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Grateful Dead/Anthem Of The Sun/2003 Warner/Rhino R2 74393



The Grateful Deadは1967年の春から夏にかけて急激な変化を遂げていた。彼らはプレイヤーとして、そのメンバー間の音楽的テレパシーはより強固なものとなり、冒険的なジャム演奏の中に自信を深めていった。彼らのソングライティングは65年と66年の短いポップ・チューン・スタイルから離れていき、より複雑に挑戦的に、そして伝統的なコマーシャル路線から外れていった。彼らのサウンドは、67年の終わりに6人目のメンバー―ドラマーのミッキー・ハート―が加入した時に、エキサイティングな新しい特性を帯びることになった。6人はサンフランシスコ南東の荒廃したPotrero Theatreでリハーサルに明け暮れた―新曲をさらに発展させ、(ロックとしては)普通ではない拍子記号を使った終わりのないジャム・セッションを通して、火を噴く怪物バンドとなっていった。それはあらゆる意味で新しいひとつのバンドであった。

ザ・ビーチ・ボーイズのアルバム、Pet SoundsとSmiley Smile、ザ・ビートルズのRevolverとSgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Bandは、ポップ・レコードが芸術となり得る事を実際に示して見せた。そしてレコーディング・スタジオが無限の可能性を秘めた道具となり得る事もだ。デッドが67年の秋にその成熟しきっていなかったアルバムの仕事に取りかかるために、再びプロデューサーのDave Hassingerと共にロサンゼルスを訪れた時―今回は8トラックだった―彼らは単にグループのライヴ・サウンド(ファースト・アルバムのような)を反映したものより、もっと巧みに作品を創り上げようと決めていた。ああ、しかしこの時点でのデッドの成長ぶり、彼らの野心は、自らのヴィジョンをスタジオで具現化する能力を上回ってしまっていた。その結果、全てオリジナルで固められた初のアルバムは、あっけなくも非生産的なものとなった。Hassingerは、グループが風変わりな新曲として許容できるようなトラックを破棄し、セッションをだらだらと続けている無力さに欲求不満がたまっていった。結局レコーディング場所をニューヨークに移したが、彼はバンドと彼らのマネージャー両方と意見が一致しないことを悟り始めた。ついに彼はプロジェクト全体から身を引き、完成したアルバムの3分の1はデッド自身の手に委ねられることになった―彼らは大いに喜んだのであるが。

より良い判断でなかったことは疑いのないことだが、ワーナー・ブラザーズの重役たちはデッドのアルバムを彼ら自身の手で完成させることを決定した。そしてグループは一般的な慣習にとらわれないようなやり方を考え出した。彼らは67年の秋と68年の冬にツアーでレコーディングした多くのライヴ音源とスタジオ・テイクを結合させ、重ね録りした5曲をアルバム・ヴァージョンとして練り上げていった。“僕らは普通の感覚でレコードを作ってなかったね。”ジェリー・ガルシアは説明する。彼はフィル・レッシュとデッドの新しい音響担当であったダン・ヒーリィと共にアルバムをミックスした。“僕らは音のコラージュを作っていたんだ。僕らはコンセプトさえも一切無関係な、何か全く違うものに挑戦していた。より電子音楽に近いというか、ミュージック・コンクレート(musique concrete:テープに録音した自然音を電子的に操作・変形して編集した音楽)に近いアプローチで、聞いている人は音の断片をつなぎ合わせて、非現実的に描写することができるんだ。”また彼は他のインタビューでこうもいっている。“僕らは幻覚作用を起こすようなミックスをした。”

ガルシア、レッシュ、そしてヒ―リィは実際にコンソールに座り、様々なライヴやスタジオの音源を必要に応じて持ち込んではミックスした。ニューヨークのCenturyスタジオで、彼らの6本の腕がむこうみずにフェーダーを躍らせながらミキシングした断片の元となったひとつ(this one)は、67年11月に行なわれたL.A.のShrine Exposition Centerでのショーで、他(this other one)は3ヵ月後にポートランドのCrystal Ballroomからだ。アルバムのそれぞれのサイドは、重ね録りと断片を結合した一つの連続した流れになっている―マスター・テープの選択と決定がミックス中に行なわれた結果、独特で唯一無二のもとなった。

全く大胆な混成曲だ。それぞれのパーツは不気味に現われたり消えたりあちこちに向かっていき、それはまるでうろ覚えの夢のようだ。不協和音はダイアモンドのようにシャープな透明さへと解け込んでいく。ギターの群れがきらめきながら描いていく―燦爛たる天国とボス(Hieronymus Bosch:1450-1516 オランダの怪奇的・悪魔的幻想画家)の地獄絵を。音楽は不意にスピードアップ、スローダウンする―シナプスの活性化を促すシロップのさじ加減を逸脱しながら。電子音楽的な早業とジョン・ケイジ(米作曲家)のマジック・ブックからの“前もって用意されたピアノ”のミクスチャーは、フィルの旧友Tom Constanten―T.C.―が、その気味の悪いsquonks(アルバム?)の信号音や黙示録的な不協和音の一群を、そのまま“That’s It For The Other One”組曲の終わり部分に開放した。彼は68年の11月にキーボーディストとしてバンドに加わることになる。

“Alligator”のエンディングのジャムで聞かれる部分―グループ初の作詞家ロバート・ハンターとのコラボレーション―は、ドノヴァンの穏やかな“There Is A Mountain”のテーマではないだろうか?そこにはカズーによる威勢のいいコーラスが入っている―過去ジャグ・バンドだった名残だ―そういったヘンテコな嗜好で曲は幕を開ける。“Caution(Do Not Stop On Tracks)”のフィードバックの嵐は実体のない空間へと解け込んでゆく。フィル・レッシュ―以前はBerkeley HighとCollege of San Mateoでトランペッターを務めていた―は、Bob Weir作の全く奇妙な“Born Cross-Eyed”で数秒間のマイルス・デイヴィス風の一撃をかましている。そしてもしかすると最も印象に残るのが、ガルシア作の“Cryptical Envelopment”かもしれない。このゴロゴロと滑走する絶え間ないビートはのちに単に“The Other One”として知られることになる。WeirとドラマーのBill Kreutzmannの驚くべき惑星間のジャミング・スターシップは、グループ(そしてデッド・ヘッズ)を30年以上に渡って100万の銀河へと連れ出してくれた。

全体としてこのディスクは濃密であり、全精神がトリッピーであり、サマー・オブ・ラヴからは何光年も彼方にある。そしてデッドはいつも外観上よりもディープでダークであった。完成したアルバムはそういった様々な音源がごた混ぜになった状態で構成されていたため、セッションにおける完全版のアウトテイクは全く現われてこない―そのほとんどはヴォーカルのオーヴァーダブが被せられていないインストゥルメンタル・バッキング・トラックとして地下貯蔵庫に眠ったままだ。もちろんライヴ・ツアー・テープは(せめて比喩的にいえば)競い合われ、つなぎ合わされ、圧縮されて、このアルバムに音の深遠さと豊穣さを与えている。ここには代わりにボーナス・マテリアルとして、Anthem時代のグレイトフル・デッドが収められた。1968年8月23日、ロサンゼルスのShrine Exposition Centerのライヴから、素晴らしくエレクトリック化された“Alligator”〜“Caution”のメドレーだ。

-Blair Jackson


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