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Davy Graham/From Monkhouse To Medway 1963-1973/2010 Hux Records Ltd. HUX 113



「僕はこのLPのあとに、もうこれで終わりにしたいと宣言しようと強く思っている」 1970年3月のメロディ・メーカー紙のカール・ダラスによるインタビューで、デイヴィ・グレアムはいかめしい雰囲気でそういった。デッカ・レコードでの6年間を経て、プレジデント・レーベルでのワンショット契約で制作したアルバム『Godington Boundry』(原文ママ)に先立つ発言だった。「それからうちでゆっくりギターを教えるか、ジャズのバック・バンドに参加しようかと考えている。結局のところ、1人でプレイして歌うってのはひどく疲れることなんだ。ビートルズになるんならOKさ。4人いるから力を合わせることができる。でも僕は1人だし、このまま1人でどれくらい続けられるか自信がないね」

皮肉にも、ビートルズはその翌月に解散することになった。ダラスは読者たちに彼のことを思い出させようとする内容で、その記事を始めていたし、あるいは初めてデイヴィ・グレアムが誰であるかを正確に説明さえしていた。その後40年間という深い付きあいのあった彼のことばでいえば、デイヴィは「全ての世代のギタリストたちをぞくぞくするような革新的領域へと向かわせた、感受性鋭いインストゥルメンタルの天才」だった。

60年代に入ったまさにその時に“Angi”を書き、レコーディングしたデイヴィは、その10年間に全国で爆発したブリティッシュ・フォーク・シーンで名を成したギタリスト及びソングライターたちにとっての基準点を設定し、まだ名のついていない‘フォーク-バロック’のジャンルを定義づけていた。ポール・サイモン、バート・ヤンシュ、アル・スチュワート、ジョン・レンボーン、ロイ・ハーパー、そしてラルフ・マクテルといった者たちは、グレアムが仲間たちに及ぼした影響力を調べた時に出てくる名前のほんの氷山の一角にすぎない。概して彼らはデイヴィより2つか3つ若いだけであったが、彼らはみな、自分たちの革命の親分で父親的存在が誰であるかをはっきりとわかっていた。

デイヴィの王位を狙う者として目されていたバート・ヤンシュとジョン・レンボーンが共有していたノース・ロンドンのフラットで、1965年11月に行なわれたパーティーのことを、ロイ・ハーパーが回想している―「僕は自分のギターをもつことさえしなかった…といえば十分だろう」 「バートは5分後に自分のギター置いて、その5分後にはジョンもそうした。デイヴィは自分の才能を、人々が彼のレコードを買いに出て楽しむような1つのブランドに変えることはしなかったが、当時の彼はただただ驚くべき存在だった。彼は姿を現わして、ラヴェルの“Bolero”を完全にプレイしてしまうんだ。それは(ギターで)プレイするにはかなり奇妙なナンバーなんだが、それぞれの楽器がプレイされていることがわかる―クラリネット、トロンボーン、バスーンなんかのね。それらを全て1本のギターでやってしまうわけ」

1962年にトピック・レーベルから『3 / 4 AD』を、1963年にデッカ・レーベルから『From A London Hootenany』という2枚のEPをリリースしたデイヴィのファーストLPが、1963年にパイ・レーベル傘下の廉価レーベル、ゴールデン・ギニアからリリースされた『The Guitar Player』だった。そのレコードは大部分がラジオ・パーソナリティのボブ・モンクハウスの影響から生じた内容だった―2人ともフランスのジプシー・ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトの大ファンであり、どちらもまだコメディあるいは音楽でもある‘ショービジネス’の統一された業界内で、それぞれの道を歩もうとしていた。この時点でさえ、デイヴィの数歩先を歩いていたモンクハウスはレコード・レーベルに売り込みをかけるために、デイヴィの才能を刻んだオーディション用のアセテート盤に必要なレコーディング費用と制作費を用意した。比較的最近になって、その盤がeBayに出品されるまでは、現存していないと信じられていた。明らかに彼のデビュー・アルバムより以前の1962年か63年に作られたそのアセテート盤からの5曲のスタジオ録音は、今回初めて公式にリリースされることになった。これについてはのちほど詳しく述べる。

手先の器用さはさておき、当時支配的だった‘軽い娯楽’のマーケットに、明らかに狙いを定めたデイヴィのファーストLPに漂う折衷主義とわずかに強制された陽気さは、彼の才能を完全に描写したものではなかった。1965年から70年にかけての‘クラシックな’デイヴィ・グレアムのアルバムとして我々が言及するのは、1965年初頭にリリースされた『Folk Roots, New Routes』(イングランドのトラディショナル・シンガー、シャーリー・コリンズとの共演盤)と『Folk, Blues & Beyond』の二又攻撃に始まり、『Midnight Man』(1966)、『Large As Life And Twice As Natural』(1969)、『Hat』(1969)、『The Holly Kaleidoscope』(1970)、そして同じく奇妙に名づけられた、1970年終わりの『Godington Boundry』までの作品だ。決して典型的な‘スウィンギン・シックスティーズ’的キャラクターではなく、その軍人らしい物腰と短く刈り込んだ髪と落ち着きのある粋な口ひげは、インチキ臭いカフタン(トルコ人・アラブ人などの着る帯のついた長袖の長衣)調ドレスの時代にあって、彼を真の天才的急進主義者に見せていた。デイヴィは様々なスタイルと猛烈に折衷的なアルバムの信じられないほど想像力に富んだ融合によって、その10年間に明かりをともしていた。彼はジャズ、ブルース、ポップ、ゴスペル、フォーク、バロック、インド、そしてアラビア音楽、歌物とインストゥルメンタル、フルバンドとソロの間の融合と変幻を実践していた。一方で、商業的観点、歴史的観点における真のキャリア的成功を獲得することが、彼の居場所となることなく、その仕事は実行された。それは1つの時代の終わりだった。

『Godington Boundry』は彼の中でもっともジャズ寄りで、エレクトリック・ギターをふんだんにフィーチャーしたアルバムになる予定だった。デイヴィは1970年3月のインタビューで、カール・ダラスに自身のジャズへの傾倒を説明しようとした。「みんなフォーク・ソングを歌うことについて話すけど、彼らが新聞を広げて人々が互いにすることに目を通している間、僕はジャズをプレイした方が快適なんじゃないかと思う。奴隷船に乗って、奴隷としてアフリカから海を渡ってきたことがどんなことか想像できないなら、どうやってブルースをプレイすることができる?今でさえ人々はあまりに容易にたくさんの新しい歌を歌っている。僕はビートルズの“When I’m Sixty-Four”を聞いて、スイミング・センターに行って32往復(64 lengths)泳ごうとした。それで僕は64年間生きるってのがどんなことかを知る。本当は僕はもっといいアイデアをひねり出したんだけど」

皮肉なことに、そのキャリアがあとになって何か弱々しい結論として理解されうる1人のアーチストとして、デイヴィは1970年7月のメロディ・メーカー紙のインタビューで称賛された。「デイヴィ・グレアムの最高に熱烈な支持者でなくとも、彼の名がなじみのものであることを主張できるだろう」 カール・ダラスはそう述べた(またしても彼だ)。もちろんこれがその男の偉大さを測るうえでは、的外れな意見であることを説明する前に、彼は切り出しのことばとして使っていた。「本質的には、彼の貢献はその折衷的性質にあった。多様な音楽形態の結合における無限の可能性へと現代のミュージシャンたちの目を見開かせたことだった」

デイヴィ自身はよりポジティヴだったが、それでも内省的で最後よりも型にはまっていた。「成熟は高価な犠牲が払われることによってしか達成できないんだ」 彼は断言した。「若くすばらしい人々は僕の世界には存在しない。僕はセゴビア(アンドレス・セゴビア:スペインのギタリスト・作曲家。1893-1987)のレコードをかけたいね。彼は若者ではないが、完璧にギターをプレイする。もし君が完璧なギタリストを定義づけるなら、それは彼であるべきだし実際そうだろう。個人的にはジュリアン・ブリーム(英ギター・リュート奏者。1933-)の方が好きだが…」

デイヴィはこのインタビューの時点で、2枚のアルバムの制作中であったことが知られていた。1枚は『Holly Kaleidoscope』で、順当にデッカからリリースされた。もう1枚が『Godington Boundry』で、その少しあとにプレジデント・レーベルからリリースされた。そのあと、デイヴィ・グレアムの名と活動は、70年代終わりにアメリカのレーベル、キッキング・ミュールからリリースされた2枚のアルバム―『The Complete Guitarist』『Dance For Two People』によって一時的に一般大衆の目に留まるまで、完全にレーダーから消えた。

1976年の極度に控え目なアルバム・リリース―小さなEronレーベルからの『All That Moody』(現在ローラーコースター・レーベルから入手可能だ)―にもかかわらず、1970〜78年はしばしばデイヴィの‘荒れ地の時代’として考えられているが、これは厳しい精査に必ずしも耐えられるわけではない。

もはやデイヴィは週刊の音楽プレスには登場しなくなっていたが、彼はこの一見、音楽業界から引退していた時期に、1つのかなり目を引くインタビューを行なっている―週刊‘ギター’の1975年7月号の表紙がそのインタビューをフィーチャーしている。また彼はその3ヶ月前に、メロディ・メーカーのカール・ダラスから短いインタビューを受けている。その時までに、人目につかないフォーク・クラブ出演によって再浮上し、ラス・ヘンダーソンのジャズ・バンドへ参加し、日曜のロンドンでのランチタイム・ギグを行なっている。‘ギター’のインタビュアー、ラルフ・デナイアーは、あからさまに、彼はどこへ行っていたのだ?といぶかしがった。

「この3年間、僕は全くギグをやらなかったんだ」 彼は説明した。「僕は楽譜を読む勉強をしていて、それが自負心につながっていた。僕は譜面が読めないことに少し恥ずかしい気持ちをもっていたんだ。(でも今は)僕は熱意でいっぱいの状態だ。中国の星占いによれば、それは‘Year Of The Dragon’(辰年)で僕はドラゴンらしい。中国の星占いは僕の関心事の1つだ。とりわけちょっと深遠なテーマの中ではね」

それでもこれでさえ、神話につけ加えられる1つのものに過ぎなかった。メドウェイのクラブ・オーガナイザー、故ジェフ・ハーデンの録音が証明するように、デイヴィはその期間にたしかに十分なギグを行なっていた。これはその時点でBBCのエンジニアとして働いていたジェフが、デイヴィのライヴを録音した初の音源ではなかった。彼はセント・アンドリュース大学の学生だった1966年にも録音をしていた。デイヴィの全盛期である、その時の信じられないパフォーマンスを録音したジェフのテープは、見たところ当時デイヴィの意向を代弁していた誰かによって、彼がリリースしないようにいわれていた唯一のものだった。しかしありがたいことに、ジェフはその要求を無視し、デイヴィ自身は2001年頃にそれがCD化されたことを聞いて喜んでいた。彼はその時期における、自身のベスト・パフォーマンスであると判断していた。以前ローラーコースター・レコードから出たグレアムのオープンリール録音による至宝で、1967年に録音された『After Hours At Hull University』は、不思議なことにインパクトも評判も獲得することはなかったが、ジェフとデイヴィの承認によって同レーベルから『Live At St Andrews 1966』がCDリリースされた。

私の知るかぎり、ジェフが良くも悪くもない一夜として回想するレコードとしてみなすメドウェイ録音を、デイヴィは聴いてはいない。しかし冷静にそれを聴いてみると、私の耳には多くのすばらしい瞬間が感じられるように思われる。そこには彼がすでにレコーディングしていたレパートリーに混じって、他の未レコーディングだったタイトルが入っているという点で重要性が加わっているし、そのほとんどはわずかではあるが、デイヴィ・グレアムの60年代と70年代の‘公式ブートレグ’として欠くことのできない正典の地位を有している。ひょっとするとジェフはデイヴィのプレイ自体よりも、その晩の彼の雰囲気をもっと思い出していたのかもしれない―それはデイヴィのぶっきらぼうな紹介のトーンと内容から想像できるし、デイヴィは熱意に欠けているように思えるからだ。あるいは彼はその晩のクラブ・メンバーたちによそよそしい態度をとっていたのかもしれない。ひょっとしたらだ。しかしもう一度いうが、我々はジェフのオープンリール・レコーダーが回っていたことに、大いに感謝しなければならない。

その晩のデイヴィのセットについてのジェフの紹介文(このリリースからはエディットされた)は、さらなる情報を与えてくれる。2年かそこらの間、ライヴ・ミュージック・シーンからたしかに消えたあと、その案内人は、メドウェイでの出演契約よりも3ヶ月前に、ロチェスターのクラブに再び突然現われ、その巨匠がライヴを行なったと述べている。また彼は、デイヴィと彼の妻であり運転手でありシンギング・パートナーであるホリー―その時までにケント州に住んでいた―が以来、その地域で自分たちのフォーク・クラブをオープンさせ、翌週にはサンドウィッチで2軒目をオープンさせる準備をしていることに言及した。自身のウェブ・サイト、 www.hollygwinngraham.com で、デイヴィと過ごした期間(1969-73)の思い出を語るホリーは、1970年のアルバムののち、2人がしばらくの間、ロンドンからサフォークに引っ越したことを認めている。

「ヨクスフォード近くで結婚したあと、しばらくヤング・トラディションのロイストン・ウッドといっしょだったわ」 彼女は思い出す。「私はデイヴィをアメリカに連れていこうとしたんだけど、出入国管理当局から断られたの。それで私はイングランドに戻って、ケント州のサンドウィッチっていうきれいな町で1年間、私たちは幸せな日々を過ごした。そこで私たちは馬小屋を改造した‘Wee Cottage’に住みながら、古い教会でフォーク・クラブを経営した。その地域のすばらしい共同体を楽しんだわ」

73年半ばのフォーク・クラブ・ギグの活況は別として、彼らはその夏にフランスを旅して回った。そしてホリーの記憶によれば、『All That Moody』のレコーディングはその年に始まった(他のソースでは1972年とされるが、いずれにしても1976年までリリースされなかった)。デイヴィは9回目のケンブリッジ・フォーク・フェスティヴァルに出演した―決して隠遁者へなろうとしたふるまいではない。しかしながら、ホリーとデイヴィは1973年の終わりに別れ、もしかするとそれはその年に復活した精力的な活動のあとの話なのかもしれない。彼は再びレーダー上に現われていた。少なくともデイヴィは列車に乗り遅れたり、ギグがあることを完全に忘れていたりで、いつも悪評が立っていたが、それでもホリーがいる間はこの特殊な自由人はうまく対処されていた。

1975年の‘ギター’誌のインタビューで、ラルフ・デナイアーはアメリカで運を試すためにデイヴィが以前宣伝した意志はどうなったのか知りたがった。「ホリーと結婚したあと、僕はヴィザの問題をかかえてしまった」 彼は説明した。「あと、その問題が片付いた時までに、僕はチーフタンズを聞いていた。すばらしい(アイリッシュ)パイプ・バンドだ。それで僕は行きたくなくなった… 僕を魅了する(パイプ・ミュージックの)メロディックなアプローチだ。コード進行による策略とは正反対の催眠性のあるムードの組み立て方なんだ。それは音楽へのアプローチを一新するものとして僕に突き刺さってきた… 活気とユーモアを伴ってね」

アイリッシュ・パイプ・ミュージックのギター・アレンジメントはたしかに70年代後半のデイヴィのアルバムにおける主要な焦点となったが、いつものように、巨匠はジャズ・ギターへの傾倒を続けていったように、自分の耳を制限することはなかった。「僕はそのアプローチの柔軟性と繊細さが好きだね」 彼はいった。「僕は古典的な循環と柔軟性が好きだ―ジム・ホールのアルバム『Travelling Light』のような。チャーリー・バードより彼の方が好みだ。ウェス・モンゴメリーはちょっとだけ聴いた。彼は何よりもテクニックへの興味を刺激してくれた―あのオクターブ奏法は全くもって効果的だし、僕が思うに、彼はジャンゴ(・ラインハルト)がやっていたようなテイストをたくさん使っている。あとよく聴くのが、モダン・ジャズ・カルテットのジョン・ルイスがやる“Django”だ。もしかすると、あれは彼の中に引き起こされるものと同じくらいのものを他の人々の中に呼び覚ますのかもしれない。それってすばらしいことなんだ。僕はジャンゴが好きだが、全体的にはジャズ・サキソフォンにひかれる―特にテナーだ。特に気に入っているのは、ソニー・ロリンズ、ローランド・カーク、ベン・ウェブスター、もちろんチャーリー・パーカー、それからジョニー・グリフィンだ。ピアノではデューク・エリントンとセロニアス・モンク。モンクに“Trinkle Tinkle”ってやつがあるが、あれを聴くと、暗いダークブルーのスーツを着て、他の惑星にいるような気分になるんだ」

実際、デイヴィは『Godington Boundry』でモンクの不滅の傑作、“Round Midnight”(ブルー・スーツか何か)をレコーディングし、一方でそのアルバムのもう1つのジャズ・チューンで、ピアニストのカール・パーキンス作の“Grooveyard”は、テナー・サキソフォニストのハロルド・ランドのアルバム、『Harold In The Land Of Jazz』がソースになっていた―これもデイヴィのお気に入りの1枚だ。またメドウェイのフォーク・クラブのセット後半に出てくる、『Godington Boundry』収録の“The Preacher”は、“Grooveyard”の時のように、ピアニストでグループ・リーダーのホレス・シルヴァーによって書かれていた。シルヴァーのライヴ・ショーは、デイヴィがロニー・スコットのクラブに出ていた時に彼に感銘を与えていた。

それでも100%のジャズ路線追求は、デイヴィの性格には合わなかった。彼はビートルズに大きな敬意をもち、デッカのアルバムで多数のビートルズ・ナンバーを録音した。そして新旧のフォーク・ソング、讃美歌、東洋音楽への興味をもち続けていた。その結果、私たちが‘荒れ地の時代’における彼のレパートリーからのメドウェイの断片がここで聞けるように、彼のパフォーマンスはジャズのスモール・グループ・ナンバーだけでなく、アイリッシュ・トラディショナル・パイプ・チューン、18世紀のハーピスト、Turlough O’Carolanによるアイリッシュの室内楽、ギリシアの無名のブズーキ・インストゥルメンタル、無伴奏のイングリッシュ・トラディショナル・ソング、‘グレイト・アメリカン・ソングブック’からの数曲、ヒッピー世代のコンテンポラリーなソングライターたちの2つのナンバー(キャロル・キングとスティーヴン・スティルス)、最近のカントリー/ポップのクロスオーヴァー・ヒット(ボビー・ジェントリー)、舞台ミュージカル(屋根の上のバイオリン弾き)、ブラジル音楽(“イパネマの娘”のライターの作品)、ルネサンス音楽の模倣作(オリヴァー・ハント)、そしてオリジナルのルネサンス音楽(Robert De Visee)などがある。そしてもちろん、例によって彼は、最後にホリーのヴォーカルが働きかけているにもかかわらず、自身の‘最大のヒット’である“Angi”をプレイしないことを選んだ。いいかえれば、これはデイヴィ・グレアムを楽しむもう1つの夜だ。

別個に分かれたアイリッシュ・パイプ・チューンを含めて、私が知るかぎり、この21曲入りのメドウェイのセットリストには、3曲のみが以前デイヴィ・グレアムのレコードに収録されていた。そしてさらに7曲だけが、のちのリリースに収められることになった。

これらレパートリーの中で、このセットを独特なものにしているのが、トラディショナル・イングリッシュ・ソングの“The Brisk Young Widow”で、勇敢にも無伴奏で歌われている。彼はラルフ・デナイアーにいっている―「僕の声はだいたい曲をなぞっているだけだ。僕の耳はヴォーカルの能力よりもずっとすぐれている。(でも)あちこちで聞けるひどい歌についてはちっともかまわないんだ。スピリットの問題だ」

60年代の偉大な音楽的革新者および先見者たちの中での、主要人物としてのデイヴィの名声は、おそらく60年代半ば以降の全盛期のどの時期よりも彼の死から1年たった今の方が、音楽に積極的な関心を向ける人々によってよく知られ、評価されているだろう。健康問題と生涯後半における若さというマジックの欠如―彼にとっては70年代中期よりも、80年代と90年代の方がはるかに‘荒れ地の時代’だった―につきまとわれたデイヴィ・グレアムは、2000年代に復活をかけたあらゆる努力をした時、自分の高くそびえ立つ名声の一里塚と格闘していた。1975年に戻ると、ラルフ・デナイアーのデイヴィへの先見性ある最後の質問―その時でさえ、‘伝説のデイヴィ・グレアム’として宣伝されていたことに、彼がどう反応したかについて―は、その男の無欠さと決意について多くを語る反応を引き出したものだ。

「うまくプレイし、めったにプレイしなくていいだけなら」 彼はいった。「僕はいつでも伝説になるだろう。それは僕にとっては単なる形容詞だし笑わせてくれるが、僕は特にお払い箱になるわけじゃない。僕の関心は厳密にいえば、プレイすることと聴くことから来ている。僕はカテゴライズされることを故意に避けてきた。定義は制限だ。人々が僕のすることを定義づけると、彼らは僕を限定してしまう… 僕はそれをうまくやった単なる1人のストリート・シンガーなのかもしれない」

The Monkhouse Session

インストゥルメンタル・アプローチ、レパートリーにもかかわらず、ビートルズ以前の英国のモノクロームな世界の中で、独特で奇想天外なオリジナリティにあふれていた。デイヴィ・グレアムは最初に、1959年に放映されたBBCテレビの主流番組を通じて、全国の若者たちの目にとまっていた。Hound Dog And Bach Addicts : The Guitar Crazeと名づけられた‘モニター’(英国テレビ初の芸術紹介番組)シリーズの中で、異端者であり一匹狼の英映画監督ケン・ラッセルによって指揮されたが、あたかもまさにそのタイトルが容易ならざるもののようだった。ロンドンのどこかの空襲被災地区にあるガレキの山のてっぺんに座った、ケルティック・スタイルのアフロヘアに先が上を向いた襟のデイヴィは、ジュリー・ロンドンの“Cry Me A River”をフィンガースタイルのアレンジメントでプレイした。マーチン・カーシーによれば―彼の記憶力はずば抜けていて、いつも正確だ―、彼はまた常軌を逸した対位法的なブルースをプレイしたようだ。現存するフィルムは前者のみが残っているだけであるが。

1963年11月―さらにいくつかのテレビ番組で、ソロまたはバッキング・ヴォーカルにロング・ジョン・ボルドリーやシャーリー・アビカーなどを従え、フォーク、ブルース、そしてキャバレー・マテリアルをプレイし、ちょっとした出演を果たしたのち、デイヴィは主流番組のスクリーンへ、ボヘミアン的なクールな出で立ちで注目すべき出演を果たした。多数の受賞をしたジョセフ・ロージーの映画『召使』の中で、今回はソーホーのコーヒー・バーで端役として“Rock Me Baby”をプレイした。

その出演がエンターテイナーのボブ・モンクハウスと彼のビジネス上の仲間であるヘンリー・ミッチェルとの、デイヴィの短期間の関係を通じて実現していた可能性は大いにありうる。たしかなのは、この接触がその2人の出資による、今まで紛失していたオーディション・アセテート盤を経由して、1963年中にリリースされた彼のファースト・アルバム『The Guitar Player』の制作レーベルである、パイ傘下のゴールデン・ギニアとの契約に至ったことだ。のちのインタビューで、デイヴィは時折この結びつきに関するおぼろげな記憶を述べている。「彼らはヒルトン・ホテルの真裏にエージェンシーをかまえていた」 彼は90年代に1人のインタビュアーに語った。「それでヘンリーがこういった―‘君にボブ・モンクハウスとのインタビューをしてもらおうと思う’ってね。そう、みんながボブ・モンクハウスを聞いていた。僕は跳びはねて喜んだ!そして僕はボブとのインタビュー(ラジオ・ルクセンブルクと思われる)をやって、ヘンリー・ミッチェルは僕にパイ・レコードとの契約をとりつけたんだ…」

実際には、本当に起こった一連の出来事はさらに驚くべきものだ。「ソーホーのジャズ・クラブに通っていた時…」 彼は説明する。「私はデイヴィ・グレアムのすばらしい音楽を聞いた。私が今まで出会ったどんなテクニックにも全く似ていなかった。すごく自発的で自由なんだが、目的と方向性を失うことはないんだ。私たちは何杯か飲みながら話をして、自分たちが同じような強い関心事をもっていることを知った。私たちはもちろんジャンゴ・ラインハルトを崇拝していたが、デイヴィがレス・ポールについて疑念をもっていたことを覚えている。彼はレス・ポールはギター・テクニックの巨匠と考えていたが、構造化され過ぎていると感じていた。デイヴィはその時、ロンドンのジャズ界では一流のミュージシャンだったスパイク・ヒューズによる2, 3のレコーディング・セッションを経験して、少し落胆していた」

「当時の私は若くて売り出し中のパーソナリティで、ショー・ビジネス界の古い人たちは、私は自分が何をいっているのか知るべきだと考えていた。もちろん彼らは間違っていたが、私の意見は全く真剣だった。私は英国空軍の古い親友でジャズ・ピアニストのスタン・トレイシーと、ラジオ・プロデューサーのパット・ニクソンに助言を求めた。当時の音楽シーンに対する彼らの知識はかなりのものだった。彼らはGuy De Beereという会社のボンド・ストリートのプライヴェイト・スタジオで、デイヴィのデモ・レコーディングをやれば?と提案した。デイヴィは資金不足で私は金回りがよかったから、私がレコーディング・セッションの費用を出したんだ」

「ディスクは蝋でコーティングされたアルミニウムで75rpmだったし(ディスクは当時、標準回転数がなく、様々な回転数でカッティングされていた)、とがった針でプレイされなければならなかった。その時、私はコピー盤を有名なA&Rマン、バンドリーダー、それから信条をもったメジャーなレーベルの雇主たちに送った―ノリー・パラムーア、フィル・グリーン、トニー・オズボーン、シド・フィリップス、ジョー・ダニエルズ、ケン・カーペンター、シド・ディーン、ジョー・ロス、ジョージ・マーチン、ロニー・スコット、ジョン・ダンクワース、テッド・ヒース、ジェラルドとハリー・パリーなどだ。それにそれまでのデイヴィのキャリアの詳細を書いて、かなり冴えない写真を同封したんだ」

「私たちの驚いたことに、デイヴィはすぐにいくつかのオーディションに呼ばれた―2, 3のラジオ出演だ(うち1つがスパイク・ヒューズだ!)。そしてのちに大きな配給会社(メジャー・レーベル)の配給を受けることになるマイナー・レーベルからレコード契約をオファーされた。まれな場合はあるとして、その時のショー・ビジネスの常でデイヴィと私の道は分かれてしまって、私たちはめったに会うことはなくなってしまった。でも彼のプレイを聞くたびに、私は誇らしい気持ちがわき上がるんだ―私が最初に彼を聞いたんだ!ってね」

比較的最近になって、見たところモンクハウスによるアセテート盤の独自の現存コピーがeBayに出品された。売り手はクリス・ファウラーのリクエストに応じ、とても親切にそれをCDRに落とした。学生時代にデイヴィの熱狂的ファンだったファウラーは、その文明の産物を購入する余裕はなかった。しかし同じように気前よく、クリスはデイヴィのファンたちがレアな彼のキャリア初期の巨匠ぶりを垣間見ることを楽しむことができるべきだとう信念に基づいて、ここに使用されたトラックの数々を提供してくれた。それら5曲のうちの3曲―“Hallelujah, I Love Her So”、“Sunset Eyes”、“Take Five”―は、デイヴィのデビューLP『The Guitar Player』で再録されることになった。そのLPのプロデューサーだったレイ・ホリックスのアドヴァイスにより、彼はセッション・ドラマーのボビー・グレアム(血縁関係なし)によるバッキングを受けた。ボビーが彼と同名の人物の音楽バーに、その‘ノヴェルティ・ミュージック’的側面を増大させるような雰囲気を何かつけ加えたかどうかについては議論の余地があるが、我々は、デイヴィがこの時点でしていたことはかなり常軌を逸していて、今よりもずっと保守的な時代になんとか売ろうと努力していた商品について、今日の価値観と判断を押しつけるのは間違っているということを覚えておかなければならない。それでもなお、今我々の手元にはファースト・アルバム・トラックのうち3曲がオリジナル・ソロ・フォームで聞くことができ、それらに加えてデイヴィのジャズ、ブルース、ラテン・アメリカン、キャバレー、その他何でもありのユニークな無名ワールドから2曲が聞ける機会が残されている。私たちはデイヴィ・グレアムに最後のことばを残そう:「ヘンリー・ミッチェルはこういった―‘デイヴィ、ギターに磨きをかけるんだ。契約がほしければ’ってね。それで僕は常にギターに磨きをかけたんだ」 そのとおり、それはうまくいったのだ。

コリン・ハーパー 2010年1月



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