Welcome to my homepage


Dave Davies/Hidden Treasures/2011 Sanctuary Records Group Ltd. 277 765-3



知ってのとおり、ロックンロールの世界は1960年代のロック・ミュージックの燃えさしをあれこれと詮索する以外の何物でもない神話、憶測、そしてうわさで満ちあふれている。このポピュラー・ミュージックの黄金時代から現われた主要なアーチストたちの歴史は、無頓着なレコード会社のテープ・アーカイヴの中でしぼんでいった失われた傑作の物語でいっぱいだ。

しかしながら、現実に立ち返って考えてみると、真実はごくありふれたものがしばしばだ。大部分のケースにおいて、これら伝説的なレコーディングはそもそも存在しなかった。例えばアーサー・リー率いるラヴの名高い『Forever Changes』のいわゆる続編である『Gethsemane』(ゲッセマネ)、あるいは頓挫したアイデアが他のコンセプトへ姿を変えたビーチ・ボーイズの『Smile』やザ・フーの『Lifehouse』などだ。

それら仲間たちの場合と同じように、キンクスも未完に終わったレコーディング・セッションとマテリアルに関して、似たような憶測のストーリーから除外されるわけではない。うわさの出所がこういった現実からかけ離れたレコーディングの数々の名声を吊り上げてきたのである。キンクス支持者内で意見が一致するのは、リリースする価値のあるものは全て何らかの形で生かされ、昔のパイ・レコードのアーカイヴに眠る腐りかけた未リリースの宝の山話は、大部分が確証のないものだということだ。

あるいはこのことが、パイ・レコードとの7年間に、注目すべき10枚のアルバムと28枚のシングルを生み出した多作アーチストとしてのキンクスを説明しているかもしれない。しかしながら、1つの謎が残っている―デイヴ・デイヴィスのいわゆる“失われた”60年代のソロ・アルバムだ。多くの憶測とうわさがこの至宝を取り囲んでいるが、その理由はとりわけそれらレコーディングの数々が、一般的にキンクスの最初の“黄金時代”としてみなされている時期のものだからだ。

あとになって考えてみると、そのアルバムはたしかに神話、矛盾、そして出だしのつまずきの珍品だ。しかしこのLPを調査し、解明するために、私たちはキンクスの歴史に深く入り込み、テープを巻き戻す必要がある。本質的に、キンクスはもしデイヴ・デイヴィスが兄のレイといっしょに学校仲間のピート・クエイフ、ジョン・スタートと初期のロックンロール・バンドを結成しなければ存在しなかったし、一方で1963年の初頭に、レイはしばしマスウェル・ヒルの学校仲間以外とR&Bに手を出していた。

ギクシャクしたスタートを切り、1964年初めのミック・エイヴォリー(dr)加入後、当時としてはいくらかショッキングなザ・キンクスという名を採用したバンドは、同年8月、“You Really Got Me”がナンバー・ワンの座に輝いた時に、ロックンロールの山頂に達した。“You Really〜”はデイヴ・デイヴィスの耳ざわりなギター・サウンドと猛烈なリード・ソロに支えられていた。デイヴは3分に満たない中でみずからをロックンロール・ヒストリーに刻みつけていた。もしキンクスがそれ以上の旋律を記録せず、輝かしい30年のキャリアをさらに積み上げていなければ、デイヴ・デイヴィスは最も影響力ある空前のギタリストとして、今でも高い名声を誇っていただろう。

60年代半ばまでに、キンクスの高まる名声は大部分がレイ・デイヴィスの少なからぬソング・ライティング能力に基づき、グループのスポークスマンとはいわないまでも、それなりにレイが中心人物となっていた。しかしバンドの発展に不可欠であり、最終的にグループの成功へとつながったキンクスの他のメンバーの貢献を見逃してはならない。キンクスはそれぞれのパーソナリティの独特なミックスなしではキンクスでありえなかったし、各メンバーは自然にバンド内での役割を引き受けていた。デイヴは急速にグループのスタイルの象徴となり、その役割は彼が自信満々な態度を見せることだった。重要なこととして、デイヴはバンドのロックンロール魂を体現していた。

アーチスト的な開放となった1966年のLP、『Face To Face』のリリースは、バンド内の視野を拡大させることになった。今やレイはキンクスはもちろん、他のアーチストたちへ定期的に曲を提供し、映画とテレビのための音楽制作に乗り出していた。一方、弟のデイヴは全く異なった計画の中にいた。キンクスのマネジメントは奇妙にも、デイヴをハリウッド昼興行のアイドルとして売り出すことを企てた。一時期には俳優としての計画が浮上していた。この動機には、明らかに彼のハンサムなルックスとセックス・アピールがあった。しかしメロディ・メーカーの第一面にフィーチャーされ、音楽プレスで様々な記事が割かれたにもかかわらず、この企ては水泡に帰してしまった。最良の選択は、デイヴ・デイヴィスがソロ・パフォーマーとして、レイの分身であるもう1人の詩人の道を追求することだった。

ソングライターとしては兄の陰に隠れがちだったが、デイヴはバンド結成以来ずっと曲を書き続けていた。実際、デイヴは自身による初のクレジットで“One Fine Day”という曲を書いていたが、これはバンドから却下され、彼らのマネージャーたちが面倒を見ていたシェル・ネイラーがシングルとして1964年にリリースした。またデイヴはキンクスの前身バンドがもっていたレパートリーのうち、何曲かを自作していた。

1967年夏に、デイヴは“Death of A Clown”によってソロ・アーチストとして浮上したが、デイヴ本人はいくらか渋々ながらソロ・パフォーマーを演じ、そのソロ・シングルが成功したことに少し驚いたことを認めている。“Death of a Clown”は本来、キンクスとしてのレコーディングであり、最初は次のキンクスのアルバム『Something Else』用に書かれたLPトラックだった。キンクスのマネージャーの1人だったロバート・ウェイスはその曲の魅力を確信し、デイヴ・デイヴィスのソロ・シングルとしてリリースする考えを思いついた。

クラシック・キンクスのみごとな1枚のシングルであるその歌は、ディラン・スタイルの歌詞、舞い上がるキャッチーなコーラス・ハーモニーを備え、それら全てがいくらかラサ・デイヴィスによる最高のバッキング・ヴォーカルによって鼓舞されていたといっていい。これを1つの試みとして言及したキンクスのマネジメントは、おそらくそのシングルが“爆発”した場合のオプションとしてキープすることを考えていたのだろう。しかし彼らは“Death Of A Clown”が1967年6月のUKシングル・チャートでやすやすと2位まで上がり、ヨーロッパ大陸中で大ヒットした時も、それを気にかける必要はなかった。デイヴはことあるごとに、いつものあきれるほどキラキラの19世紀海軍士官の衣服を身につけたしゃれ者よろしく、シングルをプロモートした。デイヴ・デイヴィスのこのイメージは、1960年代ポップ・カルチャーの永遠の視覚的イメージとして定着した。

“Death Of A Clown”の成功に活気づけられ、すぐにデイヴ・デイヴィスのソロLP計画に舵が切られた。まもなく登場したプレスの公表では、デイヴ・デイヴィスのソロLPは差し迫っており、内容はデイヴのオリジナルとレッドベリーやビッグ・ビル・ブルーンジーのようなブルース、そしてフランスのシンガーソングライター、ジャック・デュトロンの“Et Moi, Et Moi, Et Moi”といった一風変わったカヴァーのミックスになるだろうというものだったが、これら全て実現することはなかった。

しかしながら、アルバム収録候補として選ばれ、パイ・スタジオでレコーディングされた“スパイダー”ジョン・コーナーの“Good Luck Child”の改訂ヴァージョン、“Good Luck Charm”は、1967年のクラシック・キンクスだ。またこれはその夏、チャートを駆け上っていた“Death of A Clown”とともにBBCセッションでプレイされた。パイ・スタジオ・ヴァージョンは初期メロトロンが使われた壮大なものだったが、BBCヴァージョンはよりむき出しで、フォーキーで、ダウン・トゥ・アースな雰囲気をもっていた。1967年半ばまでは、キンクス及びレイとデイヴそれぞれのソロLPが同時リリースされるという楽観的なアナウンスメントが存在していた。しかしこれら野心的なプランは、すぐにEPの同時リリースへと縮小され、晩秋までにはそれも完全に立ち消えとなった。

パイは依然デイヴの成功にあやかろうと、“Death of a Clown”に続くシングルを要請した。デイヴは順当に60sポップのゴージャスな1枚、“Susannah's Still Alive”でそれに応えた―感動的で個人的な失恋ソングで、レッドベリー・スタイルの猛烈なベース・ラインを伴い、ニッキー・ホプキンスのピアノ連打によって強化されていた。前シングルよりもすばらしいところがあるにしても、それよりもヒットしなかったことが、いくらか失望感を招いていた。“Susannah…”はデイヴの名のもとにリリースされたが、本質的にはキンクスのレコーディングだった。このあいまいな区別は、パイとの契約期間全てにわたって続くことになった。

B面の“Funny Face”はその頃リリースされたLP、『Something Else』からカットされたデイヴ・デイヴィスのオリジナルだったが、新曲の不在とリリースされたアルバムをざっと考えると、企てられていたデイヴ・デイヴィスのソロLPにはいかなる作品も全く用意されていなかったことがうかがえる。

1968年1月、デイヴとメンバーたちは3枚目のデイヴ・デイヴィスのシングルをレコーディングするためにパイのスタジオに戻った。この年初のセッションで、“There Is No Life Without Love”がとどこおりなく録音されたが、A面の“Lincoln County”は3月まで録音されなかった。デイヴのことばを借りると、“Lincoln County”はレイの弾くピアノ・リフが基調となり、特徴的なストリング・アレンジメントが強調されるところでクライマックスに達している。しかしながらシングル、“Lincoln County” b/w “There Is No Life Without Love”のリリースは8月までずれこんだ。この大きな遅れは、キンクスとしてのLPのリリース時期とぶつかり、共倒れに終わってしまうことをパイが恐れたためだった。

この2曲は同時期のキンクスのレコーディング作品に匹敵するクラシック作品であるが、おそらくどちらも“完璧な”フックに欠けていたため、チャート入りに失敗してしまった。かん高い声で歌われるカントリー風の陽気な“Lincoln County”は、開拓時代の米西部地方の無法者、ジェシ・ジェイムズのアンチ・ヒーロー賛歌にほかならなかったが、デイヴは数年後まで気づかなかったと告白した!

1968年が暮れる頃になって初めて、デイヴは自身のソロLPに本気で取り組み始めた。彼のために、その12月にキンクスのレコード会社によってポリドールのスタジオが押さえられていた。とりわけパイがデイヴ・デイヴィスのソロ・マテリアルをほしがっていた時に、なぜその行程が半年以上も遅れたのか?そしてその間になぜバンドが傑作『The Village Green Preservation Society』を仕上げることに専念していたのか?と人は思うだろう。しかしこの中断は少なくともデイヴに新しいマテリアルを作る余裕を与えていた。

しかしデイヴは、依然ソロ・アルバムへの関心が存在していることに困惑し、コメントしていた―「マネジメントとレコード会社が僕にアルバムを作ってほしいといった時は本当に驚いてしまったね。僕にとっては気が遠くなるようなことだったから。僕が気に入っている曲は2つあった―“Susannah's Still Alive”と“Lincoln County”だ。気分はいいものだけど、そのアイデアは気に入らなかったんだ」 こういったネガティヴな気持ちがあったものの、兄のレイ、ミック・エイヴォリー、ピート・クエイフ、そしてエンジニアのアラン・マッケンジーはデイヴとともにポリドール・スタジオに入った。プロデューサーの役目はレイが受けもった。

クリスマス休暇のためにセッションが打ち切られる前に、4曲か5曲だけが録音された。デイヴによるポリドール・スタジオの回想は決してほめられたものではなく、彼はこういっている―「プロ用のレコーディング・スタジオっていうより、誰かのうちの居間みたいだった。粗悪なワイヤーが絡み合って、前面にたくさん傷のあるひどいスピーカーがあった」

またデイヴはこのレコーディング・セッションに対する不満のもう1つの理由としてレコード会社による高まるプレッシャーに言及していた―「僕は本当に気の滅入るような曲を書いていた。ちくしょう!って思ったね。ちょっと歌を作っただけで、みんなは僕に大量に書かせようとした。僕はそれが気に食わなかった。僕はキンクスの一員として働く方がずっとハッピーなんだ。彼らがちょっとプレッシャーを僕にかけすぎていると感じていたし、そのくせ彼らはケチだったんだ」 たしかにポリドールのスタジオは、キンクスの通常のパイ・スタジオでの環境よりも安上がりだった。さらに予算的には午後のセッションに少し及ぶだけのものだった。特にこのことがデイヴにとって、できるだけアルバムを安く仕上げようとしていたケチなパイを示していた。

しかしながら、よくない環境下にもかかわらず、“Creeping Jean”、“Hold My Hand”、“Crying”、そして“Do You Wish To Be A Man”がポリドール・スタジオでレコーディングされた。後者2曲は、ミスター・ジンマーマン(ディランのこと)へ会釈してみせたのに加え、少しばかり悲しみに沈んでいた。さらにデイヴ自身は強調する―「僕はいっさいのアイデアにすごく滅入るようになり始めた。その時、僕がレコーディングした最後のうちの1曲が“I'm Crying”で、僕の気持ちが理解できると思う」

1969年1月になるとすぐにパイはシングル、“Hold My Hand” b/w “Creeping Jean”をリリースしたが、明らかにその後すぐにアルバムのリリースが続くことを念頭においていた。うたがいなくこの45回転レコードは、デイヴのアーチスト的な成長を表わしていた。しかし満場一致のすばらしいレビューを受けたにもかかわらず、残念ながらチャート作成者の手を煩わせることはなかった。

また、この熟成した痛みと偽りないバラッドを書いたソングライターが、21歳になってまもなかったことを理解するのは難しい。一方で不気味な響きのある“Creeping Jean”は完全な解毒剤を提供し、安っぽい情事を称え、ドローン音のギターのさらに上をいくピート・クエイフのうなるベース・ラインによって鼓舞されている。これら2曲とも、もう少しのところで完璧なシングルといえるものだったが、1969年のレコード購買層によって素通りされてしまったのはなぜかという命題は、依然世の不思議の1つであり続けている。

アルバムのためのレコーディングは、2月下旬のリリースを予定に、クリスマス休暇のあとに再開された。今回デイヴとキンクスは通常のスタジオ2ではなく、大きなスタジオ1(普段はパイがビッグ・バンドかオーケストラのために使った)ではあるが、パイの改善された環境に集結した。スタジオ2は改装中で、兄の方に対応するため、8トラックの機材へグレードアップされようとしていた。この1月のセッションでは、“Mr. Shoemaker's Daughter”、“Are You Ready”、そしてひょっとすると“This Man He Weeps Tonight”がついにレコーディングされた可能性があるといわれている。

ちなみにこれらは、キンクスが初めて8トラック機材を使用したレコーディングで、それによってとりわけオーヴァーダブ時に、より柔軟性が増し、その結果レコーディングは著しくダイナミックな作業となった。

デイヴが指を骨折し、2月3日に作業は停止した。全レコーディングが中断し、続いて予定されていた2月末のリリースは春にずれ込んだ。3月上旬までにデイヴはレコーディングを再開できるようになっていたが、この時までにキンクスのニュー・シングル、“Plastic Man” / “King Kong”が優先され、アルバムのレコーディングは“Groovy Movies”と“Mr. Reporter”が録音され、そして1月のセッションで始まったとされる“This Man He Weeps Tonight”の完了となった3月末まで遅らされることになる。“Mr. Reporter”はしばらくの間、バンドの中で“報道価値のない”状態にあったが、彼らは3年以上前に最初に取り組んだ時に、モノにするのは難しいと考えていた。もともとこのマテリアルは実現しなかったキンクスのEP、『Occupations』に収録される予定だった。

デイヴの回想によれば、特にこのヴァージョンのバッキング・トラックは、多くのセッションで何度もレコーディングしたかもしれないということだ。“Mr. Shoemaker's Daughter”もまた、全く新しいマテリアルではなかったのかもしれないし、もともとはデイヴ・デイヴィスのソロ・アルバムが最初にしぼんだ時のものかもしれない。デイヴは説明する―「・・・僕たちはたくさんの実験を試みていた。たとえば“Autumn Almanac”はもともと“My Street”と呼ばれていた歌で、それはミドル・パート部分だった。でもうまくいかなかったんだ。それで僕たちがそのテープを逆に回してみたら、“Autumn Almanac”っていう風に聞こえた。“Death Of A Clown”も同じように、僕たちはジョークとしてテープを逆回しした。その結果、“Mr. Shoemaker's Daughter”がでてきたんだ」

1969年の春までは、依然デイヴ・デイヴィスのソロLPの兆候はなく、ファンからの質問の手紙が音楽紙の投書欄に載り始め、その中にはアートワークの提案まで送ってきた者さえいた。しかしアルバムの構想は、1969年4月5日にベーシストのピート・クエイフが突然脱退するという思いがけない問題が起こった時に、困難を極めた。間をおかず、以前ピートの代役を務めたことのあるジョン・ダルトンが『Arthur』セッションのスタート時にグループに加わった。さらにもう1つのデイヴのソロ・トラックである“Mindless Child of Motherhood”が録音され、これがデイヴのソロで唯一ジョン・ダルトンが参加したトラックとなった。

ジョンは“Mindless Child Of Motherhood”が、とりわけデイヴのほしがっていたサウンドを具現化するのに困難を極め、多くのアレンジメントが試されたことを覚えている。さらにジョン・ダルトンは最初のころの異常なリハーサル・セッションのことを覚えている―午前中の仕事に満足したデイヴとメンバーたちは、レコーディング準備OKとなった曲を祝うために地元のパブへくり出し、アルコールの入ったランチをとり、その結果、全員の記憶が吹っ飛び、したがってバンドが再集結した時には、そのトラックはゼロからやり直しの過程を踏まねばならなかった。

興味深いことに、デイヴは“Mindless Child...”を特に彼の友人、イワン・スティーヴンスのバンド、ターコイズのために書いていた。それを念頭に、デイヴ・デイヴィスは意外にもオリジナル・デモをターコイズとともに録音した。この時期に書かれた他のデイヴの歌同様、たとえば“Susannah's Still Alive”で言及されたような青春期についての歌であり、とりわけデイヴが説明するような教育の怒りについての歌だ―「怒りのようなものだ。おろかな子供と母親についての辛いできごとのことなんだ。なぜかっていうと、最近まで僕は母親が僕のことを嫌いだと思っていたんだけど、それが彼女であって、両親は僕を遠ざけようとたくらんでいたと考えていたからなんだ」

1969年5月初頭に始まり、6月半ばまで続けられた『Arthur』のレコーディングにバンドが専念するにつれ、デイヴ・デイヴィスのソロ・アルバムの仕上げはさらに遅れることになった。『Arthur』のレコーディングは6月の3週目までに完了し、ミックス・ダウンを終えた。レイがタートルズのニューLP、『Turtle Soup』のプロデュースを完了させるため、ロサンゼルスに向かう前に、デイヴのソロ・トラックを仕上げる時間がたくわえられた。この時に、最後のオーヴァーダブ、特にホーンの追加が実行され、見たところ、それは『Arthur』のセッション最後尾に付け加えられた作業のようだ。全体のレコーディングは6月の終わりまでにミックス・ダウンまで完了したが、おそらくはレイ不在の中、エンジニアのブライアン・ハンフリーズの手によって片付けられたのだろう。その後まもなくロバート・ウェイスは7月2日に、ワーナーに12曲入りのマスター・テープを提出した。

LPのためのレコーディングが1969年夏に完了した一方で、デイヴ・デイヴィスはそれを完成品とは考えていなかった。長引き、中断しながら進んでいったレコーディング・セッションの中でマテリアルが録られていったことが、おそらくそれを完成品として認めたくない彼の気持ちを説明しているのだろう。その上、デイヴ・デイヴィスは曲順についての最終決定の場も、どの曲が収録されるかについての話し合いも記憶に残っていないし、彼はワーナーのテープのことを「パイとポリドールのマテリアルをごたまぜにしたものだ」と述べている。これはおそらくワーナー・テープが、決定的で本質的な1969年のデイヴ・デイヴィスのソロ・アルバムではなく、キンクスのマネジメントあるいはレコード会社からかき集めたリリース可能なデイヴのマテリアルで固めたコンピレーション盤であることをほのめかしている。

ワーナー・リプリーズが、これらトラック全てを1枚のLPとしてリリースすることを真剣に考えていた気配や証拠などは存在しない。ワーナー・リプリーズはソロ・プロジェクトをサポートする前に、彼らにアルバムの完全なプロモートとUSツアーをさせるために、まずバンドの十分な約束を取りつけたかったように思える。この見解は、用意されたアートワークもタイトルも、パイあるいはワーナーによって割り当てられたカタログ・ナンバーも、全て記録が残っていないことから推測できる。

未完に終わったアルバム『Four More Respected Gentlemen』と『God Save the Kinks』の場合、カタログ・ナンバーはきっちり振られ、レーベル・コピーとジャケット表面はそれぞれアメリカのレコード会社によって印刷され、このケースとは違ったわけで、今回アルバムのリリース準備のための作業がほとんどか全くなかったことを、より確信させるものだ。

アメリカのレーベルもUKのレーベルも、マテリアルから(異なった)アセテート盤を用意した。これは当時の慣習だったし、主にスタジオ周辺の反応を得るのが目的であり、リリースされるアルバムの内容を自動的に意味するわけではなかった。しかし言い伝えによれば、アルバムは『A Hole In The Sock Of...』と名付けられた。おそらくこれは実現しなかった2つのキンクス・プロジェクトの仮タイトルだった。そしてどちらかといえば、デイヴというよりむしろレイ・デイヴィスのソロ・アルバムにふさわしいタイトルだった―このタイトルは、2年前のインタビューの中でレイが作り出したものだった。そのコメントは単に彼がふざけてトラフィックの“Hole In My Shoe”と(あるいは)ビートルズの大作“A Day in the Life”をもじったものだった。

しかしながら、テープとアセテート盤は、1960年代に提案されたデイヴ・デイヴィスのソロLPの内容にもっとも近い。このCDの最初の13曲は、ワーナー・リプリーズがまとめたアセテート盤を再現している。このCDに入っている公式リリース・シングルのヴァージョンが、あるいはみなが予想するような単純なあの時代のステレオ・ミックスではないのは興味深いことだが、むしろ新鮮で活気にあふれ、ところどころモノ・リリース・ヴァージョンと著しい違いがたしかにあるトゥルー・リミックスだ。

“Susannah's Still Alive”のステレオ・リミックスは、もともと1968年の不運なアルバム『Four More Respected Gentlemen』に収録予定だったヴァージョンで、前述のワーナーによるアセテート盤の最初のトラックとして加えられた。これは当時USリリースがなかったということで意外な配置であり、曲の時間を長く表示してあった。パイのアセテート盤は“Susannah's...”を含まず、曲の配列が異なっていた。

もしデイヴのソロ・キャリアが成功していたら、“This Man He Weeps Tonight”と“Mindless Child of Motherhood”がそれぞれ彼の5枚目と6枚目のシングルとなっていただろう。“This Man He Weeps Tonight”は9月にシングル・リリースの予定であるとして、大ざっぱに鉛筆で書かれていた。おそらくありうるLPのリリースと抱き合わせであることを示しているのだろう。

ここから先の真相が追跡できなくなり、“Mindless Child of Motherhood”と“This Man He Weeps Tonight”は、キンクスのシングル、“Drivin'”と“Shangri-La”のB面として、それぞれ再び割り当てられた。クレジットには“The Kinks featuring Dave Davies”とあるにもかかわらず・・・。これはたぶんオプションを維持し、“キンクス”と“デイヴ・デイヴィス”の名前両方を世間の目にさらしておくための処置だったのだろう。しかし現実には、当分の間この処置がデイヴ・デイヴィスのソロ・キャリアの終了の前兆となっていた。

このデイヴの2曲は間違いなく、この時期のキンクス最高の瞬間と肩を並べるだけに、残念なことだ。レイのことばを引用すると・・・「B面がA面を食ってしまった時期だね」 またこれは彼らがB面にこれほどのクオリティを注ぎ込めるほどの余裕があった時期として、キンクス作品の質に関して重要な意味をもっている。それはほとんどあり余って困るほどの財産だった。残念ながら、これはまたデイヴ・デイヴィスのソロ・レコーディングへの関心がどれほど小さくなっていたかを示している―とりわけこれらがレコーディングされたばかりであることを考えれば。アルバムは8月末にリリースされる予定だという、熱の入らないプレスによる告知が7月に載った。これは人々が目にすることができたほとんど最後のアルバム・リリース告知だった。

多くの状況が、1969年秋にデイヴ・デイヴィスのソロ・アルバムをリリースすることを阻んでいた。特に10月には、キンクスは強制的(法的)に禁じられていたアメリカン・ツアーを4年ぶりに再開し、ツアーの直前には大西洋の両側で『Arthur』がリリースされた。LP『Arthur』とセットのはずだったグラナダTVの放映と台本は依然、計画進行中だった。しかしソロ・パフォーマーよりも、バンドの一員でいることを好む当時のデイヴを見逃すべきではない。もっと簡単にいえば、タイミングと勢いは過ぎ去っていた。続く1年にわたり、様々なデイヴ・デイヴィスのソロLP復活の案が現われた。その中には、キンクスとしての2枚組アルバムの1枚を、デイヴ・デイヴィスのソロLPにするという案もあった。デイヴは古い歌の練り直し、あるいは破棄について語り、さらにいくつかのマテリアルについての不満を匂わせた。1971年にキンクスがRCAレコードと契約するまでに、デイヴ・デイヴィスのソロLPリリースへのわずかな望みはテープ倉庫へと消え去っていた。

今回やっとのことで、デイヴのパイ・シングルとともに、ソロ・アルバムの中核を形成するはずだったレコーディングの数々を一ヶ所に集めることができ、キンクスのカタログの中で正当にそれらの存在が認められることになった。

デイヴ・デイヴィスは1980年についにソロ・アルバムをリリースした―商業的成功を収めたハード・ロッキンな『AFLI-3603』/『Dave Davies』(USとUKでタイトルが違った)だ。これに続いたのが、1981年の『Glamour』と1983年の『Chosen People』だった。以後デイヴは高く評価されたCDを何枚か制作し、今も彼の仕事はニュー・アルバムに向けて進行中だ。それは2012年にリリース予定となっている。


ラッセル・スミス 2011年4月
デイヴ・デイヴィス、ダグ・ヒンマン、ビル・オートン、そしてデイヴ・エムレンに感謝する。



ホームへ