Welcome to my homepage


Grateful Dead/Europe ‘72/2003 Warner/Rhino R2 74399



ツアーということばは1972年の復活祭の朝にグレイトフル・デッドがヨーロッパ大陸に到達したことをよく表わしてはいない。数トンの最先端の照明機材、16トラック・レコーディング・コンソールに加えて、妻たち、子供たち、ガールフレンドたち、ロード・クルー、エンジニアそしてオフィス・スタッフを連れ、大量の供給物―そう、食料などだ―を伴ったこの行動は、侵略という言葉がより相応しいに違いない。

デッドがヨーロッパでプレイしたのはこれが初めてではなかったが、それらのギグは単発契約として行なわれたものだった。春の間、イングランド、フランス、ドイツ、デンマーク、ルクセンブルグ、そしてオランダの大会場で彼らがプレイした22のショーは、創造的ピークを示していた。それはバンドとその初期から仲間でありファミリーとなった多くの者たちにとって、概して素晴らしい時期であった。あらゆる意味でEurope ‘72は究極のグレイトフル・デッド・ファミリー・アルバムだった。

その時期バンドが最高点を迎えたことを考えることは、デッド・ヘッズにとっては娯楽であり、デッド・ヘッズの数と同じ数だけの有効な答えが存在する。とはいえこのアルバムで見られる編成は、最も素晴らしいうちの一つであったことは確かだ。ピッグペンはまだ健在であった。彼のペテン師的でふんぞり返った態度、そしてソウルフルな才能はオーディエンスの心をつかみ、バンドの牽引力として前身のThe Warlocks時代から欠くことのできない要素であった。しかしこれは彼の最後のツアーとなってしまった。72年の周遊はまた、グループと共に過ごしたキーボーディストのKeith GodchauxとシンガーのDonna Godchauxの最初の長いバンド在籍となった。ここで聞けるようなキースの熱く鋭敏なプレイは他では聞けない。パーカッショニスト、ミッキー・ハートの不在はとてつもなく大きな穴であったが、ビル・クロイツマンがそのメリハリの効いた説得力あるプレイ、瞬間的な音楽的反応でもって周りに応えるドラミングをしていた―“まるで若き独裁者のようなプレイなんだ。” ベーシストのフィル・レッシュは回想する。

またミュージシャンたちはのびのびとプレイし、“Dark Star”からのジャムを操り、その有機的なフォームによって“Truckin’”のイントロを操り、最高に洗練されたエレクトリック・ジャズ・バンド(マイルス・デイヴィスのBitches Brewを思い出させるような)でさえ、ほとんどアプローチしないような不協和音を操っていた。さらにデッドの新曲群―“He’s Gone”、“Tennessee Jed”、“Brown-Eyed Woman”、“Jack Straw”その他―は田舎のアメリカ文化がフィーチャーされた2枚のアルバム、Workingman’s DeadとAmerican Beautyと同じ装いを持っていた。(実際のところ、作詞家ロバート・ハンターは、これらの曲をフィーチャーした上記に続く3枚目のアルバムをRambling Roseとしてバンドが制作することを望んでいた。) グレイトフル・デッドの過去と未来はこのEurope ‘72のレンズを通して鋭くフォーカスされている。

ツアーはまた、カリフォルニアからやってきた一団にとって、2世紀以上古い文明をその目で確かめる機会でもあり、大陸のヒップな仲間たちと会う機会でもあった。バンドとクルーは週に5〜6回のショーを行なっていた。ヨーロッパでの2ヶ月間に及ぶゆったりとした広大な旅の行程は、デッドに多くの自由と周囲を探索する旅の日々をもたらすことになった。

その素晴らしいスナップショットは今も記憶の中で色あせていない。珍しく快晴の午後にドイツのアウトバーンからラインの谷を見たハンターは―“伝説の時代の名高い幻想的な城が全てダイアモンドのような荘厳な河と連なって続いていたね。” 彼はケルン大聖堂のてっぺんに上り、そこに立ってみた。“下にストーン・サークルのある柱の上で、天井からは空が見えて、まるで僕の魂は街を越えて空高く舞い上がっていくように感じたね。” デッドがブレーメンでThe Beat ClubというTVショーでプレイした時、ハンターはスタジオの雰囲気が硬く冷たいのに気づいた。“僕は人々が踊るシーンが必要なんだと悟ったんだけど、そこには僕しかいなかったんだ。” 彼はいう。“で、僕はスタジオのフロアにドカドカと入っていって、例のかの有名なむちゃくちゃなダンスをしたんだ。音楽はさらに活気づいていったね。”

ギタリストのジェリー・ガルシア、彼の最愛のマウンテン・ガール、ベーシストのフィル・レッシュ、そしてAlan Trist(古い友人でバンドの出版社Ice Nineの経営者)は、ロンドンで車をレンタルし、ストーンヘンジ、ウェルズ大聖堂(イングランド南西サマセット州)、ソールズベリ・ヒル含むオールド・イングランドの神秘なる神聖な遺跡を巡って回った。彼らは作家のJohn Michellと親しくなった。彼の書、The View Over Atlantisはその“Ley Lines”(先史時代の遺跡などをつなぐ想像上の直線。敏感な先史人は特別なエネルギーのはたらく線に沿って聖なる場所を設けたとする理論)上の瞑想において、メンバーたちに深い感銘を与えていた。そしてそれは彼らが特定の場所でよりよくプレイできるのはなぜなのかと考えていた、自身たちの現象に結びついていた。John Michellは18世紀の同名の地質学者と符合が一致している。彼は宇宙のブラック・ホール、あるいは彼が呼ぶところの“dark stars”の存在について最初に推測を立てた人物だった。

デッド・ヘッズなら誰でも知っている符号の一致がある。例えば2つの虹を目撃しようと、ツアー・バスが道路の片側に寄せた瞬間のことだ。クルーのSteve Parishは、彼らが渡ったばかりの橋が骸骨で装飾されていたことに気づいた―ツアー中に出現したいくつかのうちの一つだ。彼はいう。“僕たちは然るべき場所にいて、ある理由からあそこにいたんだ。”(Europe ‘72のフロント・カヴァーはAlton KelleyとStanley Mouseによってデザインされたが、そこにはホーボー風のアメリカ人らしき足が、両側に金のポットがある虹の下で海洋をまたいでいる。)

St. Dilbert(訳注:よく分からない。dilbertの意味はバカ、とんま)がいると“催眠主義”が発生する。旅行中のにぎやかな一団は二つのバスに分裂した。彼らはそれぞれ「BozosとBolos」と命名された二つの亜族に分かれた。ツアーの写真を見たことのある者なら誰でもBozos(マヌケの意)の名の由来が想像できるだろう―ピエロのマスクがどういうわけか旅行かばんの中に入り込んでいた。それはボブ・ウィアーと友人のBonnie Parkerがデンマークで安物雑貨店を訪れた時に買って詰め込んだものの一つだった。パリッシュとBoloのクルーの一人、Kidd CandelarioはBozoのバスへ逃げ込み、結局ガルシアとマウンテン・ガールの後ろの席に着いた。ギグの間の14時間に及ぶアドリブによって、リフはガルシアとパリッシュが昔観たColonel Lemuel Qの短編フィルムのようなお決まりのギャグ的展開となっていった。“催眠主義”と呼ばれる哲学を支持するまぬけ―これはFiresignシアターが好む哲学だ。

“催眠主義っていうのは半熟卵から卵の殻を少し取り除くんだ。催眠主義はその前提においてバスローブの紐のふさを除去してしまった(訳注:よく分からない)。僕らがどうやって全てのうんざりするようなものを排除する催眠主義を提唱するかって?disinvention(無にする)と呼ばれる新しいプロセスによって行なうんだ。それは新しいものを発明するんじゃなくて、他の発明を退ける発明なんだ。” Colonelは説明する―1930年代の実社会において、F. Chase Taylorというラジオ・コメディアンは潜水艦のための燈台を逆さまに海底に向けて建設するという案を提唱した。(催眠主義の姿勢もそれと同様に“技術主義”に対する風刺であった。新しい世界の社会的要請に基づいた青写真を作成するために、20年代の科学者と技術者が行なった奇妙な企てに対してである。)

すてきな幻覚物質はそろっていたが、それがハンターの浄化装置をいったん通過してしまうと、さらに謎めいたものになった。催眠主義はEurope ‘72のオリジナルの3枚組LPのブックレットに、Willy Legate、別名“聖歌隊指揮者”によるツアー・コメントの形となって染み込んでいた。彼はバンドのClub Frontスタジオの賢人であり、デッドの最初の公式テープ管理員であった。バンドから送られてくるデッド・ヘッズの会報には、何年にも渡ってリフが続いていた。“人生の意味をたずねられた時、Dilbertは答えた。‘それよりも催眠主義の意味をたずねろ’ 催眠主義の意味をたずねられた時、St. Dilbertは答えた。‘催眠主義の意味を探求するのが催眠主義じゃないのか?’”

St. Dilbertとはしかし一体何者だ?彼が言ったことに基づけば、Dilbertとはパリッシュ、ハンターの変名、あるいは連中が見続けていたもの:どこか大聖堂の浅浮き彫りに刻まれたイコン的人物、聖人、あるいは彼らが全く見誤っていた別のキャラクターだ。マヌケな聖人、社会不適応の聖人、あるいはアルバムの裏ジャケットに載っている“アイスクリーム・キッド”のようなあわれな奴か。(“僕たちがエジプトに行った時、象形文字の中から彼がじわじわと浮き出始めたんだ。” パリッシュは説明する。“僕らは彼をAchmed E. Neumanと呼んだ。)

一方で頼りになるグレイトフル・デッドの獣は荒々しく息づいていた。デッド・ヘッズの誰もが“China Cat Sunflower”の2ダースの不滅のヴァージョンを挙げることができるが、パリのオリンピア・シアターからのここでのヴァージョンを聞くと・・・いかにバンドはのんびりとプレイし、完全なる共時態(言語学だけでなく、一般に科学が対象とする現象を時間の流れに沿って変化するものとして見る通時態に対し、時間軸上の1点において捉えた状態を指す)へと進路をとっているか・・・そしてウィアーが急激にテンポを上げる。この若いギタリストは目一杯自分に没頭し、彼の後ろでGodchauxは“I Know You Rider”に向けて高速で突っ走っている。エルモア・ジェイムス、ハンク・ウィリアムズ、そしてボ・ディドリーのスピリットもパーティーに招待され、それらの曲は絞り染めされ山と積まれたスピーカーから爆音を立てていた―ヨーロッパ人の度肝を抜きながら。デッドが5月7日、雨のBickershawフェスティヴァルでプレイした時、オーディエンスの中にDeclan McManusという17歳のコンピューター技師がいた。のちのエルヴィス・コステロだ。

“まるで啓示のようだったね。” コステロはライターのDavid Shenkに語っている。“彼らはレコーディングしてなかった曲を全てプレイしたんだ。そして彼らはMerle Haggardの‘Sing Me Back Home’を歌った。一番覚えているのがこういったグレイト・ソングの数々だね。泥んこの中に立って‘He’s Gone’を聴いていた。”

他のスナップ写真もある。強力なピッグペンは、今ややせて血色が悪くなっていたが、ドイツの古く美しい劇場の舞台の袖で、ここで聞ける“Caution(Do Not Stop On Tracks)”での猛烈な魔法のラップを控えていた。彼はハンターの持っていたビールを指差して言った。“いいかい?それはお前を死に追いやるんだぜ。” すでに病気だったピッグは、医者の忠告を無視してツアーに参加した。彼はもう一つのショーで“Stella Blue”のオルガンをプレイしたあと、1973年3月に死んでしまった。この曲はツアー中にガルシアが作った(詞はハンターがチェルシー・ホテルで書いた)。

“イングランドにいると違いを感じるね。人間的な違いじゃなくて文化的な違いだ。” ガルシアは英国のジャーナリスト、Danae Brookに語っている。“イングランドは形式的なところだ。国会議員は作法を身につけている。アメリカは作法に関しちゃ混沌としすぎているんだ。特に僕たちの出身地には長い間何もなかったんだよ。アメリカは混沌って言葉がまさにぴったりだ。” ブルックはバンドについて記した最初の書、The Book Of The Deadの中にこのようなインタビューを盛り込んだ。これはツアー中に印刷され、ライシーアム・シアターで配られた(ライシーアムからは“Truckin’”“Epilogue”“Prelude”“Morning Dew”がこのアルバムに収録された)。表紙には“この本は永久に無料である”と印刷されていた。これが当時デッドが実践していたことであった。

“未来は旅だ。” ガルシアは考察した。“僕らが曲をやる時プランは立てないんだ。僕らは与えられた腕を使うだけだ。”

人をひきつけるその腕前は、それから23年間続くことになった―しかしバンドがアメリカに戻ってくると、柵はどんどんと高くなり、会場はどんどんと大きくなっていった。デッドはツアーの直前にファンに向けて、Tシャツを売ることを“自分たちのツアーに関する商業的協定のため”拒否した。Europe ‘72のブックレットにはTシャツとソングブックが売られることが提示されていた。“僕らは何にでもなれたよ。” ハンターはいう。“僕らはビッグになった。そして僕らはビジネスにもなったんだ。”

それは相反する要素の混じった恩恵だった。仲間の境界線が伸びていくにつれ、より多くの人々がバンドを聴けるようになった。広大なファミリーの中においては―このアルバムに関していえば―音楽のメッセージは永遠であり自由であることを今も発し続けている。

-Steve Silberman


ホームへ