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Dexys Midnight Runners/Too-Rye-Ay/1996 Mercury Records Ltd. 514839-2



ケヴィン・ローランドが1982年にアルバムToo-Rye-Ayを出した時、誰もが不審に思わざるを得なかっただろう。おそらく彼はグループをDexys Midnight RunnersからThe Celtic Soul Brothersに改名したかったのだろう。しかしなぜそうしなかったか?

前年から一転、彼はあらゆるものを変えてしまった。バンドのラインアップからサウンドから彼ら全員の着るものまで全てだ。“僕は放浪者だ”ケヴィン・ローランドはしばしばインタビューでそういってきた。“僕はいつもあるところから別のところへ動き続けてきたんだ。君は僕の一部分しか見ていないから極端に感じるんだ。僕を2年間しか見ていないだろう?あるものは他のものを導くものなんだ。これは気違いじみた考えでもなく単なる気まぐれだとも思わないね。発展なんだ。”1953年ウルヴァーハンプトンに生まれたアイルランド人の両親を持つローランドはミッドランド、アイルランドそして北ロンドンへと転々とする幼年時代を過ごしてきた。これがある意味彼が呼ぶところのケルティック・ソウル、つまりToo-Rye-Ayのノーザン・ソウルとトラディショナル・アイリッシュ・ミュージックの奇妙な融合を説明している。Too-Rye-Ayはローランドの最も身の丈にあった、そして最もあからさまなポップ・アルバムである。これは46週間UKチャートに居座り続け、アメリカでナンバーワン・シングルとなったCome on Eileenを生んだ。

短命に終わったパンク・バンド、The Killjoysで最初のレコードを出した後、ケヴィン・ローランドは1978年にDexys Midnight Runnersを結成した。彼らの名前はドラッグであるデキセドリン(ノーザン・ソウル・ファンが一晩中踊り続けるために好んで服用したアンフェタミン混合薬)からインスパイアされたが、彼ら自身は酒もドラッグもやらない禁欲的姿勢でよく知られていた。しかしメンバーのバンドへの献身は無駄に終わってしまった。デキシーズのようなバンドで活動するのはとてもハードなことであった。“デキシーズは僕の人生であり仕事だ。僕の全てで全力を捧げているよ。”ローランドはいう。彼はメンバーにも同様の高い責務を期待していた。1980年のデビュー・アルバムSearching for the Young Rebelsは当時のバンドのイメージにぴったりで、マーティン・スコセッシ監督の映画「ミーン・ストリート」にインスパイアされたニューヨークの港湾労働者の作業着で統一されていた。シングル、Genoは60年代のR&Bに80年代のニュー・ウェイヴ感覚をプラスした攻撃的なブラス・サウンドの好例だ―これは1980年5月にナンバー・ワン・ヒットとなった。だがその後すぐにデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズの最初のラインナップはばらばらになってしまった。

ローランドと長い間組んできたトロンボーン奏者のビッグ・ジミー・パターソンを除くメンバーたちはローランドを解雇した。ローランドとパターソンはドラマーのセブ・シェルトン、ギターとバンジョーのビリー・アダムス、キーボードのミッキー・ビリンガム、ベースのジョージオ・キルケニーそしてサックスのブライアン・モーリスとポール・スピアを加入させた。しばらくメンバー交代期間が続いた後(その間シングルとしてLiars A to EとI’ll Show Youがかなり違うヴァージョンでリリースされた)、バンドはEMIを離れマーキュリー・レコードへ移った。そして1982年初頭、二人のフィドル・プレイヤー、ヘレン・オハラとスティーヴ・ブレナン(The Emerald Express)がメンバーに加わった。そしていつものようにデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ新時代がニュールック―現代のジプシー・スタイル―と共に告げられた。全員がオーヴァーオールにネッカチーフを身につけ、ベレー帽をかぶり、黒のplimmies(?)であった(裸足といった方がいい)。そしてレザーのベストとだらしない頭、それに若者たち特有の無精ひげだ。音楽スタイルはどう見てもかなり過激な出発となった。ホーン、フィドル、バンジョーそしてティン・ホイッスルの同居が世界のポップ・シーンで重要な位置を占めたことはかつてなかった。

結果的にはこれらの楽器は広く受け入れられるようになったが、このショッキングな新しい方向転換はToo-Rye-Ay、The Celtic Soul Brothersからの最初のシングルをチャート45位に踏みとどまらせることになった。失望したローランドは動き出すことを決め、彼のポリシーであった“プレス・インタビュー拒否”を一変させ、The Bridgeという人気のあったライヴ・ショーで大規模なツアーを開始した(7分という大胆なヴァージョンのCome on Eileenがそのライヴからここに収められている)。この作戦は功を奏し、1982年の夏Come on Eileenはデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ2枚目のブリティッシュ・ナンバー・ワン・シングルとなった。7ヵ月後にはアメリカでも同様にヒットした。ポップ・レコードに求められる活気に溢れたCome on Eileenは、愛と欲望の間の耐えられないような上っ面なセリフについて言及している。また我々の感情に訴えるパワーとなる過去のポピュラー・ミュージックを持ち出している(出だしの歌詞:“哀れなジョニー・レイ・・・彼はモノラル・レコードで100万人の心を動かした”)。それは当時のローランドの志でもあった。こういった曲が大ヒットするとしばしば起こるのが、“Hi Ho Silver Lightning”あるいは“Brown Sugar”のように新しいライフ・スタイルやあちこちに偏在する団体のアンセム(聖歌)になるような伝染性を持つことである。それはまた一方で腹立たしいことでもある(賛成できないなら読み飛ばしてくれ)。どちらにせよ我々はこの歌を永遠に口ずさむであろう。

ケヴィン・ローランドはその詞の中でいくらか予言めいたものを書いていた。引き込まれるようなベース・ライン、うねるホーンと弦、全員が取るコーラス、そしてグレイトすぎるヴォーカルによるCome on Eileenは来たるべきLPを見事に表わしていた。サウンド自体の持つその魅力的な可能性は、まさに当時ケヴィン・ローランドが押し出そうとしていたものだ。“Burn it Down”のような議論好きな詞によって彼が自分のアイリッシュ・ルーツを堂々と公言していた初期に対して、ここではそれを音楽自身に語らせているのである。同様に彼はまたこのアルバムでしきりに言葉を不要にしてしまうことを選択している。喘ぎと泣きと囁きを使い分けることによって感情、つまり喜び、痛みを表わそうとしている(ここで質問:歌詞カードを見ずにLet’s make this preciousの詞が聞き取れる?)。だがローランドが熱唱する“go toora loora loo-rye-ay”部分を聞くと、人は彼がいいたいことを考えるために思わず立ち止まってしまうのである。いつも感動を呼び起こすこのCome on Eileenはデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ・アンド・ジ・エメラルド・エクスプレスとクレジットされていた。このアルバムが7月にリリースされるまでにジム・パターソンはグループを去り、グループはケヴィン・ローランド・アンド・デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ名義で活動していた。

Too-Rye-Ayはアルバム全体があたかもひとつのライヴ・ショーのように曲が並んでいる。ケヴィンによるThe Celtic Soul Brothersの紹介が、オーヴァーダブされた少数の喝采を受けて始まり、アンコールのCome on Eileenで終わる(もちろんこの手法は昔ビートルズがSgt. Peppersで使ったものだ)。最初の4曲は意思表明であり、ソウルフルで感動的な踊りへの招待だ。Jackie Wilson Said(I’m in Heaven When You Smile)はケルティック・ソウル・シンガーのパイオニア、ヴァン・モリソンの10年前のシングルだった。その秋デキシーズのヴァージョンはトップ5に入った。Plan Bもソウル・ミュージックとソウル・シンガーに向けたローランドの陽気なオマージュとして相応しいナンバーだ(とりわけビル・ウィザースの“Lean on me”を思わせる)。またこのCDには彼が当時影響を受けた2曲のソウルのカヴァーが収められている。フィリー・ソウル・アンセムというべきT.S.O.P.とアレサ・フランクリンのRespectだ。

I’ll show youはEMIでの最後のシングルとしてオンエアされたが、かなり装いが異なっていた。振り返ってみると彼の学生時代の仲間たちはほとんど同性愛者のように見える。元々はこれは狂乱の怒号の嵐で終わっていた。しかしここでのヴァージョンは激しさからは程遠く、冷笑的というより同情的といった方がいいだろう。それは騒々しく咆えていたたくさんの男たちが今や打ちひしがれた者たちとしてここに佇んでいるという事実があるからだ。この頃のケヴィン・ローランドはある一団をこきおろしていた。Liars A to Bは彼の痛烈な批判だ。“単なる傍観者たち”ローランドは彼らをそう呼んでいた。“僕のように行動する者とは正反対の奴らだ”ローランドの“頑固な”イメージと彼のいうソウル・スピリットそしてパッションはローランド・バルテスの仕事(?)を摂取しすぎた音楽ジャーナリストの新派によってダサいものと考えられ、ケヴィンはプレス界に何人かの敵を作っていた。逆に言えば音楽界にはケヴィン・ローランド含むいく人かのアーチストを“天才”と呼ぶジャーナリストも少なからずいたということだ。Too-Rye-Ayを一聴すればそう考える人がいてもおかしくはない。

“僕は自分のすることに対して死ぬほど真面目だよ”彼はインタビュアーに語っている。“僕にとって自分個人というのは凄く大きな意味を持っている。人から笑われようがね。デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズが全てなんだ。人が考えることなんて気にしないよ。いつでもデキシーズは笑われるだろう。別にいいよ。自分は誠実に行動しているし自分を信じているから。僕は自分のソウルを壁に貼り付けてそれをみんなに読ませるんだ。人はそれを読んで笑ったり泣いたりするだろうが僕にはどうでもいいことだ。”あざやかに歌われるUntil I believe in my soulは崇高な意思の最も完璧な表明だ。このあからさまなうめきと素敵なオーケストラを聴いて誰がローランドのソウルを信じられずにいられようか?ここには青年期ケヴィン・ローランドの情熱と閃きが詰まっている。こうして責務は成し遂げられたが、その偉大な男はさらに動き続けることを宿命とされていたのかもしれない。彼はToo-Rye-Ayほどの商業的成功を再び手に入れることはなかったが次のアルバム、1985年のDon’t Stand Me Downは今では“失われた”偉大なレコードとして高く評価されている。しばらく失踪した後、彼は1988年最初のソロ・アルバム、The Wandererで戻ってきた。力強くもシンプルで控え目な楽曲のコレクションだ。そして放浪者は再び荒野へと彷徨い始めた。以来およそ8年間ケヴィン・ローランドのレコードは届けられないでいる。

Too-Rye-Ayは一人の男とバンドのパワーの絶頂期を同時に捉えたものだ。私は最後にあたって、ケヴィン・ローランドの次の詞で始まるこのレコードに対してそれ以上ふさわしい言葉を思いつかない。

“もっと喜びを・・・サンキュー”

リチャード・スミス


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