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Davy Graham/The Guitar Player/2003 Sanctuary Records Group Ltd. CMRCD 622



かつて音楽史においては、一見単なる注釈付のいちアーチストであったデイヴィ・グレアムは、近年になっていくらか遅きに失した認知をされるようになった。これは大部分は様々な研究者たちとファンたちの固い結びつきが実を結んだ結果といえるだろう。彼を崇拝する書物や雑誌のライターたちは、私も含めて世界中の誰もがデイヴィ・グレアムを聴いたことがないという論点から書き始める。もちろんライターたちは皆デイヴィ・グレアムはもっと聴かれるべきだと思っているのだが・・・

知識を身につけたことで我々はブルースとラーガが染み込んだFolk, Blues & Beyondや、イングランドのフォーク・ソングと遭遇したギターの巨匠の先駆的な融合が見られるFolk Roots, New Routes(シャーリー・コリンズとのレコーディング)を重要視することとなった。この2枚はグレアムが永遠の名声を獲得することになった第一歩の作品だ。両LPはそれぞれ1965年の1月と2月にデッカ・レコードからリリースされた。これによってデイヴィは当時旋風の吹き荒れたブリティッシュ・フォーク・シーンにおいてギター・ヒーローとしての地位を不動のものにした。そしてさらに63年6月まで遡ってみると、我々はデイヴィの草分け的なアイリッシュ・フォークのアレンジである‘She Moved Thru’ The Fair’でDADGADチューニングの発明を垣間見ることができる。今ではケルティック・ミュージックに特有のギター・チューニングであるが、これはデイヴィがモロッコとチュニジアに定期的に訪れ聴いていた音楽をギターに応用し、作り上げたものだ。63年9月、この驚異的な影響力を持つ曲はデッカのEP、From A London Hootenannyに収録され、デイヴィはソロとして、マーティン・カーシーはより伝統的なサウンドのフォーク・グループ、ザ・テムズサイダー・フォーとしてその二つのカップリングで日の目を見た。

さらに62年3月頃までに遡ると、もう一枚のEPに出くわすことになる。これは全てインストゥルメンタル作品で、デイヴィとブリティッシュ・ブルースの父、アレクシス・コーナーとのコラボレーションだ。この3/4ADと名付けられたEPはトピック・レーベルからリリースされ、ここでのキーとなる曲が‘Angi’(元‘Anji’)―グレアムのオリジナルでギター一本、ヴォーカルなしで人々を感動させることのできるナンバーだ。ややバロック音楽の流れを汲む、フォーク・ミュージックの新しいテーマとしてまさに一級品である。この曲は当時のムーヴメントを刺激し、60年代後半のブームで数々のギタリストが彼を目指し現れることとなった。国中あちこちに何百というフォーク・クラブができ、彼のプレイが知られることとなった。はからずもデイヴィ・グレアムの影響はジャンルをまたがり、ブリティッシュ・フォーク・ギタリストとしての地位を広く認めさせることに成功した。

しかしながら、ことによると基準点となった‘Anji’が世に出た頃の世代にはほとんど知られていないのかもしれない―今日こういった事に関して執筆する者の中には適当に言い繕う人たちもいる―その頃はデイヴィが形としては彼の大きな変身の時期に、アレクシスとコラボレーションを組んだ半年間に当たり(正確な日付はわからないが)、彼は同時に注目すべきアルバムをレコーディングしていたことになる。そのアルバム、パイ・レコードの出資した出版社、ゴールデン・ギニーからリリースされたThe Guitar Playerがこれである。このアルバムがいかにして生れたかが私たちが取り組む問題だ。さてその作品はどこからやって来たのか―もっとポイントを絞ると、いかにして彼はこの国で最も無ニな存在となり得たのか?

デイヴィ・グレアム―その綴りはレコードがリリースされる度にDavyだったりDaveyだったりするが―彼は1940年11月22日レスター(イングランド中部の市)に生れた。父ヘイミッシュはスカイ島(スコットランド北西)出身、母ウィンフレッドはガイアナ(南米北部の国)出身であった。デイヴィはロンドンのノティングヒル地区で育てられた。彼が10歳と12歳の頃何度かギターへの挑戦の出発点があったが、どちらにせよ彼がギターを手に入れたのは16歳になってからだった。自我の覚醒とギターへの関心が同時にやって来たところがポイントだ。“僕は宿題じゃなくてギターの練習を始めた。‘My Baby Left Me’、‘Mystery Train’、そしてロニー・ドネガンのヒット曲なんかのね。”彼はかつてそう回想している。“僕はロニー・ドネガンのことばかり考えて授業には集中できなかったよ。”

1956年1月の英国のスキッフル・ブームで、ドネガンによるレッドベリーの‘Rock Island Line’の陽気なカヴァーはミリオン・セラーの大ヒットとなり、何千という英国の少年たちをギターに向かわせることになった。一般的には爆発の発端はバンド・リーダーのクリス・バーバーとブームになっていたトラッド・ジャズ・シーンによるものだったと考えられている。そしてそれがブリティッシュ・ロックンロール、ブリティッシュ・ブルース、マージービート旋風、そしてブリティッシュ・フォーク・リヴァイヴァルへとつながっていった。ロンドンだけは50年代末のスキッフルからフォーク/ブルースへの変容が、その後10年とそれ以上に渡って出揃うことになる多くの才能を育むことになった。マーティン・カーシー、ウィズ・ジョーンズ、アレクシス・コーナー、ロング・ジョン・ボルドリー、スティーヴ・ベンボウなどだ。

グレアムはその最初の3人に入り、1958年に学校を出るとアレックス・キャンベルの志を継ぐ一人となった―キャンベル―物思いに沈んだスコットランド人、当時としては英国において初の真の吟遊詩人―彼はパリの街頭でバスキング(大道芸、ストリート・ミュージシャン)を行っていた。戦後間もない頃の単調な生活の中でギターを弾いたり、旅行をしたりするというデイヴィと同様の野望を持ったクロイドン出身の若者、ウィズ・ジョーンズは当時のデイヴィについて忘れられない思い出を持っている。“50年代、学校で彼のことを知る者が何人かいたんだ・・・”ウィズはいう。“・・・彼らがいうにはデイヴィはギターを練習していて、必ず学校にギターを持ってきてたそうだよ。当時の状況を思えばかなりの変わり者だった。スキッフルさえまだ上陸してなかったからね・・・”

“宿題はいつも音楽の前に屈してたな。僕は天才なんかじゃなかったね!”The Guitar Playerのオリジナル・ライナーノーツでは軽い口調でデイヴィはそういっている。“学校から帰るとすぐにブルースのレコードをかけていた―ビッグ・ビル・ブルーンジー、ブラインド・レモン・ジェファーソン、チャンピオン・ジャック・デュプリー、そしてマディ・ウォーターズなんかだ。他にも多くのモダン・ジャズの巨匠たち―チャーリー・パーカー、チャーリー・ミンガス、そしてセロニアス・モンクとか。(後になって)僕は町にうんざりして会社の仕事にも息が詰まるようになってきた。でパリに行って映画館の行列の前や地中海沿岸地方のあちこちに行って歌ったりギターを弾いたりしたよ。ナイト・クラブでプレイできた時はうれしかったね。そこで自分なりの演奏やフィンガー・スタイルを磨くことができた。今もそうだけどね。3年間、夏の間にいろんな仕事をしたよ(図書館員から荷物運びまでね)。それから大陸に渡ってパリまで5ポンドで行って自由を満喫したり、コート・ダジュール(仏南東部地中海沿岸地帯)で日光浴なんかしたな。”

1959年夏、ウィズ・ジョーンズもそこにいた。“僕はロンドンのデイヴィを知っていたよ。時々彼と一緒に過ごしたこともあった。でもしばらく彼を見かけなくなったんだ。夜遅くにパリにいた時、突然彼がやって来たんだ。僕の方へ向かって歩いてくる時の彼について覚えていることは、背が高くてブロンドヘアで堂々としていて日に焼けていて、神がかった人物だってことだ。僕は思ったよ。‘こういう奴になりたい!’ってね。‘やあ、今ギリシャから来たんだ。’って彼はいったよ。とてもクールだった。”

60年代のこの頃には彼はすでにレコードを出していた。デイヴィ・グレアムはギタリストとして優れた才能と異国趣味に加えて完璧にムーディなイメージが滲み出ていた。しかし少なくともこういった雰囲気は故意のクールさであり、彼の持っていた気取りはおそらくどんどんと発展していったものだろう。推測になるかもしれないが、彼の独特な生い立ちがこのような厳格なライフスタイルを必然的に選んだのかもしれない。英国初期の偉大なロック・アーチストであり、ブルース、ジャズ・シンガーとして過小評価されているダフィー・パワーは、デイヴィと同じ地区に住んでいた。“僕は銅や宝石なんかの職人のいい家系で育ったんだ。”ダフィーはいう。“彼はウェアウトボーン・グローヴ(ロンドン西部にある通り;東洋的雰囲気の強い商店街)に住んでいたが、そこから数マイルのところにある川の南側の学校に行くことになったんだ。思うにその雰囲気は彼の個人的なバックグラウンドとして人種的融合につながったのかもしれないね。当時ノッティンヒル周辺では人種暴動が多発していた。彼は子供の時、鉛筆で方目を傷つけられてしばらくうちに引きこもっていたんだ。だから50年代彼にはどんな苦難があったか知れないよね。”

この頃のデイヴィと出会ったもう一人の若き才能がアンディ・アーヴァインだった。後にアイリッシュ・トラディショナル・ミュージックの伝説となる人物だ。ロンドンで生まれ育ち、50年代末までにアーヴァインはウディ・ガスリーと彼の一派のアメリカン・フォークに魅了されていた。実際当時ランブリン・ジャック・エリオットはロンドンに住んでいた。“1959年、60年に僕はジャックと彼の奥さん、ジューンと親しくしていたよ。”アンディはいう。“僕がジャックのワン・ルームのアパートに着くと彼らが起きるまでベッドの端っこに座るんだ。でもデイヴィが午前中11時か12時に来ると、ジャック、ジューン、そして僕はデイヴィがジャックのギターを弾いている間は外に出るんだ。で僕らが戻るとデイヴィがすぐに出て行くってわけ。彼が僕らと一緒にいるスペースなんて存在しなかったような感じだった。ギターの弦はボロボロになっててジャックはよく言ってたよ。‘ああ、なぜ僕は彼にギターを貸しちゃうんだろう?’ってね。でもデイヴィがいるとジャックあるいはジューンは、‘デイヴィこっちきなよ。軽く食事か酒でも飲もう’って誘ってしまうんだ。すると彼は母親のところに帰ってしまう。当時彼は母親と一緒に住んでいて、どこかで丸太を裂く仕事をしていた。彼は変わった奴でほんとに不思議な男だったね。彼は人があまり付き合いたくないような、そういう側面を持っていた。最初に会った時はすごくシャイな奴だと思った。実際は彼は一日6時間ギターの練習をしていて、それが自分のはけ口になっていたんだ。”

他の者たちもデイヴィが50年代まだライヴをしていなかった頃の堅苦しく内気で独特なシャイなイメージを持っていたと証言している。しかしやはり彼はギターの名匠となるべくその任務を帯びていた。スティーヴ・ベンボウは間違いなくギターでイングランドのフォークソングに伴奏をつけた最初のギタリストであり、ソーホーのスキッフル・クラブで演奏し、1957年初頭はトラディショナル・ナンバーをレコーディングしていた。彼はまた北アフリカと中東の軍務に就くベテランであり、そこで少なくとも1曲グレアムが自分のレパートリーに採用した‘Miserlou’を収集していた。1959年ベンボウはBBCプロデューサーが急ごしらえしたフォーク・グループの一員として主にサタデイ・クラブのためにレコーディングした。“私たちはザ・ワンダラーズと呼ばれていた・・・”彼はいう。“それからトルバドール近くのオールド・ブロンプトン・ロードでリハーサルした。デイヴィ・・・その少年はいつも隅っこに座って見てたな。よく彼はいってたよ。‘そのコードを教えてくれませんか?’ってね。もちろん私たちは教えてあげた。私たちは彼がそんなにうまくなるなんて思ってなかった。だからその後起こったことは信じられなかったね。彼はモロッコに行って戻ってきたとたん皆の度肝を抜いたんだ。とんでもないギタリストになってね。”

“僕はストリート・シンガーだったアレックス・キャンベルに前に会っていたんだ。”デイヴィはいう。“彼は路上生活を体現していた。デニムのスーツとカウボーイ・ブーツ―無法者風な出で立ちでね。スティーヴはもっとクールだったな。彼は何から何までイカした最初の一人だった。彼は僕に手を差しのべてくれた。その頃他にそういう人たちは多くなかったと思う。精力を注げば道は開けたよ。僕は然るべき時と場所にいたんだ。”

その‘然るべき場所’の記憶は今でも有効だ。このよくいう慣用句は実態をよく表している。実際2年か3年の努力によってプレイする場所を手に入れ、上品かつ精力的な活動によって口コミで名声を打ち立てたのである。彼自身が好きなように振る舞ったにせよ、デイヴィは賛辞を受けるような作品を残し、それは問題作となったのだ。彼はミュージシャンとして自分の能力にほとんど疑問を感じていなかった。しかし彼の音楽は当時のどのジャンルにも当てはまらなかった―ジャズ、ブルース、そしてフォーク(ジャズの世界だけが60年代の半ばに至る前までは、英国に住み、実際に成功する見込みを持ったミュージシャンを輩出していた)―個人レベルにおいて彼はコネクションを持っていなかったし、キャリアを生かすために必要なキャラクターにも欠けていた。デイヴィ・グレアムには来るべき輝かしい未来があったが、‘初のワールド・ミュージシャン’になるべくこの溝を埋めようとする者たちは数多く存在した。

アレクシス・コーナーはもちろんそういった人たちの一人だった。しかしおそらく最初は元ヴァイパー・スキッフルのジョン・ピルグリムだろう。“1958年夏、17歳のデイヴィは退屈なところから抜け出したんだ。”ピルグリムは1999年に出版されたグレアムのファン雑誌Midnight Manの中の回顧録にそう書いている。デイヴィはその好機に南ロンドンのペアマン・ストリートにあるピルグリムの住みかに現れた―そこは身分の低いミュージシャンのねぐらだった。“デイヴィはみんなに挨拶した。今と同じように礼儀正しくね。で、ほとんど何も喋らず壁にもたれるように座ってギターを弾き始めた。彼はブルーンジー・タイプのオリジナル・ナンバーをプレイした。おんぼろの小さな部屋にいた私たちは皆世の中の変化を感じていたね。スキッフル黎明期、彼はペアマン・ストリートで時代遅れの集団の中を動き回っていて、そこはすぐに見込みのない連中で一杯になった。私たちが考えもしなかった折衷的な才能を持っていたね。”

ピルグリムはこの注目すべき発見を世に広めようと最善を尽くした。“私は今は忘れ去られたフォーキー、ニール・ロックのナンバーを、私がデイヴィのバックでレコーディングした。すごく楽しんだがそこにはオリジナリティと呼べるものはなかった。私は様々なレコード会社に売り込んだが結果は得られなかったよ。誰も興味を示さなかったし、確かにくたびれたウォッシュボード・プレーヤーなんかに熱狂する物好きなんていなかったね。それでデイヴィはロンドンにすっかりうんざりしてどこか他の貧しい地域へとバスキングへ出かけ数奇な体験をすることになったんだ。”ピルグリムの妻を手に入れたデイヴィは(彼女はピルグリムの言葉を借りれば“私にすっかりうんざりしたんだ”)、初めてパリに出向き、ウィズ・ジョーンズと出会いギターの探求者として伝説を打ち立て、それは後に続くバート・ヤンシュ、ジョン・レンボーン、ラルフ・マクテル、そして60年代にアコースティック・ギターを手に取ることになる者たちをフォークロアの中に温存させることになった。

世界的なギターの伝説的人物としての初期のデイヴィ・グレアムのイメージは、仲間がなおもビッグ・ビル・ブルーンジーやレッドベリーのレコードを聴いてそのフレーズをマスターするのに躍起になっている中で、驚異的に先を行っていたことである。彼は1959年6月、BBCの再放送シリーズのケン・ラッセルの番組に出演した(これは翌年も再放送されている)。Hound Dogs And Bach AddictsやThe Guitar Crazeなど新進のギタリストたちはデイヴィ・グレアムがジュリアン・ブリーム、バート・ウィードン、ロニー・ドネガンと共に出演して複雑なブルースや、ジュリー・ロンドンのヒット曲‘Cry Me A river’を見事なフィンガースタイル・アレンジで演奏するのを目撃した。ただ彼の名声はほんのわずかの間しか広がらなかったのかもしれない。2年後デイヴィは一人のスコットランド人―彼の擁護者―にその頃は半年間しかプレイしていなかったと語っている。ただどちらにせよ未来のフォーク・ギター・アイコンであるマーティン・カーシーが感銘を受けたのは確かだ。“彼の弾く12小節のブルースはまるで3つのパートが同時進行しているようだった。対位法ブルースってわけ!とんでもない素晴らしさだった!”

続く2年以上デイヴィの元来の内気さとギターに対する情熱は、ロンドンのソーホー地区内外のコーヒー・バーやレストランに出入りする者にはよく知られていた。ウィズ・ジョーンズはチャリングクロス近くのGyre & Gimbleという終夜営業のコーヒー・バーでのエピソードを思い出す。“彼は隅っこに座って一晩中ギターを弾いていたよ。”ウィズはいう。“入ってくる客からは大抵無視されていた。するとロング・ジョン・ボルドリーがやって来てあの低い声で歌い始めたんだけど、途中でデイヴィが‘なんて酷い声だ、やめろ!’っていった。全然やめなかったんだけどね。デイヴィとロング・ジョンは互いに口を利かなかったよ。二人は反目し合うようになったけど、みんなはこういったもんだよ。‘奴らが一緒にプレイすれば素晴らしいんだけどな’ってね。ジョンはグレイトな声を持っていたし、デイヴィはずば抜けたプレイヤーだったからね―真の革新者でイングランドで初めてオープン・チューニングを取り入れて自作のインストを作ったんだから。”

Gyre & Gimbleのようなソーホーのたまり場はさておき、デイヴィはトルバドールでも定期的にプレイしていた―アールズコート地区の会場で、そこはフォーク・ナイトや詩の朗読、フラメンコなどデイヴィにぴったりの折衷主義的な場所だった。1961年10月頃(彼がたまたまレストランの評論雑誌記者に絶賛された時)、もうひとつのアールズコートであるNick’s Dinerでもプレイした。デイヴィは1963年の映画、The Servantの一場面に登場している。監督はジョセフ・ロージーだ。その頃デイヴィは最初のEPをトピックから、LPをゴールデン・ギニーから発表した。

ひょっとすると彼の古い友人、クリス・バーバーが‘最先端の自己追求’に向けて、その風潮を定義づけたのかもしれない(すなわち自分自身を投資して何でもいいものは取り入れるということだ)。アレクシス・コーナーは国際的なギター・コミュニティーのトップであり、フリーのエンジニア、ビル・リーダーが彼のカムデンのフラットで3曲入りの‘3/4AD’というEPをレコーディングすることを納得させるに相応しい人物であった。そしてなんとかして共産主義活動家/伝統音楽のレーベル、トピック・レコードからリリースできるよう説き伏せた。EPのスリーヴノーツでアレクシスはデイヴィの大陸への訪問とNick’s Dinerの彼の拠点について言及している。“彼はそこで週何回かプレイしていた。”だがそこにはEPのレコーディング・デイトの手掛かりになるような記述はない。それでもデイヴィはThe Guitar Playerのスリーヴノーツでコメントしている。“僕が(フランスから)1962年の冬、イングランドに戻ってからフォーク・クラブでさらに多くのレギュラーの仕事を持つようになった。最初の大きな仕事は、アレクシス・コーナーと共にラジオ、TVの番組でオーストラリア人のフォーク・シンガー、シャーリー・アビカーのバックを務めたこと、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでコンサートをしたことだ。”

そのTVシリーズは1961年の冬でないことは確認されている。しかし61年7月、3つのショーが毎月曜に行われ成功を収めている。そこには有能な目撃者がいたことがメロディ・メーカーによって報告されている。“歌はさておき、このトリオはツィター(主に南ドイツ・オーストリア地方の弦楽器)、バンジョー、マンドリン、そしてギターを弾いている”アレクシス・コーナーについてはThe Biography(1996年ブルームズベリー出版)によれば、ハリー・シャピロがコーナーとグレアムはアビカーのバックを約1年間務めたことを述べている。この時期に当然3/4ADがレコーディングされていたはずだ。シャピロはさらに多くのデイヴィとアビカーのTV、ラジオの日付を確認している。

これら全てと平行してコーナーはまた自身のエレクトリック・グループ、ブルース・インコーポレイテッドを結成していた。マーキー・クラブを拠点としていたが、1962年3月グループ自身の活動拠点として今や伝説となっているイーリング・クラブ(元The Moist Hoist)を発足させた。62年11月コーナーのパートナー、シリル・デイヴィスが音楽的相違を理由に脱退した。どうやら彼の代わりはほんの少しの間デイヴィ・グレアムが務めていたらしい。しかしアレクシスは個人的にはそのことに納得していなかった―グレアムは本質的にはブルースマンであったが・・・ “アレクシスは僕にデイヴィのブルース感覚はいいとは思わないといってたよ。”ダフィー・パワーはいう。デイヴィにとってのアレクシスの魅力は、何か他のならず者的佇まいにあったようだ。“彼はすごいやり手の(ヤクの)売人だったね。”デイヴィはいう。“彼は一度僕に彼の代わりにギグに出てくれないかと頼んだんだ。で僕はそれを引き受けて12ポンドのギャラをもらったんだが、彼は別のところで20ポンド稼いでたんだよ!”

おもしろいことに―The Guitar Playerのリリースの日付とレコーディング時期とがかなり違うとすればの話だが―デイヴィはスリーヴノートに‘最近’ブルース・インコーポレイテッドに参加したと言及している。アレクシスがデイヴィをジョン・メイオールに紹介し(メイオールはデイヴィを加入させるつもりで)、メイオールが1963年の1月ロンドンにやってきたことを考慮すれば、グレアムはおそらくブルース・インコーポレイテッドに1962年と63年の冬にわずか数週間在籍し、その後メイオールのブルース・ブレイカーズに似たような期間で在籍したように思えるのである。1961〜63年にかけてのThe Guitar Playerのレコーディング及びリリースの様々な日付は、ディスコグラフィーとインタビューで示され、それは常にデイヴィ自身から発せられたものだ。しかしながらウィズ・ジョーンズはたしかにアルバムはEPの後リリースされたと記憶している―アルバム自体は1963年が発売年だったということだ。具体的な情報の不足する中で、The Guitar Playerは1963年初頭の数週間にリリースされ、それはほとんどが1962年の終わり頃いく度かに渡ってレコーディングされ、おそらく続いて3/4ADもレコーディングされたと推測して差し支えないだろう。

一方今では3/4ADは独創性に富んだ作品として認識されている。そして何度か再発されてきたが(少なくとも3種類以上のジャケットで発売された)、いずれもメジャーな形でのリリースとは程遠かった。‘軽い娯楽’は有名人にとっては必須であり、60年代初頭においては商業的成功と不可分であった。陽気な楽曲と、The Guitar Playerのジャケットでデイヴィはそれがリスナーに届くよう精一杯努力をしている―そのきらびやかなジャケットに人は新種のギタリストだと感じる―しかしながらそれは彼の草分け的作品として優れたサンプルとなった。

パイのLPはデイヴィのレコーディング・キャリアにおいてはトピックのEPよりはるかに重要だ。とりわけプロデューサーだったレイ・ホーリックスはその後デッカに移り、1965〜1970年のデイヴィ・グレアムのアルバムをプロデュースした。1999年、Midnight Man誌のケイ・トンプソンによるインタビューでデイヴィは回想している。“僕はレイを紹介されたんだ―‘君のA&Rマネージャーになる男だ。彼が君に相応しい曲を選ぶんだ’ってね。それが本来のA&Rの意味だからね―アーチスト&レパートリーの略でスタジオ・エンジニアのようなのとは違うから。”明らかにデイヴィとレイは信頼関係を築いていたし、レイが提案するマテリアルをデイヴィは尊重していた。ビートルズ以前の1962年ではどうしてもポピュラー音楽的な素材に頼るしかなかった時代だった。そうすれば一羽の鳥を捕まえることによって2羽目、3羽目も手に入れることができた時代だった。デイヴィに他の方法をとる余地などあっただろうか?

“始まりはNick’s Dinerで働いていたときだった。アレクシス・コーナーによって仕事が舞い込んできたんだ。”ケイ・トムソンのインタビューでデイヴィはいっている。“僕は3年間そこで腕を磨いたよ。ヘンリー・ミッチェルはいった。‘デイヴィ、契約がほしければとにかく腕を磨くんだ’だから僕はそうしたよ。ヘンリーはボブ・モンクハウスの相棒で二人は古い友人だった。彼らはハイドパークコーナーにあるヒルトンホテルの裏にエージェンシーを所有していた。ヘンリーがいった。‘ボブ・モンクハウスを紹介するよ’ってね。僕は飛びあがって喜んだね!で彼と会ったよ―たしかラジオ・ルクセンブルクだった。そしてヘンリーはパイ・レコードとの契約の話を持ってきてくれたんだ。”

デイヴィがそのことに当時は気づかなかったか忘れてしまったにせよ、現実はさらに驚くべきものだった。ヘンリー・ミッチェルよりもデイヴィ・グレアムのファースト・アルバムの契約の背後にあった強烈な影響力はボブ・モンクハウスをおいて他にいなかった。

彼の司会者としての役割は、BBCラジオの週一回2度のShow Bandという番組だ(1952〜57年に活動したシリル・ステイプレントンのビッグバンドがフィーチャーされたシリーズ)。モンクハウスはアコースティック・ギターを習得しようと試みていた。“私のおぼつかないプレイにアシストされてたよ・・・”彼はいう。“あとはアイク・アイザックとアイヴァー・マイランツだね。”彼は全くのギター熱狂者だったが、いくつかの点において我々はボブが1961年ごろ関わったことを事実として受け止めなければならない―彼は重大な発見をしたと最近になって語っている。

“ソーホーのジャズ・クラブに通っていた頃、私はデイヴィ・グレアムの素晴らしい音楽に触れていた―今まで出会ったどんなテクニックとも違っていた。すごく自然で自由なんだが、揺るぎない信念が感じられたね。私たちはかなりの酒を飲みながら自分たちの関心事について話し合った。二人ともジャンゴ(・ラインハルト)を崇拝していたが、覚えているのはデイヴィはレス・ポールについては、たしかに巨匠だがギタリストとしてはあまりに型にはまり過ぎていると考えていたことだ。デイヴィはスパイク・ヒューズによる2、3のレコーディング・セッションを経験して少々落胆していた。当時スパイク・ヒューズはロンドンのジャズ界をリードするヴォーカリストだった。その時私は若かったし、自我を剥き出しにし始めていたが、ショウビジネス界の長老連中は私の言っていたことを私自身が分かっていないと考えていた。もちろん彼らは間違っていて、すぐに私の意見は真剣に受け止められた。私は空軍時代の友人でジャズ・ピアニストのスタン・トレイシーとラジオ・プロデューサーのパット・ディクソンに助言を求めた。彼らのその当時の音楽界に対する見識はかなりのものだったよ。彼らはデイヴィがボンド・ストリートのプライヴェイト・スタジオでいくつかデモ・レコーディングをしてはどうかと提案したんだ。そのスタジオはGuy De Beereという名だったよ。デイヴィは金がなかったから私がオーケーして工面したんだ。ディスクはワックス・コーティングされたアルミの75rpm(原文まま)で、針でプレイされるやつだ。私はコピー盤を最も影響力のあるA&Rマンやバンド・リーダーに送ったよ。それからメジャー・レーベルの要人たちにもね。

ノリー・パラモア、フィル・グリーン、トニー・オズボーン、シド・フィリップス、ジョー・ダニエルズ、ケン・カーペンター、シド・ディーン、ジョー・ロス、ジョージ・マーチン、ロニー・スコット、ジョン・ダンクワース、テッド・ヒース、ジェラルドとハリー・パリーらにデイヴィのキャリアを詳しく書いてあまりパッとしない写真を添えてね。そして驚いたことにデイヴィはすぐにいくつかのオーディションと2,3のラジオ出演の依頼がきて、うち一つがスパイク・ヒューズだったんだ!マイナー・レーベルからレコーディング契約のオファーもきたけど、その後もっと大きなところに取って代わられたね。ショー・ビジネスってところの常なんだけど、デイヴィと私は疎遠になってしまって、めったに彼と会わなくなってしまった。でも彼のプレイを聴くといつも誇りに思うことがある。それは私が最初に彼を聴いていたってこと!”

アルバムでデイヴィはセッション・ドラマーとして名高い元Outlawのボビー・グレアム(血縁はなし)とペアを組んでいる。デイヴィはスリーヴノーツで彼について惜しみない賛辞を送っている。“彼はプレイが巧みなだけでなく、テンポや個々のプレイについて素晴らしいアイデアを持っていた。”デイヴィはまたレイ・ホーリックスに向けても賛辞を送っている。“・・・バランスのとれたアルバムをすごく心がけていた。様々なリズムとムードが両立していて、アレンジについてもよく考え抜かれていた。”

幸運なことにレコーディングの場数をデイヴィ以上に踏んでいた仲間に話を聞くことができたが、つまり彼らによれば、本質的にはナイトクラブでのデイヴィのレパートリーが、客のフォークやスプーンの雑音なしで聴けるということだった。デイヴィは結びでほとんど宣伝といっていいコメントをしている。“このレコードは鑑賞するにせよBGMにするにせよぜひともみんなに楽しんでほしい!”

当時のデイヴィと関わっていた、今ではブリティッシュ・フォーク/ブルース・ギタリストのパイオニアとして崇拝されているウィズ・ジョーンズによれば、デイヴィはレコード上ではこのアルバムをついに越えることがなかったということだ。“素材はポピュラー音楽かもしれないが・・・”彼は認める。“・・・しかしギタープレイは絶対的に素晴らしかった。ジョン・レンボーンは実際にこのレコードの隅々までコピーして習得したんだ。彼のベスト・アルバムに違いない。ギタープレイの観点からいえば、続く‘Folk, Blues & Beyond’が近い存在だ。”

デイヴィのプレイはその全盛期において、つかみどころのない部分と無骨な部分の独特な中間点に位置していた。無頓着ともいえる楽曲を用いながらも、すぐに彼だと判るような音楽的カテゴリーに自らを割り込ませていったことはしかし、明らかに彼の関心事などではなかった。60年代半ば、ブリティッシュ・フォーク・クラブ・シーンは確かに旋風が巻き起こっていたが―それはジャズ、ブルース、ロックのクラブに対抗して、もしくはテレビやキャバレーの‘軽い娯楽’の世界で‘目新しい芸人’として―その中でデイヴィは自分の畑を耕していたのだ。

1966年9月、カール・ダグラスはソーホーのLes Cousinsで行われたメロディ・メーカーのグレアム・ショーを批評している。“大きな疑問は、なぜデイヴィ・グレアムはロニー・スコッツのジャズ・クラブに出演しないのかということだ。デイヴィは仲間でギタリストであるジム・ホールについても同様のことを多く語っている。この言葉は元々彼が言い出したものだ。デイヴィはフォーク・クラブでの仕事がメインだったが、ルーツはむしろジャズにあるように思える。”好むと好まざるとにかかわらず、フォーク・シーンはジャズ・シーンよりもデイヴィの折衷志向に対して寛容であったし、彼は以来フォークにカテゴライズされてきた。

60年代を通じて多大な影響力をもつカルト・アーチストとしてのステイタスの恩恵にあずかり―とりわけフォーク界の彼の音楽仲間や弟分たちにとって―デイヴィは1965−70年の間にデッカからアルバムをリリースし続け、1971年プレジデントからさらに1枚発表している。音楽シーンから消えるまでの続く5年間は時代の流れのなかで、全てが唯一無二のインストとヴォーカルによる折衷スタイルで貫かれていた。彼は再び姿を消す前の70年代後半、トリオとしてオール・インストゥルメンタル・アルバムを引っ下げてシーンに戻ってきた―姿を消すといっても実際は1995年の控え目な1枚のリリースと永続的な周期的カムバックとステージを除けばの話だが・・・

“デイヴィは人々が外に出向いて買って楽しむようなブランドに自らの才能をうまく方向転換させようとはしなかったよ。”ロイ・ハーパーはいう。60年代デイヴィの全盛期と同時期に仕事をした仲間だ。“でもその頃の彼は驚くべき存在だったな。彼は(パーティーに)現れると、プレイするにはかなり予想外のラヴェルの‘Bolero’を最後まで弾いてしまうんだ。知ってのとおりこの曲はクラリネット、トロンボーン、バスーンが入っているんだけど、彼は全てのパートを一本のギターでやってのけたんだ。”

1970年3月メロディ・メーカーのカール・ダラスによるインタビューの序文で全てが語られている。“パイオニアになるのは厄介なことである。パレードの最前列に立つ人間はせいぜい鼻をたらしたガキに見られるものだ。群集は彼が消え去ってしまうまで何の反応も示さないが、彼の後継者には拍手喝采を送るのである。”デイヴィは生活のためにステージをやることからはいく分引退していた。少なくともカムデン・タウンのフラットでギターの講師をしていたし、全てを諦めようと真剣に考えていた。ダラスはひょっこりデイヴィのところに尋ねて行き、彼の近況を尋ねたことがある。“特に何も新しいことはしていないよ。”デイヴィはいった。“新しいことをする理由はないから。僕は昔始めたことを今もうまくやっているよ。僕が主に他人の曲を取り上げるのは、それが選択の幅を広げてくれるから。僕は人々がレコードを作る前にたくさんの曲を書き上げねばならないといった考えに同意しないんだ。ある歌が歌われるに相応しい価値が備わるには時間を要するんだ。熟成しなきゃならないんだよ。”皮肉ではあるがあと知恵を持ってすれば、ある一人のアーチストのキャリアが認められるまで、あるいは何か弱々しい結論に至るまで彼は漂流し続けるということだ。デイヴィは1970年7月、別のメロディ・メーカーのインタビューで称賛を受けた。彼はポジティヴだったが、内省的な佇まいに変わりはなかった。“成熟というのは高価なものが買われることによって達成されるんだ。若くて素晴らしい人たちは僕の世界には存在しないね。”彼はそういい、Andreas Segovia(スペインのギタリスト:1893‐1987)とJulian Bream(英国のギタリスト、リュート奏者:1933‐)に惜しみない賛辞を送っている。

70年代後半カムバックする時でさえ彼は似たような考えを述べている。“私はよいミュージシャンになるにはあまり仕事をしない方がむしろいいと思う。”彼は1977年、ロビン・デンスロウのインタビューでそう言った。“度々テレビに出たりラジオを聴いたりしていると、私にとってはいいことだが人々の耳はどんどんレベルが落ちて行くように思えるね。”“デイヴィ・グレアムは今や、かつての全盛時代よりもさらに深みのある謎の存在となった・・・”1977年5月、フォーク・ルーツ誌でケント・ハントは書いている。“・・・ジャーナリストは自分のメモ帳に‘変人’となぐり書きをして去って行く。”変人?上等だ。しかしどちらにせよデイヴィ・グレアムは天才であったし単純に素晴らしかった。モノクローム世代の中での先例のない鮮やかな色彩の爆発というのは、永遠のテーマであり最終結論の出ない問題である。しかし少なくともデイヴィは独力で英国にフォーク・ギターの可能性を示したのである。このことはしばしばアメリカにおけるジョン・フェイヒと比較される。彼の奇想天外なアルバム、全曲ブルース・インストの模倣作品であるThe Transfiguration Of Blind Joe Death(1959)は、スティール・ギター・ミュージックを確立させ、それをサポートする研究を打ち立てた。しかしデイヴィ・グレアムはジョン・フェイヒの好奇心そそる世界と同等のことをしたのに、ほとんど知られていないのである。英国でデイヴィは発明者としての資格を主張できるだろう。

“彼は当時のインスピレーションそのものだった。”ダフィー・パワーはいう。“彼は神がかっていた。でもいわゆる天才じゃないよ。繰り返すが天才というのはある一瞬の出来事なのかもしれない。人生にはそういう瞬間がたくさんあるものだ。誰かがある時期に飛び出してあることに情熱を注ぐ時にね。彼は当時誰よりも先を行っていた。”

60年代後半、音楽博識家の悪名高いドラッグ使用が彼をあまりに栄光に近づけてしまったおかげで、今日の音楽はずい分彼から遠いところへ来てしまった―彼の持っていたもの、それはとりわけ初期のレコーディングに見られた無二で深遠な革新性だった。デイヴィ・グレアムと一瞬の間会った人でさえ、彼の不変なところが強く印象に残っている。アイリッシュ・フォーク・イコンであるクリスティ・ムーアもたしかにその一人だ。“僕は70年代、ハマースミス・オデオンでのプランクシティのコンサートでデイヴィに会ったんだ。”彼はいう。“彼は楽屋にやって来て僕と握手をしたんだ―今日まで信じて疑わないんだけど、その時彼は僕の手を握り潰そうとしたんだよ。僕のギタープレイが大嫌いだったはずだから!”“問題はアーチストがわがままなことだよ。”グレアムはかつていったことがある。“私に関してはアートに対してわがままだったためしはない。私はいつもアートは禁欲の産物だと考えていたね。ある楽器を習得することは私にとっては自分自身を否定することのように思える。テクニックを身につけることはまるでクズを手に入れるようなものだ。隣の人は理解してくれないね。”

今もデイヴィはカムデンに住み数少ないライヴを続けている。最近マーチン・スコセッシの映画The Bluesの中でロニー・スコッツのところでの一連のライヴをうまくやっていたが、たしかに彼は一時期と比べれば衰退したのだろう。しかしその少ないライヴにもかかわらず、デイヴィは様々な方面からの多くのCDリイシューという幸運を通してここ数年間再起をかけて有意義に過ごしてきた(注目すべきは1997年Rollercoasterからのリリース、After Hoursで、これはジョン・ピルグリムによってレコーディングされた1967年の印象深いライヴだ)。そしてケイ・トンプソンの援助もある。彼の年2回発行のファン・マガジン、Midnight Manは信頼するに足る愛情のある活動の中心となっている。ケイはまたデイヴィの自伝にも援助、参加していて、それは彼のオフィシャル・ウェブ・サイトで見ることができる。

最後の分析になるが、あるいはデイヴィは名声を打ち立てるため旅に出る前に、キャリアを方向転換するには折衷的過ぎたか―または逆に充分でなかったのかもしれない。しかし彼に悔いはない。“イグアナのような暮らしを望んでいる人に対して誰も責めたりすることはできないね。快適でシンプルな生活、日光浴をしてギターを弾いて世界中を旅する暮らしだ。みんな単純にそれを欲しがるが、決して自分から逃れることはできない。ある人は陽気な性格を持っている。僕は違うね。僕は新しい体験に憧れる。僕はドラッグ・シーンから逃れるために旅をした。それもその一部だった。でも人間は宿命として最良の進展をするとは思わないね。それは惑星についても同じだと思う。1940〜1942年に生れた乙女座の人たちは海王星と深い関わりがあって、それは惑星にとっても全くよくない軌道にあったんだ。”

コリン・ハーパー、2003年4月
author of Dazzling Stranger : Bert Jansch and the British Folk and Blues revival(Bloomsbury, 2003)

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