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Grateful Dead/Aoxomoxoa/2003 Warner/Rhino R2 74394



1969年のある夏の晩、深夜番組を見ていた視聴者たちは、最高に愉快な対立的光景を目にしていた―全く共通点のない二人のアメリカン・フォーク・ヒーロー、Hugh Marston HefnerとJerome John Garciaの不釣合いな遭遇だ。

このできごとはHefnerのトーク及びエンターテイメント・ショー、Playboy After Darkにグレイトフル・デッドがニュー・アルバム、Aoxomoxoaからのナンバーを披露するために出演した時のエピソードだ。Playboy After Darkは他の雑談TV番組と大差なかったが、唯一特徴的な仕掛けがスタジオ設定に使われていた―サウンドステージはアート・ディレクターか何かによって考え出された当時のヒップな独身男の部屋を再現してあった。つまりPlayboyの見開きページのヌードモデルとそこに居合わせるエキストラ、流行の洒落者たちが醸し出す陳腐で説得力のない光景、HefのPlayboy Mansionで繰り広げられる悪名高いお祭り騒ぎの再生産といったところだ。

ガルシアとヘフナーに設定された濃厚な会合には、容易に想像できるような好対照な見ものが豊富に存在していた。ヘフは完璧に身なりを整えていた。ディナー・ジャケットに、手にはいつものパイプ(タバコを燃やす器具)、彼の横にはPlaymate(Playboy誌のヌードモデル)の愛人、Barbi Bentonが座っていた。そしてジェリーはというと、もじゃもじゃの頭にヒゲ、冒険的ではあるがかなりくたびれた虹色のサラーペ(serape:特にメキシコ人男性が肩掛けに用いる幾何学模様のある毛布)を羽織っていた。一方ガルシアのバンド仲間たちは、見せかけは景気よく他の“パーティー”の客人たち(Sid Caesar, Noel Harrison, そして“占星家”のSydney Omarrが含まれていた)を伴っていた。Playboy大立者クンが大真面目に“ヒッピー・シーン”の変化についてギタリストに質問した(その時ガルシアが割って入ってこう言った。“ああ、僕らは今やビッグ・ピープルだ!”)。そしてデッドがツイン・ドラムに着手した目的についても質問した(ガルシアはこう表現した。“相互崩壊だ・・・互いのしっぽを飲み込む大蛇のようなものさ。”)。

司会者をまんまと煙に巻き、魅了させることにも成功したガルシアは、デッドと共にニュー・アルバムから2曲を披露した。“Mountain Of The Moon”“St. Stephen”だ(ピッグペンの名演“Turn On Your Love Light”は、おまけとして番組最後のテロップの向こうで演奏された)。バンドが演奏を続けるうち、うわべだけだったお祭り的雰囲気は何かよりワイルドで予定外の本気の様相を呈していった。あるいはそれが音楽の持つパワーだったのかもしれない―またあるいはある結果だったのかもしれない。それはずっと言われるように、デッドの仲間が寛大に他のゲストと共にプレイしたことによって持ち込まれた、特別に新鮮な空気によるものだったのかもしれないということだ。この時の知られざるメンバーだったのが、キーボーディストのTom Constantenだった。彼は1年後インタビューで回想している。“誰かが・・・バンドを手伝うことを決めたんだよ。”理由はどうであれ、グレイトフル・デッドは一度きりの本物の薬の注入によって、ハリウッドの快楽主義によって制作されたPlayboy After Darkよりはるかに輝くことになった。

前述したような環境にうまく順応しないバンドのパワーは、とりわけ1969年には一般的にも音楽産業においてでもあるが、ポップ・カルチャーに対するバンドの関係を象徴的に示しているのかもしれない。たしかにグレイトフル・デッドはうまくフィットしない存在であったように思える―ラジオ・フォーマットにも、人口統計学的カテゴリーにおいても。あるいは人々みなの考えが流行に向いていたからかもしれない。今も彼らは生き残り、自らの頑固な姿勢を貫き通している―それは主にライヴ・パフォーマンスの領域においてだ。レコード制作(スタジオ録音)というのは厄介な仕事であるが、デッドはたしかにその領域においては勇気を欠いていた。彼らのサード・アルバム、Aoxomoxoaはバンドの最も冒険的なスタジオ・ワークのうちの1枚だ。

Aoxomoxoa(タイトルはカヴァーを手がけていた素晴らしいアーチスト、リック・グリフィンが夢中になっていた回文から引用された)は、1968年秋から1969年春にかけて、8ヶ月以上に渡ってプロデュースされた(訳注:全てバンド自身によるプロデュース)。このアルバムは単に容易に各曲が認識できるという点だけで、音のパノラマだった切れ目のない、壮大な野心あふれる前作Anthem Of The Sunよりも、少しは慣習にのっとったアルバムに感じられるかもしれない。未だに定義づけられていないロック・アルバムとして誤解されている、とは言えないまでもだ。いたずら者のスピリットとアシッド体験は依然ここにも存在している。

実際デッド・ヘッズの少なくない者たちは、1968-1969年をデッドのライヴ・キャリアのうちで実験的頂点だったと考えている。バンド・メンバーたちはより自信をつけていき、彼らは絶えず新しいリズム(猛烈にスウィングする“The Eleven”は、Aoxomoxoaには追加されなかったが、1969年暮れにリリースされたLive/Deadのハイライトとして登場した)、楽器(“St. Stephen”ではバグパイプとストリングスが試されたが破棄された)、そしてレコーディング技術をいじくり回していた。Pacific Recordingでのスタジオ写真は光り輝いていた。そこでバンドがニュー・アルバムに取りかかっていた時、彼らは初の16トラック・マシン、Ampex MM-1000を使っていた。ほどほどの制限があったAnthemを大きく超えて、さらに8トラック増えた新しいマシンを導入したデッドは、すでに録ってあった古いマテリアルを破棄し、改めて取り直す作業に意気揚々と取り組み始めた。のちにガルシアは、16トラックをいっぱいに詰め込めるだけ詰め込んだことを後悔しているが、Aoxomoxoaセッションにもたらされた創造的エネルギーは申し分のないものだった。

あるいはこの時期の最も重要な進化は、バンドが作詞家ロバート・ハンターとコラボレーションを組み、それが初めて開花したことかもしれない。ジェリー・ガルシア、フィル・レッシュと共に働いたハンターは、Aoxomoxoaで8曲を共作した。彼はバンドの全キャリアに渡って、デッドのメインの詩人として存続し、とりわけガルシアとの価値あるパートナーシップを楽しんだ。

アルバムは長年に渡ってグレイトフル・デッドの人気ナンバーとなる曲を数曲生み出したが(“St. Stephen”と“China Cat Sunflower”が含まれている)、ガルシアはこの初期作品については相反する感情を表明している。その理由はプレイするにはあまりに厄介な曲だと考えているからだ。何曲かのAoxomoxoaのナンバーは、ほぼ即座にデッドのレパートリーから消え去っていった。“China Cat”(ジェリーはそう呼んでいた)でさえ、ライヴ・ローテーションの中では最も長くプレイされていたが、“辺境的”な位置にいた。ガルシアはまた、彼が考えるところのアルバムのオリジナル・ヴァージョンのぼんやりとしてゴチャゴチャとしたミックスを好きになれず、1971年にリミックスの作業を指揮した。その結果生まれたのが、よりクリアなサウンドであったが、なにか懐かしく思い出されるような、ちょっとした装飾は剥ぎ取られることになった。“Doin’ That Rag”のしゃれた密集的和声風のエンディングや“What’s Become Of The Baby”でのより印象的で突飛な電子的効果などがある。

しかし依然Aoxomoxoaには多くの趣きが残っている。その楽曲的レンジはすてきに漫画的ムードから(“Dupree’s Diamond Blues”“Cosmic Charlie”)、幻覚作用のあるムード(“What’s Become Of The Baby”)、美しく痛切なムード(“Rosemary”、“Mountain Of The Moon”)までと幅広く、これらの曲はライヴではスタジオに縛られていたデッドを払いのけるようなエネルギーでプレイされている。同時にアルバムが表わしているのは、バンドが最もサイケデリックだった時代の最後の栄誉ある喘ぎであり、ソングライティングの素晴らしさを示す輝かしい前触れであり、やがて訪れる成熟したミュージシャンシップである。

-Gary Lambert


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