが違う体験だった。私が過ごしてきた人生はとても恵まれていたけれど、それは逃げ出すんじゃなくて切り抜けることだった。全てが出発点だったにもかかわらずにね。

でもお母さんとお父さんにとっては・・・私は絶望、抑えられない罪悪感(感じるに値しないけど避けられないもの)、底知れない悲しみを想像することしかできない。二人は単純な勇敢さのようなものでそれを耐えていたけれど―そういった勇敢さは、戦争の恐怖に直面したことがあって、あまりに深く省みて自分にぜい沢を許さなかった世代的な特徴だと思う。お母さんはあなたの葬儀のあと、私たちがもう一度幸せな家族になるまで、ファー・レイズを決して離れないと言ったかもしれない。

なぜなら私たちは幸せな家族だったから―その家に住んでいた人たちは、人生の苦痛やフラストレーションや普通の悲しみや絶望やお互いの苛立ち(あなたと私はけんかばかりしていた)を体験しなかったとは言わないけれど。でもそういうことは、安定と正常さと愛と、そしてたくさんの笑いの傘の下で起こっていた。私は自分がばら色に輝く過去を過ごしていたと考えがちだけど、それはあの手紙がなかったらの話ね―私たち家族4人の手紙のこと(どうやって2人はあれを全て保存していたのかしら?でも私はお母さんが根っからの秘蔵好きだったことを知っている。私たちは彼女に似ているに違いないと思う)。今振り返ると、あそこは尊敬と愛情とユーモアにあふれていた。もちろん生活は私たちが何も欲しがらなかったことで助かっていた―ぜい沢な暮らしをしていたんじゃなくて、むしろその反対だった。実のところ、私はお父さんとお母さんがファー・レイズの家を買ったあと、2人はいくらかしばらくの間、お金に困っていたに違いないと思う。私はお母さんから何年もあとに、ファー・レイズは彼らの予算よりもかなり高かったことを聞いたのを覚えている。でもお母さんはファー・レイズが大好きだったから、お父さんは彼女のために買う決心をした。

私たちはしばらくの間、家の中でいくらか仮住まいした。私たちと一緒にインドからやってきた家具の紐を徐々に解いていったのを覚えているような気がする。リヴィング・ルームはまだ物があまりなかった―ピアノは最初からあったけど。私は東洋でもイングランドでもピアノがなかった家は覚えていない。ほとんどの家にテレビがあったのと同じくらいピアノは大きな存在だった(私たちの家にテレビがきたのは友人たちや近所の人たちよりだいぶ遅かった)。ほとんどの家族にとって、テレビは大きな娯楽だった。午後になると、お母さんがピアノの前に座っていたことを覚えてる?午前中は家事で午後は気晴らしの時間だった―たいていピアノの前に座って、新しい歌のハーモニーを作っていた。お母さんはいつも歌を作っていたような気がする―私が小さい頃はほとんどね。私は母親になったのと同時に彼女は歌を書き始めたんだと思う。たしかに子供がいないと子供についての歌は書けないわ。なぜならお母さんはいつも私たちについての歌を書いていたから。

でもお父さんもよくピアノの前に座って弾いていた。彼はとても美しい手をしていた!長くてがっしりした指はよく油で汚れていて、どんなに石鹸でゴシゴシこすってもとれなかった。土曜の午前中にゴシゴシやって汚れをとっていたのを見たことがあるわ。土曜の朝に庭で新製品の洗剤を使って汚れを落としていた(子供の頃、あなたはいっしょになってお父さんの手をゴシゴシやっていたのを覚えているような気がするけど・・・違ったっけ?)。それから彼も自作の歌を弾いていた―イングランドに戻ってから彼が曲作りをしていたかどうかは覚えていないけれど。でも若い頃に東洋にいた時の彼は、たとえば一編のオペレッタ(喜歌劇)なんかを書いていた―東洋に向かう船の設定で、彼が知っていた人たちがたくさん登場するやつ。お父さんは得意の思いやりのある軽い皮肉を交えて人々を観察していた。“Fishing Fleet”(男釣り艦隊:裕福な夫を‘釣り上げる’ために植民地に出かける若い女性のグループ)から、食い物にされてヘトヘトになったボーイや、アルコール漬けの老巧な人たちまで。ファー・レイズに来てからは、彼はあの素晴らしい低い声で自作の歌を歌っていたのを覚えている。

クリスマスとクリスマス・イヴの習慣を覚えてる?夕食前になると、みんな仕事をやめて家族全員が手や顔を洗って賛美歌を歌うためにピアノの周りに集まった。お母さんかおばのナンシーがピアノを弾いた。彼女の夫のクリスとお父さんはバリトンとベース・パート担当で、お母さんとナンシーはそれぞれソプラノとアルトだった(彼らは戦前戦中のビルマのポピュラー・コンサートでデュオとして歌っていたから、すごく手慣れた感じだった)。私たちもみなコーラスに参加した―あなたと私とおばあちゃん(お母さんとナンシーの恐ろしい母さんよ―彼女の夫はインドの事業でナイトの称号をもらった。彼女は英国がインド統治していた頃の典型的な女性だった。とてもスノッブで、ものすごい偏見の持ち主だった。時には手に負えなかったけど、それでもおもしろくて、気前がよくて、自分に対する憐れみなんて全くなかった人。かなりきちんとした環境に住んでいたけれど)。

それから参加した中には、カレン族の使用人で、ナンとノウがいた。彼女たちも私たちといっしょにイングランドにやって来ていたけれど、使用人というより家族の一員みたいなものだった(ノウはファー・レイズに来るまではイングランドに来たことはなかったけれど、ナンは何回か英国の家族の子守をするために来ていて、彼女は私たちがファー・レイズに来た頃は、お母さんよりも戦後の英国の生活事情に通じていた。彼女はすばらしい案内人-兼-教育係になった。ナンとノウは自分たちの賛美歌を歌った(カレン族はビルマ人とは違ってキリスト教徒が多かった)。無伴奏で歌うパートがあって、すごく高くてぴったりと調子が合っていて、リード楽器みたいな声だった。

この習慣は私たちが成人してもずっとほとんど変わらずに続いた。実際、あなたが死んだ年まで続いたと思う。その時あなたがどう思っていたかは分からないけど。多分あなたも私と同じように、義務みたいに感じていたんじゃないかと思う。それでも私としては過去とのつながりが感じられる居心地のよさを楽しんではいたけど、いつも変わりばえがしなくてイライラしたわね。もしかすると、これは両親にとってジレンマだったかもしれない。2人は望んでいた子供をたしかにもうけて、それから巣立ちさせる必要があった―まさに文字通りの(私たちの多くの友人たちは大人になって彼らの親たちの人生を繰り返していったけれど、私たちにはできなかったわね)。でもうっかり私たちの両親は、あまりに断ちがたいほどの愛情を私たちにそそいでしまって、自分たちの築き上げてきたものを時には無視したり、当時、私たちの周りにあった新しい考え方を理解することができなくなってしまった。

私の反抗は―あなたがそう呼んでいいというなら―私の選んだ男性の姿となって現れた。南アフリカ出身の私にとってのデ-ベット(南アのボーア人の将軍・政治家)よ。彼は息苦しい英国の階級社会からはあまりにかけ離れていたし、60年代の新しい考えを実践したアーチストだった。私たちの両親は彼のことを快く見ていなかった。それでも両親と彼は(特に彼は)、ギャップを埋めようと努力した。私は悲しかったけど、彼は私にとって本当に必要な人だったから(今でも)。

あなたは?マリファナを吸うことで気晴らしにしていた?それはケンブリッジを早くに去ることを選んだあなたの中での表明だった?あなたにとって断固とした決断だったと私は信じている。でも特にお母さんにとっては、あなたが彼女のお父さんと同じ道を歩むことが、どれほどの意味をもっていたかも知っているわ。もちろんあなたが本気だったってことも。それはあなたとお父さんの間の手紙と電話のやりとりで分かった―あなたが自分の進路指導員に1年の休学を求めたことも。それはお父さんのアイデア?それともあなた自身の?とにかくそれは受け入れられない妥協案だった―それは多分あなたが正直にその1年をプロのミュージシャンになるために使いたいといったからね。あなたとお父さんのやりとりはずっと続いた―最後にあなたがケンブリッジのことを時間の浪費だって書くまで。

今、私の目の前にあなたの手紙がある。あなたの礼儀正しいことば使いを読んでいると、あなたがそこにいるように感じる―「この点について僕がいうことは全てまるっきり恩知らずに聞こえると思う。でも僕は父さんが僕にしてくれたことに僕がとても感謝していることを分かってほしいと思う」 あなたの頑固さについては―「純粋に学問的な追求をすることは、今の僕にとってある意味無責任で、無益なこと以上によくない道楽を意味するものだから、そういうのとは違う“積極的”になれることが大事だと思う」 あなたは一生懸命に説明しようとしているし、絶対に動かされない人だから。お父さんはお母さんとともにとても残念だと思うと返事を書いたけど、2人はいったん事が決まれば、あなたのじゃまはしなかったし、あなたへの愛情とサポートを捨てることもしなかった。

それからあなたは私の視界から消えていってしまった―しばらくの間、ロンドンで私とフラットを共有していたにもかかわらず。他の人たちはあなたがどこにいるのか知っていたけれど、事情を明らかにするのは彼らの役目ね。

この手紙のわけに戻らなきゃ―といってもまた少し脱線するけど。

私たちは友人たちよりもずっとあとまでテレビを持っていなかったかもしれない。でもそれは私たちが新しいテクノロジーに断固反対していたからじゃなかった。お母さんはそうだったかもしれない。彼女はいつも変化に対して懐疑的だったから。でもお父さんは技師だったから、新しいアイデア商品には興味を持っていた。ある日、彼は巨大な緑色のトランクのようなものを抱えてよろよろと仕事から帰ってきた。それは初期のオープンリール・テープ・レコーダーで、国産では市場に出回った最新型のレコーディング・マシンのひとつに違いなかった。たしかに友人の誰もそんなの持っていなかったわね!お父さんは家族みんなを録音した。あなたが話したり、かん高い声で歌ったりしたのを録音したテープが今でも残っている。

あなたもあのマシンに魅了されて、お父さんと同じくらい上手に使えるようになった(あなたはお父さんの技術的な才能を受け継いでいたのだと思う)。あなたはそれを使っていたずらしていた。私たちがあなたの録音に出くわした時、あなたは10歳くらいだったに違いないわ。あなたは誰もいない時に、まじめくさって「これからベートーベンを弾きます」って告げてから、自分で弾かずに“月光ソナタ”のレコードをかけた。それからあなたは少し大目玉を食らったと思う。なぜならそのニック・ドレイク―別名ウィルヘルム・ケンプ(ドイツのピアニスト)の長い録音が、あなたの姉の大事な詩の朗読か何かを全部消してしまったから。

でもあなたが録音した中で「月光ソナタ」はいい評価を受けていた。あなたがあれを編集した時いくつだった?8歳?10歳?とにかくあの時のあなたの趣味は幅広くて、あなたの目も確かだった―“エルガーのEnglish Music for Strings―すてきだった:パドモアのLast Train to San Fernando―すばらしいギター・プレイだった:CドハーティのMakin’ Love to You―とても感傷的だった”

クラシックとジャズとポップ全てにあなたは興味を持っていた。学校であなたはクラリネットを選んで、モーツァルトのケーゲルシュタット・トリオ(クラリネット、ヴィオラ、ピアノによる)がプレイできるくらいに上達した。アマチュアだったけど素晴らしいヴァイオリン/ヴィオラ・プレーヤーだったおばのナンシーと、クラシック・ピアノ・プレーヤーで軽々ジャズも弾いてしまうおじのクリスといっしょに。それでお父さんがそれを録音した。その時までにはレコーディング・マシンはもっと小さくなって性能も良くなっていたと思う。

もちろん、あなたは独学でギターとサキソフォンも身につけた。あなたが死んで何年もたってから、私はあなたにギターの基本を教えていたあなたの友人に偶然会った。彼はとてもいらいらしたといっていたけれど、あなたは新しい楽器を持ってたった半年で自分の思い描くよりもうまく弾けるようになっていた。

でもあなたは学校にいる時にグループを結成してプレイしていたけど、私はあなたがその時に曲作りをしていたことは覚えていないわ。あなたの歌は、あなたが何人かの同級生たちといっしょに送られていたエクサン・プロヴァンス(フランス南東部)で生まれた。それは高校と大学の間の不思議な期間ね。その時期に中流階級の多くの子供たちが外国に送り出されていた。表向きは外国語を身につけるためだったけど、実際は卵の殻を破って羽根を乾かして空へ飛び立つためだった。そうニック、あなたも飛べるようになった。でももしかすると、あなたもイカルスのように太陽に近づきすぎたのかもしれない。

それでも私はあなたがエクスから戻ってきた直後のことを鮮明に覚えている。その時、あなたはファー・レイズの居間でお母さんとお父さんと私のために、あなたが作った歌を3曲ギターを弾きながら歌ってくれた。とても驚いたしわくわくしたけれど、いくらか予想していたことだった。お父さんとお母さんには思ったとおりの展開だったようだった。私が一番良く覚えているのが“Princess of the Sands”―私にとってはあなたのエクス・ソングの中で永遠の1曲。私たちはどれも美しいと思った。でもその時私たちがそういったら、あなたは「まあね」って言ったと思う。お父さんとお母さんはいつもあなたの才能に絶対的な確信を持っていた―2人の持っていた偏見が少しじゃましていたにもかかわらず。それでも2人は自分たちの音楽的才能を自覚していたから、そう思えたのよ。

あなたの初期のホーム・レコーディングを録ったのは誰?あなた自身?お父さん?あるいはその時々で2人が録ったのかもね。このレコーディングが残っていたのをあなたは覚えてた?もしかしたら忘れていたかもね。なぜならあなたはすごい完全主義者だから、一度録ったやつを全部消しただろうから。あるいは絶望的な無気力状態だった最後の頃で、あなたはもはやどうでもよくなってた?いずれにせよ、あなたが死んでもこの貴重な作品群が残っていることは、私たちにとって励みになる。

それからお父さんとお母さんにとっては、もうひとつうれしいことがあった。若い人たちがファー・レイズの戸口に定期的にやって来るようになったのよ。彼らはあなたのファンで、ほとんど見込みがないのに、あなたのアルバムを発見した人たちだった。たしかにあなたのアルバムは派手に宣伝されたわけじゃなかった。もっともなことだけど、あなたのレコード会社はひっそりと死んでいった1人のアーチストの宣伝をする時間もお金もなかった。でも彼らの名誉のためにいえば、彼らはあなたのアルバムを廃盤にしなかったわ。そして驚いたことに、世の中にはあなたのレコードを買う少数の人たちがずっと存在した―ちょっとずつ印税が発生するようなね。私はその少数のファンの人たちがあなたの名声をどんどんと高めていったと信じているし、そのこと(彼らのこと)は一生忘れない。彼らは献身的な熱意を込めて、あなたの音楽を口伝えに広めていったに違いない。心に触れて癒してくれるあなたの音楽の力がとても大きかったのは、とりわけ彼らがあなたと同じようなうつ病を経験した人たちだったからよ。このことはあなたに大きな喜びをもたらすと思う。

それで彼らはあなたのお墓参りをしに、ファー・レイズにやって来た。それほど多くの人たちがやって来たわけじゃなかったけど、英国中からやって来たし、たしかに世界中からでもやって来た―アメリカ、イタリア、フランス、オランダからも。時には見かけの変わった若者もいた―精神的に傷ついた人や長旅で汚れた格好の人など。でも彼らはあなたのスピリットや心に出会えることを願ってやって来たし、両親は彼らを大歓迎していた。お母さんが突然の訪問にどれほどお手上げ状態だったか知ってる?彼女は彼らを素晴らしくもてなしていたけれど、不意の訪問のことは嫌っていたし、私たちは友人たちを連れて行くことはできなかった。そうね、彼女はあなたのファンが来るたびに変わっていった。彼女は不意な訪問にもすぐに対応できる達人になった。食事を素早くこしらえてベッドもすぐに用意して・・・。ピアノの上に花なんてなくてもかまわないわってね。お父さんはいつも若い人たちと彼らの旅に興味を持っていた。彼らが実際に経験したことや精神的なことなど。お父さんは彼らが自分のことを話せるように、堅苦しい雰囲気をほぐすのを楽しんでいた。彼はあなたやあなたの音楽を理解することと、あなたの音楽が訪問者たちにとってどれほど大きな意味があるのかを知ろうと、とても真剣になっていた。

もちろんお父さんは彼らに音楽部屋を見せた―昔は外科医の手術室で、私たちがファー・レイズに移ってきてからは何年もがらくた部屋だったところ。でもついにMusic Roomになった―あなたのアップライト・ピアノが置かれたから(そのピアノはおばあちゃんからのプレゼントで、彼女はたまたま手に入ったお金でそれを買ったといっていた)。それからあなたとお父さんのレコーディング・マシンも置いたから(あの古い緑色のトランクよりもかなり性能がいいマシンだった)。あなたの熱狂的なファンを目の前にした時に、お父さんが彼らにあなたのホーム・レコーディングを聞かせたのは全く自然なことだったでしょう。彼らがそれをコピーさせてくれと頼んだ時に、お父さんが喜んでOKしたのは、たぶんお父さんは自分でコピー操作できることがうれしかったのだろうし(当時コピーすることは今よりも珍しいことだった)、あなたの音楽がもっとよく知られるようになることを望んでいたからだと思う。なぜならニック、あなたに分かってもらいたいのは、当時、私たちにとってあなたのアルバムはあまりにたやすく消えてなくなって、あなたが永遠に忘れ去られてしまいそうに思えたから。それは私たちの悲しみがさらに大きくなってしまうことを意味していた。

でも私たちはお人好しだった!私たちはブートレグなんて言葉は聞いたこともなかった!たとえ私たちが知っていたとしても、あんな雑音の多い録音に誰もが興味を持つなんて私たちには思いもよらなかったでしょう。もしあなたが知っていたら、両親には聞かせてもいいっていう衝動に駆られても、世の中に出すことは決してしなかったと思う。あるいは、あなたの名声が上がるにつれて、あのテープを現金に変える機会をうかがう人たちのことを簡単には許さなかったでしょう。私はそれがファー・レイズに訪ねてきた人々の1人じゃないと思いたいけど、もしかすると彼らからテープを借りた彼らの友人なのかもしれない。たしかにひどい音のブートレグは、コピーのコピーか、またそのコピーのような音質だし、そのうちの何曲かはあなたでさえない!それはあなたに対してだけでなく、あなたの熱心な支持者たちに対しても裏切り行為のように思える―それも耳障りな状態をできる限り修正することもなしに。

それで私たちはエクスのあなたの友人が奇跡的に持っていたあの当時の録音と、私たちが持っていたオリジナルのホーム・レコーディング(幸い、まだ私が持っている)と、ロバート・カービー所有のテープを確保した。あなたのケンブリッジの友人で協力者だったロバートのことは、あなたがお母さんとお父さんに宛てた手紙でこう書いている―“とても素晴らしい仲間。ハイドンかモーツァルトか誰か偉人のような風貌で、かなり背は低くてがっしりしていて、ウェーヴのかかった長髪で、縁なしのメガネをかけているけど、彼は僕の好みの音楽に完全に通じていて、‘Day is Done’に美しいストリング・カルテットのアレンジメントを施してくれた。今は‘Time of No Reply’にとりかかっている。”ってね。とにかくニック、私たちは全てをふるいにかけてベストを選んだ。あなたを担当していた素晴らしいサウンド・エンジニアで誠実な友人のジョン・ウッドの力を借りて、私たちは使えるだけの最新のテクノロジーを駆使して1枚のアルバムを作った―ひょっとすると、あなたが容認してくれるだけのアルバムになったかもしれない。

私たちがお母さんの歌を何曲か入れたのを、あなたが認めてくれることを強く望んでいる。もしあなたが生きていたら、あなたは自分の音楽的ルーツがお母さんにあることを認めると私は思う。私は彼女の歌があなたの歌の仲間として同居するのはふさわしいと思う。この点について、ジョー・ボイドもたしかに私と同じ意見ね。今回のプロジェクトで1人だけ、あなたの知らない人が参加している。ぜひ会ってほしかったんだけど、彼の名はカリーといって数年前に運命的な出会いをした。それから私の夫のデ-ベット。彼はあなたのどんどんと価値を増す遺産を管理するのにとてもふさわしい人だと思う。もし彼があなたのマネージャーで、あなたの遺産の世話をするように、あなたのことも世話することができていたら、ニック・ドレイク・ストーリーは少し違っていたかもしれない。

ニック、あなたにはできると思う―“Tout comprendre c’est tout pardonner”(全てを理解することは全てを許すこと)。この状況で、あなたが“Family Tree”を承認してくれることを強く願う。さもなくば、少なくともしかめっ面で笑いながら見ているのなら、これはあなたが「From the Morning」で予言したとおりに起こったことだということを分かってほしい―“僕たちは今よみがえる 僕たちはどこにでもいる”


あなたを愛する姉より

ガブリエル



ソング・オブ・エクス
ロビン・フレデリック

1967年、フランス南のエクサン・プロヴァンスにて:私が覚えているのは、突然で爆発的な自由の精神。外国の学生の一群が町の端から端へと車で移動し、様々な言語を話しながらカフェに落ち着いたり、噴水の周りに集まったりしていた。大昔の黄褐色の建物は、安物のモーターバイクの騒々しい音とストリート・ミュージシャンたちの歌を反響させていた。

私たちは逃亡者だった。育ちのいい英国人たちは、寄宿学校の青白さを必死で捨てようとしていた。ドイツ人の学生たちは、日差しをいっぱいに浴びた(ベルリンの)壁に対抗し、わざと前かがみになり、その堅苦しいゲルマン魂をゆるめようとしていた。アメリカ人たちはカラマズー(ミシガン州の都市)といった故郷のことを忘れようとしていた。中産階級のアメリカ人たちは、次第にみずからをボタンダウンのスーツの中へと押し込めていった。私たちはそこにあった賃貸のフラットで、ルームメイトや新しい恋人といっしょに住み、そこでは子供時代のルールはもはや存在しなかった。私たちの多くは、自分たちのことを18歳か19歳の息吹を持った集団だと考えていた。エクスで私たちはついに思いのままに感情をさらけ出した。私たちは興奮に満ちた空気を胸いっぱいに吸い込み、このすばらしい新世界で周りを見回し始めた。私たちはそれで何をしようとしたのか?何をしようとしなかったのか?

ゆっくりと私たちは、スラングとちょっとした独特な様式を選び出して融合させていった。私たちは新しいやり方を求めながら互いに研究した。カーニバルの色彩とエキゾチックな特色の中では、1本のギターを持ったアメリカ人の女の子はそれほど興味深いものじゃなかった。私はカリフォルニア・ビーチの日焼けした肌を落として、2着のヒッピー・ドレスを縫い合わせて、エクスのクール・ミラボーでモッド・パンツスーツとフレンチ・ミニ・スカートを買った。私は自分が誰なのか決められなかったし、いろんな人間になりたかった。そういう雰囲気の中で、フランスの学生たちがプレイしていたジョニー・アリディやジョージ・ブラッサンから、バスカーたちによるアメリカのブルースやフォーク・ソングまで、音楽も同様に折衷的だった。

地元のクラブで、私は普通のブルースやフォーク・ナンバーに、自分のオリジナル・ソングを織り交ぜて歌っていた。ある晩、ギグのあとにニック・ドレイクが私に自己紹介した。その後、数ヶ月にわたって、彼はギターを持って私のフラットに現れるようになって、よく遅くまで音楽をプレイしたり、ワインを飲んだり、あればマリファナも吸っていた。たいていのフォークシンガーたちと同じように、私たちは同じたくさんの歌を知っていたけど、いっしょに歌ったことは覚えていない。ニックはよく自分の歌のテンポやリズムの実験をしていた。いっしょにプレイするのが難しいような(あるいはそれが目的のひとつだったのかもしれない)。私は自分の歌をプレイすることを好んでいたし、彼はそれを聴いて満足しているようだった。プレイしている時の彼にシャイな印象は持たなかった。彼は自分に自信を持っていたし、誇り高い鳥のように自分の羽根を誇示することを好んでいた。

私たちと違って、ニックの服装は一貫していた。彼の髪は少しずつ伸びていったけど、ジーンズと白いシャツと黒のぴったりしたジャケットは決して変わることがなかった―彼は自分の世界を持っていた。自由と混沌の中で、彼は常にじっと静止しているかのようだった。それでもゆっくりと彼は自分のヴィジョンにあった音楽の形をととのえていった。ニックがこの時期に録音したものを聴くと―このCDの多くはそのエクスから―音楽の衣装部屋で試着する彼の姿が見える。何10年もたって‘Five Leaves Left’を聴くと、その内容が必然だったように思えた。そうでしょう?そのアルバムは、ニックの抑制されたスタイルと様式に完全にフィットしている。でもあの頃は必然ってわけじゃなかった。これらのレコーディングが興味深いのは、ほとんどの曲が彼がアイランド・レコーズで生み出した3枚のアルバムには入っていないってこと。これらのトラックは、インスピレーションと意志の力で彼を導いた音楽的過程と彼の探究心を示していて、それによって彼はついに自分自身のイメージにふさわしい歌をものにすることができた。

フォークシンガーとしてのニック・ドレイク

私たちの世代をフォーク・ミュージックに引きつけたものが何だったのかは、明白で分かりやすいものじゃないかもしれないけれど、何年たっても私はフォーク・ソングの強力な引力を思い出すことができる。そこには純粋さと誠実さと飾り気のなさと、そして私たちの不安を定義づけていた共同体意識が存在した。そこには私たちの人生についての偽りのない気持ちが表れていた―私たちは十分な食生活を過ごしていたのに、より深い飢えを満足させていたようには見えなかった。

グループになって歌うことは、フォーク・ミュージックが私たちにもたらした連帯意識の中で大きな役割を果たしていた。“Michael Row the Boat Ashore”のような歌の数々は、みなで容易に歌うことができた。それらの歌は、以来レッテル付けされてきたような‘音楽的食物連鎖の最低水準’の汚名は持っていなかった。“All My Trails”、“Kumbaya”やその他のアメリカ南部のスピリチュアルは、代々引き継がれて教会やコミュニティで歌われ、ついには公民権運動の一部となって、1960年代初頭のアメリカの政治的風景を変化させる手助けをした。

簡単に覚えられるこれらの歌のたやすさが、またたく間に広がる要因だったし、1960年代中期、すぐにレパートリーをほしがったより多くの10代がギターを手にすることにつながった。ソングライターとして、私たちはそこから経験を積んでいった―時にはボブ・ディランのように、自分たち自身で詞を書いてメロディを当てはめながら。ニック・ドレイクがこれらフォーク・スタンダードを歌っていたことは想像しにくいけれど、その原因は私たちがアイランドに残した彼のアルバムに入っている精巧で孤独な歌のベールを通して振りかえるから。当時エクスで彼は歌を書き始めたばかりだったし、フォークの影響は彼の未来の方向性を形作るのに役立っていた。

ニックは様々なソースからフォーク・ソングのカヴァーを選んだ。ジョン・レンボーンやバート・ヤンシュのようなブリティッシュ・シンガーソングライター/ギタリストたちはフォークの規範から抜け出して、独自の声とスタイルを見つける過程にあった。1965年にリリースされたジョン・レンボーンのセルフ・タイトルのアルバムは、当時彼が開発した特徴的なギター・スタイルとともに、“Winter Is Gone”や“John Henry”のようなトラディショナル・フォーク・ソングを含んでいた。“Strolling Down the Highway”はシンプルな構成とフォークにインスパイアされた詞のテーマを持ったキャッチーなバート・ヤンシュ・ソング。これはよくストリート・ミュージシャンたちにカヴァーされていた。ニックはヤンシュの1965年に出たセルフ・タイトルのアルバムを持っていて、それを研究して、私が彼といっしょにいた期間にその他の曲もプレイしていた。興味深いのは、彼がプレイしていなかった曲。ヤンシュのグレイトなインストゥルメンタル・トラック、“Smokey River”と“Casbah”もそのアルバムに入っている。私はこれらのトラックもニックがエクスの自分の部屋で長い時間をかけて練習してコツをつかんだんじゃないかと思う。ジェレミー・メイスンのような友人たちは、その頃ニックが絶えずギターのチューニングを変えているところを聞いていた。その証拠はのちの“Three Hours”や“Cello Song”で現れることになった。

ボブ・ディランの“Tomorrow Is A Long Time”は、絶えず(うんざりするほど)いろんな人にカヴァーされた。ニックはある晩、私が彼のレジデンス・セクスティウスに友人といっしょにいるところに訪ねていった時に、この歌を私のためにプレイしてくれた。私はこう思ったのを覚えている―“彼はこの歌にどんなリズムをつけたの?!!” 彼はディランのストレートなフィンガーピッキングを、軽くてブルージーで、歌が弾みながら勢いよく前進するような3拍子のリズムに置き換えていた。彼は最初の何行かの詞をとちっているけれど、その風変わりなギターのリズムはミスってはいない。リズムは常に一定を保っている。

ジャクソンCフランクの歌は、1967年春の間どこででも聞かれていた―“ベイビー、ボートに乗ってイングランドへ、あるいはスペインへ”―最近、ブリジット・セント・ジョンが電話越しに私に歌ってくれた時は、思わず「ああ、みんな知っていたわ!」といってしまった。その“Blues Run the Game”のような歌は、またたく間にシンガーからシンガーへと伝わっていった。私はそれをどこで覚えたのかさえ思い出せないけど、もしかするとニックからかもしれない。ニックの音楽的発展にフランクが影響を与えたのは間違いない。興味深いのは、たった1曲が大きな影響力を持っていたことが突き止められる点で、それが“Milk and Honey”だった。3拍目に始まる風変わりでメロディックなフレーズ、ギターのピッキング・パターン、悲しみと喪失に取り組んで受容する感覚、そして四季に言及する詞、それら全てがのちのニックの歌に見られるものだった。実際、彼は“Day is Done”を書く時に、“Milk and Honey”をひな型として使っていたし、この2曲は音楽的によく似ている。

エクス・テープで彼は“Milk and Honey”をフランクのオリジナルとは全く違うブルース・スタイルでプレイしている。似たようなリズム・パターンは、のちに“Man In a Shed”のメジャー・キーの中に現れている。ニックがジャクソンCフランクと他の当時のフォークシンガーたちから取り上げなかったひとつが、“Here Come the Blues”のような歌の“さまよう男”のイメージだった。ニックを除く私たちみなは‘南部行き列車に乗って出発した’ように思う。彼は歌の中で、私たちみなが彼の中で見過ごしていた部分に特に目を向けていた。

究極的に青白いブルース

私がエクスでニックのプレイするブルース・ギターを聴いた時、彼はすでにそのスタイルを完璧にマスターしていた。彼はコード・チェンジする時にたやすくつなぎ合わせるブルース・リフを何10も知っていた。もちろん彼のギター・ワークの特徴だった安定したリズム・キープをしながら。ニックが好んだギター・スタイル―ベース弦でソリッドなビートを刻みながら、高音弦でブルース・リフをプレイする―は、ピードモント・ブルースと呼ばれるものだった(Piedmont:米国大西洋岸の海岸平野とアパラチア山脈との間の高原地帯)。それはデルタ・ブルースのリフに、ラグタイム・ピアノのリズムを混ぜたものだった。ジョッシュ・ホワイトの初期のブルース録音がそのサウンドの好例。

1967/68年のホーム・レコーディングにニックが収録した2曲は、彼が聞いていたかもしれないデイヴ・ヴァン・ロンクのアルバム、‘Ballads, Blues and a Spiritual’(Folkways F-3818)に入っている“My Baby’s So Sweet”と“Black Mountain Blues”で、もう1つがヴァン・ロンクのオリジナルの“If You Leave Me Pretty Mama”だった(“Cocaine Blues”については、1960年代半ばに多くのヴァージョンが出回っていたので、これが唯一のソースとはいい切れない)。エクスのルームメイトだったジェレミー・メイスンは、ジョン・レンボーンとバート・ヤンシュのアルバムと並んで、デイヴ・ヴァン・ロンクの音楽が彼らのフラットで流れていたことを覚えている。

ヴァン・ロンクの砂利のようなギター・パフォーマンスは、この4曲の生でアーシーなルーツを感じさせるオリジナルのスピリットを保持している。一方で、ニックのアレンジメントは複雑で洗練されている。彼の豊富で熟達したブルース・ギターの語彙にもかかわらず、誰もニックのことを本物のブルース・プレーヤーと間違えることはなかった!むしろ彼の速くてリフでいっぱいになったギター・アレンジメントは、友人たちを楽しませたり、ストリートでバスキングするのに完璧だった―観光客たちは突然立ち止まって何フランか投げこんでいた(1フランあれば大学のカフェテリアでランチにありつくことができた)。これらブルース・ナンバーで、あの時のニックが人を引きつけるショウマンだったことが理解できる。

私はニックに会う数ヶ月前に、“Been Smoking Too Long”を書いた。彼はすぐにこの歌を取り上げて、彼らしい流れるようなブルース・スタイルでプレイし始めた。ほとんどすぐに彼は、私が書いた詞“Got the marijuana blues(マリファナ・ブルースを手に入れた)”を“Got no other life to choose(他に選ぶ人生はない)”に書き換えた。彼は私の手書きの歌詞を持っていたから、オリジナルの詞を知っていたし、彼はカヴァーした他のブルースで詞を書き換えるようなことはしなかった(彼が詞を変える時は、普通レコードで詞の聞き取りが難しい箇所だった)。この方が効果的なブルースの詞になると彼が感じたのか、個人的な表明としてそうしたのか、あるいはその両方だったのかは私には分からない。

ソングライターとしてのニック・ドレイク

“Strange Meeting 供匹蓮音楽的にはフォーク・ソング・スタイルにとても近い。降下するベース・ラインとコード・チェンジは、“Winter Is Gone”のニックのアレンジメントを思い出させる。マイナーからメジャー・フィールへの移行も“Winter Is Gone”のそれを思わせる。当時ニックがカヴァーしたほとんどの歌同様に、それはブリッジなし、あるいは独立したコーラスの繰り返しのメロディで成り立っている。それはニックがエクスでプレイしていた歌が由来になっていることは明らか。興味深いことに、それは彼が数年後に‘Pink Moon’に収録したシンプルなフォークのフォームをすでに示している。

エクス・テープの“Strange Meeting 供匹亡悗靴董▲縫奪はこういっている―「これはシュールレアリストとしての僕の歌。おかしな夢みたいな」 歌詞はなるほどシュールで夢のよう。ニックは映画の目線で、地平線の彼方から自分の足元の泡と小石の一つひとつまで、さっと移動する場面を設定している。その特徴はマグリット(ベルギーのシュールレアリスム画家)のよう―無言の女、失われたメッセージ、任務、見知らぬ者同士の出会い。私はその年にエクスで上映されたアラン・レネのLast Year at Marienbad(1961)のようなシュールレアリストの映画を思い出さずにいられない。そこには時間からの断絶と鋭利な刃のような性質が同居している。私は人々がこの詞を単なる青春期のラヴソングと解釈して過小評価していると思う。

もちろんそこにはウィルフレッド・オーエン(1893-1918 英国詩人:第一次大戦をうたった戦争詩人―戦死)が“Strange Meeting”と名付けた力強く、忘れられない詩の存在がある。マールバラで英文学を専攻していたニックは、たしかにそのことを知っていた。またオーエンの詩は夢に関係しているが、それは戦争と死の夢だった。両方の歌の夢に関する特色以外に、私は2つの間の説得力ある類似点は見出せない。“Strange Meeting”はこの歌にふさわしいタイトルだし、ニックにはもう1つこのタイトルをつけた歌があったから、彼は区別するためにナンバーを振ったのかもしれない。

ニックがエクス・テープに収めたもう1つのオリジナル・ソングが“Leaving Me Behind”だった。これと“Strange Meeting 供匹呂曚箸鵑疋縫奪が書いた最初の2曲で、それほど異なっていないと思われるかもしれない。しかし“Strange Meeting 供匹枠爐カヴァーしてきたフォーク・ソングから派生したものであるのに対して、“Leaving Me Behind”は他の何とも似ていない。ここでニックは自分独自のサウンドに手を伸ばし始めている。

速い1-2-3, 1-2-3, 1-2のピッキング・パターンによるギター・パートは、軽いアフロ・キューバンのフィールが表れている(これはニックがのちに“Harvest Breed”で遅いテンポで再現している)。長く引き伸ばされたヴォーカル・メロディのフレーズは、かなり難しい息継ぎを必要とする。これは挑戦的なメロディ作りをするシンガーソングライターにとっても珍しいケース。自分で試してみれば分かると思う!ニックは自分が創り上げようとしていた効果を明らかに分かっていた。“Cello Song”のようなトラックでうまくやっていたように、彼はコードとギター伴奏から遊離させて、メロディ‘漂わせる’ことに主眼を置いているように聞こえる。彼は自分のほしいものを知っているが、まだどういう風に実践していいか正確には分かっていない。そして驚くほど短期間のうちに、彼は全てを解決してしまった。

しかしやがて、“日は落ち、みな故郷へと戻って行った・・・”。そしてエクスは単なる思い出となった。それは“Time of No Reply”の詞となって現れ、彼のファースト・アルバムの歌―物思いに沈んだ“Saturday Sun”、ブルージーなリズムの“Man In a Shed”、そしてモーダルなドローンの“Three Hours”―のうしろで見え隠れしている。しかしそこでエクスとの類似性は終わりを告げる。

最初にタワー・レコードの輸入盤コーナーで‘Five Leaves Left’に出くわした時、私はニックがレコードを作っていたことにとてもわくわくした。私は急いで買って帰ってそれをかけた。私はその美しさに魅惑されたけれど、少し当惑もした。レコードのカヴァーには私の友人が写っていて、依然彼がエクスで着ていたのと同じジャケットとジーンズ姿だった。彼のイメージには確固たるものがあった。でもそのアルバムの主は、私がほとんど彼であると認められないような人物だった。その声はギターのリズムから独立して、奇妙に浮遊しているかのようだった。ギター・プレイはいつものように揺るぎなかったけれど、もっと複雑でびっくりするようなコードで埋められていた。2年にも満たない間に、ニックはなんらかの方法で、急激に私たちよりも格段の進歩を遂げていた。彼は自分の音楽的イメージを見つけていた。たしかにそれは彼がエクスでプレイしていたブルースとフォーク・ソングの上に築き上げられていたが、結局、彼は自分自身のイメージの中で全てを作り変えていた。

エクス・テープ

ここに収められているエクスで録られたトラックは、1967年の4月か5月に、ニックがルー・マヌエルのフラットに住んでいた友人で仲間の学生といっしょに作ったもの。その友人ジェイムズは、もともとのフィリップスのカセット・レコーダーを持っていた。

彼は回想している―「フラットは便利なところに位置していた。レ・ドゥ・ガーソン、ミストラル・ナイトクラブ、そしてあのグレイトなピンボーラーたちのたまり場カフェ・レーデから近くて、ちょっと一杯やるために寄る人から、夜通しポーカーをやる人まで社交場としてすごく人気のある場所だった。僕は初めてニックと会ったのがどこだったか覚えてないけど、多分さっき挙げたうちのどこかだと思う。それからまもなく彼はフラットで即興演奏をやるようになった。彼は普通イメージするようなボブ・ディランをやる10代の若者より、一枚上だってことはすぐに分かったから、僕は彼に歌をテープに吹き込んでみないかって聞いたんだ。彼はそのアイデアに飛びついて、僕たちはバックグラウンド・ノイズを最小限に抑えるために、フラットに誰もいなくなる時間帯を選んだ。このセッションは前もって準備されたものだったから自然な感じじゃなくなって、彼はちょっとかしこまり過ぎてるところがあるね!普段僕がプレイを聞いていた彼は、ハッピーで気持ちよさげで、その確かな才能が命じるままにプレイに集中することを彼は楽しんでいたね」

ロビン・フレデリック、2007年


ロバート・カービー録音
(Day is Done, Way to Blue)

エクスを去ってから6〜8ヶ月後、ニックはケンブリッジに在籍し、ロバート・カービーの部屋で歌を録音した。ロバートは回想する―「あの時のプランは、ライヴのためのアレンジメントを徐々に発展させることだったんだ。僕は1959年製で3シリーズ目の真空管のフェログラフ(商標:英テープレコーダー)と1本のマイクを使っていた。“Day is Done”は僕が最初に取り組んだニックの曲で、あつかましく言わせてもらえば、あのストリング・カルテットは“エリナー・リグビー”でのジョージ・マーチンの仕事に強く影響を受けていた。ニックは僕のかなりヨレヨレなナイロン弦のスパニッシュ・ギターを、僕がやるよりもいい音で鳴らすことができたね!“Way to Blue”でニックは僕の古いアップライト・ピアノを弾いている。それは地元の楽器屋からレンタルしたもので、まれにしかチューニングが合わなかった。‘Five Leaves Left’のヴァージョンと違って、演奏の切れ目がないことに気づくと思う。最近オリジナルのスコアを見た時、僕は自分がライヴのために書いたインストゥルメンタル・パートが全然違うことを発見した。すごく忙しいアレンジメントだったんだ。ニックはレコーディングの時にちょっとトーンを落としてくれって頼んだから、もちろん僕はそうした。ニックはよくピアノを弾いて(“Saturday Sun”のように)、この時に彼が称賛していたモーズ・アリソンのプレイを披露してくれたんだ。トラックの終わりで彼がクスクス笑っているのを聞くのは楽しいね。素晴らしい時を過ごしたな」

2007年3月


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