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Grateful Dead/Ladies And Gentlemen…Fillmore East April 1971/2004 Grateful Dead Productions, Inc./Rhino R2 78942



60年代後半ニューヨークのヘイト・アシュベリーといえばグレニッチ・ヴィレッジだった

そして様々な界隈の地域住民たちがロワーイーストサイド(Lower East Side:マンハッタン南端の東半分)へと広がっていった。そこはヘッド・ショップがあった場所だ―壁と天井は、最新の目を見張るような脳がとろけるようなロック・ポスターとブラック・ライト(赤外線と紫外線)の創造物によって、シュールに塗りたくられていた―そして濃厚なマリファナの匂い。そこにはグレイトなレコード・ショップが豊富にあった。店頭にはほとんど知られていないブロードウェイ作品が飾られ、店自体は倉庫を改造したものだった。地域のフォークとジャズ・クラブはまだ強力な存在だった。それぞれは地元のフリークス、白髪混じりのボヘミアンたち、外からの観光客、そして郊外の子供たち(私のような)の奇妙なミックスを作り出し、彼らは週末になるとそのカラフルで活気があり、わずかに危険なその地域へ怒涛のごとく押し寄せた。ジ・エレクトリック・サーカスはヴィレッジで最もクールなクラブだった―半ブロックはなれたところでも文字通りその独特なニューヨークのエネルギーが脈打ち、振動するのを感じることができただろう。

数ブロックはなれたSecond AvenueとSixth Street―ロワーイーストサイドは、年老いたロシア人や黒服を着たポーランド婦人、あらゆる民族の結合体である貧しい労働者たち、ヘルス・エンジェルス(彼らのニューヨーク本部はそこにあった)、学生そして芸術家たちで溢れていた―そこには老朽化した古いヴィレッジ・シアターが建っていた。かつてはイディッシュ(ヘブライ言語:欧米のユダヤ人が使用)・シアターであり、のちにはロウ(Marcus Loew:1870-1927 米劇場所有者・映画製作者、MGM設立者)の映画館になったところだが、何年間も放置され、汚れ、荒廃状態に陥っていた。そこである地元のロック・ファン/プロモーター志願者たちが1967年にヴィレッジでいくつかのショーを開催した―67年12月末になり、グレイトフル・デッドが2度目のニューヨーク公演を行なった際、そこで2日間プレイした―しかし劇場はビル・グレアムというサンフランシスコ出身のニューヨーカーが1968年の冬にその場所を買い取り、小奇麗にし、フィルモア・イーストを命名するまでは真のロックンロール・コミュニティの聖地とはならなかったのである。

あまりに容易く想像できることとして

トータル2400席のフィルモア・イーストは、イースト・コーストのグレアムにとってサンフランシスコ・スタイルのステージ・セットであったことだ。なぜならベイエリアでの活動はほとんどボールルームに限られていたし、フィルモア・イーストは華麗で高い天井と豪華な座席とロココ式の装飾を持つ伝統的な劇場であったからだ。それはとりわけロックンロール・ショーの箱として極めてうってつけだった。そして間違いなくいえるのは―騒がしく尽きることのないエネルギーと熱狂的な群集が詰めかけたフィルモア・イーストは、とことんニューヨーク式(New Yawk)だったことだ。そう、グレアムはサンフランシスコのトップ・バンド全てをこの劇場へ送り込んだ((間違いなく彼らはそのファンキーでルーズでアシッド色強い派手なハシュベリー(Hashbury:Haight Ashburyの略)の音楽的カオスに飢えていたニューヨークの聴衆を打ちのめしてしまった))。しかし誰もが同意するウサギ小屋のような部屋の象徴として記憶に残っているのが、どの会場にもあった荒れ果てた楽屋だ。通りに出てみれば果てしないフリークの行進が続き、これぞニューヨーク!と叫ばずにいられない騒々しさがそこにはあった。

ショーを観るには絶好の場所だ

巨大なバルコニーの一番前に座ると、ステージに発射される電気エネルギーのうねりを体感し、全てを呑み込み進んでいく大きな波のように、聴衆の中にウェイヴが広がっていくのが見える。私は絹のような青いもやが、あるいは蚊の網のような霞が空中に漂っていたのを覚えている。その中をギターの旋律が矢のように貫通し、ドラムの鋭い一打々とフィル・レッシュのファットで流動的なベースの一撃が光の踊る小さな竜巻となって吹き込んでいた。ライト・ショー(最初はジョシュア・ライト・ショー、のちにジョーズ・ライツと呼ばれた)はあり得ないような大きさで、至上の趣があった。私は多くのサンフランシスコ・スタイルのリキッド・ショーのことはもうほとんど思い出せないが、素晴らしくまき散らされた濃淡のある色と入り組んだ幾何学的デザインの二つの筋が、独特なフィルムとスライドによって自然の穏やかな眺めを表していたことはよく覚えている。バンドの後ろに“空”として巨大なスクリーンに投影された7色の輝きが、オーディエンスの顔に反射していた。

デッドはフィルモア・イーストで10日間のショーを行なった

それは1968年6月から1971年4月の間に行なわれ、通常ヘッドライナー(頭角を現しつつあったオールマン・ブラザーズらを差し置いて)としてであったが、時折、前座としての出演もあった(ジャニス・ジョプリンとかカントリー・ジョー&ザ・フィッシュらのような場合だ)。概してデッドは68年から70年半ばまで、一晩で2ステージを行ない、会場はコンサートの間完全に貸し切り状態になっていた。70年5月までに、デッドは自らのオープニング・アクト、ニュー・ライダーズ・オブ・パープル・セイジ(初期はガルシアとレッシュをフィーチャーしていた)を持ち、彼らは“今宵共に”というコンセプトを開拓し、ファンたちは互いに異なる音楽スタイルのバンドとの共演によって発生する長いセッティング時間を被ることなく、デッドをたっぷりと味わうことが確約されたのである。デッドのショーのためにフィルモア・イーストを埋め尽くした聴衆は、グループの驚くべき進化/変容を目撃することになる。それは単なるグッドタイム・ダンス・バンドから徐々にオーディエンスの奇妙な要求が膨らんでいき、完全に幻覚性のあるサイケデリック・ハリケーンへと彼らが突入していく様だ。フィルモアはまた、1969年半ば以降から1970年いっぱいにかけて、グループが次第にフォークとカントリー・ルーツへ戻っていくのを目撃する。そこには穏やかなアコースティック・セットが―おばあちゃんのキルトの毛布の暖かさだ―多くのコンサートで披露された。しかしデッドは探求的なロックの側面も決して忘れなかった。フィルモア・イーストで、彼らは常にあたかも少しでも長く、少しでも激しくジャム演奏をしたがっていたかのようだった。

1971年春までにビル・グレアムは

両海岸のフィルモアを閉鎖しようと決心していた。彼によれば、バンドとマネージャー側(デッド以外の)の増大する一方のギャラ要求に落胆していた。一方でデッドは猛烈な勢いで成長していた―彼らの1970年のアルバム、Workingman’s DeadとAmerican Beautyは真の意味でのヒットとなっていたし、卓越したライヴ・アクトとしての彼らの名声はそれに勝るほどだった。そして突然誰もが町や大学に彼らを呼びたがるようになった。それにもかかわらず、グループは多くの劇場でプレイし続け、より大きな都市のホール、大学の体育館、そしてついにはスポーツ競技場でのライヴを進めて行った。数あるバンドの中で、デッドがフィルモア・イースト時代の栄光の終焉のために5夜連続のコンサート―1971年4月25〜29日―を行なったのも道理にかなっていた。(実際のフィルモア・イーストでのラスト・ショーは6月27日で、ジ・オールマン・ブラザーズ、J・ガイルズ・バンドその他が出演した。)

フィルモア・イーストでのショー以降

の8ヶ月間に、デッドの身に大小の変化が起こった。最も目立った変化は、1971年2月に起こったドラマー、ミッキー・ハートの脱退劇だ。71年冬と春のバンドのツアー中の彼らは、この簡素化された編成に明らかにまだ順応中であった―彼らは次の足掛かりを見つけようとしていた。いわばオリジナルの核の4人であるガルシア、レッシュ、ウィアー、そしてクロイツマンの中に新しいパワーを見つけることだった。(ピッグペンはこの時期キーボードは散発的に弾くだけであった。ピアニストのキース・ガチョウは1971年10月までバンドには参加しなかった。) 71年の春には未来のクラシックとなる“Bertha”、“Playing in the Band”、“Bird Song”、“Deal”、“Wharf Rat”、“Loser”、そして“Greatest Story Ever Told”のような新しい強力なマテリアルが多くプレイされていた。一方でレパートリー中のより古い曲は、彼らの自然な進化の中で全行程を終えていた。ピッグペンはその春、素晴らしい健康状態だった。そしてそれは彼が本当に体調の良かった最後のツアーであった。このディスクで彼の最もお気に入りのナンバーの数々が、元気よく歌われているのを確認することができる。

その5日間にはあちこちに漂う青い霞とともに―

何かの気配が漂っていた。私は幸運なことに2日間のショー、4月26日と28日に出向いて行った。私は祝いと悲しみの両方の感情を持っていたことを覚えている―ほとんどは前者であるが。なぜならフィルモアはこれで終わりであるが、ザ・グレイトフル・デッドは堂々と前進していたし、他の会場でもショーを行なっていたからだ。その5日間には3つのゲストが出演した―2日目にはデュアン・オールマン、その翌晩には何か聖書の映画に出てくるような長いひげとカフタン(トルコ人、アラブ人などの着る帯の付いた長袖の長衣)を着たビーチ・ボーイズ、そして次の晩は以前のデッドのキーボーディスト、トム・コンスタンティンだ。彼はここに収録の“Dark Star”と“St. Stephen”でその紛れもない特徴的なプレイを聞かせてくれる。

しかし最後の夜までにバンドはベーシックな編成に戻っていた

そしてデッドは歴史的な瞬間を披露して見せた―その晩の2番目のセットでのジャム、“Alligator”から“Cold Rain and Snow”はデッドの中で最も有名な名演のうちの一つだ。どういうわけか奇跡的にもデッドはその時までの6年間の歴史を短く要約してみせ、同時にその完璧にフレッシュなサウンドは、来たるべき新しい方向性を指し示していたのである。核の4人の間のコミュニケーションはところどころ目を見張るものがある。グループのマインドは最高潮にあり、最も深遠な表情を見せている。“Goin’ Down the Road”の最初のヴァースの前に入るガルシアのギターによるいくつかのトーンを聞けば、倦怠、悲しみ、喜び、そして超越が一つになっているのが分かるだろう。そしてどこが終わりで始まりなのかさえ分からないのである―事実上、長く不思議な旅は縮小していったが、止まることは許されていなかった。なぜなら次にプレイする曲が残っていたし、このギグを終わらせれば次の町での演奏が待っていたからだ。今なおこれは真にマジカルなスペースへの、とてつもない別れの告げ方である。

ブレア・ジャクソン;Garcia : An American Lifeの著者であり、デッド・ファンジン、The Golden Roadの前発行者

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