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The Damned/Tales From The Damned/1993 Cleopatra CLEO 71392



一体誰がダムドがパンクの中でこれほど偉大な生き残りになると想像しただろうか?他のバンドは音楽史の中でもっと大きな足跡を残したし、その中枢メンバーはもっと商業的成功を収めたかもしれない。しかし不屈の頑固さと永遠の発明品を創り出し、その質と量を伴っていまだに最前線に居残っているこのバンドは非常に稀な存在である。

彼らはその歴史において、自身の主張を保持している。英国パンクの中で真っ先にシングルをリリースし、アルバムをリリースし、アメリカツアーを敢行しそして真っ先に解散したのである。

しかし度重なる再結成、そのどれもが過去最大のヒットを記録し、そして最も愛されるバンドとして成功を樹立したのである。

このCDに収録された数々のナンバーはおそらく最も人気の高い時期に当てはまるだろう。

オリジナルダムドは1977暮れに一旦解散した。直前にセカンドアルバムMusic For Pleasureがリリースされたが、4人はそれぞれプライヴェイトな活動を続けた。ギターのブライアン・ジェイムスはTanz Der Youthを結成し、クレオパトラ・レコードの他のバンドに参加した。ニック・ターナーはロンドンのヒッピー集団にいた。ドラムのラット・スキャビーズはThe White Catsを結成し、ジョン・ピール・セッションで2度レコーディングを行った。ベースのキャプテン・センシブルは The Softies,Johnny Moped,Kingなどに参加あるいは結成した。そして1度のピール・セッションを行っている。ヴォーカルのデイヴ・ヴァニアンはグラムロックのThe Doctors Of Madnessに参加した。

しかし彼等にとっては厳しい時期が続いた。1978年の夏、キャプテン、スキャビーズ、ヴァニアンは場当たり的なバンド、Les Punksを結成し、モーターヘッドのレミーを迎えた。その直後、Chelseaのベーシスト、ヘンリー・バトウスキがレミーに代わり参加した。この時点でキャプテンはギターに持ち替え、バンドをThe Doomedと変名した。そこから本格的なダムド再編へ至るまでに時間はかからなかった。そしてオリジナルダムドの味わったことのない最初の成功がもたらされる事になる。

再結成して1年以内にダムドは、3枚のシングルヒットを出し、次の7年間にさらに12枚のヒットを記録した。彼らは1980年代を通して最も堅実なチャートアクションを樹立した。”Love Song””Smash It Up””History Of The World”そして”Sanity Clause”などは大西洋の両側で、オルタナティヴ・ラジオの重要なレパートリーとして存在し続けた。そして多くの人々にとっての真のダムドの楽しみはシングルのB面に隠された宝物であった。例えば、”Teenage Dream””I'm So Bored”は1982年のシングル”Lively Arts”のB面に収録されるまで長い間ファンにとっては夢の一枚であった。”Teenage Dream”は元々ほとんど見かけないコンピレーションアルバムが初出であった。それは1980年、ロンドン・ムーンライト・クラブからリリースされ、The Moonlight Tapesと名付けられていた。ダムドはThe School Bulliesの名でクレジットされていたため、多くの人は最初見逃してしまったが、その真相が明らかになった時にはそのレコードは廃盤になって久しかった。

一方”I'm So Bored”はフランスだけでリリースされた”New Rose”の再発のB面であるライヴヴァージョンのスタジオテイクであった。その曲は4人で書く必要があった―つまりキャプテン、ラット、ヴァニアン、新ベーシストのアージー・ワードである。しかしラットによるとそれは簡単だったようだ。「基本的に僕とキャプテンがだらだらと片付けたよ」他のインポートオンリーは”Seagaulls”だ。これは1980年にドイツで出された”White Rabbit”のシングルB面としてリリースされた。他で重要なのは”Burglar”だ。ダムド/ドゥームドが最初1978年に再召集され、レコーディングされた曲で、The Dodgy Demoとして独立系レーベルからリリースされた。A面は”Love Song”で1979年4月、この最初のヒットシングルは再レコーディングされた。半年後の”Smash It Up”のB面で再び現れるまでこの”Burglar”は聴かれる機会がなかったのである。

アージーはダムドに1年間以上は在籍しなかったが、彼が去る前モーターヘッドのレミーと共にこの騒がしい再結成に加わっている。バンドはまさにモーターダムドの様相を呈していた。モータヘッドのシングル”Bomber”のB面が”Over The Top”だ。これはダムドのやり方が正しいことを示したものだ。この2曲は今なおモーターヘッド最大のヒット曲である。

1980年秋、エディ&ザ・ホットロッズにいたポール・グレイがThe Black Albumでデビューし、このスタジオ/ライヴ2枚組アルバムは瞬く間にトップ30を駆け上がった。

セッションはダムドのこれまでで最も生産的なものとなった。アルバムのリリースに伴って象徴的な2曲のアウトテイク、”I Believe The Impossible””Sugar And Spite”が”History Of The World”のB面としてリリースされた。それから1980年暮れ、スペシャルリミックスの”Anti-Pope”、ライヴアウトテイクの”Looking At You”が”Sanity Clause”の12インチシングルに収録された。ダムドはさらにヒットシングルを放ちその年を締めくくった。

バンドは1981年のほとんどをツアーか新しい契約先の物色に費やした。彼らは当時の成功にもかかわらず、新しい方向性を模索していた。時代はパンクの再燃にあった。 Vice Squad,The Angelic Upstarts,The Anti-Nowhere Leagueらはダムド同様の雰囲気を持っていた。後にラットは語っている。「オレはぶっ壊すためなら何でもやったよ。古臭い屁みたいなのには飽き飽きだね!」声明を出すこともなくバンドは翌年をオフにする事に決定した。

その前にバンドは4曲入りEPを発表した。ストレートなストーンズのカヴァー、”Citadel”始め、 ”Billy Bad-Breaks””Disco Man””The Limit Club”はラットの悲観的なコメントに反して素晴らしいものだ。1981年11月にリリースされたFriday The 13thはダムド史上最重要のEPである。バカらしくてシニカルで、混沌としていてスタイリッシュ、エレクトリックで風変わりだ。最も愛されている時期であるこれらのクォリティは次作Strawberriesへの圧倒的な伏線となるものであった。

もちろん今日も記録されるべき物語は続いている。デイヴ・ヴァニアンは新バンドThe Phantom Chordsで活動、ラットはマイク・モンローとバンドを結成、キャプテンは相変らず個性的で一風変わったソロアルバムをリリースし続けている。

ダムドは再び睡眠状態に入っている。しかし誰にもダムドが死に絶えたとは言えないだろう。そのバンドの歴史と性質において、彼らの消滅はいつも誇張されてきた事を示している。彼らが戻ってくるまでこのアルバムに没頭していればいいのだ。

デイヴ・トンプソン/オルタナティヴ・プレス・マガジン編集者


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