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Don Bryant/Comin’ On Strong/1992 Demon Records Ltd. HIUKCD 133



ドン・ブライアントの歌唱スタイルは多くの意味で原型的なサザン・ソウルだった。しかしウィリー・ミッチェルのバンドでのセッション・ワーク、デモ、クラブのギグで、彼はその場の要求に応じて自分の才能を使い分けていた。にもかかわらず、1962年2月から1981年3月の間にリリースされたレコードの数々は本物の才能にあふれていた。

ドンの初期の経緯は依然つかみにくいが、1939年か1941年にメンフィスで生まれ、ハイスクール時代にすでにプロとして歌い始めていたことが一般的には信じられている。4人の兄弟の存在によって、彼はショービジネスに興味を持ち始め、まもなくQuailsというグループを結成した。しかしその名前(ウズラ)はオリオールズやフラミンゴスのようなエキゾチックな名前を持つ大御所たちに対抗するにはあまりに南部的すぎた!学校に行く前にラジオWLOKで短期間流れていたフォー・ケーンズのアカペラが彼らにさらなる発展を導いた。ドンとジェイムス・ブライアント、リー・ジョーンズそしてロバート‘ダスティ’ウォーカーからなるザ・フォー・キングスはウィリー・ミッチェルのコンボのレギュラー・ヴォーカル・グループとなった。ドンはまだ16か17歳の年少者だったため、彼がクラブ・ハンディ、マンハッタン、ダニーズ・クラブ、フラミンゴ・ルームなどのメンフィスの会場で、暗くなってから何の制約もなしに汗をかくことができるまで、ミッチェルが保護者の役を務める必要があった。

1962年2月、ウィリー・ミッチェルとザ・フォー・キングスは試験的にシングル、CRAWL Pt 1&2(Hi 2044)をリリースして活動を開始した。続いて同じラインナップで2枚リリースしたのち、ドンはソロとしての道を選んだ。最初のシングルが1964年のI LIKE IT LIKE THAT(2087)だった。1965年8月にリリースされたスローで内省的なバラッド、DON’T TURN YOUR BACK ON MEはかなりのローカル・ヒットとなった。愛に対して全身全霊を捧げる一人の男を描いた自作のこの歌によって、ブライアントは威厳と苦悩を表現できる注目すべきシンガーとしての頭角を現すことになった。10月までにドンはウィリー・ミッチェル・コンボからのオファーを受け取っていた。THAT DRIVING BEAT(2097)は客観的に見れば、ドンはジュニア・ウォーカー(訳注:モータウンのサックス・プレイヤー/シンガー)の情熱的なヴォーカルをぎこちなく真似ているように聞こえ、もう片面のEVERYTHING IS GONNA BE ALRIGHTほど驚くべきところは見当たらない。後者はその年(1965)初めのウォーカーのナンバー・ワン・ヒット、SHOTGUNに対するアンサー・ソングだ。しかし1966年はいかしたナンバーが生まれることになった。まずはリトル・リチャードばりのドンのどえらいヴォーカルが聞けるCOMIN ON STRONGが道を切り開き、聞き手を黙らせてしまうようなDOIN’ THE MUSTANG(2122)は、1967年初めから嵐のごとく吹き荒れた!

おそらくドンはウィルソン・ピケットの絶対的カヴァー・ヴァージョンであるサー・マック・ライスの作品、MUSTANG SALLYを意識して書いたのだろう。いいかれば、これは彼のピュアで控えめな表現だ。ブライアントは脈打つような激しさで満場を湧かしはするが、すぐにクラシックなステイタスを勝ちとるのはほとんど不可能なナンバーでその場をしのいだ。もっと不可解なアンサー・ソングがマリー・セレストだ!徹底的にゴスペル・ソウルのCALL OF DISTRESSがレイ・ハリスとともに急ごしらえされた。が、これは跡形もなく消えてしまった。さらに熱い宣言がそれぞれ1967年と1968年にリリースされたIS ASKING TOO MICH(2131)とI’LL GO CRAZY(2143)だ。両曲ともその最強のパフォーマンスにおいて、O.V. ライト、ジェイムス・カー、マイティ・サムらが思い浮かんでくる。しかしあるいはこれが問題だったのかもしれない―ドンはそれら大物を思わせる歌を自作の中に溶け込ませる傾向があったのに対し、DOIN’ THE MUSTANGでの彼はまさに彼自身でもあったからだ。しかし一方で、ラジオを聞く潜在的な購買層は、ほとんどレコードを買うこともなく取り残されてしまうことになったのだ。

翌年、YOU CAUSE ME TO WONDER(2156)で真のドンが現れた。彼の人生を支配した女性への感動的な賛歌だ。素晴らしいホーンに支えられたこの歌は、女を駆り立て男を滅ぼしてしまうような真に迫った感情をリスナーに植えつける。それと対になるファンキーなTHAT AIN’T RIGHT WOMAN*は彼の完成形だった。ドン・ブライアントのソロ・シンガーとしての全盛は1964年から1969年の間だったが、彼は他のことにも手を出していた。1961年に彼がファイヴ・ロイヤルズのHome Of The Bluesのために曲を提供して以来、彼はライターとして必要とされる存在となっていた。1965年、彼はジャネット&ザ・ジェイズにWITHOUT A REASON(Hi 2109)を、ノーム・ウェストにHEY GIRL(HOC664)を書いた。1967年にはO. V. ライトのためにWHAT ABOUT YOU(Backbeat 586)を、そしてまもなく未来の妻となるアン・ピーブルズと出会った。彼女はドンにさらに歌を書くよう励まし、ドンは彼の(彼女の)最大のヒット曲の数々を作り上げることになった。最も注目すべき最大のヒットとなりカヴァーも生み出すことになったのが、I CAN’T STAND THE RAIN(2248)だ。

今やドンがライターとして給料をもらい、事実上それを商売とし、自身のレコーディング・キャリアが衰退していったのは驚くほどのことではない。それは彼が1981年3月に、アン・ピーブルズのハイ・レコーズでの最後の作品、MON BELLE AMOUR(81534)でデュエットとして浮上するまで10年以上続くこととなった。再び彼はその時必要とされた楽曲を提供した。それは古いサザン・ソウル・スタイルとルーサー・ヴァンドロスのような新しく出現したソフトで感傷的なスタイルのスタイリスティックな融合だった。

あまりに長い間、ドン・ブライアントは雇われの身での素晴らしいシンガーだったのであり、プロデューサーのウィリー・ミッチェルが望むものを何でも提供してきた。

しかしドン・ブライアントがレコードに刻んだものは、我々に十分説得力をもって次のことを訴えかけてくれる。彼はもしかすると、ソウル史の中で最後の隠れたグレイト・シンガーであるのかもしれないと。


クライブ・アンダーソン
コリン・スコット、ジェニー・フェレーラ・クワン、ジョエル・ウィットバーンに感謝する。

*ドン・ブライアントのCD、“DOIN’ THE MUSTANG”(HIUKCD116)で聞くことができる。


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