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Delaney & Bonnie/Accept No Substitute/2002 Collector’s Choice Music CCM-283-2



“いいかい?ジミ・へンドリクスはしばらく僕と一緒にプレイしてたんだ。あの頃、人々は僕のところへやって来て、僕の音楽を何て呼ぶのかよく尋ねたね。僕が‘分からないな’っていうと、彼らは‘じゃあロックかゴスペルかどっち?’って聞くんだ。僕は‘それも分からないな’と答える。一度そこにジミが居合わせた時のことが記事に載っていた―ジミは本当に物静かで内気な男だった、ステージ以外ではね―彼は僕に質問した奴に近づいていって、‘オレが何ていうか教えてやるよ。スピリチュアルって呼ぶんだ。まあ、そんなもんでいいだろ。’っていったね。” 1998年にデラニー・ブラムレットは語っている。

‘スピリチュアル’―なるほどこの言葉はここに収められた音楽を正確に言い表している。古来のデルタ・ブルース、ゴスペル・ルーツ、腰を揺らすロックンロールを用いて、Accept No Substituteは1969年初めのロック界に新しく素朴な感覚を発信したが、それは当時のサイケデリックなものとは完全に相容れない音楽として今も認識されている。アルバムは大きな影響力を持ち、キース・リチャーズとミック・ジャガー、ジョー・コッカー、ジョージ・ハリスン(彼はザ・ビートルズのアップル・レーベルからこれをリリースしようと企てていた)、そしてとりわけエリック・クラプトンのお気に入りの1枚となった。のちにクラプトンは彼とより関係を深めていくことになる。

ミシシッピで生まれ育ったデラニー・ブラムレットは、日々ブルースとゴスペルを聞きながら育ち、レイ・チャールズ、ステイプル・シンガーズのようなアーチストたちに影響を受けていた。このアルバムがレコーディングされたロサンゼルスのロータス・ランドとエレクトラ・スタジオへの彼の旅は長いものとなった。ブラムレットは熟達したミュージシャン、ソングライターとしてあれこれと策を練っていた。彼はモータウンとスタックス(彼はそこでブッカーT&ジ・MGs、アイザック・ヘイズとともにレコーディングしていた)両方でレコーディングを経験していた。彼はひょっとすると両レーベルでの初の白人アーチストだったのかもしれない。彼はまた、ジャッキー・デシャノンとともに曲を書き、デモ・レコーディングを行なっていた。彼はテレビ番組シンディグの専属バンド、ザ・シンドッグスのメンバーだったが、そのバンドはジャッキー・ウィルソン、ハウリン・ウルフのような名高いアーチストのバッキングを受けもっていた。その証拠に今これを書いているライターは、パティ・デュークのバックでベースを弾いている彼のビデオ・テープを持っている―こともあろうに―曲は“I’m Henry The 8th I Am”だ。

1967年までにブラムレットはロサンゼルスのThe Carolina Lanesで、未来の妻でありシンギング/ソングライティング・パートナーとなるボニー・ブラムレットと出会った。ボニーも長く興味深い初期のキャリアを持ち、アイク・ターナーのアイケッツで歌っていたほどだった。この時期にザ・ブラムレッツは流動性のあるバンド、デラニー&ボニー・アンド・フレンズとして様々なミュージシャンたちと関わるようになった。“それが僕がバンドのことを‘フレンズ’と呼んだ理由なんだ。” デラニーはいう。“なぜなら僕は次の晩もその次の晩も誰がバンドにやってくるのか分からなかったからさ。僕はレオン・ラッセル、ジミー・カースタイン、ボビー・キーズ、カール・レイドルと一緒に多くプレイして、そこから発展していったんだ。‘うーん、レオンが今夜つかまらない。まあボビーが来るからいいか・・・’っていうような感じだったね。”

バンドはLAで大きな反響を巻き起こし、ついにデヴィッド・アンダールを通じてエレクトラ・レコーズと契約を交わした。バンドと‘集合体’が1969年初め、La Cienegaのエレクトラの新しいレコーディング・スタジオに集結した。アンダールがアルバムのプロデューサーとしてレコードにクレジットされることを引き受けたが、デラニーによれば仕事の大半をこなしたのは彼とレオン・ラッセルだった。“デヴィッド・アンダールがやったのは、その辺に座ってジョイントを巻く(巻きタバコあるいはマリファナ)ことだけだったね。Accept No Substituteはほとんどレオンと僕とで作ったようなものだった。でもデヴィッドはジョイントを巻くのがすごく上手になったね。” 今日デラニーは笑いながらそう言う。“すごく練習になったんだ。”

その音楽はザ・ブラムレッツの流れを汲み、ブルースからゴスペル、R&Bそしてソウルの合体であり、それらの要素が時折不意に顔をのぞかせる。アルバムの中で輝く瞬間のうちのひとつが、哀愁を帯びたゴスペル・バラッド、“Ghetto”(のちにデラニーのヒーロー、ザ・ステイプル・シンガーズがカヴァーした)だ。これはボニーとの共作でデラニーの力強くソウルフルなヴォーカルとレオン・ラッセルのピアノがフィーチャーされている。しかしそれにも増して目を引くのが、伝説的アレンジャーであるジミー・ハスケル(リッキー・ネルソン、ママス&パパスその他多くで知られる)による厳格なストリング・アレンジだ。これはリスナーを別の次元へ連れて行ってくれる。

生でいて洗練されたこのナンバーは別として、アルバムは“Get Ourselves Together”、“Love Me A Little Bit Longer”、“Someday”、そしてドクター・ジョンの“Who Will Wear The Crown?”(ボニーの素晴らしくスワンピーなリード・ヴォーカルが聞ける)のようなナンバーで占められ、これらはバンドのサウンドと魅力を決定づけていた。各楽曲とそのプレイにはポップな輝きと分かりやすさがあるが、一方で多くのリスナーの心の中に持続する泥臭くソウルフルな核心部を保持していた。それに打ちのめされた一人がエリック・クラプトンだった。

デラニー&ボニーは失敗に終わったクラプトンのブラインド・フェイスの1969年USツアーの前座を務め、この時のデラニーとエリックの短期間の濃密な関係は、のちになってデラニーのプロデュース(ほとんどを共作)によるクラプトンのセルフ・タイトルのデビュー・アルバムという形になって現われた。そこには重要曲“After Midnight”と“Let It Rain”がフィーチャーされていた。“ブラインド・フェイスのツアーの終わりまでには、” デラニーはいう。“エリックは僕のバンドにいたんだ。みんな僕があのバンド(ブラインド・フェイス)を解散させたっていってたけど、それは事実じゃないよ。彼らは仲が良くなかったからエリックがバンドを解散させたんだ。彼らは同じ飛行機にさえ乗らなかった。ジンジャー・ベイカーは本気で、僕がエリックとジョージ(ハリスン)を雇ったんだからっていって‘オレもバンドに入りたい’っていったんだ。僕は大人数のバンドをやっていく経済的余裕なんてほとんどなかったね・・・”

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多くの点でアルバムは参加したほとんどのミュージシャンたちにとって、名刺代わりとして見なされている。ほぼ、あるいは全てのプレイヤーは結局ジョー・コッカーのマッド・ドッグス&イングリッシュメン、クラプトンのデレク&ザ・ドミノス、そしてジョージ・ハリスンのAll Things Must Passセッションに引き抜かれていった。

Accept No Substituteはデラニー&ボニーにとってほろ苦いものとなり、彼らはアルバム・リリース後、数ヶ月でエレクトラ・レコーズを去っていった。彼らは結局アトランティック・レコーズのジェリー・ウェクスラーのところへ行き、1970年代初頭にTo Bonnie From DelaneyやMotel Shotのような独創性に富んだアルバム群をリリースした。

多くのミュージシャンたちはデラニーのバンドを去り、より日の当たるバンドへと移っていったことに、いくらか申し訳ない気持ちを抱いていたが、デラニーは恨みを抱くようなことはなく、その出来事に対して冷静な見解を持っている。“あのあとどうなったかっていうと、ボニーと僕は別れ、他の者たちはエリックと信頼関係を築いていった。僕はそれでよかったと思ってる。実際僕はエリックをデュアン・オールマンに紹介して、彼はあのアルバム(デレク&ザ・ドミノス)のいたるところで聞けるようになったんだ。デュアンは僕とそれほどの仲じゃなければ参加しなかっただろうと言ってくれた。デュアンと僕は親友同士だったから。そう、みな敵意や恨みなんかがあったと考えるけど、そんなものはないよ。僕はレオンといっしょに働いていて、レオンは時々ジョー(コッカー)とも働いていた。そして僕も時々ジョーと働いていた。そんな感じだったんだ。とにかく何の悪意も存在しなかったね。”

これを読んでいるあなたたちがよく知っているように、Accept No Substituteは他の多くの歴史的グループや集団、アルバムを生み出し、今日に至るまでザ・ブラック・クロウズやオースティン(テキサス)の素晴らしいコズミック・ダスト・デヴィルズのようなバンドに影響を与え続けている。しかしながらこのアルバムは、最終的に“サザン・ロック”という胡散臭い呼び名として進化することになる優雅な音楽形態を生み出したスタート地点に当たるものだ。その男がいうにはこういうことだ。

“スピリチュアルさ。そんなもんでいいだろ。”

©2002 M. Greenwald


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