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Grateful Dead/Wake Of The Flood/2006 Grateful Dead Productions & Rhino R2 73276



進んだ生物学者の深遠な世界では、‘時’と‘場所’は分けて考えることのできる存在である。一方、ぐちゃぐちゃの腐葉土の上で靴に糞をつけて生きる人々の世界では時とは場所であり、その逆もまた同じである。それと同じように1967年1月1日はグレイトフル・デッドがサンフランシスコ、ゴールデンゲイト公園のパンハンドルで、その寒く霧の立ち込める中、ユーカリノキの香りとマリファナの匂いを漂わせながらプレイした日だ。私の認めるヒッピー、ディガーズ(Diggers:ヒッピーの救済に熱心なヒッピー)はヘルス・エンジェルスのリクエストによってそこでパーティーを開催した。ヘルス・エンジェルスはその頃行なわれたディガーのストリート・イヴェントで逮捕されたエンジェルス・チョコレート・ジョージとヘアリー・ヘンリーのための保釈金を工面してくれた隣人たちに感謝の気持ちを表したがっていた。例によってデッドがその午後のサウンドトラックであり精神だった。

どのナンバーの記憶もグレイトフル・デッドの「時-土地」を結びつける達人の才によって、固定されているに違いない。例えば同年の4月9日、ディガーの友人、隣人である仲間の大パーティーで、デッドは“Carte de Venue”で群集を忘我状態、過熱状態へと駆り立てていった。いつものように全てがファミリーだった。供給電力でさえ、アンプに必要な発電機がなかったため、主要幹線道路であるフェル・ストリートを横切って電源コードが数珠つなぎにされ、協力的な近所のアパートの人たちの家へと入り込んでいた。

デッドはその頃、みなの隣人だった。彼らとトレイシーのドーナツ・ショップで肘をすり合わせながら過ごすことだってできた。君の装置から抽出したみんなが欲しがるシュガー(ヤク)でキラキラ光る芽や葉っぱや粉なんかを、オーヴンから取り出して仕上げながら。彼らはMnasidikaでビロードの糸をあちこち見て回ったり、サイケデリック・ショップで雑誌をパラパラとめくっていたに違いない。あるいは彼らの共同のアシュベリー・ストリートの家の玄関前の階段でだらだらと過ごしたり、道の向こう側のポーラ・マッコイのアジア系ビクトリア住民、ディガーズのところでふざけて罵倒し合っていただろう。

外に飛び出してそういったイヴェントで彼らに演奏してくれと頼むことなんて簡単にできた。なぜ彼らがそうしたかって?それは彼らが隣人であり友人であり、彼らの惑星の軌道は昼と夜の長さが同じところを通っていて、我々は互いに築き上げられたカウンター・カルチャーのお題目のない陽気な集まりで有名だったからだ。彼らはよき隣人のごとく現われた。平台あるいはステージの代わりになるようなものはいつでも手に入った。そうやってアンプによって増幅された広大で複雑な彼らの音楽に耳を傾ける。

デッドはその頃ファミリーを維持していた。他のファミリー同様、彼らの中にも争いや悲劇があったし、気難しいオヤジもいた(ボブ・ウィアーは今でもバンドの大きすぎる音に不満を表している)。いくつかの死があった。特にキーボードのポジションは不運だった。そしてショッキングなことに―バンドの長老、ジェリー・ガルシアが悪習によって死んでしまった。しかし挫折としばらくの分裂、死への避けられない屈服にもかかわらず、デッドは即興によるサイケデリックな流儀を忠実に残しながら歩み続けている。熟達し、生活を切り詰め、彼らは新しい世代に伝授し続け、彼らの音楽と彼らの理想主義的ルーツ(あえていえば“スピリチュアル”か?)に対する揺るぎない献身を捧げる多くのファンを生み出し続けている。

他のファミリー同様、デッドは子孫と伝説を生み出した。Leftover SalmonやPhishのようなジャム・バンドは、その伝統である“free”ミュージックを真似ることによって彼らに敬意を表している。Dark Star Orchestraはショーを丸ごとコピーし、その古典的なテーマを敬うがごとく演奏する。著作権侵害と海賊盤にもひるまず、デッドは全てのコンサートでマニアたちが快適に録音できるよう周囲に非常線を張り、特別に場所を設け、音楽を配信し続ける。一方で音楽業界はダウンロードをする学生たちを合法的に棍棒で打っている。デッドは‘時’と‘場所’が二度と繰り返されることがないことを認識しながら、彼らの音楽を広く無料ファイルでまき散らす。そういったあらゆる考察の末に、今回のWake Of The Floodリリースの機会と喜びが我々にもたらされたのである。

二つの異なるソングライティング・チーム―ウィアー/バーロウとガルシア/ハンターが一時期に共存し、複雑な心境であった記憶がよみがえる。私はあなたがこのもつれたリボンを解くことに賛成はできない。楽曲の数々は新しくアイロンがけされたお気に入りのシャツと同じくらいフレッシュであり、今でも完全にフィットする。陽気なシャッフル“Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo”の外観は夏の午後のごとくリラックスしているが、ジェリーのギター・ソロは何か楽園の手本のようなものをスケッチするような鋭さがあることに気づかされるだろう。“Let Me Sing Your Blues Away”のハーモニーはシルクの財布のように織り込まれ、息づかいのように大きくしたり縮ませたりする。

何年もの間、私はこのバンドがいかに素晴らしく、常に本質的に音楽的なバンドであることを考えるのをやめてしまっていた。ここにあるトラックのうちのいくつかは彼らのベストであるし、私の考えでは彼らの神話集は実体から成り立っているということだ。私は何年もこの“Stella Blue”を聞かずにいたが、コーラスの中の名前を聞いた時、私は感激で胸がいっぱいになってしまった。ジェリーの声は救いようのない失念のような悲しみをたたえている。私はこれほどこの音楽が甘く響いてきた覚えがない。“全ては合わせてひとつであり、ただなものなんてないんだ・・・” 同時代を生き残ってきたもの言わぬ運勢とその教訓を学びながら長く生きてきたことによって、ジェリーの助言は霊廟に据え付けられた墓石のふたが響くかのように、墓地を越えて私の肌にしわを刻みつけてきたのだ。

私は“Weather Report Suite”の愛らしいイントロのことを忘れてしまっていた。いかにこれがあなたに安心とバロック時代の風景を思わせ、その時代にいるかのような感情をもたらすかを。しかしその時スライド・ギターの金属的響きがその幻想をかき消し、それははかない命と愛の瞑想へと進化していくのである。“まるで不毛の泉の中から僕の恋人はやって来て自分の翼を広げる。” ここであなた自身のお好みの瞬間をつかみ取る。それはおびただしい数だ。

テープ保管室の扉を開け、これら楽曲をリリースすることは我々が‘時’を止めるに至ったことにほとんど近いのである。Wake Of The Floodは自由な精神でラーガ・ロックを奏でた原始的作品である。これはどうやって我々の靴から糞をこすり落とし、配合土の中で我々の花を咲かせるかを示すものだ。デッドは我々に“コカインの歌は夜明けのドアに掛け金をかける”ことを気づかせる。彼らは我々がそれに手を伸ばすことを促すのである。

―ピーター・コヨーテ


Wake Of The Floodのレコーディングについて

グレイトフル・デッドのアルバムのレコーディングをひそかに観察する者は、たしかに運のいいスパイだった。1973年8月、私はそのスパイだった。私はその頃“TA”という肩書きで知られていた(Tom Andersonの略だ)。そしてカリフォルニア、ソーサリートにあるレコード・プラントのスタッフ・エンジニアとして私はプロジェクト参加の機会を与えられ、それはグレイトフル・デッド・レコードからリリースされたアルバム、Wake Of The Floodとして結実した。
自分が会ったことのないクライアントとの仕事はいつもある種の知られざる要素を含んでいる。グレイトフル・デッドの評判としては、いつもその“知られざる要因”が先に立っていた。私は困惑していた。このセッションで一体どんなことが起こるのだろうか?と。

先述の“知られざる要因”のために、アルバムのセッションのことを知った部外者たちは、レコード・プラントのスタッフの何人かの人間同様、私に向かって“どうだった?うまくいった?彼らとの仕事は。”というような質問を浴びせかけてきた。彼らはとても“ファミリー”な一団で無口だったから妙に見えたし、これは新しいレーベルと新しいスタジオでの仕事だったから、彼らにとっては最初の新しい冒険だった。果たしてその体験はグレイトに他ならなかったし、そういった噂は単なる噂として捨て去られてしまったのである。

フィルのレコーディング機材は、ばかでかいアンプが使われていた・・・・4つのマッキントッシュ2500sか何かで、それは本当に彼の“4つ目のベース”にどえらいパワーをもたらしていた(どんな時でも彼らはそれを1つずつ移動するのに二人がかりだった)。彼の変幻ベースは4つのピックアップが付いていて、それは弦を1本ずつレコーディングすることを可能にしていた・・・何と1トラックに1弦!プレイバックの時は4つのスピーカーからそれぞれ1弦の音が出てきたはずだ(“4つ目”の初期だ)。全くもって効果てきめんだった!彼は自分の装置全てをスタジオ“B”の隔離されたブースの中に組み立てた。レコーディングが終わると私たちはブースに行って、ねじが緩んでいるに違いないライト装置その他全てを締め直さなければならなかった。ブースの中では全てがガタゴトと音を立てていた。彼のベースから発生する大音量による振動が、固定されていなかった全てのものを動かしてしまうんだ!

私たちがレコーディングした中に、私がプレイバックを聞くのを楽しみにしている1曲があった。“Pride Of Cucamonga”か“King Of…”か何かだ。[“Pride Of Cucamonga”はMars Hotelのボーナス・トラックのうちの1曲だ。] それはフィルが弾いたアコースティック・ギター・パートだった。彼がその曲のために取り出したでかくて古いGuild F-50のアコギを見た時は驚きだった。私は彼がベース以外に何でも弾けるのを知らなかった。本当にそれは美しいギターだった。彼は確か自分自身でレコーディングして歌も歌ったと思う。

一方でガルシアも彼自身の変幻自在のカスタムメイドの新しいエレクトリック・ギターを持っていた。それはセッションが始まる前にレコード・プラントに配送されていた。これを今いうのは決まり悪いが、私はずうずうしくも彼がそのギターを見る前にケースから取り出して弾いてみた。私は何を考えていたのだろう?私はその時の自分の生意気な行動が今も信じられない!しかし当時は少々大らかな時代だったし、私は彼らのファミリーの一員だったからだと思う。

スタンリー・アウズリー3世(もちろん“The Bear”あるいは単に“Bear”として知られる、あのしろうと薬剤師)は、このセッションに居合わせていた。彼はちょうど刑務所から出てきたところだった・・・LSD製造の罪だったと思う。そこで彼はそこいら中で“the Family”と共に楽しみに戻っていってしまった。彼はいつでも知識と探求の源泉だった!レコード・プラント・エンジニアの信頼できるしもべとして、私は3M“79”24トラック・マシンを任され“不動の標的”となった。ザ・ベアは私の耳が休まらないほどイカレていた。彼はパドルボールのおもちゃのボールみたいなものだった・・・ラケットのガットがぴんと張られると、彼は口を閉じ、またたく間に堅物の男に戻ってゆく。MEだ(訳注:Masters of Engineeringのこと?)。

ベアは当時、Nagra -S(stereo)ポータブル・レコーダーをかついでいて、APIボードの“Juke box”モニター・セクションのaux信号をステレオで盗み録りしていた。彼はまた私たちがミックスした音をステレオ・ケーブルを使ってテープに録音していた。彼は人々に自分のテープと3M“56”2トラック(これはステレオ・マスターで録音する時に使われていたプロ用マシンだ)の音質を聞き比べさせていたが、みなが不快な思いをする中にガルシアとダン・ヒーリィも含まれていた。ボブ・マシューズとベティ・カンターはあまりに多くその場に居合わせてしまったため、この状況に、ある“側面”を与えることになってしまった。おかしなことに、結局私はアウズリーのことを全く好きになってしまった。

ヴァッサー・クレメンツは数日間ぶらぶら過ごしていた。彼は1曲か2曲でフィドルをプレイしたと思う。これは当時としては文化の奇妙な並列だった―カントリーとサンフランシスコ・ロック―しかし彼はとてもクールだった。私は彼はかなり熱心だったと思う。なぜなら絶えることのない彼のパイプの軸が全部噛み潰されていたから!

このセッションで一番の思い出の多くは、何か予期せぬことが起こった時のことだ。ジェリーは特に誰を見ることもなく辺りを見回して笑いながら言った。“カッコよすぎる!” うれしそうでお茶目なクスクス笑いだった・・・気まぐれに世の中に対して冷笑しているかのようだった。

私は何年にも渡ってあらゆるプロジェクトで素晴らしい時間を過ごしてきた。ヴァン・モリソン、ポール・マッカートニー、スライ、ザ・ストーンズ、アメリカ、そしてジ・オールマン・ブラザーズらのような人たちと一緒にいることは、信じられない天才たちの仕事ぶりと気質を間近で覗き込む機会を与えてくれた。デッドと共にこのアルバムをレコーディングしたことはその中でも最高の位置にある。そして私はいつもその時の人々と時間に対して心が温まる思いがする。私は彼らを一生忘れないだろう。

―トム・アンダーソン
エヴァーグリーン、コロラド
2004年6月


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