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Donovan/Mellow Yellow/2005 EMI Records Ltd. 7243 8 73567 2 6



Introduction

1967年のあるコンサートの初めに、司会者がドノヴァンのことを天才だといったとき、彼がそのシンガーの風雨をも支配する力を持ち出したのは、あるいはふさわしくなかったかもしれない(たとえ時代を象徴する表現だったとしても)。その司会は、ある以前のショーでドノヴァンがオーディエンスに向かって、みんなの拍手喝采が雨を追い払うに違いないといったことを思い出していた。たしかにまもなく雨が止んだのは、“サンシャイン・スーパーマン”の並はずれたパワーよりも、常に雲に注意を払っていたその思慮深いスコットランド人に関係していた。

しかし多くの点で、1967年のドノヴァンはたしかに天才だった―とりわけアメリカにおいては。前年の間、その20歳のシンガーはその地で“Sunshine Superman”と“Mellow Yellow”の巨大ヒットを享受していた。続く3年にわたり、彼は一連のアルバムとシングルに表われていたその強力なソングライティング能力と多様なスタイル両方によって、人々を驚かせ続けた。1966年から1969年の間に、ドノヴァンは10枚のUSトップ40ヒット(1枚は1位、さらに5枚がトップ20)を放ち、ハリウッド・ボウルやカーネギー・ホールのような会場を含む彼の北米ツアーは、当時最高の総収益を上げたうちの1つだった。またドノヴァンはヨーロッパや極東の主要なマーケットでもかなりの成功を収めた。本国において彼は7枚連続のUKトップ30ヒット・シングル(最後の2枚はトップ10)を放った。

歌とパフォーマンスにはっきりと表われたドノヴァンのポップ・ミュージックへの貢献は、あの時代背景とその背景からの逸脱両面において理解する必要がある。ポップ史のコメンテーターたちは、しばしばドノヴァンの重要性を革新者としてではなく、時流に便乗(ディラン崇拝者、型どおりのヒッピー)したアーチストとして軽く扱うことがある。ドノヴァンの不幸は、非常に若いフォークシンガーたちがディランに大きく影響を受けた、あるいは北米のフォークとブルースをいっせいに大いに利用したときに、英国で最も有名なフォークシンガーになってしまったことだ。彼はすぐに自身の声を見つけ、様々な状況が重なって何か別のものへ目を向けさせてしまったものの、同時代のアーチストたちよりも先にサイケデリアの世界へ進んでいった。

いく人かの評論家たちは、ドノヴァンのことを遠い昔のナイーヴな遺物として、そしてどういうわけか嘆かわしい時代のそれとして退けてしまう。そして60年代よりも楽天的で無垢さのない世代から見れば、何1000という熱心なファンに向かって穏やかな歌をプレイするカフタン姿(caftan:トルコ・アラブ人などの着る帯のついた長衣)のドノヴァンは、からかいの対象となりやすいイメージだ。しかしドノヴァンが60年代に残した楽曲群の重要性は、彼がすぐに引き出してしまったカヴァー・ヴァージョンの純粋な量と多様性によって証明されているし、以来ずっと彼のカヴァーは現われ続けてきた。

80年代後半にはドノヴァンへの関心が復活した。これは少なくとも部分的には、ザ・ハッピー・マンデイズと彼との結びつきによるものであったし、あるいはその時の流行の世代が、至福を味わうことのできた時代の1人の生き残りに親近感をもったからかもしれない。もっと最近のミュージシャンたちは、その歌の数々自体はもちろん、プレイにおける純粋な音楽性を含めて彼の60年代の作品に魅了されてきた。ドノヴァンのポップとフォークの感性は、ソロ・ポップ・アクトたちが1本のギターをつま弾くか、流行のグループ・サウンドと合体するか、あるいはオーケストラと闘い抜くことを期待されていたときに、ジャズと室内楽オーケストラが融合されていた。

1965年12月から60年代終わりまでのドノヴァンのキャリア―今回のEMIによる拡大リイシューが対象とする期間だ―は、アーチストの私的及びビジネス上の関係の変化、その間の彼の音楽に重要なインパクトを及ぼすことになる変化とともに始まり、そして終わる。そして続く10年間はいくぶん地味な存在であることを釈明しながら歩み続けていった。新しくエピックと大いに富をもたらす契約を交わしたにもかかわらず―そしてさらに商業的、創造的成功をものにしたにもかかわらず―70年代はドノヴァンにとって、快適には程遠い時代となってしまった。

注目を浴びる時期での最も顕著な変化が、ドノヴァンとともに働いたプロデューサーのミッキー・モストとアレンジャーのジョン・カメロンとの協力関係の始まりと終わりだった。彼らとのパートナーシップは、ドノヴァンの長く変化に富んだキャリアの最高点として広く見なされる実績を作り出した。しかしながら、ドノヴァンの創造性にリンダ・ローレンスが与えた影響を推測することもまた興味深いことだ。

1965年2月、ドノヴァンは音楽TV番組レディ・ステディ・ゴーで、リリース直前の自身のデビュー・シングルをプレイした。これは必見のTVショーに連続出演した3回目のものだった。最初の出演のあと、控え室で18歳のソングライターは1人の若いモデル、リンダ・ローレンスと出会い、いっしょに踊っていた。彼はすっかりほれ込んでいた。「僕はリンダと出会う前にその歌を書いたんだ」 “Catch the Wind”についてドノヴァンはいう。「それも彼女を失う歌だった。何かの予告だったのか?あるいはヨーガの教えか―現在しか存在しないっていうね。つまり過去と未来は常にここにあるってこと。僕たちは恋に落ちて、1965年を通じて僕のキャリアが爆発するにしたがって断続的なつきあいをするようになっていった。そして60年代が終わる頃に再会するまで僕らは別れたんだ」

しかしドノヴァンの恋人の不在は、1965年から69年の間に絶えず続いたインスピレーションの源となった。あるいはソングライターは誰かや何かに飢えている時に最も創造性を発揮するという、昔からよくいわれる道理そのものなのかもしれない。1970年までにドノヴァンとリンダがついに結ばれた時に、もしかすると彼の渇きは満たされたのかもしれない。しかしながら、これまで述べたこれら公私の関係の変化をわきへ置けば、あるいは60年代の後半にドノヴァンとして群を抜いて“in”(顔、顔役)となった1人のアーチストが、70年代半ばまでに完全に“out”(部外者)となるのは必然だったのかもしれない。ドノヴァンのように、“サマー・オブ・ラヴ”のヒッピー的楽観主義に親密に結びついたアーチストは、パンクはいうまでもなく、巧みでなめらかなウェスト・コースト・サウンド、ハード・ロック、そしてディスコの時代には居場所がなくなってしまうことになった。

今回のEMIによるリイシュー・シリーズでは、アルバム『A Gift from a Flower to a Garden』と『Donovan In Concert』が含まれていない。理由はこれらアルバムに新たに加えることのできるマテリアルがないためだ。しかしながら、ミッキー・モスト時代の4枚のスタジオ・アルバムは、アルバム未収の7枚のシングル、14のアウトテイク、あるいはオルタナット・テイクを含み(3曲以外は全て初登場だ)、それプラス、13のデモ音源は初の公式リリースだ。

これら作品群は大きな商業的成果を生み出したが、批評的観点からいっても、ドノヴァンの創造力が最も肥沃だった時期として見なされることになった。『Sunshine Superman』はサイケデリック時代最高のアルバムの1枚として必ず引き合いに出されている(その時代中心となったロンドンとロサンゼルスの2つの主要なレコーディング・スタジオでのセッションから生み出された)。全てロンドンでレコーディングされたアルバム『Mellow Yellow』は、ロサンゼルス・セッションの鋭さには欠けるが、ジョン・カメロンの優雅なアレンジメントによって埋め合わされていた。たしかに、70年代初頭のエルトン・ジョン、ガス・ダッジョン、そしてポール・バックマスターを唯一の例外として、ブリティッシュ・ポップ史において、ドノヴァン、モストそしてカメロンよりも幸運なシンガーソングライター、プロデューサー、アレンジャーのチームを考えるのは難しい。

続く『A Gift from a Flower to a Garden』や『The Hurdy Gurdy Man』といったアルバムもまた、強力なマテリアルと、ハロルド・マクネアやダニー・トンプソンといったすばらしいセッション・プレーヤーたちによる貢献を豊富に含んでいたし、60年代最後のシングル―“Hurdy Gurdy Man”、“Atlantis”、そして“Barabajagal”―は、さらにドノヴァンをダイナミックな成果を伴う新しいロック的領域へとみちびくことになった。

2005年、ドノヴァンは依然、コンサートでその存在を印象づけている。そのインスピレーションは目まぐるしかった60年代の創造性ほどの威力はないかもしれないが、ドノヴァンは忘れられない歌の数々の詰まったカタログを増やし続けている。ニュー・アルバムとツアーの数はかつてほどではないものの、あなたはドノヴァンの巨大な時代を徹底的に調べ上げたEMIのこのシリーズをのんびりと楽しむことができるだろう。

ようこそ ドノヴァン!


Mellow Yellow
ミッキー・モスト時代 パート2
(1966年9月〜1967年9月)

1966年9月の終わり、“Sunshine Superman”をUSシングル・チャートのトップに送り込んだドノヴァンは、ギリシアから戻ってきた。契約上のいざこざからアメリカでレコードをプロモートすることを妨げられ、英国では新曲をリリースできないでいた彼は、ジプシー・デイヴとともに夏の間をパロス島で過ごしていた。9月30日に英国で同シングルをリリースするためにパイ・レーベルと新たに契約するには、時すでに遅しだった。いずれにせよ、10月と11月のリリース日はすぐにやって来て去っていくことになり、その間に最終の詳細な契約内容の問題は解決された。

10月、ドノヴァンはロンドンで、“The Observation”(その時は“Sidewalk”)、“Writer in the Sun”、“Hampstead Incident”、“Good Time”(その時は“Good Trip”)、“House of Jansch”、そして“Museum”をデモ・レコーディングした。このリイシューCD及び同時にリイシューされるアルバム『Sunshine Superman』で聞けるこれらソロ・ヴァージョンは、ジョン・カメロンによるアレンジメントがフィーチャーされたリリース・ヴァージョンに匹敵するおもしろさがある。

次のアルバムに向けた11月のセッションは“Writer in the Sun”のレコーディングとともに始まり、その後ドノヴァンはベルグレーヴィア(ハイド・パーク南)にあったブライアン・エプスタインの家で行なわれたパーティーに来ていたフォー・トップス(モータウンの男性グループ)を訪ねた。2日後、全9曲が1つの非常に生産的なセッションでレコーディングされたようだ。もっともこれはその完了を記録した日付が単に残っているからではあるが。

その頃には仕事の進め方は定着しつつあった。「ドンはまず何曲かの歌を書く」 モストは1995年のBBCラジオ2による“ドノヴァン・ストーリー”で回想している。「私は次のセッションでやる曲を選んで、彼は“いいね”と答える。独断的ではなかった。私は“これをやるつもりだ”とはいわなかった・・・わかりきったことだった。それから私たちはジョン・カメロンか誰かと話し合いをする・・・まあ、たいていはジョンだが、私たちは彼の家か私の家かドンの家にふらっと行ってアレンジメントを考える。それからジョンはアイデアをもち帰って、それに彼自身の才能を注入する。楽なもんだった」

「ジョンは僕のアイデアとテンポとリズム、それから一番大事な詞と表現描写をメモにとるんだ」 ドノヴァンはいう。「彼は僕の歌をそのまま譜面に起こしていた。このやり方でジョンと僕はずっといっしょにやっていくことになった。当時のスタジオでは、僕たちはセッション・プレーヤーたちと3時間で3曲を録っていた―1週間でアルバム1枚分だ。ジョンは僕が生でプレイしている時に、同時にオーケストラを指揮する。そしてミッキーがスコアの手直しを要請して、僕たちはその通りに作り変える。そういうチームだったし、それで全てが完全にうまくいったんだ」

フレンチTVによるパリでのコンサートを撮影した翌日の11月25日に、ドノヴァンが英テレビ音楽番組レディ・ステディ・ゴー!で“Sunshine Superman”をプレイするところを見ることができた。翌日の音楽紙の広告は、そのシングルが12月2日にリリースされることをついに伝えていた。もともとの予定からは10ヶ月以上、それがレコーディングされてからは、1年にたった2週間満たないほどの遅れだった。

その間、アメリカでは“Sunshine Superman”に続くシングル、“Mellow Yellow”が11月にリリースされ、翌月までに2位まで達し、翌年の1月までにゴールド・ディスクに輝いた。8月にレコーディングされていたそのシングルは、ドラムスにボビー・オアをフィーチャーし(特徴的なハイハット・イントロが入っていた)、ジョン・ポール・ジョーンズがベース・ギターをプレイし、ブラス・セクションをアレンジしていた。

モストは、かなり変てこではあるが、親しみやすくいっしょに歌いやすい歌詞を補完するために、“The Stripper”(David Rose Orchestraのヒット曲)を思わせるパロディ的な雰囲気を執拗に求めていた。それぞれのヴァースでは抑えられたホーンは、コーラス部で前面に現われ、手拍子、大勢の叫び、そしてお祭り騒ぎによるパーティー・サウンドをフィーチャーしていた。ポール・マッカートニーは、ドノヴァンがビートルズの“Yellow Submarine”へ提供した歌詞―“sky of blue, sea of green”の恩返しとして、浮かれ騒ぎをみずからつけ加えている。バナナの皮を熱して吸引(麻薬として)することか、あるいはある点で中絶をテーマにもつ歌として考えていたUS当局は、歌詞中の“エレクトロニック・バナナ”がヴァイブレーターのことだったのを知って、おそらく安心しただろう。

シングルのB面だった“Sunny South Kensington”は、1965年12月の“サンシャイン・スーパーマン”セッションにまでさかのぼり、もともとそのB面として考えられていた。オープニングとエンディングにダブル・ベース(コントラバス)、ハープシコード、擦弦楽器を配したジョン・カメロンのアレンジメントは、エレクトリック・ギター、少しのシタールとドラムス、そしてカメロン自身の弾くピアノとオルガンを含んでいた。“The Trip”同様、それは多くのイメージを喚起させるが、そのムードはこの初期のレコーディングでは、ドノヴァンがスウィンギン・ロンドンで出会ったジャン・ポール・ベルモンド、マリー・クワント、そしてアレン・ギンズバーグの名を挙げることではるかに軽くなっている。

シングル“Sunshine Superman”(c/w The Trip)は新年(1967)の1月に2位まで上がり、英国で大きな成功を収めた。続く国内でのシングル群もうまくいった。しかしながら、“Sunshine Superman”のリリースの遅れは、ドノヴァンの英国内でのキャリアにかなり長引くダメージを与えていた。1966年12月には、ドノヴァンの名はニュー・ミュージカル・エクスプレス誌による例年の読者人気投票から完全に消え去っていたし、1月の同紙による毎年のトップ30リストはドノヴァンが1965年の19位から、1966年には73位まで下がっていたことを伝えていた。

ドノヴァンは1967年にこの問題からいくらか回復することになったが、英国内で長引いていた論争は、国内リリースが彼のアメリカでのスケジュールと衝突してしまうという悪影響をもたらしていた。ドノヴァンはエピックに年2枚のアルバムを提供するという責務を負わされていたようだ(60年代では珍しいことではない)。ドノヴァンはこの目標に達することはなかったが、ドノヴァンのUKレーベルにとって、USリリースの流れに追いつく唯一の道は、一定数のシングルとアルバムを先行してリリースすることだけだった。ドノヴァンのアメリカでの大きな人気は必然的に彼に対し、そのマーケットへの専念をうながし、本国での名声をさらに減ずる方へ向かわせた。

ロンドン、ソーホーの会場、バッグ・オー・ネイルズでジミ・ヘンドリクスのギグを見た4日後の日曜の午後、ドノヴァンはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでプレイした。ポール・マッカートニーとジョージ・ハリスン(彼はその月に初めてドノヴァンにシタールのレッスンをしたと考えられている)が5,000人の観客の中にいた。ドノヴァンのステージは様々な編成で行なわれた―ソロ、ジョン・カメロンによる伴奏、カメロン指揮によるバック・バンド、そして何曲かではそのバンドを補うストリング・カルテットの参加だ。さらに1人のダンサーが2曲で踊った。そのセットは“The Tinker and the Crab”、“Lay of the Last Tinker”、“Voyage Into the Golden Screen”、そして“Isle of Islay”を含んでいた。全てが未レコーディングだった。

2月の初めに“Mellow Yellow”は英国でリリースされた。B面はブラスとピアノの入った軽快なジャズ・ナンバーの“Preachin' Love”だった。これは1966年11月のセッションでレコーディングされていたが、そのセッションからは同じような雰囲気をもった人気のあるライヴ・ソング、“Good Time”のアウトテイクと、“Superlungs”の2番目のテイクが生まれていた。“Superlungs”は1966年春にハリウッドでレコーディングされたヴァージョンよりもギターとブラスが大々的にフィーチャーされていた。

2月初旬、ドノヴァンはカンヌで毎年行なわれるインターナショナル・ゲイラ・フェスティヴァルに参加し、BBCラジオの“サタデイ・クラブ”では、ジュリー・フェリクスとともに歌った。フェリクスはシングルとして、ドノヴァンの“Young Girl Blues”を“Saturday Night”と改題してリリースしたばかりだった。6日後、ドノヴァンはビートルズがアビー・ロードのEMIスタジオで“A Day In The Life”のオーケストラをレコーディングしたその日に、ゲストの1人として参加し、それはフィルムに収められた。

その月の後半、ミッキー・モストとのドノヴァンのセカンド・アルバム、『Mellow Yellow』がUSチャートに入った。アルバムのカヴァー・デザインはミック・テイラーとシーナ・マッコールだった。フロント・カヴァーには黄色いドレスを着た幻想的な目の妖婦が描かれている。背景のイメージは、いくらか収録曲のタイトルをほのめかしているように見える。裏カヴァーには、薄く黄色がかったドノヴァンの写真が載っている。写真を撮ったのはウェイブリッジのジョージ・ハリスン邸にいたデヴィッド・レッドファーンだ。ドノヴァンはポロ・ネック・セーターにスタイリッシュなスーツを着こなしている。

1966年1月のレコーディング・セッションからの“Young Girl Blues”は、アルバムのハイライトの1曲だ。このドノヴァンによるソロ・アコースティック・プレイは、ロンドンの孤独なワンルーム生活を感受性鋭く描き、歌詞は時代に挑んでいた。アルバムのもうひとつのハイライトであるソロ・パフォーマンスが“Sand and Foam”だ。これはメキシコ中西部、太平洋沿岸のプエルト・バヤルタの南にあるボヘミアンの隠遁地、イエルパに行った時のことをすばらしく喚起させる物語だ。このトラックの詳細なレコーディング・データは見つからないが、おそらくドノヴァンが1966年春に滞在していたカリフォルニアの次に、メキシコへ足を伸ばした時のことだろう。ドノヴァンは“Sand and Foam”と“Young Girl Blues”について回想している―「どっちもロンドンのスタジオでミッキーのとてつもなく巨大なギブソンのギターを使ってレコーディングしたんだ」

アルバムの残りの6曲はジョン・カメロンによるアレンジメントが施され、全て1966年11月にレコーディングされた。ドノヴァンにとっては不確かな時期にパロス島で書かれた“Writer in the Sun”は、木管楽器が前面に出たメランコリックな内観だ(その語り手は倦怠にふけっている)。再録の“Museum”は、エレクトリック・ギター、ヴァイオリン、そしてハンド・パーカッションをフィーチャーしている。ハーマンズ・ハーミッツとベヴァリー・カットナー(単にべヴァリーと宣伝された。のちにジョン・マーチンと結婚する)が1967年夏にこれをシングルとしてリリースした。

アルバムのハイライトは間違いなく“Hampstead Incident”だろう。ドノヴァンは曲作りにインスピレーションを与えた瞬間と雰囲気を回想している―「僕はハムステッドで“エヴリマン”の映画を観るために待っていた。霧雨が降っていて、僕は幻想を見ていた。リンダから離れた状態が続いていることにずっと憂うつになっていた。“禅”の哲学的な説明やらその教えの“永遠の今”とか考えながらね。こういうことが主なインスピレーションとなった。音楽スタイルはニーナ・シモンの作品からで、コード進行はデイヴィ・グレアムの独創的な“Anji”からだ」

ジョン・カメロンは、氷のように冷たいハープシコード、シンバル、そして次第に浮かび上がってくるストリング・カルテットを使い、穏やかなアコースティックの爪弾きから活気あるリズム・セクションまでふくらんでいくドラマチックなアレンジメントのために、最大限の努力を注入した。それから伴奏部は最後のドラマチックで華やかなハープシコードで終わる前におさまっていく。ジョン・カメロンは今になってもアレンジングのプロセスから得られる満足感について洞察する―「今でもそうするんだが、私は曲をもち帰ってそれを聴いて、頭の中で組み立てていくんだ。アレンジングのすばらしいところはその部分だ。誰もがスタジオで聞くずっと前に、私はどんな風に聞こえてくるのかを分かっている。なぜならすでに私がサウンド・パターン、音の世界のようなものを作り上げているからだ」

アルバム『Mellow Yellow』に入っている他の3つの新曲のうち、伝説的なジャズ・ドラマーのフィル・シーマンをフィーチャーした“The Observation”が最も成功している。“Bleak City Woman”が荒削りなブラスとエレクトリック・ギターを採択した一方で、“House of Jansch”はフォーク・シンガーのベヴァリー・カットナーをほのめかしている。ドノヴァンとヤンシュは1965年に彼女をめぐって競争関係にあった。「その通り。僕はべヴァリーに夢中だったが、バートもほれていた」 ドノヴァンは回想する。「僕は自分たちの三角関係について“Bert's Blues”を書いた。べヴァリーはその世代最高のブルース/ジャズ・シンガーだった」

1967年7月にリリースされたサイモン&ガーファンクルの“Fakin' It”の中間部で、べヴァリーが「おはよう!ミスター・リーチ、今日は忙しかった?」といっているのを聞くことができる。ドノヴァンは説明する―「ショーン(・フィリップス)と会った1965年ごろ、僕たちはマイダ・ヴェイル・スタジオ近くの彼のフラット周辺でプレイしていた。その時に1人の若い短髪のシンガーがやって来た。ショーンは僕をそのシンガー、ポール・サイモンに紹介した。ポールはマーチン・カーシーと他の英国の重要なフォークシンガーたちと会っていて、その歌と影響力を集めていた。ポールは当時の僕の成功に伴うすごく忙しいスケジュールを見ていて、のちに自分の歌の中でコメントしたんだと思う」

『A Gift from a Flower to a Garden』を例外として、この時期のドノヴァンのアルバムは、スタジオからスタジオへの移動によるセッションで、ほとんどのミュージシャンのクレジットはなく、記録の点でもほとんどが浮かび上がってこない。しかしながら、『Mellow Yellow』セッションでは以下のミュージシャンを起用したと思われる―ジョン・カメロン(ピアノ、ハープシコード)、スパイク・ヒートリーとダニー・トンプソン(ダブル・ベース)、ボビー・オア、トニー・カー、そしてフィル・シーメン(ドラムス)、ハロルド・マクネア(フルート、テナー&アルト・サックス、クラリネット)、ロニー・ロス(バリトン・サックス、クラリネット)、そしてダニー・モス(テナー・サックス、クラリネット)。

「ドンはジャズ・ミュージシャンといっしょに働くのがとても好きだった」 ジョン・カメロンは考察する。「私がケンブリッジにいた頃、そこには2つのとてもすばらしいジャズ・クラブがあった。そこを通じて私は本当にたくさんのすばらしいジャズ・ミュージシャンたちと出会った―ロニー・ロス、アート・テーメン、ディック・ヘクストール・スミスらなんかがやって来てそこでプレイしていた。彼らを通じて、私はハロルド・マクネア、スパイク・ヒートリー、ビル(・ル・セージ)、そしてトニー(・カー)らと会った。膨大なリストができ上がるが、最初に私たちがよく起用していたのがそういう人たちで、実際に多くのツアーに参加してもらった人々だ」

「当時のそういったミュージシャンたちが一番柔軟だったと思う。初期のロック・ミュージシャンは時に順応性に欠けた。クラシックのミュージシャンは完全に融通がきかなかったから、大きな音楽的才能を備えていて、かつすばやく適応できる者が必要だったんだ。もちろんダニー・トンプソンのような人々は本領を発揮した。ダニーは“ジャンルなんて関係ない。好きなものをきっぱりとプレイする”と宣言したミュージシャンの最初の1人だったし、そういうミュージシャンたちは本当に有用だった。ハロルドも同様だった」

ドノヴァンの歌は同時代の女性シンガーたちによって豊富にカヴァーされることになった。マリアンヌ・フェイスフルは“Bert's Blues”、“Young Girl Blues”、そして“Hampstead Incident”をすばらしくカヴァーした。ジョーン・バエズ、ミミ・ファリーナ、そしてジョーン・コリンズの一流トリオは、“Legend of a Girl Child Linda”を歌った(1993年まで未リリースだった)。おもしろいことに、ジュリー・フェリクスのアルバム『Flowers』は、ドノヴァンがアルバム『Mellow Yellow』でソロ・プレイしていた“Young Girl Blues”と“Sand and Foam”を取り上げ、これらにジョン・カメロンがアレンジメントを添えていた。ドノヴァンは同時期の女性シンガーたちに訴えた自分の曲のポイントを説明している―「60年代の僕は最も“女性化”された男性ソングライターだったし、僕の歌のほとんどは男についてじゃなかったからだ。愛がテーマだったし、女性たちも僕の歌を歌うことができたんだ。男性優位の歌じゃなかったしね」

1967年2月の終わりに、ドノヴァンと4人編成のバッキング・バンド―おそらくジョン・カメロン・カルテット―は、ヨーロッパ大陸で3日間プレイした。「ドンといっしょのツアーでよかったのは、毎晩毎晩じゃなかったことだ」 ドノヴァンとのツアーを回想したカメロンはいう。「コペンハーゲンへ行くと、すばらしいストリング・カルテット付きの大きなコンサート・ホールのライヴ。ストックホルムに行くと、そこで2日間を過ごす。全てがゆったりしていて紳士的だった」 ツアー・ミュージシャンについては―「ロニー、ダニー・ロス、ハロルド、スパイク、スパイクかダニーがだめな時はケニー・ローガンがベースだった。トニー・カーは通常ドラムスで、私がキーボードだった。ドンとツアーを回る時はいつもピアノと2段鍵盤のハープシコードがあった。やや小ぶりのラインナップだったが、多くのすばらしいカラーが加えられていた。私たちはほとんど彼の全作品をカヴァーすることができたからね」

3月、ドノヴァンがロンドンのオールド・ヴィック・ホール制作によるシェイクスピアの“お気に召すまま”のために、その作品を歌に適応することが伝えられた。しかしサー・ローレンス・オリヴィエが主役となるはずだったその舞台は実現せずに終わった。ドノヴァンはアルバム『A Gift from a Flower to a Garden』で、トマス・ハーディの小説“Under the Greenwood Tree”(緑林の木かげ)をレコーディングしたのだが、今はシェイクスピアのソネット18番(Shall I Compare Thee to a Summer's Day)が当てはめられたとして知られている。3月の間に、UKでのシングル“Mellow Yellow”とUSでの同タイトル・アルバムは、それぞれのチャートでピークを示していた。ドノヴァンの最新アルバム2枚は、いまだ英国でリリース待ちの状態だった。

一方で3月、ドノヴァンの北スコットランドでの短期休暇が伝えられる中、次のシングル“Epistle to Dippy”(c/w “Preachin' Love”)はUSチャートを上昇していた。ストリング・カルテット、ハープシコード、そしてジリジリというエレクトリック・ギターをフィーチャーした“Epistle Dippy”は、もっとも早くて1966年1月にレコーディングされたようだ。「彼らは時代遅れなミュージシャンたちではなかった」 ジョン・カメロンはドノヴァンのトラックでプレイするストリング・プレーヤーたちのことを回想している。「別の領域でも演奏していたクラシック・ミュージシャンたちだったし、私たちが使ったのはそういう人たちだったんだ」 カメロンからパット・ハリング(ビートルズの“All You Need Is Love”に参加したヴァイオリニストの1人)への1本の電話が、“Epistle to Dippy”や“Lalena”のようなこの時期のドノヴァンのヒット曲にフィーチャーされたのがハリングのストリング・セクションだったことを裏づけている。

“Epistle to Dippy”は、ドノヴァンのスクール・バンドだったマカバーズ(Macabres)にいた友人のサキソフォン・プレーヤーに宛てた書簡(epistle)だった。マレーシアの軍隊から彼を解放させる(金で買い取る)用意のあったドノヴァンには、その後“Dippy”から接触があった。この2度目のレコーディングは10ヵ月後に行なわれたようだ。エレクトリック・ギターは、全体により飾り立てられてはいるが落ち着いたソロ・ヴァイオリンに取って代わられたが、オリジナルを凌駕してはいなかった。アシュリー・コザックはこれがUKでリリースされることはないと公表した―裏の意味としてのドラッグ絡みの論争を避けるためだった。

4月、ドノヴァンはサイモン・ディーによる週2回のTVショー“ディー・タイム”に出演し、ブライアン・エプスタインのロンドンのサヴィル・シアターで、再びバンドとストリング・セクションをしたがえ、6日間の公演を行なった。名士たちが集まった最初の晩には、ビートルズの4人全員がそろっていた。5月、バーミンガムとボーンマスの日程の間に、ドノヴァンは“There Is a Mountain”を録音した。

6月、ドノヴァンがクロイドンのフェアフィールド・ホールでコンサートを行なった同じ日に、アルバム『Sunshine Superman』はついに英国でリリースされた。アルバムはドノヴァンのUSでの最新2枚のアルバムから、アシュリー・コザックが選りすぐりのトラックを集めていた。きわめて強力となったそのアルバムは、チャートの25位より上にいくことはなかった。間違いなく、そこにはアメリカでマテリアルが最初にリリースされてからの必然的な勢いの低下があった。その上、タイトル・トラックがシングルとして英国でリリースされてから半年以上がたっていた一方で、最新のUKヒット、“Mellow Yellow”が入っていなかった。アルバム・リリースの2日後、ドノヴァンはアビー・ロードのEMIスタジオからのビートルズによる“All You Need Is Love”の国際ライヴ中継のために参加したスターたちとともに合唱した。

8月、7,000人の観客はロイヤル・ウィンザーの競馬場で行なわれた7回目のナショナル・ブルース・フェスティヴァルにおいて、“ドノヴァンとの午後”を過ごした。再びドノヴァンはバンドとストリング・セクションとともに現われた。彼は8月〜9月に行なわれた次の2枚組アルバム『A Gift from a Flower to a Garden』のセッションは、他のトラックよりもあとにレコーディングされていた“Wear Your Love Like Heaven”と“Oh Gosh”で始まったことを覚えている。その時CBSのクライヴ・デイヴィスは、アルバムがシングル向きのトラックを欠いていることに不満をもっていた。もしかすると、2枚目に入っているアコースティック・マテリアルは、その年(1967)の早くにレコーディングされていた可能性がある。ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌は、ドノヴァンが3月遅くにシングル、“The Tinker and the Crab”をレコーディングしていたことを伝えていた(そのトラックはシングルとしてはリリースされなかったが、アルバム上で登場した)。

ミッキー・モストが『A Gift from a Flower to a Garden』のプロデューサーとしてクレジットされていたが、シングル用の2曲を除き、残り全てをセルフ・プロデュースしたとドノヴァンは主張する。一時的に2人が対立したように思われる。あるいはモストがアルバムにふさわしいマテリアルとして、逆行と反商業主義を意味するドノヴァンのみによるプレイ、または最小限のアコースティック伴奏による収録曲を考えたのかもしれない。あるいはドノヴァンが単にためしにやっただけなのかもしれない。

9月までに、本国では未リリースだった“There Is a Mountain”がアメリカで大ヒットとなっていた。“Sunshine Superman”、“Mellow Yellow”、“Epistle to Dippy”、そしてそのシングル(c/w “Sand and Foam”)がドノヴァンにとっての本当の船出だった―前面に出たハロルド・マクネアのフルート、親しみやすいリズム、そして叫ばれる励ましのことばを伴う、陽気なカリビアン・スタイルのアコースティック・パフォーマンスだ。ブリティッシュ・フォーク・シーンに欠かせない人物だったUSバンジョー・マンのデロール・アダムスは、ヨーロッパ大陸へと進出する前に、ドノヴァンに“禅”の詩あるいは“公案”(禅宗において参禅者に出される論理的に解決することのできない問題)を教え、それを基にドノヴァンは詞を書いた。オールマン・ブラザーズの長いライヴ・ナンバー、“Mountain Jam”の基を提供したその歌は、ドノヴァンが次の2枚のスタジオ・アルバムに収録することになるマテリアルに見られる新しい巧妙さの兆候を示していた。

ローン・マードック



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