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Donovan/Sunshine Superman/2005 EMI Records Ltd. 7243 8 73566 2 7



Introduction

1967年のあるコンサートの初めに、司会者がドノヴァンのことを天才だといったとき、彼がそのシンガーの風雨をも支配する力を持ち出したのは、あるいはふさわしくなかったかもしれない(たとえ時代を象徴する表現だったとしても)。その司会は、ある以前のショーでドノヴァンがオーディエンスに向かって、みんなの拍手喝采が雨を追い払うに違いないといったことを思い出していた。たしかにまもなく雨が止んだのは、“サンシャイン・スーパーマン”の並はずれたパワーよりも、常に雲に注意を払っていたその思慮深いスコットランド人に関係していた。

しかし多くの点で、1967年のドノヴァンはたしかに天才だった―とりわけアメリカにおいては。前年の間、その20歳のシンガーはその地で“Sunshine Superman”と“Mellow Yellow”の巨大ヒットを享受していた。続く3年にわたり、彼は一連のアルバムとシングルに表われていたその強力なソングライティング能力と多様なスタイル両方によって、人々を驚かせ続けた。1966年から1969年の間に、ドノヴァンは10枚のUSトップ40ヒット(1枚は1位、さらに5枚がトップ20)を放ち、ハリウッド・ボウルやカーネギー・ホールのような会場を含む彼の北米ツアーは、当時最高の総収益を上げたうちの1つだった。またドノヴァンはヨーロッパや極東の主要なマーケットでもかなりの成功を収めた。本国において彼は7枚連続のUKトップ30ヒット・シングル(最後の2枚はトップ10)を放った。

歌とパフォーマンスにはっきりと表われたドノヴァンのポップ・ミュージックへの貢献は、あの時代背景とその背景からの逸脱両面において理解する必要がある。ポップ史のコメンテーターたちは、しばしばドノヴァンの重要性を革新者としてではなく、時流に便乗(ディラン崇拝者、型どおりのヒッピー)したアーチストとして軽く扱うことがある。ドノヴァンの不幸は、非常に若いフォークシンガーたちがディランに大きく影響を受けた、あるいは北米のフォークとブルースをいっせいに大いに利用したときに、英国で最も有名なフォークシンガーになってしまったことだ。彼はすぐに自身の声を見つけ、様々な状況が重なって何か別のものへ目を向けさせてしまったものの、同時代のアーチストたちよりも先にサイケデリアの世界へ進んでいった。

いく人かの評論家たちは、ドノヴァンのことを遠い昔のナイーヴな遺物として、そしてどういうわけか嘆かわしい時代のそれとして退けてしまう。そして60年代よりも楽天的で無垢さのない世代から見れば、何1000という熱心なファンに向かって穏やかな歌をプレイするカフタン姿(caftan:トルコ・アラブ人などの着る帯のついた長衣)のドノヴァンは、からかいの対象となりやすいイメージだ。しかしドノヴァンが60年代に残した楽曲群の重要性は、彼がすぐに引き出してしまったカヴァー・ヴァージョンの純粋な量と多様性によって証明されているし、以来ずっと彼のカヴァーは現われ続けてきた。

80年代後半にはドノヴァンへの関心が復活した。これは少なくとも部分的には、ザ・ハッピー・マンデイズと彼との結びつきによるものであったし、あるいはその時の流行の世代が、至福を味わうことのできた時代の1人の生き残りに親近感をもったからかもしれない。もっと最近のミュージシャンたちは、その歌の数々自体はもちろん、プレイにおける純粋な音楽性を含めて彼の60年代の作品に魅了されてきた。ドノヴァンのポップとフォークの感性は、ソロ・ポップ・アクトたちが1本のギターをつま弾くか、流行のグループ・サウンドと合体するか、あるいはオーケストラと闘い抜くことを期待されていたときに、ジャズと室内楽オーケストラが融合されていた。

1965年12月から60年代終わりまでのドノヴァンのキャリア―今回のEMIによる拡大リイシューが対象とする期間だ―は、アーチストの私的及びビジネス上の関係の変化、その間の彼の音楽に重要なインパクトを及ぼすことになる変化とともに始まり、そして終わる。そして続く10年間はいくぶん地味な存在であることを釈明しながら歩み続けていった。新しくエピックと大いに富をもたらす契約を交わしたにもかかわらず―そしてさらに商業的、創造的成功をものにしたにもかかわらず―70年代はドノヴァンにとって、快適には程遠い時代となってしまった。

注目を浴びる時期での最も顕著な変化が、ドノヴァンとともに働いたプロデューサーのミッキー・モストとアレンジャーのジョン・カメロンとの協力関係の始まりと終わりだった。彼らとのパートナーシップは、ドノヴァンの長く変化に富んだキャリアの最高点として広く見なされる実績を作り出した。しかしながら、ドノヴァンの創造性にリンダ・ローレンスが与えた影響を推測することもまた興味深いことだ。

1965年2月、ドノヴァンは音楽TV番組レディ・ステディ・ゴーで、リリース直前の自身のデビュー・シングルをプレイした。これは必見のTVショーに連続出演した3回目のものだった。最初の出演のあと、控え室で18歳のソングライターは1人の若いモデル、リンダ・ローレンスと出会い、いっしょに踊っていた。彼はすっかりほれ込んでいた。「僕はリンダと出会う前にその歌を書いたんだ」 “Catch the Wind”についてドノヴァンはいう。「それも彼女を失う歌だった。何かの予告だったのか?あるいはヨーガの教えか―現在しか存在しないっていうね。つまり過去と未来は常にここにあるってこと。僕たちは恋に落ちて、1965年を通じて僕のキャリアが爆発するにしたがって断続的なつきあいをするようになっていった。そして60年代が終わる頃に再会するまで僕らは別れたんだ」

しかしドノヴァンの恋人の不在は、1965年から69年の間に絶えず続いたインスピレーションの源となった。あるいはソングライターは誰かや何かに飢えている時に最も創造性を発揮するという、昔からよくいわれる道理そのものなのかもしれない。1970年までにドノヴァンとリンダがついに結ばれた時に、もしかすると彼の渇きは満たされたのかもしれない。しかしながら、これまで述べたこれら公私の関係の変化をわきへ置けば、あるいは60年代の後半にドノヴァンとして群を抜いて“in”(顔、顔役)となった1人のアーチストが、70年代半ばまでに完全に“out”(部外者)となるのは必然だったのかもしれない。ドノヴァンのように、“サマー・オブ・ラヴ”のヒッピー的楽観主義に親密に結びついたアーチストは、パンクはいうまでもなく、巧みでなめらかなウェスト・コースト・サウンド、ハード・ロック、そしてディスコの時代には居場所がなくなってしまうことになった。

今回のEMIによるリイシュー・シリーズでは、アルバム『A Gift from a Flower to a Garden』と『Donovan In Concert』が含まれていない。理由はこれらアルバムに新たに加えることのできるマテリアルがないためだ。しかしながら、ミッキー・モスト時代の4枚のスタジオ・アルバムは、アルバム未収の7枚のシングル、14のアウトテイク、あるいはオルタナット・テイクを含み(3曲以外は全て初登場だ)、それプラス、13のデモ音源は初の公式リリースだ。

これら作品群は大きな商業的成果を生み出したが、批評的観点からいっても、ドノヴァンの創造力が最も肥沃だった時期として見なされることになった。『Sunshine Superman』はサイケデリック時代最高のアルバムの1枚として必ず引き合いに出されている(その時代中心となったロンドンとロサンゼルスの2つの主要なレコーディング・スタジオでのセッションから生み出された)。全てロンドンでレコーディングされたアルバム『Mellow Yellow』は、ロサンゼルス・セッションの鋭さには欠けるが、ジョン・カメロンの優雅なアレンジメントによって埋め合わされていた。たしかに、70年代初頭のエルトン・ジョン、ガス・ダッジョン、そしてポール・バックマスターを唯一の例外として、ブリティッシュ・ポップ史において、ドノヴァン、モストそしてカメロンよりも幸運なシンガーソングライター、プロデューサー、アレンジャーのチームを考えるのは難しい。

続く『A Gift from a Flower to a Garden』や『The Hurdy Gurdy Man』といったアルバムもまた、強力なマテリアルと、ハロルド・マクネアやダニー・トンプソンといったすばらしいセッション・プレーヤーたちによる貢献を豊富に含んでいたし、60年代最後のシングル―“Hurdy Gurdy Man”、“Atlantis”、そして“Barabajagal”―は、さらにドノヴァンをダイナミックな成果を伴う新しいロック的領域へとみちびくことになった。

2005年、ドノヴァンは依然、コンサートでその存在を印象づけている。そのインスピレーションは目まぐるしかった60年代の創造性ほどの威力はないかもしれないが、ドノヴァンは忘れられない歌の数々の詰まったカタログを増やし続けている。ニュー・アルバムとツアーの数はかつてほどではないものの、あなたはドノヴァンの巨大な時代を徹底的に調べ上げたEMIのこのシリーズをのんびりと楽しむことができるだろう。

ようこそ ドノヴァン!


Sunshine Superman
ミッキー・モスト時代 パート1
(1965年12月〜1966年9月)

1965年12月の時点でファースト・シングルをリリースして9ヶ月たっていたドノヴァンは、大西洋の両側で3枚のヒット・シングルと2枚のヒット・アルバムをものにしていた。今や彼は自身のキャリアの中で新しく肥沃な段階へ乗り出し、アメリカのメジャー・レーベルからの初リリースとなる曲をレコーディングし、それは初期のアコースティック作品からの方向転換の表明となった。このセッションのプロデューサーだったミッキー・モストは、数ヶ月前にドノヴァンの人生に入り込んできた音楽業界の大物の1人だった。

最初の重要な動きは、おそらく7月に起こっていた。クライヴ・デイヴィスは自伝の中で、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルでのドノヴァンのパフォーマンスを確かめるために、一流タレント・スカウトのジョン・ハモンドを送り込んだことを回想している。その時、ドノヴァンのUSでのレコード会社は比較的小さなヒッコリー・レーベルだった。デイヴィスは、ボブ・ディラン、バーズ、そしてサイモン&ガーファンクルをすでに抱えていた名高い放送及びレコード会社のCBSの社員として、早々と出世していた。

またその夏、注目を浴びていたニューヨークのミュージック・ビジネスの会計士アラン・クラインは、テレビでドノヴァンを目撃していた。「クラインは早くから僕の可能性を見ていた」 ドノヴァンは認める。「“Catch the Wind”の3ヶ月後に、僕はニューヨークのエド・サリヴァン・ショーに出た。アメリカはすぐに僕の歌を認めてくれた。クラインがのちに話したんだけど、僕がショーのフィナーレで他の出演者たちといっしょに愛想をふりまくのを断った時に、彼は僕の成長をチェックしようと頭に留めたそうだ」 クラインはレコード・プロデューサーのミッキー・モストのアメリカでのビジネス事情に対処していたが、モストにドノヴァンと働くことを目的に、彼に接触するよう提案した。

マイケル・ピーター・ヘイズは1938年に生まれ、50年代にアレックス・ウォートンとともにモスト・ブラザーズとして演奏活動を行なっていた。ミッキー・モストという名は、彼が1959年に彼のフィアンセの生まれ故郷である南アフリカに移住した時に定着した。そこでも彼はポップ・ミュージックの世界でキャリアを追求し続け、レコーディング・プロセスの知識を身につけ、ザ・プレイボーイズというカヴァー・バンドを率い、かなりのチャート上での成功を経験した。英国に戻った彼は、1963年にミスター・ポーターとともに自力で1つのマイナー・ヒットを放ったが、まもなくプロダクション・ワークに転身し、めざましい成果を収めた。

最初期で最大のヒット(“Tobacco Road”と“Google Eye”)となったナッシュヴィル・ティーンズでの仕事だけでなく、モストは大いに成功することになるハーマンズ・ハーミッツとの協力関係を作り上げ、それは1964年から1970年まで続き、20のUKヒットを放った。また1964年にモストはアニマルズと働くことになったが、1965年10月に7枚目のヒット・シングルを出す時までに、プロデューサーとグループは袖を分かつことになった。モストは自分の抱えるアーチストを増やしたがっていたようだったが、あるいはこれがクラインがドノヴァンとの親睦を提案した理由かもしれない。

10月初め、ドノヴァンの弁護士はクライアントが契約していたピーター・イーデンとジェフ・スティーヴンズとの期限満了を公表した。これまでドノヴァンのマネージャーを務めてきただけでなく、イーデンとスティーヴンズはテリー・ケネディとともに彼のレコード全てのプロデューサーとして信頼されていた。月末までに、名高いカーネギー・ホールでのジョーン・バエズとの共演が含まれていたUSツアーは、オージー・ニューマンからヴィック・ルイス・オーガニゼイションへのエージェンシー変更によりキャンセルされていた。

11月、アシュリー・コザックは、個人的マネージャーとして候補に挙がっていたドノヴァンの父親ドナルドとともに、ドノヴァンのビジネス・マネージャーとしてアナウンスされた。コザックの招聘は、ロンドン拠点のUSミュージシャン、ショーン・フィリップスの好意だった。彼はその年の初めに、楽器店でドノヴァンの手助けをしていた。その月の終わりに、イーデンとスティーヴンズはこの展開に告訴で応えた。彼らは、ドノヴァンとヴィック・ルイス及びドナルド・リーチとの仕事を阻止しようと、ドノヴァンに最高裁判所令状を送りつけた。

11月までに、事実上ドノヴァンのUSでのビジネス・マネージャーだったクラインは、ヒッコリーとパイがそれぞれドノヴァンのUSとUKのレーベルとしての役目を終えるに違いないと推測していた。彼はまた、ドノヴァンがミッキー・モストと交渉中であることを明らかにした。この時までにモストはすでに“Sunny Goodge Street”を聴いていた。これは新しくリリースされたドノヴァンのセカンド・アルバム『Fairytale』収録のジャズ/クラシック融合作品として傑出したトラックだった。“Sunny Goodge Street”は、アコースティック・ギター、ベース、そしてドラムスの編成よりも洗練された一貫したアレンジメントを備えた、その時までのドノヴァン唯一のレコーディングだった。(“Catch the Wind”のオリジナル・シングル・ヴァージョンはオーケストラをフィーチャーしていたが、その存在は全体のミックスの中で希薄であり、外観上は、まだ実績のないアーチストのための商業的保険としてオーヴァーダブされたものだ。)

“Sunny Goodge Street”の歌詞―“マジシャンの彼はサテンとベルベットに身を包み輝いている/君はこれまでにない目で彼の輝きを見つめる/教えてあげよう 彼の名は愛・・・愛・・・愛”―が『Fairytale』のジャケットを飾っていた。それは来たるべきサイケデリアとフラワー・パワーの時代を知らせていた。2003年のドノヴァンは次のように振り返る―「僕は“Sunny Goodge Street”の成功につながった(プロデューサー/アレンジャーの)テリー・ケネディの努力に一生感謝するね。この融合と歌詞は新しい意識の前触れとして最初に僕が提示したんだと思う」

個人としてミッキー・モストは、ドノヴァンとともにさらなる方向性を追求することに興味をもっていた。「そう思ったね。私は何か手助けできると思っていた」 モストは1995年のBBCラジオ2による“The Donovan Story”の中でそう回想した。「すばらしいソングライター―私は彼のことをそう思った。彼の歌もアプローチも歌詞も好きだった。彼は当時すごくヒップだと思ったね」

12月19日日曜日午後2時〜5時にかけて、EMIアビー・ロードのスタジオ3でミッキー・モストとドノヴァンは初めて共に働いた。でき上がった作品は最初、“ジョン&ポールのために”としてプレスに公表されたが、歌詞はビートルズというよりもスーパーマンとグリーン・ホーネット(米漫画・テレビ番組)の名を引用していた。ドノヴァンは少年の頃に夢中になった漫画雑誌からであることを認めるが、次のようにつけ加える―「サンシャイン・スーパーマンになるのは、腕力とか頭脳とか透視力なんかをはるかに越えたことだったんだ。僕のいっていたスーパーマンは、心の中を知る能力を完全に備えていた」 その歌の最大のインスピレーション源はリンダ・ローレンスだった。「僕のリンダ・ローレンスとの波乱に富んだ関係は春に始まっていた」 ドノヴァンは1995年のBBCで語っていた。「夏の間に行くところまで行っていた。どんどんと彼女を好きになっていた僕は、ゆっくりと彼女の正体を知り始めた。子供が1人いて、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズと2年間つき合っていて、結婚はしていなかったことをね」

リンダは他の関係についての自分の立場を明らかにはしたがらなかった―とりわけ1人のミュージシャンといっしょの時は。「そのことは僕にとってひどい悲しみだったんだ。それで彼女はアメリカに行って、カリフォルニアに住んだ。僕は彼女のところに訪ねていって、連れ戻そうとしたんだ。でもその時僕は無理だと悟った。彼女には時間と場所が必要だった。実はその詩の中で、僕たちがいっしょになる方法が語られているんだけど、その時の自分には分からなかったんだ」 にもかかわらず、あるいはもしかするとリンダの不在によって、彼女はドノヴァンの詩神としてとどまり、続く多くの歌は彼女からインスパイアされることになったのかもしれない。

またレコーディング・セッションに居合わせていたのが、1人の若いキーボード・プレーヤー/アレンジャーだった。「ミッキーは“Sunny Goodge Street”と僕のジャズとフォークの実験を聞いていた」 ドノヴァンは回想する。「それで僕が彼に“Sunshine Superman”をプレイして、ラテン・クラシック楽器のハープシコードを使うアイデアを説明した時に、彼は僕に名アレンジャーのジョン・カメロンを紹介したんだ」

「私は“テイク・ワン”っていうジャズのサパー・クラブでキャバレー・アーチストとして働いていた」 カメロンは説明する。「その時のベース・プレーヤーはスパイク・ヒートリー、ドラムスがトニー・カー、サックスがロニー・ロス、そしてキーボードとヴァイブラフォンがビル・ラ・セージだった。スパイクはアシュリー・コザックと友人同士で、コザックはその頃ドン(ドノヴァン)のマネージャーになっていて、スパイクはある晩やって来てこういった―“ドンがアレンジしてほしい新曲を書いたんだ。やってみる気はないかい?”ってね」

カメロンの最初のプロとしてのレコーディング・セッションは、“ハロー・ドーリー!”と“メリー・ポピンズ”(ミュージカル)の“ワールド・レコード・クラブ”のアルバムをアレンジし、指揮し、プレイすることだったが、ドノヴァンとの仕事が初の“ポップ”セッションだった。彼はケンブリッジ大学で歴史と音楽を専攻し、休日はプロのミュージシャンとして彼がプレイしていた複数のバンドにアレンジメントを提供して働いた。

ケンブリッジでカメロンはFootlights(劇団名)の副総長及び音楽監督を務め、その時に総長だったのがパイソン/のちのラットルとなるエリック・アイドルだった。「彼と私は多くのビートルズのパロディ曲を書いた。実際私たちは“I Want to Hold Your Handel”(君のヘンデルを握りたい((直訳です)))を書いて、それはビートルズのためのハレルヤ・コーラス(ヘンデル作曲“メサイア”で歌われるコーラス)だったんだ。残念ながら、ミスター・レノン&マッカートニーはこういう風にパロディにされるのをあまり喜ばなくて、イングランド内で発表することを許さなかった。それが障害になったが、ニューヨークのブロードウェイでやることができた。エリックと私は大学の3年目に、フットライツでよく印税小切手を受け取っていた。そのことで私たちは誰よりもいい収入になったね!」

カメロンとヒートリーはドノヴァンに会いに向かったが、カメロンの回想によれば、ドノヴァンはスタジオで働いていた時にビートルズ、とりわけひょっとするとポール・マッカートニーを目撃したことによってインスパイアされ、“Catch The Wind”のサウンドから離れ、よりロック的方向へシフトすることを熱望していた。「彼は私たちに“Sunshine Superman”をプレイして見せた。スパイクと私は部屋を出て話し合った結果、2人のベース・プレーヤーと2つの鍵盤のあるモーリー製ハープシコード、それに様々な仕掛けを使うことを決めた」 カメロンはダブル・ベース(コントラバス)とベース・ギターのコンビネーションについて説明する―「シンセサイザーの前身のような効果があった。とてつもない深みと根本的に全く違う質感が得られたんだ」

レコーディング・セッションでカメロンとヒートリーは、以下のプレーヤーたちとともに働いた―トップ・セッション・ギタリストのエリック・フォード、ジャズとビッグ・バンドで経験を積んだドラマーのボビー・オア、そしてパーカッションのトニー・カーだ。ドノヴァンはいつものようにアコースティック・ギターを弾いた。カメロンはセッションで誰がベース・ギターをプレイしたのかを覚えていないが(そのあとのセッションではハービー・フラワーズだったことを覚えている)、ジョン・ポール・ジョーンズが自分だったと主張した。ジョーンズはその当時、需要のあるアレンジャー/ベース・プレーヤーであり、モストが受けもっていたハーマンズ・ハーミッツとよくいっしょに働いていた。未来のレッド・ツェッペリンの同僚であり、当時売れっ子セッション・ミュージシャンだったジミー・ペイジも、“Sunshine Superman”でいくらかギターをプレイしているといわれる。

レコードは1966年1月にUKリリースの手はずが整っていた―ドノヴァンの現レーベル、パイからだった。しかしながら、レーベルはEMIと契約中の身であるプロデューサーのミッキー・モストのUKリリースは認められないという理由で、1週間の延期に続いて、パイのリリース・スケジュールから外してしまった。アメリカでは、クライヴ・デイヴィスがCBSとの契約のためのドノヴァンのサインを確保し、CBSとMGM両方とすでに契約を結んでいたミッキー・モストの参加は何の問題もなかった。アメリカでの契約はドノヴァンに、向こう5年間、毎年20,000ドルを保証していた。

UKでのこれからのリリースが不確かな状態にもかかわらず、ドノヴァンとモストは3曲をレコーディングするために1月の終わりにスタジオに戻り、2月にはさらなるトラックがレコーディングされた。次にドノヴァンは延期となっていたカーネギー・ホール公演のためにニューヨークへ飛び、続いてコンサートのためにトロントとロサンゼルスへ飛んだ。アメリカのTV音楽番組“ハラバルー”の撮影は、その時点で未レコーディングだった“Guinevere”を含んでいた。

話変わってUKでは、パイが新曲の代わりにドノヴァンの望みと一般の無関心さに逆らい、シングルとして古いナンバーである“Josie”をリリースした。「かなり奇妙なことだったのは分かってるよ」 ジョン・カメロンはこの中断期間について語っている。「なぜなら、私たちが“Sunshine Superman”を録ったあと、誰がドンをマネジメントするかについて論争があって、全てがお預けになったんだ。彼はアメリカに旅立った。私はパントマイムをやるためにウォトフォード・パレス・シアターに戻った!」

ドノヴァンは春にアメリカに戻った。ハリウッドにいた彼とモストは、4月の3日間で8曲を録音し、5月のあたまにさらにレコーディングするためにスタジオに戻った。それらのセッションは、ロサンゼルスのサンセット・ストリップにあったハプニング・クラブで10日間出演(ビラにはショーン・フィリップスの名もあった)するためにドノヴァンが訪れるというもともとの目的とともに、思いつきのアイデアだったように見える。

「僕はザ・トリップに出演していた。そのクラブではジャズと新しいフォークロック・イヴェントばかり開かれていたと思う」 ドノヴァンは回想する。「誰もが僕のトリップ出演にやって来た(turned up)。もしくは関心をもった(turned on)―俳優、監督、ミュージシャン、ダンサー、画家、ライター―それはハリウッドでの1966年5月のできごとだった。僕はその時のためにバンドを結成していた。それはママス&パパスのジョン・フィリップスを通じて、何人かのLAのミュージシャンに伝わって、僕たちはLAのコロンビア・スタジオで実験を試みた」 ドノヴァンがピート・シーガーのTVショー、“Rainbow Quest”のために撮影され、シーガーがバンジョーで加わった“My Sweet Joy, Colours”と、ショーン・フィリップスがシタールで加わった“Three Kingfishers”と“Guinevere”をプレイしたのは、おそらくこの時だろう。

6月、ドノヴァンのキャリアが後退した―その時、警察が早朝に彼のロンドンのフラットに手入れにやって来た(おそらく1月にテレビ放映されたドキュメンタリー、“Boy Called Donovan”の中で、ドノヴァンと友人たちがマリファナを吸っているところを見て激怒したのだろう)。翌日、ドノヴァン(彼は手入れを妨害するために、警察に裸で飛びついたらしい)、ジプシー・デイヴ、アシュリー・コザック、そしてドリーン・サミュエルズは、大麻所持によりメリルボン治安判事裁判所で告発され、それから釈放された。7月、ドノヴァンとジプシー・デイヴはそれぞれ250ポンドと50ポンドの罰金をいいわたされ、サミュエルズは1年間の執行猶予をいいわたされた。

新しい契約下でのドノヴァン初のシングルは“Sunshine Superman”と名付けられ、7月にアメリカでついに具現化した。エリック・フォードの特徴的なギター・サウンドは、低音と高音の間を急速に行き来するディアルモンド製のフット・ペダルによって完成していた―これは以前、デイヴ・ベリーの“The Crying Game”で、涙がしたたる効果を狙って創られたサウンドだった。キャッチーなベース・イントロ(すぐにハープシコードがそれをなぞっている)とぶつぶついうようなエレクトリック・ギターを伴ったサイケデリック・ポップであるこのシングルの先駆的な特徴は、レコーディングからリリースまで半年を要したことによって、あいまいにされてきてしまった。そして英国ではリリースまでさらに待たされることになった。ポップ界で発達しつつあったレコーディングについていえば、ザ・バーズが“Eight Miles High”を最初に試みたのが、1965年12月22日のハリウッド・スタジオでのことだった(“Sunshine Superman”がレコーディングされたちょうど3日後だ)。そしてヒット・ヴァージョンが録音されたのが、翌年の1月だった。ビートルズのアルバム『Revolver』は、1966年の4月と5月にレコーディングされ、ちょうどその時、ドノヴァンはモストとともにファースト・アルバム『Sunshine Superman』を仕上げていた。

ハリウッド・セッションから始まったB面の“The Trip”は、リズム・セクションにボビー・レイ(ベース・ギター)と“ファスト”エディ・ホー(ドラムス)に、モダン・フォーク・カルテットからエレクトリック・ヴァイオリンでサイラス・ファーヤーらが参加し、おそらくドノヴァンはエレクトリック・ギターをプレイした。ロサンゼルスのクラブからタイトルをいただいたこのトラックは、メタドン(麻酔薬)、不思議の国のアリス、そしてアーサー王のイメージとともに、ボブ・ディランとジョーン・バエズの名が言及され、渦巻くサウンドと回転する万華鏡の効果が結びついていた。

ドノヴァンの訴訟事件は、彼から半永久的なUSへの入国ヴィザを奪ったが、まもなく彼はロンドンのアメリカ大使館が認めれば、一時的な入国ができることが明らかとなった。この複雑な状況は、シングルのリリースに合わせたアメリカ訪問のキャンセルの裏側にあったものなのかもしれない。アメリカの入国ヴィザ取得は、ドノヴァンにとって大問題となり続けた。彼は1967年6月のモンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティヴァルへの出演依頼に応じることができなかった(1996年に至ってもなお、ドノヴァンはヴィザ拒否に会い、北米ツアーを延期せざるをえなかった)。

ドノヴァン不在にもかかわらず、“Sunshine Superman”はアメリカで巨大ヒットとなった―7月の終わりまでに100位以内に入り、ついには9月3日にチャート・トップに立った。その合間に、UKでの契約上の行き詰まりはまもなく終わりを迎えるだろうと考えられた―ドノヴァンの国内でのレーベルであるパイとの契約だ。8月にコザックは、パイとアイヴァー・レコード間の未払い印税問題が決着したのちに、すぐにシングルのリリースを実現したいと述べた。また8月にはロンドンで“Mellow Yellow”がレコーディングされた。アメリカで“Sunshine Superman”のシングルをプロモートすることができず、さらにUKリリースも妨げられていたドノヴァンは、ジプシー・デイヴとともにギリシアのパロス島へ出発した。

アルバム『Sunshine Superman』は、9月にアメリカン・チャートに入った。フロント・カヴァーには、粋でパリッとしたボタンダウン・シャツを着たドノヴァンが載り、それは最先端の文字書体と葉飾りで縁どられていた。裏側にもミック・テイラーとシーナ・マッコールのデザインによって円形にかたどられたアルバム・タイトルが載せられ、一番上には“東方の贈り物を運ぶ使者に捧ぐ”というメッセージが書かれていた。そして収録曲を順番にほのめかす、ドノヴァンによる感じたままの散文が載っていた。

この時代のドノヴァンのアルバム全てが、特徴的なアートワークをフィーチャーしていた。「あの時代にカヴァー・アートに積極的にかかわろうとしたのは、僕が最初だった。バンドたちは空襲被災地域で飛んだり跳ねたりしていたからね」 ドノヴァンは主張する(ビート・グループ全盛のフォトグラファーたちに好まれた、ありきたりな“こおどり喜ぶ”イメージをほのめかしている)。しかしながら、ドノヴァンが『Sunshine Superman』のために選んだデザインは、英国で遅れてリリースされたアルバムまで待たねばならなかった。「ミック・テイラーとシーナ・マッコールっていう2人の芸術家が、『Sunshine Superman』のために“S”を表現したカヴァー・デザインを仕上げたんだけど、ニューヨークのエピックはバリー・ファインスタインが撮った写真を欲しがって、その中でバリーが僕のロマンチックなイメージを世界に発信することを望んだ。それからエピックは僕の知らなかったディック・スミスのアール・ヌーボー・デザインを採用した。それで僕の選んだやつは、1枚の写真と誰かのデザインのために認められなかった。バリー・ファインスタインの写真はすばらしかったけどね」

「アルバムのUKヴァージョンが結局はオリジナル・ジャケットだった。僕はショーン・フィリップスを通じてミックに会った。ミックはアメリカ人で、ティム・ハーディンの大ファンで、僕はミックから“London Town”を教わった。この歌はティムの“Green Rocket Road”から派生していた。ミックはシーナといっしょに暮らしていた。シーナは美しい英国人女性だった。2人はグレイトなイラストレーターで、僕たちがチームとして働いた多くのアルバムで僕の歌を挿絵にした。彼らは互いに補い合っていたね」

アルバムは1966年2月にロンドンでレコーディングされた2曲を含んでいた。どちらもジョン・カメロンによるハープシコード、ストリングス、そして木管楽器のアレンジメントが施されていた。6分半の“Legend of a Girl Child Linda”は、18のヴァースからなるおとぎ話で、おそらくタイトルはリンダ・ローレンスにインスパイアされたのだろう。“Bert's Blues”は明らかなバート・ヤンシュ・スタイルのヴォーカルのみならず、ダブル・ベース、ドラムス、パーカッション、そしてサキソフォンが加えられている。「私(とドノヴァン)には何かが足らなかった。そこでこう考えたんだ―“そうだ、うしろにストリングスといろんな楽器を入れよう”ってね」 “Bert's Blues”のような歌によって引き起こされたチャレンジについて尋ねられたジョン・カメロンは回想する。「いつもよく練り上げられた構成で演奏していたんだ。この歌のメイン・キャラクター(バート・ヤンシュ)に対抗する奴なんて、私たちは誰を呼んでくればいいんだ?って思ったね」

1966年春にハリウッドでレコーディングされた残り6曲のためのセッションでは、ボビー・レイ(ベース)、エディ・ホー(ドラムス)、サイラス・ファーヤー(ヴァイオリン)、そしてショーン・フィリップス(シタール)らを含むミュージシャン一団が呼ばれた。クラブ、ザ・トリップでドノヴァンのパーカッショニストとしてプレイしていた“キャンディ”ジョン・カーもおそらくいただろう。“Three Kingfishers”(このタイトルはどうやら“Twelve Kingfishers”の誤植らしい)、“Ferris Wheel”、“Guinevere”、そして“The Fat Angel”は全てアコースティック演奏だ。シタールとハンド・パーカッション(“Ferris Wheel”と“The Fat Angel”ではベースによって補強されている)は、トリッピーでエキゾチックな風味を加えている。“Guinevere”はキャメロット(アーサー王の宮廷のあった伝説上の町)を思わせる優雅でメランコリックな響きがある。1人のLAの売人に捧げた“The Fat Angel”は、芽吹きつつあったサンフランシスコ・シーンのバンド、ジェファーソン・エアプレインの名に言及し、バンドはすぐに自分たちのレパートリーにこの歌を取り入れた。

“Season of the Witch”は正体不明のオルガン奏者によって強化されたリズム・セクションをしたがえ、、一方でドノヴァンはエレクトリック・ギターに持ち替えている。サンセット・ストリップのクラブ、ザ・トリップのライヴァル・クラブだったThe Sea Witchにインスパイアされたタイトルなのかどうかを尋ねられたドノヴァンは答えている―「他のクラブは思い出せないけど、“Witch”は本当に数少ない予言のひとつなんだ。僕が歌ったできごとっていうのは、僕が英国で初めてドラッグの押収を受けた時のことだった」

このトラックのドノヴァンによるスリーヴ・ノート(“邪悪なモルドールの国の娘とともに捜査中のミズター・プロット((警官))は主役を演じる”)は、明らかにこのドラッグ押収をほのめかしている。ドノヴァンが示唆したものは、ジプシー・デイヴのガールフレンドによって仕組まれたのかもしれない。警察の手入れはこのトラックのレコーディング後に行なわれたが、たしかにこの注目すべき歌には脅威とパラノイアが漂っている。

作品の中心となっているのが突出したベース・パートだ。モストはこのベースを手に入れるのに、アメリカのエンジニアからの猛反対を乗り越えねばならなかった―スタジオのスピーカーの安全性にナーヴァスになっていたエンジニアは、モストに対し、CBSの社長へ提訴すると脅しをかけた。ドノヴァンのキャリア最高のアルバムは、大きな注目をひきつけ大量のカヴァー・ヴァージョンを生んだ“Season of the Witch”のオリジナル・ヴァージョン収録だ。特に注目に値するカヴァーは、スティーヴン・スティルスとコラボレートしたアル・クーパーと、ジュリー・ドリスコールを擁したブライアン・オーガー&ザ・トリニティのヴァージョンだ。

“Sunshine Superman”はドノヴァンのソングライティングにおいては、大きな躍進とはならなかった。それまでの彼の最新アルバム『Fairytale』収録の最も野心的なマテリアルは、すでに因習的な物語形式を捨て去り、より印象主義的でほとんど意識の流れに向かったスタイルをもっていた。しかしながら、最終トラックの“Celeste”(ヴァイオリン、ハープシコード、そしてチリンチリンとなるセレストを伴う抗しがたくロマンチックな作り話だ)を除き、ストレートなラヴ・ソングは今や姿を消し、一方でマテリアルの歌詞と音楽性は、ミッキー・モストとジョン・カメロンの熟練技によって完成されていた。

モストはドノヴァンの歌詞とヴォーカルは、いくらか特異なポップ・レコードのひな型になりうることを認めていた。「彼は複雑な歌詞をとてもシンプルに聞かせるすぐれた能力をもっていた」 彼は90年代のBBCで回想した。「マイクロフォンが彼の声のような働きをする。声とマイクが通じ合うというか、あたたかみを醸し出すんだ。私はとても緊密なレコーディング法をとって、マイクと彼の間を半インチほどまで近づけた。すると聞いている方はほとんど彼が部屋にいるかのような親近感を覚える。何曲かの歌は歌詞的にも和音的にも全く違うが、彼はメッセージを相手に伝える方法を分かっている。私にとって彼はすばらしいストーリーテラー(物語作家)だった」

モストはドノヴァンの勝ちとった表現方法の最後の要素として、アコースティック・ギターに言及している。「当時彼はギブソンJ45をもっていた」 彼はBBCに語った。「あれはマジカルなギターだったが、不幸なことにアメリカン・ツアー中に盗まれてしまった。レコーディングに関していえば、とてつもなくいいサウンドを発揮するギターだった。マイクロフォンが馴染んだんだ」

「アコースティック・ギターと互いに共鳴し合って感情指数を上げることのできるような選び方をしなきゃいけない。たとえばインドの楽器、特にシタール―弦と弦だが―はとてもうまくいくんだ。もちろんギターとフルートもとてもいい組み合わせだ。私たちはセレストとイングリッシュ・ホルンのような楽器を使った。そういう楽器はアコースティック・ギターと共鳴し合うからね」

カメロンの特徴的なアレンジメントは、60年代半ばから後半の多くのシンガーソングライターたちの作品を覆い包むことになった現実的なオーケストラとは著しく異なっていた。「よかったのは巨大なオーケストラを必要としない歌そのものだったんだ」 カメロンは説明する。「いつも室内楽の楽器で、使用した楽器は本当に冒険的なものだった―ベース・クラリネット、ヴァイブ、ハープシコードなんかだ。おそらくミッキーは本当の意味で大胆だったんだけど、同時に僕はそれがドンの望んだやり方だったんだと思う―サウンドの積み重ねじゃなく、それが完全に決定的なサウンドなら単一の楽器で1つの音を使うっていうね。ミッキーはいつも本当に効果的な1つのサウンドがあれば、それだけで十分だっていう前提で働いていた」

アルバム・セッションのアウトテイクには、“The Land of Doesn't Have to Be”が含まれている。特徴のないビート・グループ・サウンドをフィーチャーしたこれは、ドノヴァンのアルバム『A Gift from a Flower to a Garden』収録の同名トラックとは全く違う。“Museum”はドノヴァンの次のアルバム用に再録されることになるが、これはヴァイオリンの代わりにフルートが使われ、のちに破棄された“不思議の国のアリス”へ言及した歌詞を伴った、より軽快なヴァージョンだ。ドノヴァンが3度試みた“Superlungs”の最初のヴァージョンは、オルガンで占められたウェスト・コースト・サウンドだ。またハリウッドでレコーディングされた長くメランコリックな“Breezes of Patchulie”は、もともと“The Darkness of My Night”と呼ばれ、このタイトルで1965年にトゥリーシャがリリースした無名シングルだった。ドノヴァンのオリジナル・ヴァージョンは、2004年の64曲の初期デモ集の中で日の目を見た。“Good Time”(仮タイトルは“Good Trip”)と“House of Jansch”は両方とも1966年10月のレコーディング・ヴァージョンからだ。その時ドノヴァンは、待望されていたセカンド・アルバム(エピックからの2枚目『Mellow Yellow』)のためのデモ録音を行なっていた。

ローン・マードック



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