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C.O.B./Spirit Of Love/2001 BGO Records BGOCD534



クライヴ・パーマーはウッドストックにもフィルモア・イーストにもロイヤル・アルバート・ホールにも出なかった。そしてUKアルバム・チャートのトップ5にも現れなかった。しかし問題はそういうことではない・・・

60年代半ば、“古典的な”バンジョー音楽全てに渡って造詣が深く、エドワード朝時代のミュージック・ホールの素朴な歌に対する、比類なき熱意を持ったロンドン生れのバンジョーの巨匠パーマーは、エジンバラを拠点に地元のシンガーでマルチ・プレイヤーのロビン・ウィリアムソンと共に音楽的成功を樹立していた。ロビン&クライヴとしてこのデュオは、初期のスコットランド、北イングランドのフォーク・シーンで人気を博していた。時代の流れを冷静に嗅ぎ分けていたパーマーとウィリアムソンは、さらなる成功へデュオからトリオへとメンバーを増やすことにした―当時ヒット・チャートではピーター、ポール&マリーが成功を収めていた。すぐにシンガー/ギタリストのマイク・ヘロンが加入し、新しいグループ名はThe Incredible String Bandとなった。

4年の間にISBは、ヒッピーたちの牧歌的象徴として幾分伝説的な存在となっていた。大西洋の両側の大きな会場で主役を務め、あの巨大フェスティヴァル、ウッドストックでは、沼地で豆をほおばる50万人の若者たちに向けて演奏した。以上のことを彼らはやってきたが、しかしそれはクライブ・パーマー抜きであり、彼は1966年のISBのデビュー・アルバムでしのばせていたドン・キホーテ的な(空想的な)側面をアフガニスタンへのヒッピーの旅に求めていた。

翌年パーマーはインド、グリーンランドなどをまわって吸収した、多くの哀愁を帯びたくねくねと曲がりくねったようなメロディを身につけて戻ってきた。ヘロンとウィリアムソンのアルバム、‘5000 Spirits’は、サマー・オブ・ラヴのいわゆる非体制的なサウンドトラックだった。3人のそれぞれの道は33年間再び一ヶ所に集まることはなかった。パーマーは最初、彼の古いバスキング仲間、ウィズ・ジョーンズと組み、日の目を見ることなく終わった一枚のアルバムを制作した。それからコーンウォールへと引き払った。そこにはニューキー(コーンウォール)近くのミッチェルというところにあったThe Folk Cottageを中心に活きいきとした音楽シーンが存在していた。

68年初頭、軍隊の毛布を継ぎはぎに縫い合わせた防寒着姿の彼は、到着するとFolk Cottageの隣りにワゴン車をとめ、そこに居を定めた。彼のヴァンの同居人はパーカッショニストでプロフェッショナルな調理人である“ウィスパリング”と呼ばれていたミック・ベネットだった。彼はコテージに料理を出す仕事をしていた。ベネットはThe Mitchell Minstrelsの一員だった。BBCのヴァラエティに出てくる汚れた麦わら帽子をかぶった低い声のタレントではなく、ヘンリー・バートレット、ピート・ベリーマン、そしてStreets Of Londonの大ヒットを出す前のラルフ・マクテルで構成されたローカル・バンドの方だ。バートレットとベリーマンがシンガー、ジル・ジョンソンとラグタイム/カントリー・ブルース/オールドタイムに根ざしたオリジナル・ソングをプレイするために組んだ時、それに賛同したパーマーも引き入れ、彼らはThe Famous Jug Bandと名乗るようになった。

評論家たちは概してこのバンド名はいたずら好きなパーマーのインクレディブル・ストリング・バンドへのあてこすりだと考えていた。しかしパーマーは否定する。“僕らがちゃんと話し合って思いついた名前だ。”さらに彼はいう。“あまりそのバンドにいても面白くはなかったな。”The FJBはたちまち成功し、1年以内に勢いにまかせてアルバム、Sunshine Possibilitiesを制作した。そこにはパーマーの作品が2曲入っていた。Nikolson Squareと見事なA Leaf Must Fallだったが、例によってパーマーはリリース直後に旅に出てしまった。理由はバンド内やツアー中での力関係に彼が不満を持ったためだった。他の大きな理由が、パーマーが持ち込んだインド、アフガニスタンの東洋風の音楽的アイデアのための土壌をFJBが持ち合わせていなかった点だ。彼は“ウィスパリング”ミックとマルチ・プレイヤー、“リトル”ジョン・ビッドウェルと共に、オールドタイムのThe Stockroom Form(実際は4人組)を結成し、コーンウォールに戻り様子をうかがっていた。メンバーや名前をコロコロと変えながら、彼は行ったり来たりしていた―The Novelty BandやThe Temple Creaturesなど―そこには大きく東洋的な影響がレパートリーにも奏法にも表れていた。テンプル・クリーチャーズの時のメンバーたちは、パーマー抜きでしばらくロンドンに戻ったが解散してしまった。バーネットとビッドウェルがコーンウォールに戻ると、彼らは再びパーマーと組むことになった。それがClive's Original Band、あるいは単にCOBであった。

その後ことは素早く運んだ。ラルフ・マクテルは国民的人気を博し、COBと共にCBSでレコーディングする契約を交わした。このことがCOBのデビューLP、Spirit Of Loveの制作につながった。これはラルフのプロデュースによってロンドンのマーキー・スタジオで制作された。COBはコーンウォール・シーンの仲間、スティーヴ・ボネット(ベース、ギター、ピアノ)とサード・イヤー・バンドのアースラ・スミス(チェロ)をマントラ風のコーラスの入ったタイトル・トラックのために引き入れた。彼らはボネットの当時の妻クリスティーナ、クリッシー・クエール(テンプル・クリーチャーズに一時在籍)、シンガー/ソングライターのジリアン・マクファーソン、そしてレイナ・サトクリフらによる女性コーラス隊を作り上げた。レイナの有名な仕事はジミ・ヘンドリックスの名高いElectric Ladylandのアルバム・ジャケットを手掛けたことだ。COBは同時にマクテルのマネージャー、ジョー・ラスティグの傘下に入った。そこにはウィズ・ジョーンズとペンタングルもいた。ジョーは後にスティーライ・スパンのヒット・シングルを手掛けている。パーマーは苦々しげに彼のことを“Mr. 45%”と呼んでいる。

Spirit Of Loveは1970の半ばにリリースされ、主にフォーク誌に絶賛された。メロディ・メーカーはフォーク・アルバム・オブ・ザ・マンスに選出した。明らかにインクレディブル・ストリング・バンドと共通性があったにもかかわらず―特に全体に広がる東洋的な響き―COBは、フォーク・シーンを飛び出しホールでのコンサートへ向かったISBに肩を並べることはできなかった。彼らの音楽は本質的に抑制され、少人数相手向きであり、それはより小さな会場が適していた。

Spirits Of Love収録曲は全て―但しトラディショナルのScranky Black Farmerと、パーマーのトレードマークのひとつであるエドワード様式のバンジョー・ナンバーを除いて―このアルバムのために書かれた。ベネットは第一に作詞家であった。彼が詞を完全に書き上げ、未完成の状態のメロディーをパーマーとビッドウェルが手を加え形を整え、優雅なメロディとなる。アルバムでの決定的なサウンドはダルシタールだ―パーマーによって製作されたアパラチアン・ダルシマーの一種である(演奏しているのはビッドウェル)。それはシタールのような魅力的な響きを生む共鳴する弦と、よろよろとしたブリッジ部分が特徴だ。

COBはさらにもう一枚アルバムを作った―Moyshe McStiff And The Tartan Lancers Of The Sacred Heart―これは1971年、ポリドール傘下の短命に終わったフォーク・ミル・レーベル(71年中に閉鎖)からリリースされた。3人のメンバーは全てコーンウォールに戻り、地道な音楽活動を続けていた。90年代初頭、パーマーはブルターニュに移住し、1999年再びツアーと新しいCDのためにロビン・ウィリアムソンと組んだ。再び接触を持ったことで、最終的にインクレディブル・ストリング・バンドの再結成へと進むことになった。2000年のISBに加えて、パーマーはウィズ・ジョーンズともレコーディングを再開し、オリジナル・ラインナップのフェイマス・ジャグ・バンドも再結成した。このように、見たところこのSpirit Of Loveが我々のCDラックに復活するには今がちょうどいいタイミングかもしれない。


レイモンド・グリーノーケン、2001
グレアム・フッドとクライヴ・パーマーに感謝する



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