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The Damned/Damned Damned Damned Deluxe Edition/2007 Sanctuary Records Group Ltd. CMETD 1453



彼らのファースト・アルバムDamned Damned Damnedは今なおスリル満点だ。その新鮮さ、エネルギー、そして破壊的な音楽的許容量にはいささかのくもりもない。英国初のパンク・アルバムに違いないこの作品は今も不変だ。

Damned Damned Damnedは絶対的に古くならない。オリジナル・ナンバーで猛攻撃を仕掛けてくるDamnedは、決してメロディがそのパワーの犠牲になっていない点において全く独特であった。それはその後登場し成功した数々の音速バンドのひな型となったのだ。

このDamned Damned Damnedの特別30周年版はそのアルバムとギターのブライアン・ジェイムス、ドラムスのラット・スケイビーズ、ベースのキャプテン・センシブルそしてシンガーのデイヴ・ヴァニアンとしてのバンドの全てが詰まっている。初期デモ、全てのシングルB面、ジョン・ピール・セッションズ、猛烈なBBCのIn ConcertそしてレアなシングルStretcher Case Baby/Sick Of Being Sickだ。それは最初のバンド解散を告げるシングルであり、ギターのルー・エドマンズを加え5人編成となるまでの最後の歓呼となった。加えてここにはブートでも聞けなかった彼らの初ライヴが収められている。今あなたが手にしているのはThe Damnedのまさに最初の1年だ。どの時代、どのバンドにとって最も特別な最初の1年である。

1976年、バンドはどこからともなく突然現れ、その攻撃性と熱意によって無類の一団となったかのように見えるが、The Damnedのオリジナル・メンバーたちはみな様々な経歴を持ち、パンク以前から音楽シーンに身を投じていた。

Brian:“オレはガキの頃はロングヘアーだったから厄介者だったんだ。で今度は短髪になるにはちょっと歳を取り過ぎていた。除け者になるのは慣れたね。全くクソみたいなことだ。”

Captain:“オレはザ・ピンク・フェアリーズにハマっていたんだ。奴らは独自の主張をどっさり持ってたね。ピンク・フェアリーズが出演したフェスティヴァルに行った時、彼らは会場の外のトラックの上で演奏を始めたんだ。ファンたちがその時のフェスティヴァルに金を払うのはおかしいって考えたからさ。民衆のためのバンドだった。ソフト・マシンも好きだったな。あのファズ・オルガンがね。ヒュー・ホッパーはすごくアナーキックでファンタスティックだった。アコースティック・ギターにも同じことがいえると思う。彼らは反逆者だった。”

Rat:“オレはとにかくドラムが好きだった。TVでエリック・デラニー見たときに分かったんだ。これがオレのやりたいことだってね。ジャズは(エリック・デラニーでもバディ・リッチでもサンディ・ネルソンでも誰が叩こうが)ドラム・ソロが入ってるから最高だね。オレはギタリストやベーシストと一緒にプレイしたくなかったんだ。ドラムの音が好きだったからな。”

Captain:“オレは前にラットに会ってたんだ。あいつはTorってバンドにいた。以前はRotっていうバンドだった。The Mopedsがギグをやってて、そいつらは同じビラに載ってたんだ。やつらはオレたちよりずっとよかったね。オレたちは自分たちをアヴァンギャルドだと思っていた。実際のところ演奏できないって意味だけどね。コルトレーン・タイプのサックスでめいっぱいアップテンポでやってたよ。”

Rat:“オレは人にTorって名乗るのが我慢できなかったんだ。オレのバンドじゃなかったからな。スライミーってやつのバンドだった―サイモン・フィッツジェラルドだ。で、奴はSlimey Toadって名前にしたんだ。ギタリストはジョニー・モーペッドだった。奴のお気に入りはジェフ・ベックの‘Blow By Blow’だったんだが、ああいうプレイは全然できなかったな。オレは(ブライアンのダムド以前の)Bastardは見たことがなかった。奴らは伝説的存在だったな。サセックスでよくギグをやっててオレは奴らが来るのを待ってたんだ。その後Bastardのブライアンを初めて見た時は、他の全てがちっぽけな世界に見えたね。”

週刊音楽誌メロディ・メーカーの小さな告知のコーナーにThe Damnedが結成されたことが告げられた。ミック・ジョーンズ(後のThe Clash)とトニー・ジェイムス(後のGeneration X)は拠点となっていたパディントン駅近くのカフェでThe London SSのリハーサルをしていた。1975年7月、彼らはメンバー募集のためメロディ・メーカーに広告を載せた。影響を受けたのはローリング・ストーンズ、モット・ザ・フープル、ニューヨーク・ドールズそしてストゥージズ―それをミックスしてメインストリームに対抗して注意を惹きつけるような普通ではないバンドを目指すとあった。

1975年8月、ブライアン・ジェイムスがオーディションを受け、ロンドンSSに加入するためにベルギーから戻ってきた(彼はその地でBastardとして活動していた)。ドラマーのクリス・ミラーは12月にオーディションを受けたが、彼はそれまでずっとテストを受けたがっていた。この頃ミラーの部屋の床にはネズミが走り回っていたため、彼はRat Scabies(ネズミの皮膚病野郎)と命名されたが、実は彼は本当に皮膚病にかかっていた。やがてラットの友人Ray Burnsが連れてこられた。

Rat:“オレはメン募を通じてずっと自分のほしい音を探していたんだ。オレは奴らが本当に特別な人間を入れたいと思ってないならオーディションを受けるつもりはなかったね。ミック・ジョーンズとトニー・ジェイムスは誰でもオーディションを受けさせていた。奴らはいったんギターを持つと人を見下すんだ。ブライアンも最初はそうだったが、しばらくするとオレのプレイを気に入ったんだ。オレとブライアンは一緒にやっていくことになった。ブライアンはオレと組むためにLondon SSを抜けたんだ。両立なんてありえなかったからね。”

Captain:“ラットはこれからやってく音楽について凄いアイデアを持ってる奴に会ったと言ってたよ。オレはフェアフィールド・ホールっていうコンサート・ホールのトイレ掃除人で奴は床掃除をやってた。ファイヴ・オクロックってところで奴と一瞬、一緒に掃除の仕事をしたんだが、奴は‘またな’っていったよ。オレは興味をもったね。”

Brian:“ダムドをやる前にラットとオレは[音楽ジャーナリストの]ニック・ケントとバンドをやったんだ。奴は変なライターだったよ。奴のガールフレンドもね。リハの半分くらいはジョニー・キッドの‘Please Don’t Touch’をやってたな。”

Captain:“The Masters Of The Backsideとして2日間のリハーサルをやった。それはマルコム・マクラレンのアイデアだったね。ラット、オレそしてクリッシー・ハインドはみんな歌いたがらずにギターを弾いたんだ。デイヴとある奴(こいつもデイヴ)は全く正反対のデイヴだった。一人は白い短髪に白い服を着ていてデイヴ・ゼロっていう名だった。もう一人のデイヴ(ヴァニアン)は全てが黒だった。オレたちはいくつかのカヴァーを覚えたよ。トロッグスの‘I Can’t Control Myself’とか。二人のデイヴは交互に歌うんだけどオレとクリッシー、ラットはみんな大声を上げて笑ったな。凄くワイルドだった。マクラレンがリハーサル代と食い物代を払ってくれたからオレたちはやったんだ。でも奴はオレたちはモノにならないと思ってた。クリッシーはバンドをMike Hunt's Honourable Discharge(マイク・ハントのあっぱれな射精)って名付けたがってたよ。”

Rat:“結局うまくいかなくなったんだけどオレはブライアンと出会って一緒にバンドをやろうぜってことになったんだ。まずはシンガーが問題だった。で、ナッシュヴィル・ルームでシド・ヴィシャスを見つけた。ファンタスティックだった。ルレックスの折袖なしのだぶだぶの上着に逆立てた頭髪でホントに目立ってたな。ブライアンはシンガーにピッタリだといって、奴に話しかけてリハーサルをしたんだ。同じ晩デイヴも見つけてブライアンはデイヴのことも気に入ったんだ。ニューヨーク・ドールズのジョニー・サンダースみたいにふくらんだ頭髪はネバネバしてそうだった。奴はいつも黒のレザー・ジャケットを着て、細いぴったりしたズボンをはいていた。いつもオシャレだったね。シドはリハーサルに現われることはなかったが、デイヴは全く凄かったな。”

Brian:“バンド名には二つの元ネタがあるんだ。一つは古いヴィスコンティの映画Dirk Bogardeだ。それとジョン・ウィンダムのThe Midwich Cuckoos、(映画)Village of The Damnedだ。オレは子供の無邪気さとヴィスコンティの映画のイメージが好きだった。”

Captain:“オレはすごくいいと思ったね。The Damnedってネーミングは4人をよく表わしていたな。”

新しいバンドはマルコム・マクラレンとジョン・クリヴィン両方の会計士をしていたアンドリュー・チェゾウスキをマネージャーとして選んだ。セックス・ピストルズのマネジメントとキングス・ロードでSexという店を経営していたマクラレンは、その頃最重要人物だった。クリヴィンもキングス・ロードでAcme Attractionsという店を出していて、まさに起ころうとしていることに敏感に気づいていた。しかしチェゾウスキはチェルシー(初期において彼らは元London SSのベーシスト、トニー・ジェイムスをフロントに立てていた)をマネジメントしていたクリヴィンよりも新しいバンドを見つけ出すのがうまかった。ダムドはお偉方がマクラレンの始めていたことの一部分で張り合っていたその時にはすでに結成されていたのだ。

1976年6月、チェゾウスキはダムドの最初のギグの準備にとりかかった。セッションはラドブルック・グローヴ近くのウォリントン・クレスント47aにあるマット・デンジャーフィールド(後のBoysのメンバー)が経営していたスタジオで行われた。I FallSee Her ToniteFeel The Painの3曲が録られたがバンドの音はすでに完全に出来上がっていたことを示している。

6月6日、セックス・ピストルズの前座としてオックスフォード・ストリートの100クラブでデビュー・ライヴを行なったダムドは、明らかに大物になる運命のバンドであることを証明してみせた。今回のリリースではそのショーが初めて収録された―非凡で扇動的だが道理が通っている。そこでプレイされたAloneはセカンド・アルバム、Music For Pleasureでやっと日の目を見た。ラットはデイヴ・ヴァニアンにラット・ミラーと紹介され、キャプテン・センシブルはまだレイ・バーンズと紹介されている。カヴァーがこの時代のダムドの簡潔さを示している。騒々しく容赦のない音の洪水―ビートルズのHelp、ストゥージズの1970(別タイトル:I Feel Alright)そして並外れた解釈によるフーのポップアート、Circlesだ。セックス・ピストルズ同様ダムドもMod時代から引用した―それはポップがロックになって堕落する前の時代だ。その後どうなったにせよ、最初の時期においてパンクは、決して取るに足らぬ存在などではなかった。

事はみるみる進んでいった。ザ・クラッシュはダムドより2日早くデビュー・ライヴを行なっていた。フランスのモン−ド−マルサンで開催されたパンク・ロック・フェスティヴァルでダムドの5度目のショーが行なわれた。ビラに載っていたある一人のパブ・ロッカーは、ダムドのベーシストの浮かれ騒ぎにうんざりさせられ、彼にキャプテン・センシブルというあだ名をつけた。モン−ド−マルサンでダムドに比べられるバンドは皆無だったに違いない。その遠征はバンドにとって大きなインパクトとなった。英国のオーガナイザーはジェイク・リヴィエラで、かつてドクター・フィールグッドのロード・マネージャーを務めたこともあり、自身のレーベル、スティッフ・レコーズを立ち上げたばかりであった。ひやかし半分で参加しスティッフ初のアーチストとなったのは、元ブリンズレィ・シュウォーツのベーシスト、ニック・ロウだった。

ジェイク・リヴィエラは彼らのマネージャーとなり、黙示的なカヴァー、HelpをB面に持つデビュー・シングルNew Roseは初の英国パンク・シングルとなった。New RoseとHelpはプロデューサーのニック・ロウと共にパスウェイ・スタジオで二日間でレコーディングされ、ミックスとマスター・テープ完成は1976年9月20日だった。シングルは10月25日にリリースされすぐにヒットした。ファースト・プレスはメール・オーダーによって売り切れとなった。

Brian:“パンクの大きな特徴はルール無しってことだったが、人々はまるで羊の群れのようだったな。他のみんながやってるからやるだけって感じだった。”

Captain:“メンバーはみんなフロントマンになりたがってた。オレは間違いなくそうだった。ブライアンもそうだ。ラットでさえ後ろにいながらそうだったと思うね。こんなメンバーをバンドにかかえちゃ酷い躁状態になるな。”

Brian:“オレは曲を書いてたんだが、みんなの攻撃性のほうが曲を超えてたね。オレはこれっぽっちも音楽的方向性なんてなかったと思うな。”

Captain:“オーディエンスは口をポカンと開けて立ってたな。拍手なんてなかった。ほとんどは出て行っちまったね。The Nag’s HeadとHigh Wycombe(ライヴハウス?)を覚えているが、そこでは客は全員出て行った。ギグの後オレたちが楽屋に戻ってみると天井から水が漏れてたよ。まさに来る時が来たって感じだったな。”

Brian:“オレたちはあ然とした反応しか得られなかった。ステージで騒いでただけだから。”

Rat:“ダムドは大学は回らなかったんだ。オレたちは捨てばちになってた。何にも持ってなかったし、金もなかったね。でも自分たちのしたことは何とも思っちゃなかったね。パンクは常にこき下ろされていた。業界全体が寝返って、‘ついに救世主たちが現れた。ベルボトムを捨てちまえ!’って言ったわけじゃなかったね。どっちかっていうと、‘このどアホウの一団は一体何者だ?奴らを追っ払え!奴らは我々が築き上げてきたものをメチャメチャにしようとしている。’って感じだったな。”

Brian:“モン−ド−マルサンはでっかい冒険だった。オレたちは唯一のパンク・バンドだった。ジェイク・リヴィエラのことは知らなかったんだ。オレはそれまでジェイクみたいな奴に会ったことがなかったよ。スティッフは何かおもしろそうなことを考えてた最初の集団だった。オレたちがジェイクと親しくなったとたん奴は他のみんなを追っ払ったんだ。

Rat:“ジェイクはロンドンで唯一イカした奴だった。奴はレコード会社を始めていて、みんな奴のことを噂してたよ。ジェイクと最初に会った時ヤツはオレたちのことをすでに知っていたんだ。みんな奴のことをいかにイカしてて時代を変えつつあるかを噂してたね。”

Captain:“スティッフみたいに小さなレーベルと組んで何かにトライしたり、アナーキックなことをしたり、他と違うことをやるのはホントにエキサイティングだったな。振り返ってみると正直オレはでっかいレコード会社と契約したいと思ってたよ。金がいいからね。でもずっとピストルズを見てきて‘あいつらは何のためにやってんだ?(EMIと契約したこと)’って思ったね。オレたちは‘Anarchy’を聞いて‘なんて仰々しいんだ?!’と思ったよ。でもオレはいつもロットンを高く評価してたよ。他のバンドと違ってね。New Roseの出来にはびっくりしたね。オレは他のバンドのギグを見に行った時はステージに上がってこういったもんだ―‘イカしたニュー・バンド、ザ・ダムドが素晴らしいこのシングルを発表するから紹介するよ。’ってね。”

Rat:“パスウェイ・スタジオはすごく小さくてやっとみんなが入れるくらいだった。オレは思ったね。このスタジオはグレイトだ。何でもできるぞってね。実際最高だったよ。オレはニック・ロウがかつてやっていたようなサウンドになっちまうんじゃないかと恐れていたんだが、実際はジェット戦闘機みたいな刺激的なサウンドになってたんだ。彼はどういう取り組み方をすればいいか熟知していたし、腕は確かだったね。 数字で表わせないプロデューサーだ。”

Brian:“オレたちがライヴでやったHelpは重要だったな。はっきりとオーディエンスにビートルズはこういう風にやるべきだったと思わせることができたんだから。”

Captain:“客はオレたちがあるギグですでにHelpをやったのを知っていながら、‘Helpをやってくれ、それを聴くために来たんだ。’っていうんだ。でオレは‘もうやったよ’っていうわけ。”

New Roseのリリースに続いて行なわれたのが、お決まりのプロモーション―全国ツアーだ。11月11日、ザ・ダムドはイギリスに来ていたアメリカのベテラン・ロック・バンド、フレイミン・グルーヴィーズの前座を務めるためロードに出た。そしてRedcarで1日だけのショーが行なわれた。しかし‘風邪を引いたグルーヴィーズ’といったダムドに対する軽蔑的なリアクションはツアーへの参加をキャンセルさせることになってしまった。

失敗に終わったツアーの後、11月30日ザ・ダムドはジョン・ピール・ショーの最初のセッション・レコーディングを行なった。オンエアは12月10日だったが、そのラジオへの出演は次のツアーをスタートさせることを意味していた。

少なくとも次のトライは1日以上のツアーを実現することだった。セックス・ピストルズのAnarchy In The UKは11月19日にリリースされ、それはNew Roseより三週間半遅いリリースであった。ザ・ダムドはピストルズの次のシングル・リリースのツアーに参加することが予定され、それは12月3日の金曜日にスタートする予定であった。それはビル・グランディがティー・タイム・ニュース・ショー、Todayでピストルズとその仲間たちにインタビューし、番組が中断される2日前のことだった。プレスの反応は今で言えばありふれたものだったが、その副産物はダムドに大きな影響をもたらした。ツアーはマクラレン、クラッシュのマネージャー、バーナード・ローズそしてジェイク・リヴィエラの間に摩擦を生じさせ始めた―個々のバンドのギャラの取り分についてだ。ビラに載せるバンドの順番とリーズの議会議員が要求したバンドの審査についての議論は、予定されていた19のショーのうちの3つしか遂行されなかった時に争点となった。

クリスマスの後、ザ・ダムドはニック・ロウと共にデビュー・アルバム、Damned Damned Damnedをレコーディングした。10日間のレコーディングの後、1977年1月15日にはミックスとマスタリングが完了した。オリジナル・マスターは当初アルバムとは異なった曲順であった。Side1はNeat Neat Neat, Fish, Fan Club, Born To Kill, Stab Your Back, Feel The Pain,一方Side2は、New Rose, I Fall, See Her Tonite, So Messed Up, 1 Of The 2, I Feel Alrightだった。

スティッフはブライアンの誕生日である2月18日に Damned Damned Damnedをリリースした。それは3月12日にチャート入りし10週間チャート内にとどまり、30位まで上がった。ちなみにタイトルもレコード・レーベル名もジャケットの表裏には印刷されず背表紙に印刷されただけだった。シングルNeat Neat Neatは2月28日に発売された。

アルバムの初回プレスの裏ジャケットにはロキシー・クラブでプレイするダムドの写真ではなく、Eddie & The Hot Rodsの写真を使ったものが多く出回った。この安直なコレクターズ・アイテムはプレス・ミスなどではなく、商業的な戦略であった。スティッフはなるべく多くの注意をひきつけるためにこれに関わっていたが、この(ミス)カヴァーが2000枚売れたことによって、レコーディング費用を現金で払うことが十分に可能になったのである。もし人々がジャケットに違うバンドの写真が使われているから Damned Damned Damnedを買うならそれは大歓迎なことだった。

Rat:“Damned Damned Damnedを聴いた時は全く驚いたな。ギターにディストーションがかかってないんだ。ホワイト・ノイズ(騒音を消すためにそれにかぶせる音)無しのギター・サウンドだった。生音ってやつ。1曲だけオーヴァーダブした。ギター・ソロとリズム・ギターを重ねたな。何とかアルバムを作ることができて興奮したよ。オレはレコードを作るなんてことはおろか、ドラムを叩いて金をもらえるなんて思ってもなかったからな。アルバムがチャートに入っただけでうれしかったし、それ以上のことは何も考えられなかったね。”

Brian:“オレたちは機材をぶっ叩いただけだった。ニック・ロウがそのライブ・サウンドを見事にとらえたんだ。彼はクリス・トーマスがピストルズでやったこと以上に時代のスピリットをとらえたんだ。説得力があるんだよ。他のレコードが全て古くなってしまったね。”

Captain:“オレのお気に入りはI Fallだった。この曲はベースを弾くのが大好きでね。オレはファースト・シングルに推したんだけど、みんなの意見はNew Roseだったんだ。

Brian:Fan Clubは元々Bastard時代に書いたんだ。この曲についてはいろいろアイデアをこねくり回しているうちに、それを形にできる奴らを見つけたってわけさ。突然形になったね。ジャケットの写真はスティッフが取り仕切ったんだ。彼らはオレたちを驚かそうとパイ・ケーキを持って悪さを企んでいたんだ。パイを味わうなんてことはほとんどできなかったけどあの時は楽しかったな。”

Captain:“悲しいことにオレは他のろくでなしより顔にベッタリとパイを塗りたくられて、おまけに裏ジャケットでは後ろを向いてしまってたんだ。でオレはフォト・ブースへ行って何枚か自分の写真を撮ってきて、1枚を選んで‘これをそこに載っけてくれよ’って言ったんだ。なんとかオレってわかるようにしたくてね。もうアルバムを作ることなんてないかもしれないと思ってたからな。どうしても自分の写真の載ったレコードにしたくてね。みんなにオレを見てほしかったのさ。”

Damned Damned Damnedリリース後も休止することなく、3月にバンドはマーク・ボランのサポート・バンドとして三週間の全国ツアーに出た。4月、ダムドはUKパンク・バンドによる最初のUSツアーを引き受けた。LAではテレヴィジョンとステージをやることになった。イングランドに戻った彼らは、カムデンのラウンドハウスで5月10日、“税金逃れの国外脱出者”という横断幕を掲げてヘッドライナーを務めた。1週間後彼らは北ロンドンのラウンドハウス・スタジオで60年代のベテラン・プロデューサー、シェル・タルミーとともに、Stretcher Case BabySick Of Being Sickをレコーディングした。セッションは5月19日に完了した。タルミーは60年代にザ・バチェラーズ、ザ・クリエイション、リー・ヘイゼルウッド、ザ・キンクス、マンフレッド・マン、ペンタングルそしてザ・フーのプロデューサーとして有名だった。

5月28日、彼らはジ・アドヴァーツをサポート・アクトに、リヴァプールのEricsを皮切りにヘッドライナーとして全国規模のツアーに乗り出した。しかしセントオールバンズ、スタンフォード、サウサンプトン、そしてサウスエンドでのギグはパンクを避けたプロモーターによってキャンセルされてしまった。

7月3日からダムドは結成1年を祝ってロンドンのマーキー・クラブで4日間のギグを計画した。今ではレアなシングルStretcher Case Baby/Sick Of Being Sickがショーで披露された。しかしダムドのギグが行なわれたのは最初の2日間のみで、後の2日間はジ・アドヴァーツが代役を務めた。そんなわけで記念ライヴは輝かしい未来を告げるものとはならなかったのである。

1ヵ月後の8月8日、ダムドはギターのルー・エドマンズを加えた5人組として最初のショーを行なった。彼らが初ライヴをやってから1年と少しの間が、オリジナルの4ピースの歴史であった。

Brian:“オレはT-Rexの大ファンじゃなかったがマーク(ボラン)のことは大好きだったな。彼が組んでいた奴らはオレたちよりもろくでなしだったね。奴らは食堂で釣り糸を使ってウェイトレスの足を引っ掛けたりしてたよ。マークは緑のトラックスーツをよく着てた。”

Captain:“ヤツは食堂をうろついてたな。オレたちは皿いっぱいのチップスを食ってたが、ヤツはそれなりの量を食ってた。で35秒おきに歩き回るんだ。ヤツのファンはオレたちのことを気に入ってて、逆も同じだったね。これはうまくいったよ。ヤツはホントにイカした男だった。いつもオレたちにバスの中でハッパをかけてたよ。ヤツの話には本当に引き込まれるんだ。”

Rat:“彼は本当の紳士だった。オレとマークはよく音楽や姿勢について話し合ったね。バスの中でメロディについて話してた時彼は言ったよ。‘簡単さ、コードを弾けば君が歌える音符がすべて出てくるからそれをメロディに使えばいいのさ。リズムはメロディ次第さ。’ってね。”

Captain:“ニューヨークの外側とロサンゼルスを除いては、ニューヨークでオレたちを理解してる奴らは何人かいたね―ロンドンと同じようなものだった。マックルズフィールド(イングランド北西部)ではほとんど理解されなかったな。ボストンでは‘何だこのクズは?’って反応だった。でオレたちはテーブルとイスをステージに上げてそこに座ってとりあえずピザを注文したんだ。オレたちはディスカッションを始めた。オーディエンスは急に分かったみたいだったよ。つまりオレたちは彼らに出て行けと言っていたんだ。”

Brian:“で彼らもピザをばくばくと食い始めた。”

Captain:“最後にはお互いの敵対心がなくなって完璧にうまくいったのさ。”

Brian:“オレたちはLAのウィスキーでテレヴィジョンと一緒にステージをやることになってたんだ。”

Captain:“トム・ヴァーラインはオレたちと仕事をすることが想像できなかったみたいだ。明らかにオレたちの噂が彼をいらつかせてたんだ。ちょっとあれだってね、ハハハ。まあオレたちは気違いじみてたから。あるいは彼は正しかったのかもしれない。平穏な人生を望むならダムドと働くべきじゃないな。オレたちはどんどんギグを増やしていった―家賃を払わなきゃいけなかったからな。オレたちは献金箱を持って他人の家の床に寝泊りしてた。出て行ってほしけりゃ、そん中にいくらか金を入れなきゃなんないわけ。”

Rat:“ギグから戻った時、ブライアンがシェル・タルミーにプロデュースしてもらおうと提案したんだ。彼が手がけたキンクス、フー、クリエイションのサウンドは大好きだったし、オレたちはああいう音と共に育ってきたんだ。でも彼が力を発揮できたのは、2トラックのテープレコーダーで一発録りっていう制限があったからだろうな。テクノロジーが進歩してしまうとうまくいかなくなったね。彼はオレたちが欲しかったサウンドはつくれなかったよ。”

Brian:“シェル・タルミーにプロデュースしてもらったのは、何か変化がほしかったからだ。ファースト・アルバムの後ってことでね。シェルはヒーローの一人だった。何ていってもフーとキンクスのグレイトなナンバーを全て手がけてたんだから。”

Captain:“彼は判断を誤ったんだ。耳は確かだったけど彼は困惑してたよ。あれこれ説明されるのが好きじゃなかったんだ。”

Brian:“オレは変化を好むんだ。よりエキサイトするためにね。オレはファースト・アルバムのサウンドはあれで終わりだと考えた。で、一番簡単な方法としては、もう一人のギタリストを加えるってことだったんだ。”

Rat:“オレは言ったよ、‘なぜだい?お前がいるじゃないか’ってね。でもブライアンは言った。‘MC5には二人のギタリストがいたし、そうすればオレたちも成長できるんじゃないか。’ってね。”

Brian:“ひとつの実験だったんだけどうまくいかなかったね。”

ザ・ダムドは変化しながら、そして燃え尽きそうになりながらもずっと働き続けた。しかし彼らはいつも信じられないようなレコードを産み出してきた。彼らの道しるべとなったDamned Damned Damnedは、今なおバンドが成長する土台となっているのである。振り返ると1976年か77年以来30年間もバンドが存在し続けていることは驚異的だ。しかしその基盤となっているのは、このアルバムに聴ける永遠に輝くハードなロックだ。Damned Damned Damnedはこれからも生き続けるだろう。

キーロン・タイラー 2007年1月

感謝の言葉:
ラット・スケイビーズ、ブライアン・ジェームス、キャプテン・センシブル、デイヴ・ヴァニアン、ウィル・リッピンゲイル、スティーヴ・ハモンズ、マイク・マストランジェロ、ヘンリック・ベック・ポールセンそしてロジャー・アームストロングに感謝する

感謝のしるしとして:
1976年7月6日、私はその前の週に見たセックス・ピストルズを録るために、スポーツ・バッグの中に原始的なソニーのカセットレコーダーを隠して100クラブにいたんだ。前の週に出たサポート・バンドは退屈なジャズ・コンボだったから、ピストルズ以外は録音するつもりはなかったね。

‘ダムド’っていう名前が、バンドが登場する前に私にカセットレコーダーのボタンを押す気にさせたに違いないと思う。私はクラブの後ろの方のPAの近くに座って、となりの空いた席にバッグを置いたんだ。私はそれまでバンドの音を録った経験はなかったし、そのカセットプレーヤーはただの内蔵マイクだったよ。正直最後までうまく録れるとは思ってなかったね。何ヶ月、いや何年も私は安物のプレーヤーで、そのスコッチの120分テープを何百回も再生してたから、調子が良かったのはちょっとした奇跡だね。30年経てもこの音楽は新鮮でエキサイティングだ。このテープはパンク・バンドの初ライヴとして最高ではなくとも素晴らしいギグのうちの一つの記録だね。この録音の数ヶ月内にピストルズはビル・グランディのTVショーに出演して、ザ・ダムドはNew Roseをリリースしたんだ。そしてロック・ミュージックはすっかり変わってしまったんだよ。

ウィル・リッピンゲイル―おかしな奴
2007年1月


PS:群衆の中でちょこちょこ出てくるアメリカン・アクセントの女は、私はクリッシー・ハインドだと確信してるよ


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