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Dorris Henderson & John Renbourn/There You Go!/1999 Ace Records Ltd CDWIKD 186



僕はこのアルバムをどうやって知ったのかどうしても思い出せない―たぶん雑誌の“フォーク・シーン”のページだったと思うけど、最初にこれを聴いた時の衝撃ははっきりと覚えている。ディラン登場後にカントリー・ブルースにハマッた10代の僕は、最高のアコースティック・ギター・プレイだと思ったし、僕が聴いてきた中で最高にゴージャスでセクシーな歌声だと思った(のちにドリスがロード・バックリーの“The Nazz”の声の主だと知った時は、僕の中で彼女のヒーロー度は頂点に達した)。僕の地元のフォーク・クラブにいたみんなと同じように、僕はアルバムの半分の歌を教わって、その過程で擦り切れたレコードを何度か買い換えたほどだった。30年以上たった今でも、南のそよ風のように新鮮に響いてくる。多くのレコードが“傑作”としてでっち上げられているが、最初のブリティッシュ・フォーク・ブームから登場して以来、ずっと失われた至宝だったこのアルバムは、真にその呼び方にふさわしい1枚だ。

イアン・アンダーソン、フォーク・ルーツ・マガジン記者



ドリス・ヘンダーソンは彼女の父親と同じ誕生日である2月2日に、ドリス・ハンカーソン(Hankerson)としてフロリダに生まれた。誕生した年については彼女は愛想よく、しかし断固として拒否している。彼女が生まれて半年たった頃、家族はニュー・ジャージーのプレインフィールドへ引越し、すぐにロサンゼルスへ移り、ドリスは成人するまでそこで育った。子供の時、彼女はファミリー・ネームをからかわれていた―「私は“ハンカチ”(snot rag)やら“ハンカチ頭”と呼ばれていたわ」 彼女は回想する。「子供ってすごく残酷になれるから」 しかしハンカーソン一族は“偉大なファミリー”であり、とりわけ父方のの多くの親戚の叔父に当たる1人が、ほかならぬかつてのブルー・ホライズン(ブルータウン・レーベルの間違い?)のレコーディング・スター、ギター・ナビットだった。ドリスの父親はLAでいくつかの教会を設立した牧師だったが、彼女はいう―「私は洗礼を受けはしなかったし、だから教会で歌ったことはなかったわ」

彼女はオートハープを買い、アラン・ローマックス(米民謡研究者)のソングブックを手に入れ、“Single Girl”や“Darlin' Corey”のような歌を独学で身につけ、フォーク・ミュージックへの早くからの関心を発展させていった。やがて家を出た彼女は、駆け出しのフォーク・シンガーとしてイーストLAのシティ・テラスに移り住み、市を挙げてのタレント・コンテストで300ポンドの1等賞を獲得した。「当時は幸運だったわ」 彼女は目を丸くしながら回想する。「私はもっとたくさんの1等賞が取れるんじゃないかと思った!」 町にあった伝説的なアッシュ・グローヴとトルバドール・フォーク・クラブへの出演によって、彼女はボブ・ディランやマーク・スポールストラといった60年代のフォーク・レジェンドたちとコンタクトをとるようになり、さらに彼女はビート時代のコメディアン/歌手のロード・バックリーの名作“The Nazz”に参加し、バックリーは彼女に“The Lady Dorris”で返礼した。

夜の歌手活動に加え、ドリスは昼間、ロサンゼルス衛生局で公務員として働いていた(最初は秘書だったが、その後上級の地位についた)が、転職の機会が待っていた。空軍で働き、イングランドに配属されていた彼女の兄は、その国のことを称賛していたこともあり、1965年、ドリスは挑戦してみようと決心した。今日、世界旅行やその情報入手において、LAからロンドンへの旅はごくありきたりのことのように思える。しかし33年前のそれは壮大な冒険的気質が伴うものであり、一方でスリルとナイーヴな興奮が感じられたものだった。

「私はイングランドに誰も知り合いがいなかったわ」 ドリスはマギー・ホランドに語っている。「旅の途中、私は1人の西インド諸島出身の女性と出会った。彼女はニューヨークで半年間、理容の勉強をしていて、その時ちょうどイングランドへ戻るところだった。彼女は私に行くところはあるか?ホテル・ルームはとってあるかと尋ねた。そう、私は何の手がかりも持っていなかった。すると彼女は自分といっしょにトッテナムへ行こうといった。私はとても感謝して、彼女の家へいっしょに行ったんだけど、彼女は自分と彼女の夫とベッドを共有しようといった。彼女は半年間も家を空けていたのよ?!私は長いすに寝るといって、すぐに部屋を探しに取りかかったわ」

「私はラッセル広場中のドアをノックしたけど、どこも受け入れてくれないことが分かった。それから新聞でハムステッドにある宿泊所を見つけた。リンドハースト・ガーデンズの中にあった。それは海外の学生向けだったけど、私は部屋を手に入れた。2日目の朝、私が朝食のために降りていくと、私と同じ1人のアメリカ人がいて、これからどうするんだと尋ねてきた。私が歌いに来たというと、彼はこのメロディ・メーカーという新聞を知っているかといったわ。もちろん私は知らなかった。彼はそこに載っているフォーク・クラブのリストを私に見せて、トルバドールのところを指差した。行かない手はないでしょう?私はさっそくそこに向かって、ステージで歌って、大喝采を受けた」

「私はあの晩、マーチン・ウィンザーとレッド・サリヴァンに会った。それから当時そこを運営していたカーリーにも。彼はソーホーのラウンドハウスとスチューデント・プリンスも経営していた。その晩、彼はスチューデント・プリンスに私を招いて、BBCで働いている友人がいるから、オーディションを受ける気はないかといった。彼はその友人を連れてきて、私は彼に向かって歌った。彼は翌週のショーに出よう、契約しにおいでよといった。私が契約しに行くと、彼は“Gadzooks! It's All Happening”という番組のレギュラーにならないかといったわ。彼らは週1度の出演で半年間の契約を私と結んだ。私は他のフォーク・クラブもいくつか回った。行き当たりばったりでね。イングランド中で働いたわ。その間にジョン・レンボーンと出会って彼の作品を気に入って、彼も私の歌を気に入ってくれた。それで私たちはチームを組んで、いっしょに2枚のアルバムをレコーディングしたのよ」*

彼女の回想によれば、これらのアルバムは素早く、ほとんどワン・テイクでレコーディングされた。「私の好きなやり方だった―歌の鮮度を保つためのね。スタジオに入る前に何をするのかを分かっているべきだと思う。私はリアルなパフォーマンスをレコーディングしたいと思っているから。“ライヴ”フィーリングを楽しみたいわ。テイクを重ねれば重ねるほど、私にとってそのレコーディングは死んだも同然になっていく」

 ‘There You Go’(Columbia SX 6001)は1965年にコロムビアから、‘Watch The Stars’(Fontana TL 5385)は1966年にフォンタナからリリースされた。ジョンの自身の名を付したトランスアトランティックからのソロ・デビュー作はもっと早くにレコーディングされていたが、‘There You Go’が先に店頭に並び、ドリス同様、ジョンのレコード・デビューとしてレコード購買層の目を引くことになった。1994年3月発行のレコード・コレクターによると、現在のオリジナル・ヴィニール盤のコレクター・プライスは1枚目が125ポンド、2枚目が60ポンドだ。

フォーク・クラブのオーディエンスが彼らの中から出てきた美しいアフリカン-アメリカンの女性の音楽を愛したとしても、ドリスは依然評論家たちの称賛を受けずにいた。「アメリカでは・・・」 彼女はマギー・ホランドに語った。「私が思ったほど成功しなかったと思っていた。なぜなら歌いそうもない歌を私が歌っていたから―つまりアパラチアン・バラッドやマウンテン・バラッドよ。でも美しい歌だし、歌詞はファンタスティックだし、私はそういう音楽にほれ込んでいるわ」

「最初にイングランドにやって来た時の印象は、フォーク・クラブの人々は私が歌いたい歌に対してもうちょっと受容力があるってことだった。彼らは私に“黒人の”音楽をやることを期待していなかったから、私は受け入れられた。批判したのはエリック・ウィンターやカール・ダラスのような人たちだけだった。私のパフォーマンスを見たオーディエンスの中にいた人々じゃないわ。彼らは私がブルースやスピリチュアルを歌わなくても気にしないようだった」

ドリスは自分が1960年代に巻き起こった“真正”論争の板ばさみになっていることに気づいた。それはブリティッシュ・フォーク/ブルース/ジャズの批評家たちが、“自身の伝統”の境界内にとどまらなかったパフォーマーたちをやり込めようとした時だ。白人の評論家たちが、綿畑を一度も見たこともない彼女が歌うべき“ブラック”ミュージックを押しつけることによって、彼女は依然困惑し、明らかに傷ついていた。ブラック・カルチャーにおけるオデッタやミリアム・マケバの果たした役割は、もしかすると今日の認識では未だ公正さに欠けた、さほど重要でない部分に重点が置かれているのかもしれない。ドリスにとって、オデッタ、ミリアム・マケバ、ビリー・ホリデイ、ニーナ・シモン、そしてソジャーナ・トゥルースは、彼女のことばを借りれば「みな自身の考えをもち、型を破った強く勇敢な黒人女性たちだった」。

ドリスは1960年代半ばから活動の領域を広げ、最初にオランダ・ツアーを敢行した(彼女の友人でオランダのシンガー、コビ・シュライヤーが力を貸した)。このオランダ・コネクションによって、1966〜67年にかけてトム・ソーレンの映画“Toets-Touch-Touche”のサウンドトラック・レコーディングが実現した。音楽の断片は45回転EP“Rotterdam Blues”(Stichting Havenbelagen Rotterdam VR 108)として、オランダでリリースされた。

その後まもなく、トレヴァー・ルーカスが自身のニュー・バンド、エクレクションに加入しないかと彼女にもちかけ、彼女は1年間彼らととともに活動し、伝説的なワイト島フェスティヴァル出演さえ果たした。彼女がエクレクションといっしょになったのは、人々には十分に納得のいくことであったわりには、ドリスは彼らと45回転シングル“Please”を制作しただけにとどまった。「エクレクションが解散して、息子のエリック・ジョンズ**といっしょにエクレクション兇魴訐した時は、本当にバンド活動を楽しんだけど、結局そのグループも解散してしまったわ」

それ以降、ドリスは様々なジャズ・ミュージシャンとともに活動し、そしてコマーシャルの世界に入った(フレンチ・ゴールデン・デリシャスの80年代のTVコマーシャルの“The Crunch”やペプシといった企業のCMに登場した。元ELOの設立者の会社、ジェフ・ウェイン・ミュージックがこれらセッションを仕切っていた)。

今日、彼女は再びジョン・レンボーンとともに時折ギグをやり、‘There You Go’のマテリアルだけでなく、新曲も披露している(とりわけ彼女が近い将来レコーディングを望む、父親と姉妹、兄弟のために書いた三部作がある)。

「私にとって、音楽はコミュニケーションね」 彼女はマギー・ホランドに語った。「どんな言語であっても、音楽は人々を結びつけるわ。音楽は文化も信条も越えてみんなを結びつける偉大なコネクターよ。音楽のあるところに人々は集まるわ。私が音楽について強く感じるのは、それが私の自己表現だけでなくて、そういうことを表現できない人々の感情を私が伝えなければならないってこと。私は彼らのために声で表現することができて、彼らは“イエー、それは自分の感じていることそのものなんだ”といってくれる。とてもスリリングなことね」


ジョン・クロスビー
このCDはコロムビアからのオリジナル・アルバム‘There You Go’に、1965年リリースのシングル両面を加えた。

Notes
*ジョン・レンボーンは最も成功したフォーク・グループのひとつ、ザ・ペンタングルの創設メンバーとなり、彼の生み出した数々のソロ作品は世界有数のフォーク・ギタリストとしての彼を築き上げた。

**エリックの姓はRassmusensであり、ドリスは“すばらしいギタリスト”といっている。現在、彼はオーストラリアに住み、ボート、ヨットで有名なリーヴァ(Riva)のマネージャーを務めている。彼はヒートウェイヴの“Boogie Nights”でギタリストとしてフィーチャーされた。またドリスには自慢の娘が2人いる。

Thanks
インタビューは1998年8月28日にトゥイッケナムでジョン・クロスビーとともに行なわれたものと、彼女の背景にしっかりスポットを当てた草分け的な記事となった1993年5月のフォーク・ルーツ誌119号でのマギー・ホランドによるインタビュー両方から抜粋した。ドリス・ヘンダーソン、マギー・ホランド、そしてフォーク・ルーツ・マガジンに感謝します。


Dorris Henderson with John Renbourn/
Watch The Stars/2005 A Wing & A Prayer Ltd. Fledg'ling FLED 3055



このWatch The Starsは、60年代半ばのブリティッシュ・フォーク・リヴァイヴァルから生まれた注目すべき幻の至宝だ。フォーク、ブルース、そして俳句の美しい寄せ集めからなるアルバムは、フォーク・ブームの時事性とすばらしい“ビート”の感性を融合させている―つまりアフロ・アメリカン・ウェスト・コーストと郊外ロンドンの結合だ。長らく廃盤だったこのレコードは、ドリス・ヘンダーソンとジョン・レンボーンのキャリアにおける初期の画期的事件だ。

ドリス・ヘンダーソンはフロリダ生まれだがロサンゼルスで育ち、そこで彼女はフォークとブルースに興味をもつようになった。10代の時、彼女は独学でオートハープをものにし、アラン・ローマックスのソングブックからレパートリーを増やしていった。そして市を挙げてのタレント・コンテストで優勝し、300ドルを手に入れた。それに伝説的なアッシュ・グローヴとトルバドールでのギグが続き、そのことによってロード・バックリーとのレコーディングが実現した。彼の“The Lady Dorris”はキリスト教信仰を歌っているが、一方で彼の垢抜けたセンスは(彼女の参加した)‘The Nazz’を広く伝えることに成功した。

1993年のインタビューで、ドリスは回想している―「私はよくトパンガ・キャニオンに行ったものだった。そこにはヘルシーなレストランがあって、私の友人が夫といっしょに店を経営していた。彼らはロード・バックリーの親友だったから、私のことを彼に紹介した。彼は私の音楽を気に入って、私は彼のパフォーマンスとパーソナリティを気に入った。彼はハリウッドの劇場で3日間のコンサートをやっていて、私にバッキングを務めてみないかと聞いた。もちろん私はイエスといったわ!」

1965年に一時期ニューヨークにいたドリスは―見たところ思いつきで―イングランドに飛んだ。音楽的には、彼女は芽吹きつつあったブリティッシュ・フォーク・クラブ・シーンにすぐになじんでしまったと語っている。「私がイングランドで聞いた音楽は、アメリカで聞いていたものとは違っていた。それは私にとって本当にエキサイティングなものだった。デイヴィ・グレアムはインドから戻ってきたばかりだったと思う。彼はインドのラーガ音楽のメロディックなフレーズをフォーク・ミュージックに持ちこんだ。彼の書いた何曲かは、イングリッシュ・フォーク・ミュージックの“規範”の外側に位置する魅力的な影響力を持っていた。それは本当にスリリングだったわ。その頃に、私はジョン(レンボーン)とバート(ヤンシュ)、そしてその一団全員と出会った。音楽が境界をどうまたごうが、それを聞いた誰もが受け入れていたっていうすばらしい下地があったわ」

「私は行き当たりばったりで、いくつかのフォーク・クラブに出向いていった。それでジョン・レンボーンと出会って、彼の作品を好きになって、彼も私の音楽を気に入ったから、私たちはチームを組んでイングランド中を回って、2枚のアルバムをいっしょに作ったのよ」 ヘンダーソンとレンボーンは2人ともGadzooks, It's All Happeningというテレビ番組に出演していたことから、すぐに音楽的親交をもつようになった。彼らの2枚のアルバム―There You Go(Columbia 1965)とWatch The Stars(Fontana 1967)―は、1960年代半ばの偉大なブリティッシュ・フォーク・ブームから現われた名レコーディングのペア作品だ。最初のアルバムはジョン・レンボーンのレコーディング・デビューとなった。それは彼によるトランスアトランティック・レコードからのソロ・デビューよりも少しだけ早くリリースされた。

レンボーンは第2次世界大戦が終わる頃、ロンドンに生まれた。彼の母親はピアノで有名なクラシックの曲をプレイし、ジョンは学校でギターと作曲を学んだ。1950年代末のスキッフル・ブームは、多くの仲間たちと同様、ジョンをアメリカの田舎の音楽へと導いた―つまり、エリザベス・コットン、レッドベリー、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ジェシ・フラー、そしてランブリング・ジャック・エリオットといったアーチストたちだ。キングストン・スクール・オブ・アートで勉強する一方で、ジョンは短期間、リズム&ブルース・バンド(Hog Snort Rupert's Famous Porkestra)でエレクトリック・ギターをプレイしていた。しかし同時にアコースティック・ギターの探求も続けていた。

レンボーンの音楽的探求は、すぐにロンドンのソーホーにあった初期のフォーク・クラブへと向かわせることになった。そこで彼はエジンバラからやって来たばかりだったバート・ヤンシュと偶然出会った。2人のギタリストはすぐに仲良くなり、スコッツ・フーズ、バンジーズ、レ・カズンズといったソーホーのクラブでの深夜セッションを通じ、強固な音楽的パートナーシップを築いていった。

1998年、ジョン・クロスビーにドリスは語っている―「2枚のアルバムはとても素早く、ほとんどワン・テイクで録ってしまった。それは私の好むやり方。歌が鮮度を保つことができるから」 最近ジョン・レンボーンは語っている―「1967年までに、フォンタナ・レコードはあいまいにカテゴライズされたフォーク市場に足を踏み入れていた。ドリスは彼らと契約を交わして、僕たちは‘There You Go’の続編をレコーディングしたんだ。何曲かは僕たちがストリートでいっしょにプレイしていたナンバーだった。それからその少しあとに出たアン・ブリッグスの“The Time Has Come”と、ペンタングルのレパートリーとして復活することになる“Watch The Stars”の2曲を含んでいた」

アルバムWatch The Starsのレコーディング・セッションには、著名なクラシック・ギタリストで教師のティム・ウォーカーと、ダブル・ベースにジョンのペンタングル仲間のダニー・トンプソンが参加した。レンボーンはアレクシス・コーナーとともに、子供向けのテレビ番組でプレイしていた頃にダニー(及びドラマーのテリー・コックス)と出会い、ジャッキー・マクシー、バート・ヤンシュと共にまもなくペンタングルを結成した―英国でもっとも成功したフォーク・アンサンブルのひとつだ。

ドリス・ヘンダーソンはブリテン諸島のすみからすみまでとヨーロッパをツアーしたあと、エクレクションにいたトレヴァー・ルーカスの加入の誘いに乗った。続く1年間に、エクレクションはドリスとともにシングルのA面を録音し、1969年にはワイト島フェスティヴァルに出演した。その後、トレヴァーは脱退し、サンディ・デニーといっしょにフォザリンゲイを結成した。レンボーンが世界有数のフィンガースタイル・ギタリストの1人となっていった一方で、ドリスはめったにライヴとレコーディングをしなくなっていった。以後30年を経て、ドリスとジョンは時折共にコンサートをやるようになり、2003年には彼女のアルバム、Here I Go Again(Market Square)のためにレコーディング・スタジオに戻った。

しかし残念ながら、ドリス・ヘンダーソンはこのWatch The Starsのリイシュー計画進行中に亡くなってしまった。


フレッジリング・レコードは以下の方々に感謝します:ジョー・ブラック、ジェーン・バーン、ジル・クック、ジョン・クロスビー、ピート・フレイム、マギー・ホランド、マック・マッガン、ジョン・レンボーン。


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