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Donovan/Barabajagal/2005 EMI Records Ltd. 7243 8 73569 2 4



Introduction

1967年のあるコンサートの初めに、司会者がドノヴァンのことを天才だといったとき、彼がそのシンガーの風雨をも支配する力を持ち出したのは、あるいはふさわしくなかったかもしれない(たとえ時代を象徴する表現だったとしても)。その司会は、ある以前のショーでドノヴァンがオーディエンスに向かって、みんなの拍手喝采が雨を追い払うに違いないといったことを思い出していた。たしかにまもなく雨が止んだのは、“サンシャイン・スーパーマン”の並はずれたパワーよりも、常に雲に注意を払っていたその思慮深いスコットランド人に関係していた。

しかし多くの点で、1967年のドノヴァンはたしかに天才だった―とりわけアメリカにおいては。前年の間、その20歳のシンガーはその地で“Sunshine Superman”と“Mellow Yellow”の巨大ヒットを享受していた。続く3年にわたり、彼は一連のアルバムとシングルに表われていたその強力なソングライティング能力と多様なスタイル両方によって、人々を驚かせ続けた。1966年から1969年の間に、ドノヴァンは10枚のUSトップ40ヒット(1枚は1位、さらに5枚がトップ20)を放ち、ハリウッド・ボウルやカーネギー・ホールのような会場を含む彼の北米ツアーは、当時最高の総収益を上げたうちの1つだった。またドノヴァンはヨーロッパや極東の主要なマーケットでもかなりの成功を収めた。本国において彼は7枚連続のUKトップ30ヒット・シングル(最後の2枚はトップ10)を放った。

歌とパフォーマンスにはっきりと表われたドノヴァンのポップ・ミュージックへの貢献は、あの時代背景とその背景からの逸脱両面において理解する必要がある。ポップ史のコメンテーターたちは、しばしばドノヴァンの重要性を革新者としてではなく、時流に便乗(ディラン崇拝者、型どおりのヒッピー)したアーチストとして軽く扱うことがある。ドノヴァンの不幸は、非常に若いフォークシンガーたちがディランに大きく影響を受けた、あるいは北米のフォークとブルースをいっせいに大いに利用したときに、英国で最も有名なフォークシンガーになってしまったことだ。彼はすぐに自身の声を見つけ、様々な状況が重なって何か別のものへ目を向けさせてしまったものの、同時代のアーチストたちよりも先にサイケデリアの世界へ進んでいった。

いく人かの評論家たちは、ドノヴァンのことを遠い昔のナイーヴな遺物として、そしてどういうわけか嘆かわしい時代のそれとして退けてしまう。そして60年代よりも楽天的で無垢さのない世代から見れば、何1000という熱心なファンに向かって穏やかな歌をプレイするカフタン姿(caftan:トルコ・アラブ人などの着る帯のついた長衣)のドノヴァンは、からかいの対象となりやすいイメージだ。しかしドノヴァンが60年代に残した楽曲群の重要性は、彼がすぐに引き出してしまったカヴァー・ヴァージョンの純粋な量と多様性によって証明されているし、以来ずっと彼のカヴァーは現われ続けてきた。

80年代後半にはドノヴァンへの関心が復活した。これは少なくとも部分的には、ザ・ハッピー・マンデイズと彼との結びつきによるものであったし、あるいはその時の流行の世代が、至福を味わうことのできた時代の1人の生き残りに親近感をもったからかもしれない。もっと最近のミュージシャンたちは、その歌の数々自体はもちろん、プレイにおける純粋な音楽性を含めて彼の60年代の作品に魅了されてきた。ドノヴァンのポップとフォークの感性は、ソロ・ポップ・アクトたちが1本のギターをつま弾くか、流行のグループ・サウンドと合体するか、あるいはオーケストラと闘い抜くことを期待されていたときに、ジャズと室内楽オーケストラが融合されていた。

1965年12月から60年代終わりまでのドノヴァンのキャリア―今回のEMIによる拡大リイシューが対象とする期間だ―は、アーチストの私的及びビジネス上の関係の変化、その間の彼の音楽に重要なインパクトを及ぼすことになる変化とともに始まり、そして終わる。そして続く10年間はいくぶん地味な存在であることを釈明しながら歩み続けていった。新しくエピックと大いに富をもたらす契約を交わしたにもかかわらず―そしてさらに商業的、創造的成功をものにしたにもかかわらず―70年代はドノヴァンにとって、快適には程遠い時代となってしまった。

注目を浴びる時期での最も顕著な変化が、ドノヴァンとともに働いたプロデューサーのミッキー・モストとアレンジャーのジョン・カメロンとの協力関係の始まりと終わりだった。彼らとのパートナーシップは、ドノヴァンの長く変化に富んだキャリアの最高点として広く見なされる実績を作り出した。しかしながら、ドノヴァンの創造性にリンダ・ローレンスが与えた影響を推測することもまた興味深いことだ。

1965年2月、ドノヴァンは音楽TV番組レディ・ステディ・ゴーで、リリース直前の自身のデビュー・シングルをプレイした。これは必見のTVショーに連続出演した3回目のものだった。最初の出演のあと、控え室で18歳のソングライターは1人の若いモデル、リンダ・ローレンスと出会い、いっしょに踊っていた。彼はすっかりほれ込んでいた。「僕はリンダと出会う前にその歌を書いたんだ」 “Catch the Wind”についてドノヴァンはいう。「それも彼女を失う歌だった。何かの予告だったのか?あるいはヨーガの教えか―現在しか存在しないっていうね。つまり過去と未来は常にここにあるってこと。僕たちは恋に落ちて、1965年を通じて僕のキャリアが爆発するにしたがって断続的なつきあいをするようになっていった。そして60年代が終わる頃に再会するまで僕らは別れたんだ」

しかしドノヴァンの恋人の不在は、1965年から69年の間に絶えず続いたインスピレーションの源となった。あるいはソングライターは誰かや何かに飢えている時に最も創造性を発揮するという、昔からよくいわれる道理そのものなのかもしれない。1970年までにドノヴァンとリンダがついに結ばれた時に、もしかすると彼の渇きは満たされたのかもしれない。しかしながら、これまで述べたこれら公私の関係の変化をわきへ置けば、あるいは60年代の後半にドノヴァンとして群を抜いて“in”(顔、顔役)となった1人のアーチストが、70年代半ばまでに完全に“out”(部外者)となるのは必然だったのかもしれない。ドノヴァンのように、“サマー・オブ・ラヴ”のヒッピー的楽観主義に親密に結びついたアーチストは、パンクはいうまでもなく、巧みでなめらかなウェスト・コースト・サウンド、ハード・ロック、そしてディスコの時代には居場所がなくなってしまうことになった。

今回のEMIによるリイシュー・シリーズでは、アルバム『A Gift from a Flower to a Garden』と『Donovan In Concert』が含まれていない。理由はこれらアルバムに新たに加えることのできるマテリアルがないためだ。しかしながら、ミッキー・モスト時代の4枚のスタジオ・アルバムは、アルバム未収の7枚のシングル、14のアウトテイク、あるいはオルタナット・テイクを含み(3曲以外は全て初登場だ)、それプラス、13のデモ音源は初の公式リリースだ。

これら作品群は大きな商業的成果を生み出したが、批評的観点からいっても、ドノヴァンの創造力が最も肥沃だった時期として見なされることになった。『Sunshine Superman』はサイケデリック時代最高のアルバムの1枚として必ず引き合いに出されている(その時代中心となったロンドンとロサンゼルスの2つの主要なレコーディング・スタジオでのセッションから生み出された)。全てロンドンでレコーディングされたアルバム『Mellow Yellow』は、ロサンゼルス・セッションの鋭さには欠けるが、ジョン・カメロンの優雅なアレンジメントによって埋め合わされていた。たしかに、70年代初頭のエルトン・ジョン、ガス・ダッジョン、そしてポール・バックマスターを唯一の例外として、ブリティッシュ・ポップ史において、ドノヴァン、モストそしてカメロンよりも幸運なシンガーソングライター、プロデューサー、アレンジャーのチームを考えるのは難しい。

続く『A Gift from a Flower to a Garden』や『The Hurdy Gurdy Man』といったアルバムもまた、強力なマテリアルと、ハロルド・マクネアやダニー・トンプソンといったすばらしいセッション・プレーヤーたちによる貢献を豊富に含んでいたし、60年代最後のシングル―“Hurdy Gurdy Man”、“Atlantis”、そして“Barabajagal”―は、さらにドノヴァンをダイナミックな成果を伴う新しいロック的領域へとみちびくことになった。

2005年、ドノヴァンは依然、コンサートでその存在を印象づけている。そのインスピレーションは目まぐるしかった60年代の創造性ほどの威力はないかもしれないが、ドノヴァンは忘れられない歌の数々の詰まったカタログを増やし続けている。ニュー・アルバムとツアーの数はかつてほどではないものの、あなたはドノヴァンの巨大な時代を徹底的に調べ上げたEMIのこのシリーズをのんびりと楽しむことができるだろう。

ようこそ ドノヴァン!


Barabajagal
ミッキー・モスト時代 パート4
(1968年11月〜1969年12月)

ノヴァンは1968年秋を北米ツアーで過ごした。28の満員のコンサートは、50万ドルを超える収益を上げた。1968年11月、彼はロサンゼルスの“アメリカン・レコーディング・カンパニー”で5曲を録音した。これらセッションのために、ドノヴァンはゲイブリエル・メクラー―ステッペンウルフで名を上げ、続いてスリー・ドッグ・ナイトで働くことになる―とともに共同プロデューサーを務めた。

モスト不在のスタジオは、レコーディング・セッションがどう指揮されるべきかについて、分岐点となったのかもしれない。モストの規律正しいスタジオ・ワークへのアプローチ―前もって曲が用意され、セッションは午前中に時間どおりにスタートすべきである―は、当時現われつつあったロック・カルチャーにいた多くのミュージシャンたちのリラックスした姿勢と、徐々に対立するようになったに違いない。ドノヴァンはモストの規律正しいアプローチにたいていは従っていたが、彼とモストはある1つ(特定はできないが)のセッションの場で争いになった。

「一度だけ、私たちが不和になったのが、ロサンゼルスでのことだった」 モストは1995年のBBCラジオ2の“ザ・ドノヴァン・ストーリー”のインタビューで回想した。「全てが当時の大スターたちだったと思う―スティーヴン・スティルス一団とママ・キャス一団全員がセッションに参加していたが、実際には何もプレイしていなかった。そして誰かがそのセッションにヤクをもち込んでいたから、私はセッションを中止して彼ら全員を追い出したんだ。それは私のセッションで、私が金を払っているってことをいう必要があった。それで私たちはけんかをしたね」

その月の下旬にドノヴァンは帰国した。彼のレーベル、パイは“Lalena”のシングル・リリースを見送り、その代わり、ロサンゼルス・セッションでの最初の成果を発表した。“Atlantis”はとりわけヒット・シングルとして注目すべきレコードだ。アコースティック・ギター、ピアノ、オルガン、そしてハープの穏やかなバッキングに乗り、ドノヴァンはほとんど2分間を失われた大陸を喚起させる語りで埋め、その後、ピストル射撃のようなドラムスが入るとバンド全体が動き出す。それからその歌はフェイドアウトするまで“Hey Jude”スタイルの3分間のコーラスとなる。そしてドノヴァンのリクエストに基づき、エンジニアのリッキーによって、ひとつの短いギター・リフが散りばめられ、ストーンズ・スタイルへと変容していく。

ポール・マッカートニーが“Atlantis”へタンバリンとバッキング・ヴォーカルで参加しているとうわさされるが、ドノヴァンは否定している。“Atlantis”のB面が“I Love My Shirt”だった。このドノヴァンの衣装へのありふれた合唱賛歌は、単に子供向けの歌としてとらえることができるだろう。この流れは2002年のアルバム『Pied Piper』で再登場した。

12月、ドイツのソロ・ツアーの初めに、ドノヴァンはハンブルクのムジークハレ(会場名)で野次に出くわした。ドイツ社会主義学生同盟のメンバーたちは、“きのうはプロテスト、きょうはビジネス”と断言し、チケット料金に注意を喚起した。1969年1月、ドノヴァンはドイツのテレビ音楽番組“ビート・クラブ”で“Atlantis”をプレイし、それからロイヤル・アルバート・ホールでコンサートを行なった。2月はマンチェスターのフリー・トレード・ホールでのコンサートで始まった。2月中旬のモーガン・スタジオで、ドノヴァンはヴォーカルとギターのオーヴァーダブによって多くのハイ・クオリティなデモ録音を行なった。“Marjorie”は1981年のアルバム、『Love Is Only Feeling』で“Marjorie Margerine”として日の目を見た。“Little White Flower”のショート・ヴァージョンは、あるいはよりふさわしいタイトルかもしれない“Come to Me Now Joyfully”としてブートレグになっていた。

“Good Morning Mr Wind”は1971年のアルバム、『HMS Donovan』で単に“Mr Wind”となったが、それはのちのレコーディングで使用されたのんびりとしたヴォーカルではないヴァージョンとして興味深い。続いて思いに沈む“Runaway”が、日本オンリーの1993年のアルバム、『One Night in Time』で登場した。ブルージーな“Lord of the Universe”は、最終的に2004年の『Beat Cafe』で日の目を見た。“Sweet Beverley”は最も早くて、1966年のドノヴァンのステージで取り上げられていた。この歌はべヴァリー・カットナーをほのめかしていたが、彼女は1969年にジョン・マーチンと結婚し、デュオとして活動することになった。これと“Palais Girl”(ドノヴァン得意のカリビアン・スタイル)は、これまでオフィシャル・リリースとしてはどれにも含まれていなかった。

次にドノヴァンはアンディ・ウィリアムズのテレビ・スペシャル出演の収録のためにアメリカに飛び、それからモンキーズとともにスタジオで過ごすために西海岸へ飛んだ。彼はモンキーズに“Valentine's Angel”を提供した。この歌のモンキーズ・ヴァージョンは具現化しなかったが、のちにドノヴァンは1973年のアルバム、『Essence to Essence』のために、“Saint Valentine's Angel”としてレコーディングした。またこの訪問中に、ドノヴァンは“The Smothers Brothers Comedy Concert Hour”に出演した(“Come to Me Now Joyfully”のブートレグ音源はここからだ)。

アルバム『Donovan's Greatest Hits』は2月にUSチャートに入り、4月には4位に達し、ゴールド・ディスクを獲得した。そのアルバムは、“Sunshine Superman”から“Lalena”まで、全UK/USシングルが集められていた。英国では少し遅れてリリースされたが、オリジナルUKアルバムには未収だった4曲のヒット曲が入っていたにもかかわらず、チャート入りに失敗してしまった。“Sunshine Superman”のロング・ヴァージョンも含まれていたが、それと“Season of the Witch”は、68年11月にアビー・ロードでリアル・ステレオ・ミックスが施されていた(US盤の『Sunshine Superman』と『Mellow Yellow』はモノラル及び“ステレオへの電子的変換”((擬似ステレオ))処理が行なわれた)。またこのレコードにはドノヴァン最初の2枚のヒット・シングル、“Catch the Wind”と“Colours”の再録ヴァージョンが入っていた。

ドノヴァンは2月にロンドンのポスト・オフィス・タワー(現テレコム・タワー、テレビ・ラジオ塔)で行なわれた、メリー・ホプキンのファースト・アルバム『Post Card』の発売記念パーティーで歌った。ドノヴァンはそのアルバムに3曲を提供していた―“Lord of the Reedy River”、“Voyage of the Moon”(この2曲はポール・マッカートニーとドノヴァン2人がギターを弾いた)、そして“Happiness Runs”だ。インド訪問の際に書かれた絶美な“Lord of the Reedy River”のドノヴァン自身によるソロ・アコースティック・ヴァージョンは、1971年のアルバム『HMS Donovan』で登場した(1981年に、ケイト・ブッシュがドノヴァンをバッキング・ヴォーカルに迎え、カヴァーした)。

ピアノ、フルート、ドラムス、そしてダブル・ベースの伴奏をフィーチャーしたドノヴァンによる最初期のヴァージョンは、1968年の春か夏のセッションで生まれたように思われる。“The Swan(in the Reedy River)”という仮タイトルの付いたそのトラックは、ホプキン、あるいは“火曜日ならベルギーよ”の映画制作者たちを念頭においてレコーディングされたのかもしれない。1969年に封切られたその映画は、スザンヌ・プレシェントとイアン・マクシェーンを主役に配し、“Lord of the Reedy River”をプレイするドノヴァンをフィーチャーしていた。この曲はサウンドトラック・アルバムには収録されず、アルバムはドノヴァンの書いたタイトル・トラックを歌うJPラグズをフィーチャーしていた。

次のUSシングルとして2月に“To Susan on the West Coast Waiting”がリリースされた。アコースティック・ギター、パーカッション、そしてキーボード(プラス、バッキング・ヴォーカルに3人の女性ファン)のシンプルな伴奏をフィーチャーした、ヴェトナム戦闘員からの手紙である穏やかな表現は、その痛切さをさらに強化していた。“Atlantis”がB面に追いやられたのは、あるいは本国でのパッとしない成績によるものだったのかもしれない。それはUKトップ10にとどかなかったモスト時代初のドノヴァン・シングルだった。しかしながら、“To Susan on the West Coast Waiting”は、その前の地味な成績に終わった“Lalena”を超えることはできなかった。しかしその時、熱狂的なオンエアによって、エピックはシングルをひっくり返すよう、けしかけられた。その結果、4月までに“Atlantis”はUSチャートに入り、ついにトップ10に食い込んだ。

その春、ドノヴァンはスコットランドで休暇を過ごした。2週間離れていた彼は、5月に2つのセッションのためにロンドンに戻ってきた―ミッキー・モストのところの仲間のアーチスト、ジェフ・ベック・グループ及びバッキング・シンガーのレズリー・ダンカンとマデリン・ベルとともに、少なくとも3曲をレコーディングするためだった。そのグループのヴォーカリストだったロッド・スチュワートは、これらセッションには不在だったようだが、“Barabajagal”がテレビ音楽番組“トップ・オブ・ザ・ポップス”のために撮影された時には居合わせていた(訳注:現金なロッド・・・)。

“Donovan with the Jeff Beck Group”とクレジットされた“Barabajagal”は、UKシングルとして6月にリリースされ、“Atlantis”よりもうまくいった―ドノヴァンをトップ10に返り咲かせることには失敗したが。そのパフォーマンスはベックによるかなり控えめなオープニング・ギター・リフから、ドノヴァンの取り乱したような、やや語り口調のヴォーカルまで展開していき、その歌詞―“愛は熱く、真実は烈火のごとく”で最高点に達している。この並はずれた詞によるほとばしりは、ドノヴァンも認めるように、ことばによるオーガズム表現のようだ。彼はこの歌のインスピレーションについていう―「薬草学と、安全で頭を冷やす効果のある植物のマリファナを促進すること。もちろん愛とか命とかオーガズムを熱狂的に祝うこと全てが、この歌に影響を与えている」 ここからサウンドは激しさを増していき、そしてよろめきながら音量を上げていき、フェイドアウトへ向けてシュプレヒコールへと発展する。2000年にダンス俳優のドープ・スマグラッツがショーン・ライダー(ドノヴァンの娘オリオールの90年代のパートナーだ)と組んで“Barabajagal”をレコーディングした。

そのシングルのB面として、同じくジェフ・ベック・グループとともにレコーディングした“Trudi”は、平凡なお祭り騒ぎだとしても愉快な1曲だ。これは初期のプレスでは“Bed With Me”というタイトルがついていた。“Barabajagal”は、1990年のシンギング・コーナーとの“Jennifer Juniper”のコメディ・ヴァージョンを除けば、ドノヴァンの最後のUKヒット・シングルとなった。数週間遅れてリリースされたアメリカではあまりうまくはいかなかった。

6月、ドノヴァンはロンドンのハイド・パークで行なわれたブラインド・フェイスのフリー・コンサートで短いセットをプレイした。翌月には、ローリング・ストーンズがブライアン・ジョーンズの死の2日後にそこでプレイした。ブライアン・ジョーンズの前ガールフレンドで、ドノヴァンの詩神であるリンダ・ローレンスは、7月のチェルトナムでのブライアンの葬儀に参列した。

9月、ドノヴァンはアントワープでのコンサートのためにベルギーに飛んだ。アメリカでアルバム『Barabajagal』がリリースされたが、前作の『The Hurdy Gurdy Man』同様、英国でのリリースはなしだった。表にやや感傷的なヴィクトリア様式のポートレイトと、裏にポスト・ヒッピー・スタイルのジーンズとカーディガンを身につけたドノヴァンの写真が載ったジャケットは、ドノヴァン自身と友人のシド・モーラー(Maurer)によるデザインだった。2人が初めて共に働いたのが、アルバム『A Gift from a Flower to a Garden』で、モーラーはその後しばらくドノヴァンを手がけた。アルバムがいくつかの異なったセッションから成り立っているのは、クレジットから明らかだった。これはドノヴァンにとっては新しい仕事のやり方ではほとんどなかったものの、サウンドあるいは目的の統一性なしに、全く異なったソースからまとめられたアルバムの印象につながっていた。

残念ながら、3つのヒット・シングルが含まれていることを除けば、“Superlungs My Supergirl”と“Where Is She”だけが期待に添うだけの仕上がりだった。ドノヴァンはビッグ・ジム・サリヴァンとジョン・ポール・ジョーンズが、“Superlungs My Supergirl”セッションに参加していたことを回想している。ブラスが加えられてはいるが、そのパンチの効いたサウンドは、“Hurdy Gurdy Man”を思わせるものがある。このヴァージョンはドノヴァンの3度目の試みだったが、モストがプロデュースしていたもう1人のアーチスト、テリー・リードもこれをレコーディングした。彼は“Season of the Witch”もカヴァーしていた。

“Happiness Runs”と“Where Is She”は、『The Hurdy Gurdy Man』セッションにさかのぼる。“Happiness Runs”はアルバム『Donovan in Concert』の“Pebble and the Man”を思わせるが、ここではドノヴァン、レズリー・ダンカン、グレアム・ナッシュ(ホリーズ)、そしてマイク・マクギア(ポール・マッカートニーの弟)によって歌われる輪唱曲へと発展している。“Where Is She”のクレジットは、ハロルド・マクネア(フルート)、ダニー・トンプソン(ダブル・ベース)、そしてアラン・ホークショウ(ピアノ)だ。この愛らしい幻想的な歌は、アルバム『The Hurdy Gurdy Man』に収まった方が、より居心地がよかっただろう。

アルバム中、5曲は1968年11月のロサンゼルス・セッションからだ。このセッションは“Atlantis”と“To Susan on the West Coast Waiting”を生んだが、先述のB面の“I Love My Shirt”含む残りの3曲は、さほど注目すべきものではない。“The Love Song”は、シングル候補としてファウンデーションズに提供された。ドノヴァンのヴァージョンは、朗読調の忠告、手拍子、そして説得力に欠ける“お祭り騒ぎへの誘い”のバッキング・ヴォーカルによって台なしになっている。“Pamela Jo”はかすかにトラッド・ジャズ/ヴォードヴィル調で始まり、果てしないパブ合唱へ向かって降下していく。

アルバムから漏れたが、今回初登場となったのが、“Stromberg Twins”だ。ドノヴァンはいう―「2人の女の子と2つのキャブレター(大麻喫煙具)について、カリフォルニアで書いたビーチ・ボーイズ・スタイルの曲だ」 これはジェフ・ベック・グループとのセッションからのアウトテイクで、ベックのソロをフィーチャーしているが、卓越しているのはニッキー・ホプキンスのピアノだ。

アルバム『Barabajagal』がUSチャートに入ったのに伴い、ドノヴァンはアンディ・ウィリアムズのTVシリーズに3日間出演するためにロサンゼルスに飛び、それからサンタ・バーバラ・ボウルから29日間の北米ツアーを開始した。その中にはハリウッド・ボウルとニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンが含まれていた(後者は25,000人の動員記録を達成した)。

11月、ハワイのホノルル・インターナショナル・センターでツアーを締めくくったドノヴァンは、西海岸のウォーリー・ヘイダー・レコーディング・スタジオで録音を行なった。1973年のアルバム『Cosmic Wheels』で再び組むまで、ミッキー・モストによる最後のプロデュースとなったこのセッションは、ニルス・ロフグレンとスティーヴン・スティルス含む多くの注目すべきロック・ミュージシャンがフィーチャーされていたと信じられている。“Lauretta's Cousin Laurinda”は、いくぶん平凡な出来だが、“Snakeskin”と“A Poor Man's Sunshine”は、ジェフ・ベック・グループ・セッションでのロック的方向性を維持したすぐれた内容だ。特に後者がすばらしい―その12月にシングル(Pye 7N 17881)としてリリースされる予定もあったらしいが、2004年のドノヴァンのアルバム『Beat Cafe』の中で復活した。1971年のアルバム『HMS Donovan』の中で唯一のミッキー・モスト・プロデュースとなっている“Homesickness”もこのセッションから始まった。

12月に英国で録音されていた“New Year's Resolution”は、“A Poor Man's Sunshine”のB面として考えられていた。巧みなギター・プレイによるソロ・アコースティック・レコーディングであり、短い1つのヴァースで成り立ったケルティック・スタイルの、歌詞を伴わないヴォーカルの入ったそのトラックは、ちょっとした作品ではあるが、1970年のアルバム(=バンド名)『Open Road』で実践されるケルティック・ロックへの道を指し示している。そのアルバムは同じタイトルの“New Year's Resolution”をフィーチャーしていたが、別のトラックである“Roots of Oak”が“New Year's Resolution”の音楽的アイデアを引用していたのかもしれない。

ドノヴァンはその12月にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでプレイした。彼は音楽プレスに載せられたRakレコード&ミュージック・マネジメントによる季節的なメッセージの中のリストに含まれていたが、それはドノヴァンとミッキー・モストの協力関係が終わっていたことを思わせる。「僕は疲れ切ってしまって、ルーツ探しと新しい方向性を求めたんだ」 ドノヴァンは回想している。「僕はモーガン・スタジオに入って、長い間“オープン・ロード”の制作と『HMS Donovan』のセッションに費やした。下の階ではポール・マッカートニーがファースト・ソロ・アルバムを作っていた。僕はすばらしい時をいっしょに過ごしたミッキー・モストの元から去っていた。新しい10年間が始まった時点で、僕は若いシンガー・ソングライターとしてできること全てを成し遂げていた。成果なんか気にかけずに、名声を超えて新しい人生に乗り出す以外にすることなんてあると思うかい?」

ドノヴァンはレコーディング&ツアー・バンドの“オープン・ロード”を結成し、1970年にその名を冠したすばらしいアルバムをリリースした。この頃に冨と名声のプレッシャーが、ドノヴァンを取り巻いていたように思われる―彼は日本ツアーの間、いくらか神経衰弱に陥っていた。彼の税金対策は1年間のシーンからの脱落を必要とし、その間彼は英国の土を踏むことはないと思われた。「僕は日本へ出かけていって、それから1年間を英国外で過ごして、ソロ・パフォーマーとしては最大の報酬を免税で稼ぐことを計画した」 ドノヴァンは回想する。「当時の英国は僕たちに98パーセントの税金をかけていたんだ。日本ツアーの間、僕は少し神経衰弱になっていて、そのことで僕は国外脱出しようと決心した。何100万(ポンド?)という金がかかっていたから」

「僕の父親とエージェントは、僕にロンドン行きのBOAC(英国海外航空会社)のジェット機に乗らないでくれと嘆願していた。でも僕は実行して、森の中にあった自分の小さなコテッジへ戻ったんだ。2日後、1人の若い女性が自分の借りるコテッジを探し求めてやってきた。それがリンダだった。そして2つのさまよう心が再び出会った。自身に回帰するケルティックの教えと同じように、僕たち2人は再び元通りになった。“Sunshine Superman”がこういう風に断言していた―“時間がかかるのは分かっている、でもしばらくの間、君が僕のものになるのは分かっている、僕たちは僕たちのやり方でそうするだろう”。もし歌詞が常に予言的なものなら、僕の詩神にとってのこの歌は最もそれが当てはまるね」

あわただしい今までの5年間の勢いを維持するプレッシャーを感じているかどうかを尋ねられたドノヴァンは答えいている―「いや、僕は勢いを維持することを望んではいなかった。僕はリンダを求めていたし、彼女は60年代の自身の道のりから、自分を発見するのに疲れ果てているようだった。僕は大きなプロモーション活動から退いて、スタジオの中に逃げこんだ。まだ大きな契約をオファーされていたから、僕は70年代にアルバムを作り続けた。その中で新しい領域を開拓していった。“ドノヴァンとミッキー・モスト”の日々は、驚くべき作品を生み出したし、僕は今でもそれを誇りに思っている。ビジネス上のいざこざはイライラさせるものだったけど、僕の場合は人殺しを相手にするわけじゃなかったから」

ドノヴァンとリンダは1970年10月にウィンザーで式を挙げ、新婚旅行としてカリブ諸島へ向かった。1971年、ドノヴァンはジャック・ドゥミーの映画“The Pied Piper”(ハメルンの笛吹き)で主役を演じ、3曲を歌った。次の彼のレコーディング・プロジェクトである、子供向けの歌集で魅力的な2枚組アルバム『HMS Donovan』は、UKとUSA両方でチャート入りに失敗した。

1973年の終わりには、アンドリュー・ルーグ・オールダムによるプロデュースで、やや一貫性に欠ける『Essence to Essence』が続いた。翌春、この時までに2人の娘、アストレラとオリオールをもうけていたドノヴァン一家は、カリフォルニアのジョシュア・トゥリーに移住した。演劇をコンセプトとした『7-Tease』のツアーとアルバムが、その年の終わりに続いた。1976年、ふさわしく名付けられた『Slow Down World』をリリースしたのち、ドノヴァンはエピックを去った。1977年、ドノヴァンは再びクライヴ・デイヴィス(アリスタ・レコードの社長となっていた)、ミッキー・モスト、そしてジョン・カメロンと組み、セルフ・タイトルのアルバムを制作したが、キャリアを再点火することはできなかった。

英国では、このアルバムは依然モストのプロダクション・ワークの拠点であり、売れっ子プロデューサー・チームのニッキー・チン/マイク・チャップマンの現場でもあったRakレコードからリリースされた。TVタレント番組の“ニュー・フェイシズ”のパネリストとしておなじみの顔となっていたモストは、70年代の終わりに短命に終わった自身の音楽テレビ番組“リヴォルヴァー”を手がけた。彼は1983年にRakのレコーディング・カタログをEMIに売却し、その後影を潜めながらも、数々のRak出版や他の企画を楽しんだ。モストはEMIの今回のリイシュー・プロジェクトが進行中の2003年5月にこの世を去った。彼の追悼式に出席した友人と仲間たちの中には、ドノヴァン、ルル、スージー・クアトロ、ジェフ・ベック、クリス・スペディング、ジュリー・フェリクス、ジョン・ポール・ジョーンズ、ハーマンズ・ハーミッツのピーター・ヌーン、そしてホット・チョコレートのエロール・ブラウンがいた。

ジョン・カメロンは70年代に入っても、引き続き見事なキャリアを積み重ねていた(Rak所属のCCSのメンバーとして、ホット・チョコレートとヒートウェイヴのアレンジャーとして、そしてソングライターとして)。彼は1970年の映画“Kes”で再び監督のケン・ローチと親しくなり、今では映画、劇場、そしてクラシック音楽のコンポーザー、アレンジャー、指揮者としてもっともよく知られている。今でも“境界なし”の信念を貫くカメロンは、現在もいくつかの映画シナリオを手がけている。うち2つは音楽ベースのコンセプトだ。

80年代初頭、さらに3枚のドノヴァンのアルバムが人知れずリリースされた。それでも1981〜82年にかけて、彼はすばらしいバンドを率いてツアーをしていた。1990年に起こったドノヴァン再評価によって、彼は新しい世代のミュージシャンたちから敬意を表され、ハッピー・マンデイズとのツアーが実現した。このことによって、80年代のコンサート録音を集めた『Donovan Rising』がリリースされた。しかしながら、そのスポットライトは結局、他のところへ向けられ、ドノヴァンの次のスタジオ・アルバムは日本のみのリリースだった。1996年の『Sutras』は、間違いなく1977年以来久しぶりに注目を集めたスタジオ・アルバムだった。リック・ルービンによる気持ちの通じ合ったプロデュース・ワークとなったそのアルバムは大きな称賛を受け、ドノヴァンはプロモーション・ツアーを行なった。

2004年には彼のキャリアの出発点となった1964年のオリジナル・デモ録音集と、ジョン・チェルーのプロデュースによる新作『Beat Cafe』がリリースされた。このアルバムは、名高いドラマーであるジム・ケルトナーと、ドノヴァンの古いレコーディング/ツアー仲間のダニー・トンプソンをフィーチャーしていた。最新のドノヴァン・ストーリーは、初のチャート上の成功から40年を祝う2005年の長いコンサート・ツアーと、同年おそくに出る予定の彼の自伝とともにやってくることになっている。

ローン・マードック



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