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The Damned/Punk Generation Best Of Oddities & Versions/2004 Anarchy Music ARY 8000-2



ある一時期、伝説のLondon SSのラインナップには、元Bastardのブライアン・ジェイムス(別名ブライアン・ロバートソン―ギター)と元Torのラット・スケイビーズ(別名クリス・ミラー―ドラムス)両方が在籍していた。ブライアンはラットこそ彼がずっと探していたドラマーだということを直ちに察知した(ブライアン:“ラットがやって来た時に奴はとんでもない本物だと知ったね。奴は自分のドラムをどうにか生かしたくてうずうずしてたんだ。”)。2人は自分たちのバンドを結成すべく、すぐにLondon SSを逃げ出した。ベース・プレイヤーを探していた時、ラットは信頼できる男、レイ・バーンズに話を持ちかけた。レイ・バーンズ―旧姓レイモンド・イアン・バーンズ。別名Eats(彼はメシを食い終わるまでは何でも拒否した)。または別名Edna(Dame Edna Beverage)、または別名Duane Zenith(バーンズ自身が使っていたステージ・ネーム)、そしてまもなく定着することになるキャプテン・センシブルとなる。彼はフェアフィールド・ホールでトイレ掃除をやっていた。76年初頭のこの頃、バーンズは初期のJohnny Mopedでだらだらとギターをいじくりもてあそんでいた。

Mopedsから抜けるようレイを説得したあと、ブライアンとラットは彼の頭髪を短く刈り込ませ、ベースを持たせた。このトリオはごく短期間、ニック・ケントと彼のバンド、サブタレイニアンズとともに活動したが、彼らは自分たちのシンガーを探し始めた。すぐに2人の候補者がオーディションを受けることになった。そのうちの一人、シド・ヴィシャスは・・・現われなかった。しかしもう一人、Dave Vanian(最初の頃メディアからは誤ってVaniumと呼ばれていた。旧姓David Lett, Lettsではない!)が現われ、その結果、彼がヴォーカリストの座につくことになった。ヴァニアンはごく限られた音楽的経験しかなかったが、なぜ彼がオーディションに呼ばれたかというと、ジェイムスによれば、“シンガーみたいに見えた”からだそうだ・・・。

実際、ヴァニアンはすでにラット、キャプテンとともに短命に終わったバンドでプレイしていた。またそのバンドはクリッシー・ハインド(ギター)とデイヴ・ホワイト(別名デイヴ・ゼロ―ヴォーカル)をフィーチャーしていた。これは2人のヴォーカリストを擁した奇妙なバンドだった。一人が短い黒髪のヴァニアン、もう一人が長髪でブロンドのデイヴ・ホワイトだった。ハインドはバンドの名前としてMike Hunt’s Honorable Discharge(マイク・ハントのあっぱれな射精)を提案していたが、彼らはもうちょっと不快な匂いのしないMasters Of The Backside(裏庭の名人)に決めた。76年初頭、このアンサンブルは本質的に、ミュージシャン間の適正を計るための数え切れないほどの実験を繰り返すバンドだった。ざっと見てMasters Of The Backsideはバーニー・ローズとマルコム・マクラレン以外の何者でもなかった。マクラレンが初めてバンドのリハーサルを目撃してから4日目に彼はバンドを解散させた。つまりセンシブルがいうには、“完全にガラクタ”だったからだ。

ついにザ・ダムドとなる時がやって来た。彼らは自らの名をヴィスコンティの1969年の同名の名画(のちに“Village Of The Damned”となる)から触発され引用した。1976年6月にLisson Groveで土曜に4つの控え目なライヴを敢行した後、ザ・ダムドは1976年7月6日に初の公式ギグを100クラブでセックス・ピストルズの前座として行なった。

ザ・ダムドのセカンド・ギグはセント・オールバンズ(イングランド南東部)で行なわれた。シェイン・ブラッドリー(訳注:のちのポーグスのシェイン・マクガワンとパンク・バンド、Nips, Nipple Erectorsを組んでいた):“オレはラットを知っていた。奴はセックス・ピストルズのローディーで、彼らとセント・オールバンズに行ったことがあった。オレが100クラブで彼ら(ザ・ダムド)を見た時はピストルズの前座で、ピストルズは次の晩セント・オールバンズ・アート・スクールでプレイすることを拒否したんだ(4回目だった!)。オレが素晴らしくイカしていたと思ってたダムドをブッキングしていたからなんだ。ダムドの連中は100ポンド分の酒を飲んで忘我状態だった。無数のビールのトレイがバンドめがけて飛び交っていたね。彼らは酒びたりになったフロアの上を転げまわっていた。幸いにも感電しなかったんだけど。それで彼らはオレのうちに戻ってきて、おふくろのウィスキーを全て飲み干して一晩中ピアノをぶっ叩いていたよ。”

パブ、R&B、ブギの商売人アーチストの一団の中にあって、基本的に純粋のパンク・ロッカーだったザ・ダムドは、1976年8月21日、ボルドー(仏南西部)で行なわれたモン-ド-マルサン・パンク・フェスティヴァル初日に聴衆の心をたちまちつかんでしまった。モン-ド-マルサンへの行き帰りのバスの中で、ザ・ダムドは名声あるロックンローラーたちの間で完璧などんちゃん騒ぎを引き起こした。レイ・バーンズのふるまいはショーン・タイラーをしてキャプテン・センシブルと名付けられることになった。ラット・スケイビーズはニック・ロウの着ていたエディ・コクランのTシャツに罰当たりなことを抜かしてしまった。バスに同乗してこの光景を目撃していたのが、スティッフ・レコーズのジェイク・リヴィエラ(本名アンドリュー・ジェイクマン)だった。即座にリヴィエラは他の誰かに出し抜かれる前に、この変人たちと契約することを心に留めておいた。

次世代に道を切り開くことになったまさに初の真正パンク・シングルが、ブライアン・ジェイムスの書いた“New Rose”であり、これは1976年10月22日にスティッフの型番BUY 6としてリリースされた。“New Rose”は躁病的なスケイビーズのドラミング、容赦なく唸るセンシブルのベース、ジェイムスのピッキング・ワークの猛攻撃に、気絶するような派手なヴァニアンのヴォーカルで成り立っていた。しかし長きに渡って確立されてきた音楽界は、1976年のNME 20ベスト・シングルにこれを入れることをためらってしまった。時代の最先端を標榜する雑誌としては、全く言い訳の立たない行為だった。“New Rose”がリリースされた時、またたく間にメイルオーダーと専門店で4,000枚が売り尽くされた。これはユナイテッド・アーチスツにディストリビューションと次のようなプレス・リリースを促すことになった。‘パンク・ロック勃発―ザ・ダムド:“New Rose” c/w “Help” 今までこのシングルはメイルオーダーか専門店のみにより入手可能だった。ブリティッシュ・パンク・ロック・グループ、ザ・ダムドの“New Rose/Help”に対する空前の需要は、スティッフ・レコーズとユナイテッド・アーチスツとの間に、すぐにレコードを全国発売することについての特別な合意を必要とした。’ この当時、いくつかのレコード会社はパンク・ミュージックが商品として成り立つかどうか明らかに懐疑的な目で見ていた。しかしそういった心配はザ・ダムドの“New Rose”の飛躍的な成功によって一掃されてしまった。

またザ・ダムドは1976年に初のジョン・ピール・セッションを行ない、11月30日に“Stab Your Back”、“Neat Neat Neat”、“New Rose”、“So Messed Up”そして“I Fall”を収録した。ザ・ダムドの強烈に説得力あるスピード・パンク・ロックは4人の特異な個性から成り立ち、77年に出現したバンドの中で間違いなく最も視覚的に目を引く存在だった。墓堀人からヴォーカリストに転身したデイヴ・ヴァニアン(“今オレが欲しいのは霊柩車だ”)は、薄気味悪いドラキュラ伯爵に似ている。ギタリストのブライアン・ジェイムス(“オレたちはただステージに上がってできる限りの騒音をブチかましたいだけなんだ”)は、ニュー・タイプのマッチョ・リード・ギタリストだ。フットボール・フーリガンのラット・スケイビーズ(“オレは物をぶっ叩くのが好きなんだ”)は、この周辺で断然最高のドラマーであり最も大口叩きだ。ベースのキャプテン・センシブル(“オレは蟻とヤレる”((それだけモノが小さいということ)))は、この100年間にUKが生んだ唯一無二の変人である。

パンク旋風が加速され“New Rose”が成功したことによって、スティッフはアイランド・レコーズと配給契約を結んだ。その結果、ザ・ダムドの“Neat Neat Neat”が1977年初頭のアイランドのサンプラーLP、“Island 45’s”に収録された。これは今では希少となった無地のスリーヴに収められた片面のみのアルバムで、タイトルのみがゴム印で押されていた(いくつかはコピーのインサートが封入されていた)。

ザ・ダムドのトレードマークは飾りのない騒々しさとザ・ストゥージズ、MC5の流れを汲む強力なパンク・ロックだったが、時折ラモーンズさえも凌駕するような高速テンポでプレイされた。彼らがデビュー・アルバムの最後を締めくくったべらぼうにスピード・アップされたテイクが、イギー&ザ・ストゥージズの“I Feel Alright”(別称“1970”)無制限エキサイト・ヴァージョンだったのも納得できる。

ふさわしく名付けられたザ・ダムドのファースト・アルバム、“Damned Damned Damned”は徹底した灼熱ロックンロールの総攻撃であったが、グレイトなリフと気の利いたフック・ラインが満載だった。VUメーターの針は最初から最後まで常にレッド・ゾーンの中だ。このアルバムはまたスティッフ・レコーズに初のチャート入りをもたらした(最高36位)。バンドは猛烈に速いテンポで演奏しているが、全てに渡って完璧にタイトさを保つことに成功している。これらヴィンテージのパンク・ソングの数々をプレイすることは、彼らに目一杯のエネルギーを要求するが、決して演奏自体は混沌に陥ることはない。1977年において、このアルバムは人々に急行列車が最速で轟音を立てるがごとく響いていた。サウンドは“抑制された暴力”(Controlled violence)を称していた。“Damned Damned Damned”はレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジに深い感銘を与え、彼はツェッペリンのツアー中、いつもノンストップでアルバムをプレイし、周りの者たち全てを狂喜乱舞させていた。ブライアン・ジェイムス:“オレたちはそれ(‘Damned Damned Damned’)を1回のギグとしてレコーディングしたんだ。オレたちはスタジオに入ってブチかましたってわけだ。”

ザ・ビートルズを通り抜けてきたパンクスたちは、ダムドによるレノン/マッカートニー“Help”のジェット戦闘機ヴァージョンで完敗したと感じたに違いない。ザ・ダムドはビートルズの倍のスピードでそれをプレイし、そのことによって印税の支払いを半分に済ませようとしたのも全く理解できるものだ(訳注:凄い論理です)。

ザ・ダムドは“Damned Damned Damned”でもうひとつのパンクの栄誉を獲得した。それはまさに初のパンク・アルバム・リリースとして見なされたのだった。アルバムからのシングル、“Neat Neat Neat”が1977年の2月にリリースされた(初回版シングルはプッシュ・アウト・センター、のちにソリッド・センターとなった)。2月の間、ザ・ダムドは全国TV番組Supersonicに出演していた。番組の最後のアーチストは次回のアーチストなどを紹介することになっていた。しかしクリフ・リチャードは自分の出演が終わった時、うつろな表情で次回のショーのバンドを紹介することを拒否した。次回の出演はザ・ダムドだった。

初回版の“Damned Damned Damned”は表に大きなオレンジ色のステッカーが貼られ、裏にはザ・ダムドの代わりにエディ&ザ・ホッロッズの写真が載せられ、それを絶賛した誤ったステッカーが貼られシュリンクラップされてリリースされた。これはいうまでもなくスティッフの陽気なたくらみだった。この即席コレクターズ・アイテムは2,000枚がリリースされた。さらにレアなレコードとして両面がSide2の“Damned Damned Damned”が存在した。

“Fish”はLondon SS時代のブライアン・ジェイムスとトニー・ジェイムスが書いたナンバーだった。ブライアン:“詞は変えたよ。オレはトニーへのちょっとした仕返しのつもりでダーティーな詞をつけたんだ。オレはいつもトニーのことをセックスに無関心な奴だと思っていた。” また“Alone”(次にリリースされたLP“Music For Pleasure”収録曲)はブライアン・ジェイムスがBastard時代に“Comfort”というタイトルでプレイしていた古い曲だった。ザ・クラッシュ、セックス・ピストルズと違って、ザ・ダムドは陰で糸を引くバーニー・ローズあるいはマルコム・マクラレンとは関係していなかった。ザ・ダムドは元ドクター・フィールグッドのローディーで、デイヴ・ロビンソンとともにスティッフ・レコーズの創設者だったジェイク・リヴィエラによってマネージメントされていた。ジェイクはマスタープランを持たず、基本的にバンドに対し自由放任主義の立場をとっていた。彼はザ・ダムド自身がそうであったように、面白半分で関わっていた。“ライヴ・シーンで彼ら(ザ・ダムド)は最もエキサイティングなバンドだった。” Mark PはSniffin’ Glueの中でザ・ダムドのことをそう述べた。バンド、Warsaw Paktのアンディ・コルクホーンは単刀直入にこういった。“ザ・ダムドはその時(1977年)のベスト・バンドだった。” パンクを支持していたスターの一人、マーク・ボランは77年3月の彼のツアーにザ・ダムドをサポート・アクトとして起用したいと申し出た。ザ・ダムドはこうしてメジャーなアーチストと共にツアーする堅固なパンク・バンドとなった。

ザ・ダムドがUSAでプレイした初のUKパンク・バンドとなったことで、アメリカ人たちは新しい領域であるブリティッシュ・ニュー・ウェイヴを初めて体験することになった。77年4月にザ・ダムドがUSのローカル・シーンに及ぼしたインパクトと影響は、過度に強調することはできないが、77年の春にザ・ダムドを目撃した3つのアメリカのバンドの意見が存在する。“ザ・ダムドが町(ロサンゼルス)にやって来た。芽吹きつつあるパンク・アンダーグラウンドの中枢ポイントだった。”(クレイグ・リー((安らかに))―ザ・バッグス、ロサンゼルス・タイムズの評論家)、“ザ・ダムドはUSツアーを行なった初のイングリッシュ・バンドだった。彼らは驚くべき存在だと思った。恐ろしく速かった。彼らはラモーンズの100倍のテンポでプレイした。”(ジェフ・ラファエル―ザ・ナンズ)、“Mab(Mabuhay―サンフランシスコ)でのダムドのショーはここいら辺でバンドをやっている奴ら全員が目撃したね。彼らはやって来てちょうど22分間ブチかました。全てがプレイされると、みんなは口をポカンと開けながらお互いに顔を見合わせた。その後バンドたちは変化し始めたと思う。曲は速くなってセット・リストはより簡潔になっていった。”(ジミー・ウィズレィ―ジ・アヴェンジャーズ)。

アメリカ西海岸でブライアン・ジェイムスとラット・スケイビーズは、ジョーン・ジェットが楽屋のバンドの電話をかけ始めた時に、殴り合いのケンカをおっぱじめた。マネージャーとしてザ・ダムドに同行していたスティッフ・レコーズのジェイク・リヴィエラは次のように主張している。“そもそもなぜ奴らがジョーンとケンカしたのか分からないんだ。彼女はすげえ巨乳ってわけじゃなかったし、奴らが触るはずないんだけどな。”

77年7月、ザ・ダムドは1周年を祝って元キンクスのプロデューサーだったシェル・タルミーがプロデュースした“Stretcher Case Baby”/“Sick Of Being Sick”を5,000枚のフリー・シングルとして配布した。サウンズ誌は次のようにいう。“キングス・ロードのポリスチレンのバミューダをはいたイタチの大群に牙をむきいがんでいるようだ” マーキーでの追加の記念ギグは、不幸にもザ・ダムドがマーキー自身の広告を伴った彼らのステージ写真(巨大なヴァニアンの写真)を背景に使うことを拒否したため、短縮されてしまった。また250枚のシングルがNMEの抽選を通じて配られた。“New Wave”のコンピレーションLPが7月にリリースされた時、ザ・ダムドはその中で唯一のUKパンク・バンドだった。ザ・ダムドがこの初期パンク・コンピレーションで“New Rose”によって飛び出したのは驚くことではない。ザ・ダムドはヴァーティゴ・レーベルとは何の関係もなかったが、パンク・バンドとして彼らだけがコンピレーションに参加する資格があるような見解を引き起こすことになった。まあ、そう思おうが思わまいがクソッタレ(Damned)ってことだ。サウンズ誌はアルバムに最高点の5つ星をつけた。ザ・ダムドは1977年にもう1枚のコンピレーションに参加した。すなわちLP“Hits Greatest Stiffs”で、彼らは“New Wave”のB面だった“Help”を提供した。

ザ・ダムドは現実的で政治的な発言はせず、ずうずうしいほど正直だった。このことは間違いなく彼らがパンク・エリートたちの格好の標的になることを促した。ザ・ダムドはまた、パンク界でのベスト・ミュージシャンだった。彼らは巧みに演奏できたし、すごくタイトにまとまっていたから、かけだしの多くのパンク・バンドの間ではうらやましがられる存在だった。自らを細部に渡って着飾っていたスージー・スーのような自称パンク・エリート主義者たちは、時折ザ・ダムドを否定していた。彼女はラット・スケイビーズとキャプテン・センシブルに向かって、彼らが“正しい装いをしていない”という理由で“真のパンクス”ではないと言っていた。彼女のバンシーズ(スージー&ザ・バンシーズ)の相棒だったスティーヴ・セヴェリンは、76年9月の100クラブ・パンク・フェスティヴァルでガラスびんが投げられ、一人の少女が失明した事件をあからさまに引用したことがある。“シド(ヴィシャス)がコップを投げたんだ。スージーと僕は彼の隣に立っていた。彼はザ・ダムドを狙っていたんだ。僕は彼のことを全面支持していた。僕たちのうちの3人がこういったんだ。‘このバンドに何があるんだ?ナンセンスだ。パンクでも何でもない。ただのパントマイムだ’ってね。” パンク一団の中に嫉妬に歪んだ者たちが頭角を現し始めていた。ブライアン・ジェイムス:“オレたちはパンク階級の気取ったエリート意識を毛嫌いしていたね。オレたちはセックス(パンク・ブティック)やセディショナリー(同)で売ってるような服は着なかったからね。”

自ら公言したパンク・エリートたちの好みは、主にセックス・ピストルズ、ザ・クラッシュ、そしてスージー&ザ・バンシーズから成り立っていた。ザ・ダムド、イーター、999、ジョニー・モーペッド、スローター・アンド・ザ・ドッグスのようなバンドはノンポリで彼らのそのイメージから生意気な存在として見られていた。エルヴィス・コステロも同様のことを体験した。“ザ・ダムドは最高のパンク・バンドだった。なぜならそこにアートなんて存在していなかったからだ。彼らは自分自身が楽しんでいただけだったね。” とにかくザ・ダムドはどんなことにも意を介さないようだった。彼らと駆け落ちしたスティッフ・レコーズにも同様のことがいえた。チズウィック・レコーズもまた彼らに大きな関心を示していたが、彼らがザ・ダムドを獲得するにはもう2年待たねばならなかった。ザ・ダムドの崇高で荒れ果てたサウンドによるライヴは、抗しがたい魅力があった。バンドはオーディエンスが唖然とするまでは満足しなかった。キャプテン・センシブルがつばを吐き散らす集団の中でバレエ用の短いスカート(tutu)をはいていれば、間違いなくグレイト・ダムド・ショーだ。彼はギグの最後にはベースを抱えたまま、床にゴキブリのように仰向けになってしまう。

77年8月の2度目のモン-ド-マルサン・パンク・フェスティヴァルに先立って、ブライアン・ジェイムスはバンドにセカンド・ギタリストを入れることを決めた。メロディ・メーカーにオーディション告知を打ったあと、20歳のロバート“ルー”エドモンズ(彼は自分の以前のバンドの名前を覚えていない)が、ズボンを下ろしたキャプテンとラットに罵倒を浴びせられる中、トリッキーなギターを完璧に披露し唯一生き残った。狂気の中をしばらく過ごしたのち、彼はフランスでダムドの一員としてデビューを飾った。この時ザ・ダムドがライヴでめったにプレイしなかったいかしたナンバー“Politics”(来るべき彼らのアルバムMusic For Pleasureから)が披露されたが、これは一緒にビラに載っていたザ・クラッシュに捧げられたものだった。

モン-ド-マルサンのあと、ザ・ダムドはベルギーのBilzenフェスティヴァルでプレイし、エルヴィス・コステロとともに英国へ戻った。コステロもBilzenのビラに載っていた一人だった。コステロがバスの中で酔いつぶれていた時、ラット・スケイビーズとキャプテン・センシブルは彼の口と鼻と耳に煙草の吸殻を詰め込み、吸殻で彼の靴が燃える前に両方の靴のひもを結び合わせておいた。コステロはすぐに“Neat Neat Neat”をカヴァーした・・・ 突然ザ・ダムドの次のアルバムを制作する時が訪れ、プロデューサーとしてシド・バレットに白羽の矢が立てられた。しかしその計画が頓挫すると、ニック・メイソン(ピンク・フロイドのドラマー)が代わりにプロデュースを担当することになった。バンド内には問題が起こり始めていた。ファースト・アルバムのほとんどを書いていたブライアン・ジェイムスはセカンドでも同じようにすることを主張した。グループ内に権力闘争が巻き起こったにもかかわらず、アルバム“Music For Pleasure”は1977年11月にリリースされ、賛否両論のレヴューを受けた。アルバムに1ヶ月先立ってリリースされたシングル、“Problem Child”(77年版はプッシュ・アウト・センターだった)は、チャート的にはほとんど振るわなかった。ザ・ダムドはガソリン・スタンドでベテランのLol Coxhillとばったり出くわし、Coxhillは“Music For Pleasure”にサックスで参加することになった。Lolはまた1977年の終わりにかけてザ・ダムドとともにライヴを行なった。“多くの奴らにつばを吐きかけられたね。僕はすごく有名になっていたに違いない。” Coxhillはのちに語っている。LPのクレジットはCoxhillの気前の良さに言及したDarrenに対し、感謝の念を表している。彼はスタジオでCoxhillを人間らしくもてなすよう主張していた。

“Stretcher Case Baby”はLPでは単に“Stretcher Case”と改められ、過去のシェル・タルミーのプロデュース作品と比べて骨抜きの劣等品だった。“Music For Pleasure”はバーニー・バブルズがザ・ダムドの漫画を隠した見事なサイケデリックなジャケットでリリースされた。明らかにこのダムドのニュー・アルバムをどう扱っていいのか分からなかったスティッフは、薄気味悪いメンバーの写真とともに“アンイージー・リスニング”の宣伝文句でキャンペーンを始めた。

ラット・スケイビーズが全てをやり終えザ・ダムドを脱退したのち、ジョニー・モーペッドのドラマー、デイヴ・バークがダムドのローディーも兼ね77年10月のヨーロッパ・ツアーまでバンドに手を貸した。スケイビースは同月、バークの代わりにジョニー・モーペッドのライヴでドラムを叩くために戻ってきた。バンドがイングランドに戻ってくると、新ドラマーのためのオーディションが行なわれた。最後候補リストには2人が残った。ジム・ウォーカー(カナダ人で元フューリーズ)とジョン・モス(元ロンドン、元エスキモー・ノバート、元ザ・クラッシュ、元ザ・ジップス 訳注:のちにカルチャー・クラブ)で、77年11月に後者がダムドの正式ドラマーとして加わることになった。11月下旬、ザ・ダムドはザ・デッド・ボーイズとともにUKツアーを開始した。ザ・デッド・ボーイズはその年の初めにニューヨークのCBGBでプレイしていた。

また1977年にラット・スケイビーズはタータン・ホード/ディスコ・ブラザーズのシングルのレコード・ジャケットのためにフォト・セッションを行なったが、彼はそこで一切プレイしていなかった(詳しい情報はニック・ロウの特別プロジェクトで見ることができる)。

ザ・ダムドを飛び出しハートブレイカーズのオーディションに失敗したラット・スケイビーズは、ザ・クラッシュのツアーをサポートするための単発バンド、ドランク・アンド・ディソーダリーを結成した。ドランク・アンド・ディソーダリーのギタリストは元クラッシュのキース・レヴィンだった。11月初旬、スケイビーズはもう2つの単発バンド、ザ・スピードミーターズ・フロム・ロシアとラット・スケイビーズ&ザ・ランナーズを結成した。彼はそれからティーンエイジ・ドリームという名のもとにメンバーを集め始めた。このバンドはもう一人のクラッシュのギタリスト、すなわちエディ・コックスをフィーチャーしていた。最終的にスケイビーズのバンドはザ・ホワイト・キャッツとして知られることになった。またスケイビーズは1977年1月にラリー・ウォレスとシン・リジィのメンバーとともに1回限りのギグを行なっていたことも特筆に値するだろう。

“Don’t Cry Wolf”(またはどちらかといえば“One Way Love”)がダムドの1977年最後のリリースだった。このシングルは1977年12月11日にリリースされ、ピンク盤(限定20,000枚)とブラック盤両方が入手できた。ピクチャー・スリーヴは付いておらず(100枚はデイヴ・ヴァニアンによって作られたという噂はヴァニアン本人によるとデマだ)、スティッフがバンドに対して興味を失っていたことを完全に示している。不幸にもシングルB面でしか聞けない価値あるナンバーを収録する手段は、アルバムからのそのままのカットである“Problem Child”と“Don’t Cry Wolf”によって放棄されてしまった。スティッフは実際に“Don’t Cry Wolf”/“One Way Love”をダブルDサイド・シングルとして流通させた。ピンク盤には両面に“D”と書かれてあったが、一方でブラック盤には“One Way Love”にA、“Don’t Cry Wolf”にAAとあり、これは“One Way Love”が正式なA面と思わせるような表示だった。これは“One Way Love”面に大きくAと表示されている珍しいA-レーベル盤として確認されている。さらに事態を混乱させたのは、A-レーベル盤の両面が誤って入れ替わってプレスされてしまったことだ。(78年初めにリリースされたプロモ7インチEP、Stiff FREEB2は型番BUY24の“Don’t Cry Wolf”が紹介されていたが、中身は“One Way Love”の切れ端が少し入っているだけだった!) 今日の共通認識では“Don’t Cry Wolf”がA面であるが、これは海外盤のピクチャー・スリーヴ全てがこの曲をA面として表示してあった事実からの推測に過ぎない。

ジェイク・リヴィエラがスティッフを去ったあと、レーベルはザ・ダムドに対する関心をほとんど失い、こうして“Don’t Cry Wolf”はグループのスティッフ・レコーズでの遺作となった。1977年12月31日までに、スティッフは事実上ザ・ダムドに対する債務から脱した。

By Henrik Bech Poulsen
このラーナーノートはまもなく出るSeventyseven, A Book On UK Punk 1977からの抜粋である



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