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Davey Graham/A Scholar And A Gentleman/2009 Decca Music Group Ltd. 532 263-1



David Michael Gordon Graham
26th November 1940 〜 15th December 2008

ギターの分野における20世紀後半のブリティッシュ・フォーク・リヴァイヴァルは、その多くの部分をデイヴィ・グレアムに負っている。彼の初期のレコーディングで探求された方法論は、大きなインパクトを与え、それは続く世代のミュージシャンたちの作品に今も反映され続けている。彼の探求がなければ、ソーホー派のフォーク・バロック・ギター、ザ・ペンタングル、あるいはフェアポート・コンヴェンションのLiege & Liefさえも想像することは難しい。1960年代初期から半ばの若い無数のギタリストたちにとって、デイヴィ・グレアムは注目すべき発明者としてブリティッシュ・フォーク・ブルース・クラブの異論のないギター・ヒーローだった。何年も先を行っていたその融合スタイルによって、グレアムはアコースティック・シーンを変容させてしまった。そのパフォーマンスはトラディショナルなイディオムとブルース、ジャズ、そしてインドやアラビアの影響さえもブレンドした驚くほど独特なものだった。ペンタングルの創設者ジョン・レンボーンは次のように分析する。

「普通、彼についてよくいわれるのは、スチール弦ギターのフィンガー・スタイルのことなんだけど、僕にとっては彼の全ての音楽に対するアプローチの方が大きいね。彼の境界のないオープンな考え方がフォーク・ムーヴメントの方向性を指し示すのに、すごく有効だったんだ」

いつも自発的な体験を追い求め、気前がよく、偏見を持たないデイヴィ・グレアムは、キャリア・プランなど持っていなかった。有名な話に、彼はかつてシドニー・オペラ・ハウス出演の抜擢を逃したことがあった。その時、彼はインドのゴアにいる姉を訪ねるために飛行機を降りてしまった。時間、行動、金に対していつも並外れて寛大だった―多くの友人たちは、彼が若者と何かを議論し始める時のことを回想する。主にギターと詩についてだった。ギタリストたちは、何かを身につけることを主張していた彼のことを思い出す。ブラーのリード・ギタリスト、グレアム・コクソンは、地元の理髪店でスパニッシュ・ギターの即興レッスンを受けた時のことを回想する。


デイヴィ・グレアムはレスターシア(イングランド中部の州)のヒンクリーで生まれた。彼の父親ヘイミッシュはスカイ島(スコットランド北西ヘブリディーズ諸島の島)出身のゲール語の教師をしていた。一方、彼の母親ウィニフリッドはガイアナ(南米北部の国)出身だった。ロンドンのノティングヒル(ケンジントン・ガーデンズ西北地区:西インド諸島などからの移民の多い住宅地域)で育ったグレアムは、12歳の時に初めてギターをプレイした。16歳になると、彼はロニー・ドネガンのスキッフルのとりこになった―まだ自分のギターを手に入れる前だった。しかし彼はすぐに独自のフィンガー・スタイル・プレイを身につけ、オープン・チューニングを実験し始めた。デイヴィは1958年に学校を去ると、パリ、ギリシア、北アフリカへと旅立った。彼はそれらの国々でストリート・ミュージシャン(busking)をしていた。

ロンドン中心部のクラブに出演した時の初期の彼は、誰に聞いてもスリル満点でひらめきに満ちたものだったらしい。1959年6月、グレアムはケン・ラッセル監督のHound DogとBach Addicts、BBCテレビのモニター・シリーズ(Monitor:英国テレビ初の芸術紹介番組 1958-65)のドキュメンタリー、The Guitar Crazeに出演した。デイヴィは空襲被災地域のがれきに腰かけ、複雑なアレンジでジュリー・ロンドンのヒット、‘Cry Me A River’をプレイした。それを見た英国中の新世代のギタリストたちはびっくり仰天してしまった。

彼はまもなく折衷的な(eclectic:彼は‘exotic’の方を好んでいたが)レパートリーによって波紋を呼び始めた。そこからブリテン諸島のトラディショナル・ミュージック、モダン・ジャズ、ブルース、アラビア音楽、そしてインドのモードがレノン/マッカートニー、バッハ/パーセルと混ざり合うことになった。グレアムは短期間、アレクシス・コーナーのブルース・インコーポレイテッド、ジョン・メイオールのブルースブレイカーズの初期のメンバーとなった。彼はジョセフ・ロージー監督の名画、The Servantに名脇役として出演し、Nick’s Diner(デイヴィが定期的に出ていたアールズ・コートのレストラン)でのいくつかのシーンでギターを弾いた。

文学と音楽に対する驚異的な知識を身につけた完全無欠なグレアムは、いつも小粋だった―仕立てのいい服、ネクタイ、帽子を好むジャズ・ミュージシャン的感性を持っていた。60年代前半のロンドン・シーンで、彼は全く異彩を放っていた。音楽が導くところならどこへでも向かう旅人であったが、それにもかかわらず、レコード発表する機会には事欠かなかった。

グレアムのレコーディング・デビューは、アレクシス・コーナーと分け合ったトピック・レーベルからの7インチEPだった(‘Angi’の初レコーディング含む3/4 AD)。最も有名なグレアムのオリジナル‘Angi’は、プロデューサーのビル・リーダーによってカムデン・タウンの彼の母親のフラットでレコーディングされた。セッションは1962年に始まったが、それはEPがレコード店に並ぶまる1年前のことだった。最近ビル・リーダーは回想している。

「デイヴィ・グレアムは私のところから通りを下ったところに住んでいて、私はアレクシス・コーナーのことを知っていたんだ。‘Angi’を録音すべきだといったのがアレクシスだった。私はそのためにテープ・マシンを調達した。私たちはカムデン・タウンの私の母親のフラットの地下室で、すごく原始的なマイクロフォンを囲んでレコーディングした。‘Angi’は当時とても人気のあったナンバーだった。私は反核運動の映画のサウンドトラックをレコーディングするためにスコットランドへ行った時のことを覚えている。みんなグラスゴーの広場で落ち合うことになっていた。そこはギターをプレイする若者であふれていたね。その辺を歩くと、誰もが‘Angi’を弾いていた。みんなそれぞれが違ったプレイをしていたから、ライヴ・レコーディングするにはもってこいの場所だったね。レコーディングされてリリースされる前に、その曲はすでによく知られていたんだ」

ガールフレンドを失い、ホームシックにかかったグレアムがフランス南部で書いたこのナンバーは、すぐにロンドン中の初心者のギタリストにとって‘課題曲’となった。‘Angi’(時々‘Anji’とつづられる)は、のちにポール・サイモンがSound Of Silenceで、バート・ヤンシュが自身のデビューLPでレコーディングした。

Nick’s Dinerでのレギュラー出演によって、グレアムはヘンリー・ミッチェルとそのビジネス・パートナーでエンターテイナー(そして駆け出しの興行主)だったボブ・モンクハウスの目に留まった。彼らはデモ・レコーディング・セッションのために出資し、思いつくあらゆるレコード会社にそのデモ・テープを送った。彼らの打診によって、パイ・レコーズとの契約が成立し、デイヴィのファースト・フルLP、The Guitar Playerが制作されることになった―パイの廉価レーベル、Golden Guineaでレコーディングされた。ストリートで長い間飽きるほどプレイされてきたレパートリーだったにもかかわらず、The Guitar Playerはその若きギタリストの驚嘆すべき決意の表明となり、多くの若いギタリストたちに重大な影響を与えることになった。

その頃流行していたフォーク・パーティー熱に投資しようと企てたデッカ・レコーズは、ウォリー・ワイトンに指揮監督を任せ、ハムステッドにある自社スタジオで深夜のレコーディング・セッションに臨んだ。そのセッションから生まれたEP、From A London Hootenannyは、グレアムと若き日のマーティン・カーシーのいたThe Thameside Fourのカップリングだったが、グレアムの草分け的アレンジメントが施されたアイリッシュ・トラディショナル・チューン、‘She Moved Through The Fair’を含んでいた。そのレコードでデイヴは北アフリカを旅した時に聞いた曲を表現するために、DADGADギター・チューニングを発明していた。そのチューニングはすぐにフォーク・ギター・プレイに変革をもたらした。ラーガの影響を受けた‘She Moved Through The Fair’は、広大な重要性をもつことになった。それはヤードバーズの‘White Summer’のひな型となり、そのあとにはレッド・ツェッペリンの‘Black Mountain Side’のひな型となった。

1963年はグレアムにとって重要で多産な年となった。シャーリー・アビカーのバッキングを務めた大きなコンサート、多くのレコード・リリース、全国テレビ出演と映画出演は、全てが彼の大きくなる名声を揺るぎないものにした。翌年、彼はデッカからのファースト・アルバムのレコーディングに着手した―真に革新的なアルバム、Folk, Blues & Beyondだ。1965年1月にリリースされたアルバムは、多くの者たちから20世紀における決定的レコードとして、グレアムの最高傑作としてみなされている。ブリテン最高のフォーク・フィドラーであるフェアポート・コンヴェンションのデイヴ・スウォーブリックはこういっている。「デイヴィ・グレアムがやったようなことなんて誰もやってなかったし、やろうとさえ思ってなかったことなんだ」 一方、バート・ヤンシュは次のように断言する。「彼は勇敢で論争好きだったね。決してルールなんて追わなかった。彼は談笑するには難しい男だったけど、ギターの弾き方を分かっていた」

同じ頃にレコーディングされ、ちょうど1ヶ月にリリースされたのが、Folk Roots, New Routesだった。このアルバムは、この国最高のフォーク・シンガーの1人、シャーリー・コリンズとの美しいデュエット集だ。当時のシャーリーの夫、オースティン・ジョン・マーシャルによって計画されたFolk Roots, New Routesは、ジャズとフォークの美しい融合であり、“フォークロックの決定的瞬間であるフェアポート・コンヴェンションのLiege & Lief”の先駆的作品だ。シャーリーのあたたかく純粋な声とデイヴの目もくらむほどのギター・テクニックのコンビネーションは、天空の旋律にふさわしいものだった。すぐにセールスに結びつくような作品ではなかったにしても、そのレコードは音楽界と言論界に大きな影響を及ぼした。残念ながらデュオとしての活動はほんの一握りのコンサートに終わり、2人は別々の道を歩むことになった。デイヴィはエーゲ海諸島の1つであるイビザ島、その後イスタンブールに旅立った。

ロンドンに戻ったグレアムは、プロデューサーのレイ・ホリックス、ベーシストのトニー・リーヴス、そしてパーカッショニストのバリー・モーガンとともに、よりストレートなリズム&ブルース集である1966年のMidnight Manをレコーディングするためにデッカのスタジオに入った。続く4年の間、彼はデッカにさらに3枚のアルバムとプレジデント・レーベルに1枚のアルバムを残した。その後、次第にヘロインに依存するようになり、数年間、ライヴとレコーディングから遠ざかることになった。

1968年にリリースされたLarge As Life & Twice As Naturalは、ロンドン最高のジャズ系ミュージシャンたちと共にレコーディングされた―ダニー・トンプソン(ダブル・ベース)、ジョン・ハイズマン(ドラムス)、ディック・ヘクトールスミス(サキソフォン)、そしてハロルド・マクニア(フルート)だ。このレコードはブルース、トラディショナル・ソング、そして東洋の影響を受けたインストゥルメンタルのとてもパワフルなミックスだ。ジョン・レンボーンはレコーディング・セッションに参加したことを覚えている。

「僕がたまたま北ロンドンのデッカ・スタジオ近くをぶらついていたら、ギター・ケースを揺らしながら歩いてくるデイヴィに出くわしたんだ。何か目的があるように見えた。彼は歩きながらいっしょに来いよっていった。スタジオの中にはエンジニアのガス・ダッジョンとプロデューサーのレイ・ホリックスがいた。アレンジメントはその場で決められたけど、僕にはほとんどよく分からなかったね」 レコード会社はアルバムに大きな期待をかけ、オープニング・トラックだったジョ二・ミッチェルのカヴァー、‘Both Sides Now’をシングルとしてリリースするほどだった。

彼の中で最もまとまりのある1枚、1969年のHatでは、ダニー・トンプソン(ダブル・ベース)とジョン・スプーナー(ドラムス)がバッキングを担当している。あたかもプロデューサーのレイ・ホリックスに当てた手紙のようなデイヴィのスリーヴノーツでは、彼らしく上品な文句でアルバムが紹介されている―「このアルバムの選曲はブルース・ファンとフォーク・ファンだけでなく、モダン・ミュージックに取り組み始めたばかりの新しいタイプの人たちにも楽しんでもらえるように作った」 残念ながら、彼の発明品と名声にふさわしいだけの多くの新しいファンをつかむことはできなかった。ロンドンタイムズの無名の評論家はHatのことをこう評した―「魅力的だが常軌を逸していることは否めない」 2007年のインタビューで、マーティン・カーシーはグレアムの重要性を即座に認め、こう回想した。「彼はいつも誰よりも先に道を切り開いていた。彼は驚くべきイマジネーションを持っていた。それは全て彼が独力で成し遂げたものなんだ」

翌年、グレアムは妻のホリー(旧姓Gwyn)とともに制作した2枚のうちの最初の1枚であるHolly Kaleidoscopeをレコーディングした。トラディショナル・バラッド、華麗な指さばきのインストゥルメンタル、レノン/マッカートニーとポール・サイモンのカヴァーの中に、彼の友人だったダフィー・パワーの陰険ブルース、‘Mary, Open The Door’のカヴァーが入っていた。長年に渡って継続的にリリースしてきた中の最後のレコーディングだったGodington Boundryは1970年の暮れにリリースされ、そこにはグレアムがエレクトリック・ギターに手を伸ばした珍しいトラックがいくつか収録されている。

Davy(彼はのちにDaveyとつづるようになった)Grahamはその後も散発的にレコーディング・スタジオに戻ったが、本人はいくらか不承不承レコーディングに臨んでいたように思われた。不可解で複雑な人物像をもつ彼にとって、音楽のマジックはパフォーマンスの瞬間そのものであり、それはテープ、レコード、あるいはディジタルなフォーマットに保存する必要のないものだった。1996年にデイヴィは旧友のジョン・ピルグリムに語っている。「僕は大衆のためでも自分自身のためでもなく、ギターのためにプレイしているんだ」 ロイ・ハーパーは次のようにいっている。「デイヴィがリーダーだった。彼が第一人者で、そのスタイルの創始者だった」 一方、ラルフ・マクテルはこういう。「僕らギタリスト―バート・ヤンシュ、ジョン・レンボーン、ジミー・ペイジみんながこの素晴らしいミュージシャンの恩恵を受けているね。デイヴィのアイデアは尽きることがなかった。誰も近づくことはできなかったね」

彼の仲間のミュージシャンたちがデイヴィ・グレアムに最上の敬意を表する一方で、商業メディアは全く彼を結論づけることができなかった―彼はパイオニア?アウトサイダー?あるいは単なる厄介者?デイヴィの影響力の大きさを突き止めようとすると、それは分厚い学術書が一冊できてしまうほど気の遠くなるような仕事になってしまうだろう。ジミー・ペイジは彼の門弟だったし、ジミ・ヘンドリクスでさえグレアムのファンだといわれていた。1970年代、デイヴィがロンドンのフォーク・クラブでプレイした時には、オーディエンスの中によくレイ・デイヴィスの姿が目撃されていた。あるいはジョン・ピルグリムがいうとおりなのかもしれない。

「グレアムは自分の思っていることが人と違っていて、それが独特なものであることを分かっていなかった。彼が起こした革命は、テクニック面と同じくらい、概念の面でのそれだった。彼の特異な考え方は、どんな音楽的先入観にも束縛されていなかった」

デイヴィ・グレアムは1960年代のフォーク・シーンに突如現れ、英国で最も影響力あるアコースティック・ギタリストの1人となった。様々なフォーク、ジャズ、そしてブルースからの影響を1つにまとめ上げたデイヴィは、支配的な商業主義的風潮に逆らい、あてもなくぶらぶらと泳いでいった。エキゾチックなテイストを反映したアルバムの数々は高い評価を受けた。そのギターの腕前同様、音楽的無欠さは仲間のミュージシャンたちから崇敬され、彼は“バロック・フォーク”ギター流派の創始者として広く認められている。それは“ワールド・ミュージック”として知られるようになって以来、その革新的な先駆者として認められたインクレディブル・ストリング・バンドと並ぶものだ。

デイヴィ・グレアムは多くの者のインスピレーション源だった。多くの者―それはカムデン・タウンのパブに彼が現れて以降の様々な世代の(そして流派)のブリティッシュ・ギター・ヒーローたちだ―マーティン・カーシー、バート・ヤンシュ、ジョン・レンボーン、ウィズ・ジョーンズ、ダック・ベイカー、レイ・デイヴィスそしてグレアム・コクソン。

カウンター・カルチャーの黒幕マイケル・ホロヴィッツは、デイヴィの多くの同胞たちと同じように、葬儀でスピーチを行なった。彼は30年近く同じカムデン・タウンに住んでいた。彼らはみな感動的にデイヴィの気前の良さを語った―彼らの子供たちのためにデイヴィが旅のお土産をくれたこと、彼らが食事の用意をする間に即興のギター・レッスンをしてくれたり、マンドリンを弾いてくれたりしたこと。

‘Davy’s Train Blues’が消え行くと同時に、パイパーは‘Flowers of The Forest’をプレイした。私たちの多くはもう1人のデイヴィの姿をなつかしく思い出していた―りっぱな教育をうけた育ちのいい男、ひらめきをもったシャイな一匹狼のデイヴィだ。


デヴィッド・サフ、2009年7月



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