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Grateful Dead/Blues For Allah/2006 Grateful Dead Productions & Rhino R2 73354



1974年10月21日の朝早い時間、ある異常なことが起こった。音楽が止まったのだ。グレイトフル・デッドはサンフランシスコのウィンターランドのステージを降り、休止期に入った―公式にツアーから引退した―バンドのメンバーも関係者も誰もそれが永遠のものではないと約束できる者はいなかった。その晩のコンサート・チケットには不吉にも“The Last One”とスタンプが押されていた。

出発はおごそかに、しかし断固として行なわれた。それはウィンターランドの5日公演5日目の壮大な3セット・ショーの最後にやって来た。全ての模様は子孫と未来のリリースのために撮影され、録音された。祝意を表するため、そして最後の時間を押し戻すために、デッドはめったにしない2度目のアンコールのためにステージに戻ってきた。粋なWake Of The Floodのキラー・ナンバー、“Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo”はLive/Deadの最後尾からの伝統的な子守歌“And We Bid You Goodnight”の星の滝の中へ溶け込んでいった。これをもって会場の照明が灯った―はかない望みは消えた。ギターとドラムスは静まり返っていた。マジシャン、トリップスター、ピエロたちは家路に着いた。

しかしデッドは立ち去ったきりではなかった。5ヵ月後の1975年3月25日、デッドはサンフランシスコのKezarスタジアムのステージに戻ってきた。市のパブリック・スクールの財政難を救うためのオールスターSNACKチャリティー・ショーの一員として、ボブ・ディラン、ニール・ヤングと共に出演した。デッドはその年さらに3回のギグを行なうことになり、1976年6月に再び本気でツアーに乗り出した。これまで飛行機に乗り、ツアーバスに乗った全経過時間は1年7ヶ月にも及んだ。

しかしデッドにとって、これは実際永遠に続いていくものだった。それはまた必要なことであった。彼らは1966年の秋以来、何度も無料コンサートを行ない、自分たちの夕食のためにプレイしてきた。1973年3月、彼らは創立メンバーのソウル・マン、ロン‘ピッグペン’マッカナンを失った。彼は長期間のアルコールと放浪生活で破滅してしまった。74年にデッドはドラマーのミッキー・ハートを欠いて以来、3年目の年に入った。彼は1969年と70年にデッドのマネージャーを務めていた父親レニーが、バンドの資金を横領し逮捕されたために1971年にバンドを抜けていた。

デッドは自身の独立レーベル、グレイトフル・デッドとラウンド・レコーズの設立、そして巨大で理論的に非現実的な最先端技術のPA(ウィンターランドのショーのあと永久に断念された)による狂気じみたウォール・オブ・サウンドの赤字で、自分たち自身の巨額の金が激減しようとおかまいなしだった。デッドはまた音楽的にも消耗していた―3〜4時間にも及ぶショーでへとへとに疲れ切っていた。メンバーはソロ・アルバムの活動で分裂し、ジェリー・ガルシアは率直な不満を公然と表していた。“今の僕にとって最も価値あることは・・・” 彼は74年9月のデッドの短期間ヨーロッパ・ツアーで、英国のメロディ・メーカーに語っている。“バーでプレイすることだ。グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアとしてではなく。” ‘The Last One’の2日後、彼はバーで歌うことを選んだ―バークレイ、キーストーンでのもう一つのバンド、Legion Of Maryだ。

デッドの復活に向けてはいくつかの兆しがあった。“The Last One”のショーの時、ミッキー・ハートが驚いたことに2番目のセットでドラマーとして姿を現し、ショーの最後までプレイしたのである。デッドのsayonara(別れ)の日は彼のファミリーへの復帰となったのだ。3番目のセットをかなり進行し、“Eyes Of The World”から“Stella Blue”へとテンポを落とす中バンドはツイン・ギターで、ある複雑なリフを奏で、それは最後に“Slipknot!”のイントロへとつながっていった。それはデッド完全復活となったアルバム、Blues For Allahの中枢となるインストゥルメンタル部分であった。

グレイトフル・デッドの8枚目のスタジオ・アルバムは冒険的な作品となった。それはたとえグループがそのレコーディング・キャリアにおいて、様々な常軌を逸したアルバムを作り続けてきた中にあってもだ(例えば、玉虫色に変化する1968年のライヴ-スタジオ盤、Anthem Of The Sun、謎めいた魅力のある1969年のAoxomoxoaだ)。“僕らはスタジオに戻ったんだ”―ギタリストのボブ・ウィアーのホーム・スタジオであるミルヴァレーとエーシズである―“一体どうなるかも分からなかったし、マテリアルも用意してなかったよ。” ガルシアはのちに語っている。彼は1991年にブレア・ジャクソンのインタビューでさらに詳しく述べている。“僕らは基本的なルールのようなものを作った・・・毎日そこでみんなが集まって作ったものをレコードにしようってね。何も持ち込まずにね(訳注:マリファナのこと?)。曲を進化させるために全てのアイデアをバンドに反映させようとした。” ジャムを続ける中で何か思いつくアイデアを生かすことだった。ガルシアは続ける。“僕らはこう言うんだ。‘よし、じゃあそのアイデアをキープしておこう。あとで何か出来るかもしれないから。’ってね。”

空白のスケッチへ自由に描くアプローチは、デッドが毎晩ステージで信条とし、本能のおもむくまま行なっていたことの単なる実践だった―“Dark Star”あるいは“Playing In The Band”の広大な解釈の中で、“スペース”の無重力状態に置かれる―それを今度は期限を決めずに表情をコントロールしていく。その結果、Anthem Of The Sunが技術的明確さで示した豊富な逸脱性と、American Beautyの豊かな演奏と緻密なヴォーカル・ハーモニーによる簡潔さ両方が解き放たれることになった。3つのパートからなる切迫感漂う歯切れのいい“Help On The Way”はスリリングで効果的なミックスがなされ、“Slipknot!”の中に混ざり合っていき、素晴らしく疾走する“Franklin’s Tower”へと流れ込み、あたかもメドレーであるかのように1つとなっている。キース・ガチョウのピアノ・プレイに見られる生来のジャジーな優雅さは、デッドのカントリー・ブルースな色調の中へと入り込み、穏やかなレゲエ“Crazy Fingers”とアシッド風味あふれるコンパクトな“Milkin’ The Turkey”、複雑で猛烈なインストゥルメンタル、“King Solomon’s Marbles”のセカンド・パートで、明るさとスウィング感を与えている(オリジナルのヴィニール盤Allahでは、レーベルと裏ジャケットに誤ってそれぞれの楽曲が分かれてクレジットされていた)。初めてデッドのアルバムでドナ・ガチョウがヴォーカリストとしてみなと同等にフィーチャーされた。テント小屋ゴスペルのエンジェルである彼女は、デッドの新入り少年聖歌隊による“The Music Never Stopped”で、彼らを押しのけてその才能を発揮する。

デッドはライター、アレンジャー、プロデューサーとして、優れた耳を持つエンジニアのダン・ヒーリィとこの類まれな大胆なレコードで再びコラボレイトした。ベーシストのフィル・レッシュは“Stronger Than Dirt”“King Solomon’s Marbles”の前半で、狂ったようなロッキンな枠組を提供する(サブタイトルは短い見事なガルシアのソロから有名な洗剤のコマーシャルのテーマ音楽につながる後の、短時間の陶酔状態(訳注:もしくは居眠り?)からきている)。ドラマーのビル・クロイツマンはBlues For Allah全11曲中4曲で正確なリズムを刻む。ボブ・ウィアーの“Sage & Spirit”はアコースティック・ギター、ピアノ、そしてフルートがクモの巣状に張りめぐらされているが、これは元々ウォーミングアップ用に生まれたナンバーだった。そのスケールと美しい旋律は、デッドがアラビアのキャラヴァン・ソングとルネサンス宮廷音楽を1970年代のサンフランシスコを経由して優雅に融合させ磨き上げたものだ。(SageとSpiritはツアー・マネージャー、ロック・スカリーの幼い娘たちの名だ。)タイトル組曲―“Blues For Allah”、“Sand Castles & Glass Camels”、、そして“Unusual Occurrences In The Desert”―で、ミッキー・ハートはテープ操作によってガルシアの流れるようなギター・アルペジオとベース、パーカッション、ピアノのフリーフォームなプレイの中にコオロギの鳴き声を挿入した。このレコーディングが完了した後、コオロギたちは解放された―ウィアーの家の外に放された彼らはチーチーと何年も幸せそうな鳴き声を聞かせてくれた。

デッドはライヴで“Blues For Allah”を3度だけプレイした。75年のサンフランシスコ:3月のKezarショーでの研究集会、6月17日のウィンターランドでの慈善コンサート、そして8月13日、グレイト・アメリカン・ミュージック・ホール(コオロギも使用)でのBlues For Allahリリース・コンサートのクライマックスとしてだ。葬送歌のようなメロディと謎めいた壮大な演奏は、間違いなくオーディエンスとのちのアリーナ・スタジアム級のデッドにとっては、あまりに不気味で陰鬱すぎた。しかしながら“Blues For Allah”はデッドのその時の“Dark Star”であり、即興演奏と効果音の魔術的研究であり、実際に1975年に起こったサウジアラビアのファイサル王暗殺にインスパイアされた平和祈願である。“ファイサル王は進歩的で民主的な傾向を持つ支配者(偶然にもグレイトフル・デッドのファン)”であったと作詞家ロバート・ハンターの詩集Box Of Rainに指摘されていた。

アルバムの他の曲とほとんど同じく、“Blues For Allah”の神の意志と人間の破壊主義的誤解に対するハンターの詞は、曲と同時進行によって書かれたものだった。“作詞家としてはいい方法とはいえなかった。” 彼はブレア・ジャクソンに打ち明けている。しかし彼はつけ加える。“いくつかの詞は今でも有効だけどね。‘船は蜃気楼を進み/砂に埋まる’とか。” 10年後の1991年、ハンターはインタビューに答えた。最初の湾岸戦争が起こっていた頃だ―私は自分自身がBlues For Allahを思い出していることに気づいた―とりわけグレイト・アメリカン・ミュージック・ホールでプレイされたライヴ・ヴァージョンだ―そしてすぐに9.11が浮かんできた。それは私にとってその悲劇後に初めて聴くに堪えうるロックンロールであり、闇を払いのける最初の音楽だった―それはデッドが75年に再びツアーの栄光へと戻るためにプレイされた曲だった。ガルシアが“Franklin’s Tower”の中でこう歌うように―“もし君がとまどっているなら/ライヴ・ミュージックを聞くといい”
Blues For Allah:永遠の治療法だ。

-David Fricke


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