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Grateful Dead/American Beauty/2003 Warner/Rhino R2 74397



アメリカン・ビューティーはグレイトフル・デッドが1970年にレコーディングした2枚のスタジオ傑作盤のうちの2枚目に当たるアルバムだ。バンドはWorkingman’s Deadで、最初の2枚のスタジオ・アルバムのサイケデリックな実験から離れ始めた。American Beautyは特に重要な新しい段階を示していた。レコード全体に渡ってジェリー・ガルシアのギター・ソロは一つも存在していない。メインはアコースティックであり、繊細で心地よい幾重にも重ねられたヴォーカルが聞かれる。

アルバムの中に“jamming”は入っていない。全てが歌であり、バッキングは歌に美しく添えられている。デヴィッド・ネルソンが“Box Of Rain”で唯一エレクトリック・ギター((製作されたばかりのパーソンズ/ホワイト製(訳注:バーズのジーン・パーソンズとクラレンス・ホワイトが共同開発した)ストリングベンダーだ))を弾いている。ガルシアは“Candyman”“Sugar Magnolia”でペダル・スチール・ソロを弾いている。トラックの多くは間奏さえも入っていない。

1970年9月に仕事が始まった時点でボブ・ウィアーはすでに両親を失くしていたし、ベーシストのフィル・レッシュの父親とガルシアの母親の死期は近づいていた。ヴォーカリスト/キーボーディストのロン“ピッグペン”マッカナンの健康状態は衰えつつあった。“僕たちは曲を書くことについて、もっと大人の考え方をするようになっていった。” ウィアー回想する。ザ・バンドとボブ・ディランはアメリカン・ミュージックのルーツ回帰の先頭に立ち、“rock”のレコードに(フォーク、カントリーの)弦楽バンドの楽器編成を持ち込んだ。人間的にもアーチスト的にも、デッドのソングライターとしての成熟は、我々がAmerican Beautyで聴けるような、親近感を与えるような楽曲の数々になって現われた。

ガルシアが作詞家ロバート・ハンターとのコラボレーションを始めた頃を思い出してみると、1981年に彼は、1969年のAoxomoxoaの曲は“凝りすぎていてプレイするには厄介だった・・・僕らは曲を書くときに草案を作成していなかったんだ。”と言っていた。1970年までにハンターとガルシアは至宝のような曲をすばやく創り出し、その能力は波に乗っていった。Jeremy Marreの見事なドキュメンタリー、Anthem To Beautyの中でハンターは、彼が“Ripple”、“To Lay Me Down”(これはAmerican Beauty用に書かれたが、ジェリー・ガルシアの1972年のソロ・デビュー作Garciaに採用された)、そして“Breakdown Palace”を書いたロンドンでの1日のことを回想している。

American Beautyのほとんどの曲はライヴ・レパートリーのかなめとなった(そして私はピッグペンの美しい“Operator”が数回プレイされただけでレパートリーから外されたのはなぜだろうかと不審に思っている)。全体にアンサンブル・ヴォーカルが入った“Till The Morning Comes”“Attics Of My Life”はあまり長くはレパートリーに残らなかった(彼らは70年代に“Attics”を時々プレイしていた。76年についにそれは半ばレパートリーの中にレギュラーとして加えられることになった)。

エンジニアで共同プロデューサーのSteve Barncardによると、グレイトフル・デッドのクルーとファミリーの多くの者たちはMedicine Ball Caravan(訳注:ワーナー制作の失敗に終わったヒッピー・ムーヴィー)のツアーに出ていて、普段の世話やきの仲間やでしゃばり者たちがいないスタジオに、彼とバンドだけが残っていたという。ベーシック・トラックは最小の不満と最大の集中力によって、たった数日間のうちにレコーディングされた。ほとんどはドラムスにクロイツマン、ベースにレッシュ、アコースティック・ギターにガルシアという布陣で“Live”録りされた。いくつかのトラックではウィアーがプレイした(例えば“Sugar Magnolia”では、彼がプレイしたレズリー・スピーカーを通したエレクトリック・ギターがあとからダビングされた)。New Riders Of The Purple SageのDave Torbertは、レッシュがアコースティック・ギターを弾く“Box Of Rain”でベースを弾いた。(共同プロデューサーの)Barncardはアルバムの一貫性について、“ジェリーの見事な指揮だった。彼は自分がやっていることを完全に理解していた。”と評価している。

ガルシアはいくらかエレクトリック・ギターをオーヴァーダブした。Howard Wales―ガルシアと一緒にThe Matrixでジャム・セッションをしていた(二人は1971年にアルバムHooteroll?を発表した)―は、“Truckin’”と“Candyman”でオルガン・フィルを、“Breakdown Palace”でピアノを加えた。MIT(デッドのRoundレコーズから1975年にディープで難解なSeatonesをリリースした)からは、ジャズ・ピアニストで電子音楽コンポーザーであるNed Laginが“Candyman”に少しのピアノを加えた。ガルシアのブルーグラス時代からの仲間で、マンドリン奏者のDavid Grismanは東海岸からやって来て、デッドとジェファーソン・エアプレインの野球の試合に加わった。“ジェリーはこう言った、‘ねえ、僕たちは今レコードを作っているんだけど、君にぴったりの曲がいくつかあるんだよ’ってね。” Grismanは回想する。翌日か翌々日には彼は“Friend Of The Devil”と“Ripple”にマンドリン・パートを加えた。“Ripple”での彼の(マンドリンの)複線のトリルは完璧に曲にマッチしている。また彼は“Friend Of The Devil”でウィアーのラインを見事に交互に補完したり調和させたりしている。

American Beautyはガルシアのペダル・スチール・ギターとの蜜月時代のピークを示していた。しかし1981年、彼はあきらめたと宣言している。その理由は、“プレイが難しいんだ。僕にもう一つ人生があればペダル・スチールはぜひ弾きたいんだけどね。”だそうだ。彼はCSNYのヒット・シングル“Teach Your Children”で、New Riders Of The Purple Sageのファースト・アルバムで、Garciaの素晴らしい“The Wheel”で、そしてBrewer & ShipleyのTarkio(彼らのヒット“One Toke Over The Line”ではないが)その他でその見事なスチール・ワークを披露している。

Wally Heiderのエンジニア、Barncardの履歴にはデヴィッド・クロスビーのIf I Could Only Remember My Nameが含まれ、それはアコースティック・ギターとヴォーカルに深く根ざしたものだった。つまり彼のこのプロジェクトへの参加は思いがけず幸運であった。American Beautyはあらゆる機材がデジタル化される前に作られたアルバムだ。あらゆるパートはクリアで存在感があり、優雅なパッションをもってプレイされ、結果サウンドは明確で静かなるパワーにあふれたものとなった。そのブレンドは電子的な“甘味料”によって製造されたものではなく、パフォーマンスの中に含まれている。

“僕はハーモニーをアレンジした覚えが全くないんだ。” Anthem To Beautyの中でレッシュは語っている。“ジェリーがメロディを歌う時、僕はいつも一番上のパートをとっていた。ボブはその間だ。僕らは自分たちのヴォーカルを正確にくり返すことは全くできなかったね。いつもちょっとずつ違ってた。”

“やる度に違っていたね。” Barncardは認める。“同じことをくり返そうとするんだが、どんどんと良くなっていくってわけさ。”

American Beautyはポスト-ピッグペンのグレイトフル・デッドの音楽性をうまく予言していた。ウィアーはまだソングライティングの才能を現していなかったが、彼のギターへの独特なアプローチは“Friend Of The Devil”と“Till The Morning Comes”で証明されている。“Sugar Magnolia”については―“スタジオの中に何か田舎の雰囲気を持ち込んだね。” ウィアーはいう。コンサートでは“doot-do-doot”のバッキング・ヴォーカルは曲が終わりに向かうにつれて破綻していたが、とてつもなく愉快なアンセムだ。“見事なロックンロールだね。”

彼らはアルバムを出す毎にたくさんのルールを破っていった。オープニング・トラックでのリード・ヴォーカルはガルシアというよりレッシュであり(そしてメインの部分をデッド外の二人のメンバーが担当している)、ついにはシングル(“Truckin’”)さえ“埋葬”してしまった。しかし注目すべき本質的な一貫性が一連のレコードごとの流れの中に存在している。“Truckin’”は今までの“長く奇妙な旅”と、“去ってゆくこと”で終わることを概要とする自伝的な内容において、葬られるに相応しいのである。そしてフェイドアウト部は聞き手を舞台上のバンドが始めるジャムへといざなってゆく。(ちなみにフェイドアウトしたあと音楽はそれほど長くは続かない。マスター・テープでは“Truckin’”のリフを数回繰り返したのち、ウィアーがバンドをワルツのリズムへとよろめきながら導き、全体が停止する前に“The Frozen Logger”のフレーズをイカレた調子で歌う)

American Beautyは絶好のキャリア転換となった。デッドの即興音楽をどう考えていいのか分からなかった私のような何千ものリスナーたちは、これらの曲によって彼らのコンサートに引きつけられていき、彼らに結びついていたjamを好むようになっていったのである。

-David Gans


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