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Grateful Dead/The Grateful Dead/2003 Warner/Rhino R2 74392



“毎日パーティーへ来なよ!”

グレイトフル・デッドのその名を冠したファースト・アルバムのSide One 1曲目、そのレコードの溝から飛び出してくるお誘いの招待だ。もしこれがギター、オルガン、うるさいけれどハッピーなヴォーカルの渦を伴った“The Golden Road(To Unlimited Devotion)”のサウンドなら、それはさぞかしハチャメチャに楽しい旅の行程に思えただろう。アルバムがリリースされた1967年3月までに、デッドは急速に増大しつつあったサンフランシスコのボールルーム・シーン最高の新人バンドとして君臨しつつあった。聴衆を熱狂させていたハイ・エナジーなバンドの名声はすでに十分確立されていた。彼らはフィルモア・オーディトリアムとアヴァロン・ボールルームのレギュラーを務めていたが、まだローカルのハイスクール、大学、兵器倉庫、クラブでファンキーなダンス・ナンバーを繰り広げていた。当時のバンドはみなそうだった―あのジェファソン・エアプレインでさえも―彼らはメジャー・レコード契約を結んだ最初のS.F.(サンフランシスコ)バンドだった―もしくはビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、モビー・グレイプ、カントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュ、あるいは続いて現われ、今では忘れ去られてしまった無数のグループにおいてもだ。

デッドは堂々と何でも取り上げた。レパートリーは新旧のフォークとブルースから、ロックンロールから、クールと思えるものなら何でもOKだった。彼らはアナ―キックなジャグ・バンドから出発し、サウスサイド・シカゴへ行きエレクトリック・バンドのThe Warlocksになった。そして65〜66年の秋と冬に行なわれた伝説のアシッド・テストにおいて、サイケデリックの洗礼を受け、グレイトフル・デッドとなる。その時点で彼らはある意味グッドタイム・バー・バンドであり、少し神秘主義的でカオスを好むDeep UnknownやGreat Holy Goofといった変名を用いながら活動していた―それは刻々と変化していった。710アシュベリー・ストリートにあった彼らの共同体のたまり場は、ハイトのがやがやとした中心部にあった。彼らが1967年1月14日、ゴールデン・ゲイト・パークで勃発したカウンターカルチャー・パーティーでプレイしたバンドの一つだったことは、なんら驚くに当たらない―Human Be-In、それは2万人以上の道楽者たちを魅了し、きっぱりとNew Thing(60s特定の、テンポやメロディに決まりのない即興ジャズ)の到来を告げた。そして人々の特権はカラフルであること!

ビーインの一週間後、デッドはワーナー・ブラザーズ(レーベルのボス、ジョー・サウスはバンドのマネージャーたちと共に旅立つことを断固拒否したにもかかわらず)と契約を交わし、車に全てを積み込み、数人の友人と共にRCAスタジオでファースト・アルバムをレコーディングするためにロサンゼルスに向かってキャラヴァンで旅をした。ガルシアは以前RCAスタジオで働いていた。66年秋のジェファソン・エアプレインのアルバム、Surrealistic Pillowのレコーディングを手伝った時だ。その時に彼はサム・クック、ローリング・ストーンズ(“Satisfaction”と“Paint It, Black”だ!)などのレコード制作で有名になっていたエンジニアのDave Hassingerと知り合いになった。デッドとの仕事でHassingerはプロデューサーの座に昇格し、Dick Bogertがエンジニアを務めた。

彼らはアルバムをちょうど4日間で(ミックス含めて)やっつけてしまった。レコーディングは大部分が4トラックへのライヴ録りで、ヴォーカルを除いて最小限のオーヴァーダブしか行なわれなかった。サンフランシスコのダンス・ホールで大活躍していたグレイトフル・デッドをドキュメントすることを念頭に置き、そこにはデッドがプレイした幅広いマテリアルが反映されている。重量級のジャグ・ダンス、20年代の監獄チューン、“Vila Lee Blues”、これは10分あり、当時は聞いたこともないようなロック・ナンバーだった。“New, New Minglewood”と“Sitting On Top Of The World”は、古いジャグ・バンド・ソングを狂ったようにリアレンジしている。好色の権威ピッグペンが歌う“Good Morning Little School Girl”は40年代のブルースだ。“Cold Rain And Snow”はオールドタイムなフォーク・ナンバー、一方“Beat It On Down The Line”はベイエリアのフォークブルースのイコンであるJesse Fullerのペンによるものだ。心を揺さぶる反核ソング、“Morning Dew”は知られざるカナダのフォーク・シンガー、Bonnie Dobsonによって書かれたナンバーだ。そして2曲のオリジナルがある。“The Golden Road(To Unlimited Devotion)”((Kenneth Patchen(1911-72 米小説家・詩人・画家)の小説のキャラクター、McGannahan Skjellyfettiという偽名でクレジットされている))とジェリー・ガルシアの暗い元祖パンクのような“Cream Puff War”だ(“Sitting On Top Of The World”、“Cream Puff War”、“Morning Dew”、そして“Good Morning Little School Girl”のここでのヴァージョンは、オリジナルのレコードよりも若干長いヴァージョンであり、“School Girl”はほぼ1分間長くなっている)。

バンドはまた他の数曲のナンバーをレコーディングしていた。そのうちの3曲が今回初めて収録された。“Alice D. Millionaire”はOwsley Stanleyについての1966年の新聞のトップ記事から取られたタイトルだ―彼はデッドの友人であり、時には音響効果担当、後援者であり、質の高いLSDを広める役割を担った人物として最もよく知られている(1966年の10月までカリフォルニアではLSDは合法だった)。彼はベイエリアのカウンターカルチャーを通じて、記事では“LSD大富豪”と誤って伝えられていた。その歌がOwsleyについてなら、それは比喩的なレベルにおいてである。それでもなお、その活気あふれるナンバーはまるでブッカーT&The MG’sとヴェンチャーズを混ぜ合わせたかのようなサウンドであり、ピッグペンの素晴らしいヴォーカルが聞ける。ヘンテコなタイトルの“Tastebud”もピッグペンの見事なパフォーマンスが聞けるストレートなブルースだ。ガルシアが歌う“Overseas Stomp(The Lindy)”は、古い20年代のメンフィスのジャグ・バンド・チューンで、60年代初めにジム・クウェスキン&ザ・ジャグ・バンドによって有名になった。

のちにバンドはファースト・アルバムのせわしないリズムについて不満を漏らしている―たしかに数曲は猛烈なスピードを伴っている。しかしそれらの曲にもグループの重要な特徴が見られる。アメリカン・フォーク、ブルース、R&Bを生んだ原始の湿地帯の中にある彼らの深いルーツ、彼らの娯楽と冒険の精神、メンバー間のほとんど神秘的なコミュニケーション、そしてロックンロール・バンドで猛烈にぶっ飛ばす若者たちのスリリングな結束、がむしゃらに楽しむ姿だ。それでもこの幸先のよいデビュー・アルバムは、やがてこれから訪れるものを暗示しているに過ぎなかったのである。

-Blair Jackson


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