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C.O.B./Moyshe McStiff...expanded/2006 sunbeam records SBRCD5029



CP (Clive Palmer) 僕は8歳頃にロンドンで音楽に夢中になった。60年代初めにバスキングして海外を回った後にスコットランドへ行って、インクレディブル・ストリング・バンドを結成して、1枚のアルバムを作った。それからまた海外を旅した。今度はインドとかアフガニスタンなんかだ。

MB (Mick Bennett) 僕は北ロンドンで育って、60年代半ばにソロでプレイするようになった。僕は何曲かの歌を無伴奏で歌って、詩の朗読もやっていた。1967年の夏に僕は何も考えずに列車に飛び乗って、コーンウォールに落ち着いたんだ。

JB (John Bidwell) 僕はコーンウォール育ちで、12歳の時にギターを手に取った。コーンウォールは1964年になるまでは音楽的に不毛の地だったね。その頃にかなり魅力的なアコースティック・シーンが生まれて、大物たちがやって来るようになった。若い人たちを音楽に導くにはすごくいい環境だった。

CP : 僕はロンドンに戻って、ウィズ・ジョーンズといっしょに『Banjoland』っていうお蔵入りになったアルバムを作って、少しの間マイク・ヘロンと働いて、それからコーンウォールへ向かった。僕はよくバスキングをやって、たくさんの人々と知り合って、そのうちの何人かとフェイマス・ジャグ・バンドを結成した。そして『Sunshine Possibilities』というアルバムを作った。

RM (Ralph McTell) 僕は1967年にウィズといっしょにコーンウォールに行って、ニューキー郊外のミッチェルという村にあった“フォーク・コテッジ”というクラブにたどり着いた。クライヴ、ミック、そしてジョンたちはそこで出会った。シンプルなセンスをもったクライヴの精神性は、僕たちにとってはほとんどまじない師のようだったね。当時ですら、彼は多くの人たちが声をひそめて敬意をもって語る人物だった。彼はまたとてもひたむきだったが、彼の思考と音楽の中には一風変わった純粋性があった。ミックは大の読書家で作家で詩人だった。彼はきゃしゃな体つきにもかかわらず、驚くほどパワフルな声をもっていた。彼はCOBの音楽にある雰囲気と精神性に多大な貢献をした。みんなよりいくつか年下のジョンは、すばらしいハーモニーの才能をもった、賢明で感受性強い男だった。彼は独学であらゆる楽器を身につけた。ミックのヴォーカル・スタイルはクライヴのシンプルで雄弁な歌にとてもよくフィットしたし、ジョンのハーモニーもそれにすごく合っていた。彼らの声が1つになると、完全にオリジナルで忘れられないサウンドになったね。

JB : 僕たちがうまくいくことはすぐに明らかになった。しばらくして僕たちはもっと集中して働くようになった。作品とクレジットと金に関しては、最初から3分割だった。まず第一に、カントリーをやるストックルーム・ファイヴや東洋の音楽をやるテンプル・クリーチャーズのようなグループはほとんど存在しなかったが、僕たちは地元だけでプレイしていた。僕たちはみな幅広く本を読んでいた―東洋哲学、インド思想、禅、そして仏教の原典なんかだ。クライヴはいつもヘブライ文化に関心をもっていて、ミックは詩にはまっていた。僕たちは意味を追求することに関心があって、常に有意義な自分たちのマテリアルを求めていた。

MB : ある日僕たちはファルマス(コーンウォール州)近くのMylorの森で、打ち捨てられた幌馬車(キャラヴァン)を発見した。そこは地元の人たちが“Cannabis Creek”と呼んでいた。僕たちはいっしょに新しい音楽を作る絶好の場所になると判断して、そこに身をひそめることにした。僕たちは1日中歌って、夜にはライヴをやったりした。キャラヴァンの中でレコーディングした中の数曲は、このCDにボーナス・トラックとして入っている。

RM : 彼らはポテトだけで数ヶ月間生きていた。近くに水道の出る牛小屋があったけど、とても原始的だったと思う。でも音楽であふれていたし、彼らが望んでいたのはそれだけだった。ミックは歌いほうけながら何マイルも歩いては戻ってきた。あのすばらしい声を田舎に響かせながらね。

MB : 僕はよく長い時間を歩いては、歌を思いついていた。当時は囲いが少なかったから、そういうことを簡単にできた。僕は曲をみんなに歌って聞かせて、彼らが作り上げていった。クライヴはあの特別なコードを見つける才能にいつも長けていた。ジョンはマルチ奏者だった。僕のやり方はあんまり音楽的じゃなかったから、それが助けになった。僕はギターとキーボードを少しだけ弾いたが、リード・ヴォーカリストの側面が大きかった。

CP : ミックが歌詞を書いて、僕たちがそのムードに合うようなメロディを創り上げて、あとは即興だった。僕の書くほとんどは、あまり何も考えずにあれこれといじくり回してるうちに頭に浮かんだようなものだ。僕のやり方は、歌を書いて歌う時に同時に絵を描くようなものだ。例えば、もし古いノーサンブリアのパイプ・チューンをプレイする時の僕は、古いコテッジや、キッチンで踊る人々を想像する。僕は絵の中で考える。フィルム・ミュージックにとても似ていると思う。

RM : ある日、ジョンはダルシマーをもてあそんでいて、ブリッジ部分を開放したら弦が全て共振するようになった。その結果、いくつかのCOBのトラックには奇妙なドローン音が聞けることになった。彼はその楽器を“ダルシタール”と命名した。これは完全にCOBの発明であり、新機軸だ。

JB : 僕にとってのソングライティングはとてもくつろいだプライヴェイトなプロセスだった。僕はいつも世に出す歌よりもずっと多くの歌を自分の中にもっていた。必要あらば出してくるって感じだった。

RM : 数ヵ月後、僕の当時のマネージャーだったジョー・ラスティグがCBSとの契約を取ってきて、僕に何かいいアーチストを知らないかと尋ねたんだ。僕は彼らのことを話して、ジョーはプロデュースをやってみないかといった。金は重要じゃなかった―彼らはプレイしたかっただけだった。COB (Clive's Original Band)という名前はジョーが偶然思いついたものだった。

JB : 名目上、僕たちがクライヴの名のもとに動き出すことは、何の問題もなかった。もしあるとしたら、たぶん僕たちが彼の名声を利用するのがベストだと考えたことだった。

CP : アルバム『Spirit of Love』は全く自然にでき上がった。僕たちはいい曲を思いついてベストを尽くしただけだった。みんな楽しんでいたね。僕たちはコーンウォールのクラブではほとんどプレイしていなかったのに、突然チャンスが転がり込んできた。グレイトだったね。

MB : そのファースト・アルバムは基本的には一発録りだった。その頃の僕たちはそれぞれ好き勝手にやっていたから、ラルフはちょっとだけレコーディングに結束力を注入した。

RM : 僕が関わった中で、最も困難なセッションだったといって差し支えないね。彼らはスタジオの中でいつもばらばらで規律がなくて、完全にレコーディング技術のことを知らなかった。だから僕が格闘したのは、彼らがステージ以上にその場に集中するように促すことだった。僕は2枚のアルバムであらゆるごまかしを使わなきゃならなかった。オーヴァーダブ、ダブル・トラッキング、スピード変換など何でもだ。

JB : 1971年の6月か7月頃、セッションのあとにクライヴといっしょに小型バイクに乗ってコーンウォールに戻ったことを覚えている。僕たちはあの夏を本当に楽しんでいた。観光地やなんかでキャンプを張ってばか騒ぎをしたり・・・。たくさんのギグもやった。ラウンドハウスでアージェントの前座を務めたことを覚えているが、僕たちの大きなお披露目となったのが、アルバムが出た時にロイヤル・フェスティヴァル・ホールでバート・ヤンシュのサポート・アクトを務めたことだ。

RM : どういうわけか『Spirit of Love』は売れなかったが、ありがたいことに彼らはともに続けてくれた。

CP : 僕はあまりがっかりしなかったね。売るのは難しいと思っていたから。もしかしたらとは思ったけど、そう簡単にはいかないってことだ・・・。

MB : 僕たちはギグで売るために、よくレコードを運び込んでいたが、しばらくしてわざわざそんなことはしなくなった。ほとんど僕らには思いもよらなかったことだが、今から思えば、オーディエンスと僕たちはスタンスにすごく開きがあったんだ。

CP : 1972年の春に僕たちはロンドンに移って、エージェンシーのジョーを通してギグを始めた。キャンセルの穴を埋めるサポート・ギグだ。僕たちは僕の古いヴァンに乗ってどこへでも行って、車の中で寝なきゃならなかった。ほとんどはとても愉快に過ごしたけどね。

JB : ジョーを通じて素晴らしいギグができるようになって、僕たちは生計を立てるのに十分な金を稼いだ。

RM : ジョーは、COBがコマーシャルなシングルを1枚作るべきだと主張していた。 その結果が“Blue Morining”と“Bones”(ボーナス・トラックとしてここに入っている)だった。あの例の少しばかり奇妙なクライヴの歌だ。ラジオでかかりやすいように、僕たちはレゲエ・スタイルの歌に取り組んだ。

JB : “Blue Morning”は素晴らしいナンバーだと思ったし、あのカウンター・メロディが好きだった。“Bones”はちょっとパロディぽかった。僕は両面とも楽しんだが、あの2曲をシングルとしてリリースするのがいいアイデアだったかどうかは分からないね。

MB : 僕はあれを後悔している―本当の僕たちじゃなかったから。だから僕は好きじゃないけど、みんなお金に困ってたからね。僕ら2人とも“Blue Morning”の何行かを書いたけど、どっちもクライヴ作だった。

CP : 僕はあのシングルが何の効果も生まなかったことを残念に思う。すごく変なレヴューがあった―“シンガーは気管支炎にかかっているかのように歌う。”とか。コーンウォール出身の僕らの友人だったジュネヴィーヴ・ヴァル・ベイカーがドラムを叩いてくれた。彼女の姉のデメルザは『Moyshe』(2ndアルバム)でバッキング・ヴォーカルを担当した。

RM : 僕はジョーがウィスキーのミニチュア・ボトルを付けてシングル盤を配っていたのを覚えている。“ブルーな朝”に働くDJたちを応援するっていうアイデアだったが、うまくはいかなかった。2曲ともそれほどエアプレイされなかったと思う。

CP : 僕たちはパトニーの“ハーフ・ムーン”でレギュラー出演して、約2ヶ月間で10人から始まって定員まで客を増やすことに成功した。そして僕らはもう1枚のアルバムを依頼された。今度はCBSからポリドールにレコード会社が変わったが、それは僕たちには関係なくて、全てジョーを通じてだった。セッションは本当に短期間で、ほんの数日だった。

MB : 『Moyshe』はライヴ・レパートリーというより、アルバム用に書かれた歌が入っていた。聴き直してみたら、その耐久性に驚いたね。もっと時代遅れに聞こえると思っていたから。

JB : より焦点が定まって、楽器の使い方に統一性がある。よりくっきりとしたサウンドをもたらすハーモニウムとクラリネットなんかだ。楽器的には僕はとても満足していた。ダルシタールを使ったトラックは全て1つのテイクで済ませていたから。それらはただ流れ出るようなサウンドだった。

MB : “Lion of Judah”は、僕がハイレ・セラシエ(エチオピア皇帝)の人生と時代に魅了されてから書いた詩だった。フィンズベリー・パークで育った僕は、ウィンドラッシュ世代(ジャマイカ/カリブ出身者)に向けた初期のレコード店を通じて、早くからカリビアン・ミュージックにさらされていた。“I Told Her”は、レコーディングする数年前に書いた。“Pretty Kerry”は、フォーク・バラッドの伝統にのっとって書いた歌で、バーで偶然耳にした会話から触発された。

JB : “O Bright Eyed One”は、2枚のアルバムの橋渡し的な歌だと思う。僕たちが初期にやっていたことに最も近い。“Eleven Willows”は僕の曲で、11の拍を使ったとても複雑なインドのターラ(tala)のリズムをもっている。“Heart Dancer”は共同作品の好例だ。誰が何をやっているのかを解き明かすのが難しい曲。“Martha and Mary”も素晴らしい。美しいダイナミックさがあって、陰陽のバランスが見事だ。

MB : “Martha and Mary”は“Hands Of Mary”という僕の詩から生まれて、歌に発展した。僕がクライヴに詩とメロディを伝えて、彼がコードをつけた。僕は今になっても、クライヴと僕のメロディのどっちが曲にふさわしいのか分からない。

RM : それがアルバムの最重要ナンバーだった。僕はブリッジ部分を書いたのを覚えている。“O Bright Eyed One”は、基本的にはクライヴのいつものミュージック・ホール・ソングの再加工ヴァージョンだった。ある日、ダニー・トンプソンが、まだ小さかった彼の息子にスタジオを見学させようと、その場に現われた。僕は彼に車の中からダブル・ベースをもってきてくれるよう頼んで、彼は“Lion of Judah”と“Chain of Love”でプレイした。彼はどっちのアルバムでもいくらか報酬をもらった唯一の人間だった―『Moyshe』25枚の入った1箱を叩き売ったんだ。完成したアルバムはところどころ気難しい響きがあったが、セッションはにぎやかだったし、彼らは本当に陽気な一団だった。

JB : 時々僕たちは笑いすぎてしゃべれなくなった。僕たちが“Let It Be You”をレコーディングしていた時に、クライヴが“Let It Be Bob”と歌おうといったことを覚えている。どういうわけか僕たちはみな、それが絶対におもしろいと思ってしまった。それからクライヴが、ダニー・トンプソンのツボを得たジョークに腹がよじれるほど笑っていたのを覚えている。僕たちはほとんどセッションをキャンセルしなきゃならなかったな。

CP : レコーディングが終わっても、僕たちはタイトルを決めかねていた。半分ユダヤ人で半分スコティッシュのミックにあてた‘Moyshe McStiff’は、彼のジョーク・ネームだった。ジョンと僕が‘Tartan Lancers’(タータンチェックの槍騎兵)だった。タイトルを深読みできるような意味は何もなかった。ミックの名前で遊ぶ以外は何の意味もなかったんだ。でも音楽をとてもよく表わしたタイトルだと思う。

RM : ‘The Tartan Lancer’は僕がどん詰まりで思いついた承諾なしのタイトルで、‘Sacred Heart’はある部分の歌詞にある宗教的な側面にフィットするように思えた。これはのん気なとっさのジョークとしてつけたタイトルだったから、レコード会社があのジャケットを作った時は、僕たちみんなは驚いてしまったね。

CP : アルバムはあっという間に消えてしまった。僕たちはビッグ・セールスについて話し合ったことはないと思うし、あちこちで数100枚売れるだけだろうと思っていた。もし今の人々が気に入ってくれるならうれしい。僕たちはアルバムを作って活動を続けた。今の人々が引きつけられるのは、哀愁が漂っていて、かすかに宗教的な雰囲気があるからだろうと思うけど、当時の僕らからすればちょっと躊躇してしまうことかもしれない。これは中東音楽、これは瞑想音楽、これは全くシリアスなテーマを扱っている、なんてね。宗教的な意図なんて何もなかった―そういう風になってしまっただけだった。ほとんどの時間、僕たちは画家のような気分で、一定の目的なんてないまま絵を描いていただけだった。

JB : 全体としては『Moyshe』は高揚するようなアルバムだが、『Spirit Of Love』よりもっと黙示録的だと思う。『Moyshe』のアイデンティティは、僕たちにくつろぎを与えたというより、もっとCOBの本質に深い関係があった。『Spirit of Love』は『Moyshe』よりもずっとずっと長い期間を具現化したもので、それはコーンウォールに深い関係があった。

RM : 僕は『Moyshe』が売れることを強く望んでいたが、あの進んだ時代だったにもかかわらず、世の中に出回ったのはやっぱり少しだけに終わってしまった。今でも僕は彼らの歌が正当な評価を受けてほしいと思っている。

JB : どういうわけか、僕らのレコードはほとんどラジオでかけてもらえなかったから、いつも僕たちは自分たちの存在をライヴではっきりと打ち出していた。その時には人々は僕たちをちゃんと評価してくれた。

CP : アルバムが出た時、僕たちはペンタングル、ウィズ・ジョーンズといっしょに全国ツアーをやった。一度だけ一晩に500ポンドをもらったからグレイトだったね。でもそのあとは少し疲れるようになり始めた。僕たちは燃え尽きてしまって、僕は何か他のことをやる時がきたと感じた。

MB : COBは約4年間ロードに出ていたが、事態をまとめるのに必死だった。『Moyshe』が売れなくて、資金不足が顕著になり始めた―僕たちは失業手当を受けない主義だった。ポートベロー・ロードでのバスキングは、ギグよりも儲かることがよくあった。もし僕らに金銭的な余裕があったら、もっと音楽的に発展したはずだと思うから残念だ。実際のところ、僕たちは口論を始めるようになって、ちょっとそれが限界に達していた。

JB : 僕の見解では、僕たちが解散したのは自分たちの方向性を変えなかったからだと思う。僕たちはいつもアコースティック楽器をプレイしていたが、あるいはエレクトリックな領域にもっと進むべきだったかもしれない。僕たちは成功を追ったりはしなかった―僕たちの性格がそれを排除したんだ。だからあの時解散したのは正しいことのように思えた。

CP : 僕はあの頃のことにノスタルジックな思いはない。全てのアーチスト同様、若いってのはいいことだが、僕たちは1つのプロジェクトを終えて次へ進んだんだ。1枚のアルバムから次に向かって自分は変わるし、影響を受けるものも変わるし、考え方や感じ方も違ってくる。正直なところ、人々がCOBに関心をもつことについては驚きだし、うれしいね。僕たちは何も奥義を開発したわけじゃなかったし、全ては自分の周りにぱっと浮かんだものにすぎないってのは確かだ。

JB : 僕にとってのCOBは、道理をわきまえる前の無邪気な年頃の小宇宙みたいなものだった。それは絶対的に価値あることだし、僕たちがやったことはよかったと思う。

MB : 僕にとっては、COBについて話すのは本当に難しい。35年間という月日は長いから。でも人々が今でも僕らに関心をもっているのには少なからず驚いているから、あの頃を誇りに思わないなんていわないけれど。

RM : COBは3人の男たちが人里離れたところに住んで、なぜかこのマジカルな音楽を創り上げてしまったグループだった。僕はみなそれぞれがベストを引き出したが、何らかの点でレコードを売ることができなかったんだと思う。僕の意見では、彼らは当時認められた音楽のほとんどよりはるかに抜きん出ていると思うし、僕たちが共に成し遂げたことをものすごく誇りに思っているね。

ミック・ベネット / ジョン・ビッドウェル / クライヴ・パーマー / ラルフ・マクテル 2006年11月



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