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Donovan/The Hurdy Gurdy Man/2005 EMI Records Ltd. 7243 8 73568 2 5



Introduction

1967年のあるコンサートの初めに、司会者がドノヴァンのことを天才だといったとき、彼がそのシンガーの風雨をも支配する力を持ち出したのは、あるいはふさわしくなかったかもしれない(たとえ時代を象徴する表現だったとしても)。その司会は、ある以前のショーでドノヴァンがオーディエンスに向かって、みんなの拍手喝采が雨を追い払うに違いないといったことを思い出していた。たしかにまもなく雨が止んだのは、“サンシャイン・スーパーマン”の並はずれたパワーよりも、常に雲に注意を払っていたその思慮深いスコットランド人に関係していた。

しかし多くの点で、1967年のドノヴァンはたしかに天才だった―とりわけアメリカにおいては。前年の間、その20歳のシンガーはその地で“Sunshine Superman”と“Mellow Yellow”の巨大ヒットを享受していた。続く3年にわたり、彼は一連のアルバムとシングルに表われていたその強力なソングライティング能力と多様なスタイル両方によって、人々を驚かせ続けた。1966年から1969年の間に、ドノヴァンは10枚のUSトップ40ヒット(1枚は1位、さらに5枚がトップ20)を放ち、ハリウッド・ボウルやカーネギー・ホールのような会場を含む彼の北米ツアーは、当時最高の総収益を上げたうちの1つだった。またドノヴァンはヨーロッパや極東の主要なマーケットでもかなりの成功を収めた。本国において彼は7枚連続のUKトップ30ヒット・シングル(最後の2枚はトップ10)を放った。

歌とパフォーマンスにはっきりと表われたドノヴァンのポップ・ミュージックへの貢献は、あの時代背景とその背景からの逸脱両面において理解する必要がある。ポップ史のコメンテーターたちは、しばしばドノヴァンの重要性を革新者としてではなく、時流に便乗(ディラン崇拝者、型どおりのヒッピー)したアーチストとして軽く扱うことがある。ドノヴァンの不幸は、非常に若いフォークシンガーたちがディランに大きく影響を受けた、あるいは北米のフォークとブルースをいっせいに大いに利用したときに、英国で最も有名なフォークシンガーになってしまったことだ。彼はすぐに自身の声を見つけ、様々な状況が重なって何か別のものへ目を向けさせてしまったものの、同時代のアーチストたちよりも先にサイケデリアの世界へ進んでいった。

いく人かの評論家たちは、ドノヴァンのことを遠い昔のナイーヴな遺物として、そしてどういうわけか嘆かわしい時代のそれとして退けてしまう。そして60年代よりも楽天的で無垢さのない世代から見れば、何1000という熱心なファンに向かって穏やかな歌をプレイするカフタン姿(caftan:トルコ・アラブ人などの着る帯のついた長衣)のドノヴァンは、からかいの対象となりやすいイメージだ。しかしドノヴァンが60年代に残した楽曲群の重要性は、彼がすぐに引き出してしまったカヴァー・ヴァージョンの純粋な量と多様性によって証明されているし、以来ずっと彼のカヴァーは現われ続けてきた。

80年代後半にはドノヴァンへの関心が復活した。これは少なくとも部分的には、ザ・ハッピー・マンデイズと彼との結びつきによるものであったし、あるいはその時の流行の世代が、至福を味わうことのできた時代の1人の生き残りに親近感をもったからかもしれない。もっと最近のミュージシャンたちは、その歌の数々自体はもちろん、プレイにおける純粋な音楽性を含めて彼の60年代の作品に魅了されてきた。ドノヴァンのポップとフォークの感性は、ソロ・ポップ・アクトたちが1本のギターをつま弾くか、流行のグループ・サウンドと合体するか、あるいはオーケストラと闘い抜くことを期待されていたときに、ジャズと室内楽オーケストラが融合されていた。

1965年12月から60年代終わりまでのドノヴァンのキャリア―今回のEMIによる拡大リイシューが対象とする期間だ―は、アーチストの私的及びビジネス上の関係の変化、その間の彼の音楽に重要なインパクトを及ぼすことになる変化とともに始まり、そして終わる。そして続く10年間はいくぶん地味な存在であることを釈明しながら歩み続けていった。新しくエピックと大いに富をもたらす契約を交わしたにもかかわらず―そしてさらに商業的、創造的成功をものにしたにもかかわらず―70年代はドノヴァンにとって、快適には程遠い時代となってしまった。

注目を浴びる時期での最も顕著な変化が、ドノヴァンとともに働いたプロデューサーのミッキー・モストとアレンジャーのジョン・カメロンとの協力関係の始まりと終わりだった。彼らとのパートナーシップは、ドノヴァンの長く変化に富んだキャリアの最高点として広く見なされる実績を作り出した。しかしながら、ドノヴァンの創造性にリンダ・ローレンスが与えた影響を推測することもまた興味深いことだ。

1965年2月、ドノヴァンは音楽TV番組レディ・ステディ・ゴーで、リリース直前の自身のデビュー・シングルをプレイした。これは必見のTVショーに連続出演した3回目のものだった。最初の出演のあと、控え室で18歳のソングライターは1人の若いモデル、リンダ・ローレンスと出会い、いっしょに踊っていた。彼はすっかりほれ込んでいた。「僕はリンダと出会う前にその歌を書いたんだ」 “Catch the Wind”についてドノヴァンはいう。「それも彼女を失う歌だった。何かの予告だったのか?あるいはヨーガの教えか―現在しか存在しないっていうね。つまり過去と未来は常にここにあるってこと。僕たちは恋に落ちて、1965年を通じて僕のキャリアが爆発するにしたがって断続的なつきあいをするようになっていった。そして60年代が終わる頃に再会するまで僕らは別れたんだ」

しかしドノヴァンの恋人の不在は、1965年から69年の間に絶えず続いたインスピレーションの源となった。あるいはソングライターは誰かや何かに飢えている時に最も創造性を発揮するという、昔からよくいわれる道理そのものなのかもしれない。1970年までにドノヴァンとリンダがついに結ばれた時に、もしかすると彼の渇きは満たされたのかもしれない。しかしながら、これまで述べたこれら公私の関係の変化をわきへ置けば、あるいは60年代の後半にドノヴァンとして群を抜いて“in”(顔、顔役)となった1人のアーチストが、70年代半ばまでに完全に“out”(部外者)となるのは必然だったのかもしれない。ドノヴァンのように、“サマー・オブ・ラヴ”のヒッピー的楽観主義に親密に結びついたアーチストは、パンクはいうまでもなく、巧みでなめらかなウェスト・コースト・サウンド、ハード・ロック、そしてディスコの時代には居場所がなくなってしまうことになった。

今回のEMIによるリイシュー・シリーズでは、アルバム『A Gift from a Flower to a Garden』と『Donovan In Concert』が含まれていない。理由はこれらアルバムに新たに加えることのできるマテリアルがないためだ。しかしながら、ミッキー・モスト時代の4枚のスタジオ・アルバムは、アルバム未収の7枚のシングル、14のアウトテイク、あるいはオルタナット・テイクを含み(3曲以外は全て初登場だ)、それプラス、13のデモ音源は初の公式リリースだ。

これら作品群は大きな商業的成果を生み出したが、批評的観点からいっても、ドノヴァンの創造力が最も肥沃だった時期として見なされることになった。『Sunshine Superman』はサイケデリック時代最高のアルバムの1枚として必ず引き合いに出されている(その時代中心となったロンドンとロサンゼルスの2つの主要なレコーディング・スタジオでのセッションから生み出された)。全てロンドンでレコーディングされたアルバム『Mellow Yellow』は、ロサンゼルス・セッションの鋭さには欠けるが、ジョン・カメロンの優雅なアレンジメントによって埋め合わされていた。たしかに、70年代初頭のエルトン・ジョン、ガス・ダッジョン、そしてポール・バックマスターを唯一の例外として、ブリティッシュ・ポップ史において、ドノヴァン、モストそしてカメロンよりも幸運なシンガーソングライター、プロデューサー、アレンジャーのチームを考えるのは難しい。

続く『A Gift from a Flower to a Garden』や『The Hurdy Gurdy Man』といったアルバムもまた、強力なマテリアルと、ハロルド・マクネアやダニー・トンプソンといったすばらしいセッション・プレーヤーたちによる貢献を豊富に含んでいたし、60年代最後のシングル―“Hurdy Gurdy Man”、“Atlantis”、そして“Barabajagal”―は、さらにドノヴァンをダイナミックな成果を伴う新しいロック的領域へとみちびくことになった。

2005年、ドノヴァンは依然、コンサートでその存在を印象づけている。そのインスピレーションは目まぐるしかった60年代の創造性ほどの威力はないかもしれないが、ドノヴァンは忘れられない歌の数々の詰まったカタログを増やし続けている。ニュー・アルバムとツアーの数はかつてほどではないものの、あなたはドノヴァンの巨大な時代を徹底的に調べ上げたEMIのこのシリーズをのんびりと楽しむことができるだろう。

ようこそ ドノヴァン!


The Hurdy Gurdy Man
ミッキー・モスト時代 パート3
(1967年9月〜1968年11月)

1967年9月、ドノヴァンは“There Is A Mountain”によって、7枚目のUSヒット・シングルを享受し、ケン・ローチの映画、“Poor Cow”(夜空に星のあるように)のサウンドトラックのために、“Be Not Too Hard”と“Poor Love”のレコーディングを行なった。しかしジョーン・バエズの1967年のアルバム『Joan』には取り上げられたものの、“Be Not Too Hard”は未だに日の目を見ていない。英国の詩人クリストファー・ローグの“September Song”に曲をつけたその歌は、7月に放送されたBBC1による“Donovan Meets Logue”におけるシンガーと風刺詩人の組み合わせに由来していた。

テレンス・スタンプ(ドノヴァンの“Colours”を歌っている)とキャロル・ホワイトを主役にした“Poor Cow”は、ドノヴァンのアレンジャーのジョン・カメロンに最初の映画音楽の作曲を経験させることになった。「ドンはクリストファー・ローグといっしょに1曲を書いていて、私たちはそれをレコーディングするためにスタジオ入りした」 カメロンは説明する。「私がアレンジメントを施していた。テディ・ジョゼフが監督プロデューサーだった。テディはドンに“誰が背景音楽を書くんだ?”と聞くと、ドンは“彼です”といって私を指差したんだ!」

次にドノヴァンはアメリカに飛んだ―5人編成のバンド(ハロルド・マクネア、トニー・カー、“ポータベラ・キャンディ”ジョン・カー、そして2人のアメリカ人ミュージシャン)に地元のストリング・カルテットが加わってのツアーのためだった。最初のコンサートはサンフランシスコのカウ・パレスで、続いてハリウッド・ボウル含むカリフォルニアの数日間には、15,000人のオーディエンスに向けてコンサートが行なわれた。アメリカ訪問中に、ドノヴァンはマハリシ・マヘシュ・ヨギの講義に出向いた。8月にウェールズで行なわれた彼のセミナーにはビートルズが出席していた。ドノヴァンはレクチャーのあとにその聖人の楽屋を訪ね、続いてベヴァリー・ヒルズのマハリシの家で個人的な瞑想のレッスンを受けた。

11月までに本国で“There Is a Mountain”のヒットを放っていたドノヴァンは、さらにニューヨークのリンカン・センターにあるフィルハーモニック・ホール含む北米ツアーを回っていた。ドノヴァンがサンフランシスコのフィルモアの連続3日公演でビラのトップを飾るまでに、新しいUSシングルがリリースされた。“Wear Your Love Like Heaven”は、ドノヴァンによるくどいほど長いエキゾチックな色合いと、ハロルド・マクネアのフルートとマイク・カーのヴァイブがメローで心地よい要素となった、愉快で祝いの雰囲気にあふれた歌だった。またマクネアはメローな“Oh Gosh”でも同様に貢献し、そこでのドノヴァンの気息音の交じった感嘆は、手際よくふさわしい感傷を導いている。

ドノヴァンの北米ツアーは完全な勝利を収め、12月にはUK音楽プレスが大々的に広告を打ち、次のように宣言した―“ドノヴァンはアメリカ中に何100万という新しい友人たちを残し、今故国へ戻ってきた。” シングル“Wear Your Love Like Heaven”は12月の終わりにアメリカでピークに達し、同時にアメリカで野心的な2枚組アルバム『A Gift from a Flower to a Garden』がリリースされた。このアルバムはボックス・セットとして商品化され、外側も内側もカラー写真を使った豪華な装飾が施され、紙ばさみ式で複数の歌詞カードが付属していた。

このぜい沢なパッケージングによって、レコードがサイケデリアの祝宴となっているだろうと期待した誰もが驚きを隠せなかった。『A Gift from a Flower to a Garden』の歌詞のほとんどが簡素であり、アルバム『Sunshine Superman』と『Mellow Yellow』収録曲に感じられるような、幻覚剤をたっぷり仕込んだ幻想的な資質に欠けていた。1つの手がかりは、ドノヴァンによるスリーヴ・ノーツにあるかもしれない―そこで彼は次のように説いている―“全てのドラッグをやめ、太陽を求める探求者を心に留めるあらゆる若者たち”

ドノヴァンは1967年にマハリシに会った時までに、すでに幻覚性のドラッグをやめていたようだ。1968年いっぱいと1969年にかけて、ドノヴァンは瞑想に打ち込み、アルコールとマリファナを絶っていたように思える。「神聖な植物で変化した状態は、人にトリップの描写をうながすことができる」 ドノヴァンは説明する。「でも僕はそういう刺激なしに容易に幻覚を見ることができる。67年以後、僕は刺激物をやめて瞑想するようになったが、それはまるで僕が再びマリファナを吸い始めて、ロック全盛時の盛大なパーティーに参加したかのように見えたんだ。でも刺激剤はせいぜいいろんなしきたりを解放して、実験的な融合を試みる1つの方法でしかない。簡単にいえば、幻覚剤は内なる風景を切り開いてくれるもの、瞑想は平穏で安らかな響きを中心に置くもの、そしてマリファナは笑いを解放し、娯楽とゲームを創り上げるためのちぐはぐな歌詞を生み出すものだ。全ては実際的な効果があるけど、能力あるソングライターなら本当にに必要なものではないんだ」

2枚組のボックス・セットの1枚目、『Wear Your Love Like Heaven』は、ドノヴァンの世代―“徐々に結婚適齢期に入る年齢集団”―に捧げられ、2枚目の『For Little Ones』は彼らの子孫―“新世代の子供たち”―に捧げられている。しかしながら、より正確な2枚のレコード違いは、1枚目が子供っぽい熱中とふるまいからの方向転換、2枚目が自然界への瞑想に宿る純真な明瞭性への賛美といっていいのかもしれない。

1968年新年の英国のテレビ視聴者は、BBC1の大晦日番組“ハグマネイ・ショー”でドノヴァンを目撃することになった。ドノヴァンは1月初旬に“Jennifer Juniper”をレコーディングしたに違いない。ジョン・カメロンは最初の放映の打ち合わせから一気に話が進んだことを覚えている。「一瞬の間にアレンジメントが変わったんだ。なぜなら私は火曜日に電話をもらって、その晩か翌朝にドンに会いに行ったから。私たちは金曜日にはスタジオにいて、日曜日にはラジオ・ルクセンブルクでそれを聞いた」

同月、ドノヴァンはBBCラジオ・ワンの“トップ・ギア”セッションで5曲を録るために、ジョン・カメロン・グループとともにマイダ・ヴェイルにあるBBCのスタジオにいた。3日後、ドノヴァンはインドに飛び、同時にポール・マッカートニー、ジェーン・アッシャー、リンゴ・スター、そしてリンゴの妻モーリーンもリシケシュのマハリシ・マヘシ・ヨギ邸にいるハリソン、レノン夫妻に合流するために飛んだ。瞑想に磨きをかける以外に、その訪問はドノヴァンがジェニー・ボイドと一緒になる機会を与えることになった。彼は約4週間インドに滞在したようだが、その間にビートルズと彼は次のアルバムのためのマテリアルにとりかかるために、そのリラックスした雰囲気を利用していた。2月中にドノヴァンとジェニーは、ビートルズのアップル社の“電子部門重役”であったアレクシス・マーダスとともに、思いつきのアテネ旅行へ飛んだ。

シングル“Wear Your Love Like Heaven”のUKリリースを見送っていたパイ・レーベルは、アメリカのエピックより1ヶ月早い2月に“Jennifer Juniper”をリリースすることができた。「シングルごとにミッキーは違うサウンドにしようとしていた」 ジョン・カメロンは回想する。「いつも“どうやって違いを出そうか、どうやってユニークにしようか?”ってことをいいながら仕事を始めていた。シンセサイザーのない時代だったから、本当に上手くやらなきゃならなかった。“Dippy”のために私たちはストリング・カルテットを使って、ハロルドは“There Is a Mountain”に参加した。ジョン・ポール・ジョーンズはブラス・セクションを使って“Mellow Yellow”をアレンジして、私はオーボエ、ハープ、シェイカー、そしてアコースティック・ベースを使って“Jennifer Juniper”をアレンジしたんだ」

“Jennifer Juniper”でフィーチャーされたミュージシャンは、おそらくデアドリュ・ドッズ(オーボエ)、デヴィッド・スネル(ハープ)、そしてダニー・トンプソン(ダブル・ベース)を含んでいるだろう。ドノヴァンが最後のヴァースをフランス語で歌う、このジェニー・ボイドへの魅力的な祝歌は3月に英国で5位に達したが、アメリカではあまりヒットしなかった。B面の楽観的なフォーキー・ソングの“Poor Cow”は、“Poor Love”の改題ヴァージョンだった。ケン・ローチの映画では、ドノヴァンによるソロ弾き語りだったが、ここではアコーディオン、ハンド・パーカッション、そしてストリングスをフィーチャーしたジョン・カメロンのアレンジメントが採用されている(ひょっとするとサウンドトラック・ソングと同じセッションで録られたのかもしれない)。

3月、ドノヴァンはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、白血病研究基金のベネフィット・コンサートに出演した。彼はビラのトップに告知され、そこにはティラノサウルス・レックスの名もあった。ドノヴァンは数曲を1人でプレイし、数曲をフルート奏者のハロルド・マクネアとともに、そして他をバンドとジョン・カメロン指揮によるストリング・セクションとともに演奏した。4月にはさらに数曲をロンドンでレコーディングし、5月には14もの新曲をレコーディングした。

その月に、ドノヴァンはブライトン・ドームで行なわれた“学生のためのアーツ・フェスティヴァル”でプレイした。再びアメリカより遅くなったが、本国でリリースされた『A Gift from a Flower to A Garden』は、ついに英国でチャート・インした。5月21日、ドノヴァンはアシュリー・コザックと袖を分かち、今や父親がマネージャーとなっていることを認めた。エージェントのヴィック・ルイスはそのままだった。「潮時だったし、クラインはすでにアシュリーに申し入れていた」―これがドノヴァンの短い説明だ。「アシュリーは、それが僕にとってベストの選択だと感じていたのが今は分かるね」 また5月下旬に、ドノヴァンはダスティ・スプリングフィールドのテレビ番組“It Must Be Dusty”に出演した。

5月29日にドノヴァンのシングル、“Hurdy Gurdy Man”はUKチャートに入った。もともとはハーディ・ガーディというスカンジナヴィア拠点のグループ(セント・オールバンズ時代のドノヴァンの友人、マック・マクラウドがいた)に提供されたその歌は、最終的にドノヴァンによって保留されていた。彼はUKとUSA両方でみごとなチャート・アクションを収めたことで報われた。ドノヴァンの穏やかなハミングとつまびきのイントロに始まり、そのパフォーマンスはギター、ベース、そしてドラムスの輝きに満ちたとどろきへと展開する。ベースとドラムスを担当したのは、それぞれアレンジャーのジョン・ポール・ジョーンズとクレム・カッティーニだ。一方でドノヴァンはタンブーラのエキゾチックな響きを加えている。

ジミー・ペイジがアルバム『The Hurdy Gurdy Man』のセッションでいくつかプレイしたと主張したらしいが、ジョン・ポール・ジョーンズは未来のバンド仲間であるペイジとジョン・ボーナムが、このタイトル・トラックをプレイしたとする主張に異を唱えた。ジョーンズはギターを弾いたのは、もう1人論争の的となっていたアラン・ホールズワースでもなく、アラン・パーカー(デヴィッド・ボウイやエルトン・ジョンらのセッションに加え、ブルー・ミンクのメンバーとなった)だったと明かした。シングルとなったタイトル・トラックのB面は“Teen Angel”で、ピアノとハーモニカによるすばらしく控えめな伴奏をフィーチャーした初期ドノヴァン作品だった。

6月、ドノヴァンはピーターバラのウィルトシーで行なわれたバーン・バーベキュー・コンサート・アンド・ダンスの初日を務めた。また7月に英国で放送される“ボビー・ジェントリー・ショー”のために、ゲスト出演の収録を行なった(その女性司会者((ボビー))とのデュエットで、“There Is a Mountain”とボビーの“Bugs”を歌った)。ジョン・カメロン、デヴィッド・カッツ、そして14人のミュージシャン(おそらくクラシック・アンサンブルだろう)によるバッキングをしたがえたドノヴァンは、BBCラジオ1の“トップ・ギア”のために6曲を録音した。そのうちの1曲である“The Unicorn”は、1971年のアルバム『HMS Donovan』で日の目を見た。翌月、ドノヴァンはウォーバーン・ミュージック・フェスティヴァルの2日目の午後に出演した。

7月にアメリカでリリースされたアルバム『Donovan in Concert』は、ドノヴァンのコンサートが体験できる14曲の強力なライヴ・マテリアルが入っていた。フラー・コールズによる魅力的な絵画“砂漠の旅”がアルバムのフロント・カヴァーを飾り、文字は全く入っていなかった。ソロ・パフォーマンスから5人編成のフルバンド及びUSフラワー・カルテットのストリングスまでを含んだ1967年の北米ツアー中に、カリフォルニアのアナハイム・コンヴェンション・センターで録音されたアコースティック・パフォーマンスだった。2つの新曲と、UKではアルバム未収だった4曲が含まれていたにもかかわらず、9月にリリースされた『Donovan in Concert』は本国でのチャート入りに失敗した。8月に放映されたBBCテレビ・シリーズ“The Millionaires”の第1回のエピソードは、ミッキー・モストとミュージシャンの中からドノヴァンが選ばれた。同月、ドノヴァンは初めて父親になった。父親と同じドノヴァン・リーチと名付けられた息子の母親は、ドノヴァンが1年半を共に暮らしたアメリカ人のイーニッド・スタルバーガーだった。その後、2人は2番目の子供、ローン・スカイをもうけた。

ドノヴァンは8月下旬に、映画“火曜日ならベルギーよ”のプロデューサー、デヴィッドLウィルパーと監督のメル・スチュアートに会いに、スイスのモントルーに飛ぶことが伝えられた―その映画に音楽を提供するためだった。9月になると、ドノヴァンはツアーのためにアメリカに戻った。ハリウッド・ボウルとカーネギー・ホールでの2つのショーを含む11月に至るステージで、彼は白いじゅうたんを広げた演壇に足を組んで座った。本国においては、ドノヴァンはピーター・クックとダッドリー・ムーアのテレビ・シリーズ、“グッバイ・アゲイン”で見ることができた。

アルバム『The Hurdy Gurdy Man』は10月にアメリカでリリースされた。音楽的には、そのアルバムはおそらくドノヴァンの中で最も多岐にわたっているだろう。完全なロックのタイトル・トラックから、ジャズ、カリプソ、そしてケルティック/東洋の融合をはさみ、“Jennifer Juniper”の華麗なポップまで、『The Hurdy Gurdy Man』は、アルバム『Wear Your Love Like Heaven』よりも十分なポップ・セレクションとなっている。

そのジャケットは、参加ミュージシャンが誰なのか、あるいは目を引くアートワーク―水に囲まれた、鳥の住むアシの様式化されたイメージ―の作者が誰なのかの手がかりを載せてはいない。ドノヴァンは絵を描いたのが彼の学校仲間で画家のデヴィッド・リチャーズだと明かし、アルバム『Wear Your Love Like Heaven』収録の“Skip-a-Long Sam”のインスピレーションとなった人物だと打ち明けている。明らかにミッキー・モストがプロデューサーの椅子に座り、ジョン・ポール・ジョーンズとジョン・カメロンが2曲のヒット・シングルに加え、他のアレンジメントも担当していると思われる。

3曲でドノヴァンはケルティックと東洋のサウンドの魅力的な融合を図るために、楽器的にもヴォーカル的にもドローン音による実験を試みている。雰囲気に富んだ“River Song”は、ギター、ハンド・パーカッション、そしてマルチ・ヴォーカルのみでその域に達し、アルバム『For Little Ones』のくつろいだ雰囲気を完全に再現していた。“Peregrine”はハーモニウムと弓弾きによるコントラバスを加えているが、最後のヴァース前半からのわずかにためらいがちなヴォーカルによって損なわれている。悲しげな“Tangier”は、バート・ヤンシュ本人のギターをフィーチャーしている。

“The Entertaining of a Shy Girl”、“West Indian Lady”、“A Sunny Day”、そして“The Sun Is a Very Magic Fellow”全ては、優美で楽しげな肌触りがある。“West Indian Lady”は“There Is a Mountain”のカリプソ・スタイルに戻っているが、これらのトラックはおそらく共通のラインナップ―ハロルド・マクネア(フルート)、ダニー・トンプソン(ダブル・ベース)、そしてトニー・カー(ドラムス、パーカッション)―によるものだろう。アルバム『The Hurdy Gurdy Man』のほとんどを生み出した1968年5月のセッションのアウトテイク、“What a Beautiful Creature You Are”もまた、楽天的なカリビアン・スタイルのナンバーだ。ドノヴァンとデュエットをとっているルル(彼女もミッキー・モストと契約していた)は、TVショーでモーリス・ギブ(ビー・ジーズ)とともにこの歌を歌った。

“As I Recall It”と“Get Thy Bearings”はどちらもジャズ風味だ。前者は愉快なトラッド・ジャズ・ナンバーだ。へヴィなリズム・セクションとサキソフォンを伴った、よりプログレッシヴで怪しい“Get Thy Bearings”は、キング・クリムゾンのライヴ・レパートリーに入った。“Teas”はシーズンオフに入った海岸でメランコリックに思いにふけっている。目立つピアノとトランペット、オルガンのフェイドアウト部は、バート・バカラックのアレンジメントを喚起させる。

ピアノ、木管楽器、ストリングス、そしてトランペットによる陽気なアレンジメントをフィーチャーした“Hi It's Been a Long Time”は、おそらくカメロンにとって60年代のドノヴァンとの最後の仕事だろう。「ドンといっしょに働くことの何がすばらしいかっていうと・・・」 カメロンは回想する。「彼はいつも何にでも喜んでトライするところなんだ。そう、それで私たちが全てを出し切ったところで、彼は新たに出発してロック・ミュージシャンや他のミュージシャンたちと出会った。彼は縛りつけられるのを好まなかったからね」

ジョン・カメロン自身のキャリアは、アルバム『Cover Lover』(ドノヴァンとの仕事の前にやっていた風刺的な楽曲集)によって1967年に始まっていた。翌年には2枚のイージー・リスニング・アルバム―『Warm and Gentle』と『Donovan My Way』―が続いた。前者はショー・チューン、スタンダード、そしてポップ・ソング(“Sand and Foam”含む)のコレクションで、ジョン・カメロン・オーケストラとクレジットされていた。後者はヴィック・ルイス・オーケストラによって、カメロンのアレンジメントによる11のドノヴァン作品がフィーチャーされていた。注目すべき(そしてコレクター好みの)1枚が『Off Centre』だ。これはジョン・カメロン・カルテットとクレジットされ、トニー・カー、ハロルド・マクネア、そしてダニー・トンプソンをフィーチャーし、1969年にリリースされた。

60年代後半までに、カメロンはジュリー・フェリクスの“One More Time With Felix”(13のエピソードが入る3つのシリーズ)と“ボビー・ジェントリー・ショー”に楽曲を提供し、テレビで広く働いていた。彼はもう1つの音楽的野心をもっていた。「ドンと同じように、私も次へ進みたかったんだ。私は実際のところ、小さなカルテットやフォーキーなやつにはうんざりしていた。なぜなら私自身は本来、もっとファンキー・ジャズ寄りのライターだったから。それでホット・チョコレートやCCS(アレクシス・コーナーのビッグ・バンド)に進んで、急にありえないようなブラス・ラインを書くことになった。そういったこと全てが新たなチャレンジだった。次の段階だったんだ」

ドノヴァンとの仕事でいい思い出となっている場面を尋ねられたカメロンは、次のようにいった―「私たちが“Jennifer Juniper”にオーボエを入れている時に、コントロール・ルームの窓から見ていたこと。“Sunshine Superman”でギターを弾くエリック・フォードを見ていたこと―これが私の初の“コマーシャルな”アレンジメントだったから。私はドンとの仕事と、毎回“さて、この曲をどうしようか?”とみなで話し合うのが大好きだった。最高にやりがいのあることだったと思う。なぜなら私たちは“ウォール・オブ・サウンド”を作るわけでも、曲を音で包み込むわけでもなかったから。私たちがよくいっていたのは、ちょっとしたアイデアとちょっとしたテーマと、1つのカウンター・ラインやフックをどう組み立てればいいかってことだった」

「分析するなら、おそらく私たちのやり方が定式化したんだと思う。たぶん少しハープシコードやストリング・カルテットがトゥー・マッチなところがあったと思うが、本質的にすばらしかったのは、境界なんて関係のないヴィジョンをもった世界から生まれたってことだ―そういうヴィジョンをもった他の人たちを引き入れてね。ドンは自分のやりたかったことに対して全く冒険的に挑むタイプだったし、彼の友人たちはそれが正しいヴィジョンだといって彼を励ましていた。ミッキーはすごく商業主義的だったから、私はその間に挟まって、“調停役”をこなしていたんだと思う。ミッキーの商業主義的な考えが歌を破壊してしまわないようにすることと同時に、私は彼の商業性をドンの音楽性にうまく合体させていたんだと思う」

アルバム『The Hurdy Gurdy Man』に加え、1968年10月にはドノヴァンのニュー・シングルがUSチャートに入っていた。生産的な5月のセッションから生まれたもう1つの成果である“Lalena”は、ジョン・カメロンが当然のことながら気に入っている、見事なアレンジメントをフィーチャーしていた。フルートとハープを含むそのオーケストラは、あるいはヒット・シングルとして誰もが選ぶマテリアルにしては、かなりメランコリックすぎたのかもしれない―これはトップ30を突破できなかった。B面の“Aye My Love”はやや弱いが、あまり切れのよくないテンポを活気づけるフルートの魅力が備わっている。

11月、ドノヴァンはテレビ番組の“ハリウッド・パレス”で、セルジオ・メンデスとの“There Is a Mountain”含む3曲をプレイし、“The Smothers Brothers Comedy Hour”出演を収録し、ロサンゼルスの“アメリカン・レコーディング・カンパニー”で5曲をレコーディングした。その月下旬にアビー・ロードに戻ったドノヴァンは、自分のコンピレーション盤(訳注:『Donovan's Greatest Hits』のこと)のために、初期2枚のヒット・シングルを再録した―“Catch the Wind”と“Colours”だ。どちらもオリジナル・ヴァージョンを凌駕してはいないものの、初期のマテリアルに再び取り組んだドノヴァンとバンドの興味深い音が聞ける。彼の回想によれば、ギターにビッグ・ジム・サリヴァン、キーボードにジョン・ポール・ジョーンズが参加したかもしれないということだ。パイは英国で“Lalena”をリリースすることを見送っていたが、シングル・リリースのための真新しいアメリカ録音を用意していた。

ローン・マードック



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