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Grateful Dead/From The Mars Hotel/2006 Grateful Dead Productions & Rhino R2 73277



1974年3月25日、グレイトフル・デッドが次のアルバムのためにCBSスタジオに入った時、当時の彼らは自覚していなかったが、グループはほとんどコントロールが効かないほど凄いスピードで進んでいた。その2日前にデッドは壮大なウォール・オブ・サウンドの“サウンド・テスト”を一般の目の前で披露し、バンドは何年にも渡って35万ドル以上の建設費をかけてきた。サウンド・システムの重量は50トンを超え、600個を超えるスピーカーが含まれていた。そしてそれはロック・バンドが考案した最高音質サウンド・システムであったばかりでなく、その巨額の費用を捻出するためにさらに大きなギグが求められることにもなったのである。

ワーナー・ブラザーズ・レコーズを去って2年以内に自身のレーベル、グレイトフル・デッド・レコーズをスタートさせたバンドは、自身の作業が急速に増え、クルーも爆発的に増員し、その支出が許容範囲を越えていくのを見守っていた。彼らは300人ほどの人員を支えていたが、その多くの者は費用のかかる習慣(麻薬)にハマっていた。レーベルのファースト・アルバム、Wake Of The Floodは、マフィアがよくできた模造レコード(海賊盤)を制作しバンドを叩きのめし、彼らは思いがけない落とし穴にはまってしまった。配給会社は返品としてそのコピー盤を回収し、デッド・レーベルを告発した。この時バンドにかかった費用は知るべくもないが、レコード・ビジネスは彼らが元々構想していたよりも明らかに複雑になっていった。

1月、ガルシアはレーベルのために、ほとんどそれに参加することなくぞんざいにセカンド・ソロ・アルバムを作り上げた。2月、バンドは例年新年が明けてからくる茫然状態から奮起し、ウィンターランドで3日間のギグを行なった。それはキースとドナ・ガチョウ夫妻の家と、フィル・レッシュがNed Laginと進めていた音楽的実験に必要なコンピューターを手に入れるための資金調達を目的としていた。そして旧友のパブリック・スクールへの寄付のためでもあった。バンドの次のギグはCow Palaceでの“サウンド・テスト”だった。その2日前には、サンフランシスコの繁華街の隅のいかがわしいところにあるスタジオでFrom The Mars Hotelのセッションが始まっていた。

ガルシアはスタジオAでソロ・アルバムのためのセッションを行なっていた。そのスタジオは当時のベイエリアでは最新のレコーディング設備を誇っていた。コロンビア・レコーズは1970年に、沸騰するサンフランシスコのミュージック・シーンに投資することを目的に、A&R地域を開拓することを決定しビルを建設した。計画実行のため、コロンビアは会社で最も信望あるプロデューサー、Roy HaleeとベテランCBSエンジニア、Roy Segalをそこに就任させた。後者は国際連合のオーディオ音声の仕事で自らのキャリアをスタートさせていた。二人ともネクタイをせずに仕事をすることに屈服はしなかったが、彼らはニューヨークの組織的なレコーディングの世界をこの野蛮な辺境地に持ち込んだ。

スタジオAはHaleeがサイモン&ガーファンクルのレコーディングのために建てた大きなブロック製の部屋だった(彼らは解散したため、そのプランは台無しになってしまったが、二人とも最初のソロ・アルバムで何曲かをこの部屋でレコーディングした)。Segalのエンジニアリングにより、デッドは2つの16トラック・マシンを同期させ、ベーシック・トラックをライヴ録りした後、16トラックで気ままに即興演奏を始めた。Marin郡のロック・バンド、Cloverのスチール・ギタリスト、John McFeeはレッシュのカントリー・ソング“Pride Of Cucamonga”でその腕をいくつか披露した。Ned Laginはレッシュの“Unbroken Chain”でシンセサイザーを配したが、アルバムのハイライトは“Scarlet Begonias”、“Ship Of Fools”、“U.S. Blues”含むガルシア-ハンターのナンバーだ。それらの曲はその年の初めにバンドがすでに披露していた。

デッドがかつてレコードを売るためだけにあらゆる音楽的妥協をしていたと考えることは、バンドの価値を見誤ることになるだろう。月およそ10万ドルという財政的債務の大きさは、仲間たちを圧迫していたし、彼ら自身のレーベルでヒット・レコードを出すことは悪いことではなかった。ハンター-ガルシアによる新曲のひとつ“U.S. Blues”は、たしかに親しみやすく当時にはぴったりに思えるような近寄りやすい響きがある。ウォーターゲート事件の劇的な高まりを見せた2年間のドラマと、ニクソン大統領の地位がガラガラと崩れる中、ハンターの利口ぶった詞は生意気なグッドユーモアと反抗的なプライドの魅力的なバランスが保たれていた。ワーナー・ブラザーズがバンドにラジオでかかるようなシングルを考えるよう依頼した時、彼らは軽蔑するかのように笑い飛ばした。しかしデッド・レーベルの中の仲間であり、海賊放送者で共謀者であるRon Rakowが、彼らに同じ提案をした時、気の利いた3分12秒ヴァージョンの“U.S. Blues”が即座に作られた。

アルバム・タイトルは、スタジオから2ブロック離れたところにある短期間滞在ホテルから名付けられた。しかしバンドは本分を守って、バック・カヴァー用の写真のために悪徳歓楽街の安宿にぞろぞろと集まっていた。彼らはアルバムを“Ugly Roomers”(醜い住人)と呼んでふざけていたが、“Ugly Rumors”が採用された。これはホテルの実際の居住人を侮辱した語呂合わせと解釈されないよう、配慮されたためだ。アルバム・カヴァーを手がけたStanley MouseとAlton Kellyは、擬似のアステカ族風サイケデリック文字を表した。元々どう書かれてあったのかはほとんど読むことができないが、これがカヴァーに逆さまと後ろ向きに印刷された時は本当に火星からのメッセージであるかのように見えたのである。

シングル“U.S. Blues”はチャートインせず、そのあとアルバムが6月27日にリリースされたが、8月半ばまでにパッとしないながらも見事に258,000枚を売り、それはWake Of The Floodとその偽造盤を合わせた半分より少し多いくらいだった。バンドは5月にツアーをスタートさせ、巨大なウォール・オブ・サウンドをトラックで運びながら国中を回り、経費を捻出すべく大きな会場を選んでいった。各ショーの前にはクルーたちが1日がかりでシステムを建設し、バンドとクルーは一様に長期間コカインの暴風の中に埋もれていった。この時期デッドはへとへとに疲れる9月のヨーロッパ・ツアーに向かっていた。誰もがガス欠状態となり、グループはあからさまに解散を口にするようになっていった。

バンドが故郷に戻っての最初の仕事は、10月のツアーをキャンセルすることだった。ガルシアはMerl Saundersと共にバークレーのキーストーンのような町で演奏することを楽しんでいた。どれほど彼らがハードに働こうが大勢の群集が集まろうが、誰も金を持っていなかった。10月、バンドはウィンターランドで5回公演の予定を入れ、1年半のライヴ休止を宣言した。実際のところ誰にも何が起ころうとしているのか分からなかったが、ザ・グレイトフル・デッドの偉大な第一期が終わりに近づいていた。

-Joel Selvin


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