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Clive Palmer/Banjoland/2005 sunbeam records SBRCD5004



バート・ヤンシュ、ビリー・コノリーからジョニー・マー、デヴェンドラ・バナートに至るアーチストたちに影響を与えた不断のスピリットをもつクライヴ・パーマーは、ポップ歴史家のデヴィッド・ウェルズによって、‘ブリティッシュ・フォーク・シーンにおける万能の天才異端者’として言及されてきた。しかし今日に至るまで、彼の音楽的ジグソーパズルの中核的な作品はずっと失われていた―この‘Banjoland’のことだ。1967年にレコーディングされて以来、それはフォーク愛好家たちの間で伝説的なステイタスを獲得し、そのプロデューサーだったピーター・イーデンにとっては、プライヴェイトな秘宝のようなものとなっていた。しかしついに今、クライヴの多くのファンたちはブリティッシュ・フォークの失われた偉大な1枚と見なされるアルバムを聞くことができるのだ。

クライヴは1943年5月にノース・ロンドン、エンフィールドの音楽一家の家庭に生まれた。彼は幼少の頃からかなりの音楽的才能を示し、8歳の時に地元のバンジョー・クラブの最年少メンバーとなった。そこで名高いプレーヤーのアルフレッド・ロイドに師事した彼は、ミュージック・ホールとエドワード時代のスタンダードに対する終生にわたる愛情を育んだ。「ワン・レッスンに半クラウン(旧2シリング6ペンス)で3年間習ったね」 今日のクライヴはいう。「彼は本当に素晴らしかった。彼がレコーディングを残さなかったのは悲劇だ」

ティーンエイジャーだった50年代後半のクライヴはホーンジー芸術大学に通い、ソーホーのコーヒー・ハウスでプレイし始めた。実質的なレパートリーを身につけた彼は、パリで2年間、ビートニクのライフスタイルを実践した―古い建物で適当に寝泊りし、舗道に絵を描き、どこででも演奏した。そのバスキング・シーンには、デイヴィ・グレアム、アレックス・キャンベル、ディック・ファリーナ、ミック・ソフトリー、そしてウィズ・ジョーンズらがいた。実際、ソーホー時代以来、クライヴとウィズは知り合い同士となり、よく一緒にプレイしていた。また彼らは雑誌サンデー・ピクトリアルに寄せた絵で怪しげな評判を享受した。そこにはギター、バンジョーを持ってガラガラ声で歌いながら、イギリス海峡を群れになって渡る英国ビートニクたちを取り締まる憲兵隊の絵が描かれていた。

1963年に結局イングランドに戻ったクライヴはエジンバラにたどり着き、すぐにザ・クラウンというフォーキー・バーで1人の地元のシンガーと出会った。彼の名はロビン・ウィリアムソンといい、2人はデュオを組み、その年にデッカから出たLP、Edinburgh Folk Festival Vol.1のために“Jazzbo’s Holiday”を提供し、1964年いっぱいはギグに明け暮れた。1965年になると、彼らはエジンバラ音楽シーンの大黒柱だったマイク・へロンを加えトリオとなり、インクレディブル・ストリング・バンドと名乗るようになった。彼らの革命的なフォーク、ブルース、ワールド・ミュージックの融合はうわさとなって広がっていき、1966年にジョー・ボイドは彼らをエレクトラ・レコーズと契約させた。その年の5月、彼らはアルバムを作るためにロンドンへ飛び、その夏にリリースされたアルバムはかなりの反響を呼んだ。しかしながら、その後まもなく彼らは分裂した―「僕たちは若かった。僕たちは数年間いっしょに働いていて、ちょっと考えに隔たりができてしまったんだ。知ってのとおり、当時人々はあちこちと動き回っていたからね」

ウィリアムソンはガールフレンドといっしょに無期限でモロッコへ旅立ち、ヘロンはエジンバラに戻ってソロ・ギグを始めた。一方、クライヴは7月初旬にインドを放浪するために旅立った。多くの冒険をしたのち、12月までに無一文の彼は、赤痢の詰まった不潔なカバンを持ってロンドンに戻ってきた。彼が少々驚いたことに、ウィリアムソンはすでに戻り、ヘロンとともにインクレディブルズを再結成し、レーベル仲間のトム・パクストンとジュディ・コリンズのサポート・アクトとして、英国ツアーに乗り出していた。しかし彼らはクライヴとは全く違った音楽的傾向に進み、クライヴが2人に再加入することはなかった。「彼らはいつも僕より野心的だったし、僕は彼らのヒッピー精神にはちょっと懐疑的だったんだ。彼らはオリジナル作品に重点を置いていたけど、僕の興味は当時もっとトラディショナルな方向に向いていたんだと思う」

1967年の初め、彼はエレクトラから1本の電話を受け取った。それは遅れていたファースト・アルバムのUSリリースのために写真撮影に参加してほしいという依頼だった。でき上がったジャケットは、3人がイースト・エンドの廃車置場にあったバスとともにポーズをとっているものだった。ヘロンとウィリアムソンはヒッピー風の衣服を身につけているが、クライヴはインドで着ていたスマートなスーツを上品に着こなしている―あるいは彼らの音楽的興味がここに集約されているのかもしれない。ロビンとマイクのデュオがだんだんと名声を高めていく一方で、クライヴはロンドンとスコットランドを往復しながら、その年をギグに費やした―「基本的にまだ今僕がやっていることと同じだよ。毎月毎月ね!」 メロディ・メーカー紙の広告には、10月22日金曜日に彼がレ・カズンズでプレイすることが告知されていた―‘素晴らしいバンジョー・プレーヤー。席確保のためにお早めに’ 同じページでは彼の古い友人ウィズ・ジョーンズのギグの予定が告知されている。ウィズはその頃、長年いっしょにやってきたバンジョー・プレーヤーのピート・スタンリーとのデュオを解消していた。そしてまもなく彼とクライヴは再び組むことになった。

「僕たちのパートナー関係は音楽的にいつも素晴らしかったね」 今日のジョーンズはいう。「僕たちはとても可笑しな体験もしたね。僕たちはシェフィールド大学のギグへ車で向かうために、僕の家で落ち合うことになっていたことがあった。クライヴは壊れたバンジョーを持って遅くにやって来た。彼のモーペッド(原付)が途中で故障して、いらいらした彼がスパナをバンジョーに力いっぱい投げつけたことが分かったんだ。それはバンジョーの皮を完全に突き破っていた。それから同じギグで、彼は“Uncle Dave Macon”をやるために椅子にもたれたら、ステージのうしろに落っこちたんだ」 2人はまもなくピーター・イーデンの目に留まった。彼はドノヴァンを発掘した才能豊かな独立プロデューサーであり、多くの伝説的なジャズの巨人たちに加え、マイク・クーパー、ダフィー・パワー、ミック・ソフトリー、ヘロン、そしてビル・フェイら含むアーチストたちとともに働いていた。最初のISBのLPをかなり高く評価していた彼は、クライヴのソロ・アルバムに資金を出すことを申し出た。

クライヴは乗り気だったが、自分のレパートリーの中で、より古い歌に関心を持っていた。イーデンはそのコンセプトでやっていくことにとても喜んだ。とりわけ彼はそれらマテリアルの多くを知っていて、自身が気に入っていた。「僕は新曲を予想していたんだけど・・・」 彼はいう。「だからクライヴが古いナンバーを提案した時に最初は少し驚いたね」 レコーディング・セッションは1967年の終わりに向け、デンマーク・ストリートのセントラル・サウンド・スタジオが押さえられた。クライヴが歌をよく知っていたため、それはかなり短期間で終了した。イーデンはセッションがクライヴの気まぐれなタイム・キープと、スタジオに何人かの友人といっしょに現れる傾向があったために、予期できないような雰囲気が漂っていたことを覚えている。「彼らはまるで海賊の一団みたいだったな」 彼は笑う。「彼らは当時の水準からいっても変わっていたし、私は毎日、彼らが馬に引かせたキャラヴァンで現れることを半分期待していたよ」

ウィズ・ジョーンズはクライヴが当時バンジョーに加え、いくつかの楽器をプレイしていたのを覚えている。インドの手吹きオルガン、バラライカ、そしてストロール・ヴァイオリン(通常のボディ部分がなく、弦が蓄音機スタイルのラッパ((ホーン))部分を通じて電気増幅される)などだ。しかし‘Banjoland’は大部分が簡素でむき出しだ。アルバムはそのBanjolandで幕を開ける。これはクライヴが最初のCOBのアルバムで再び取り上げ、のちにビリー・コノリーのTVシリーズ‘World Tour Of Scotland’のテーマ曲として使用された。ウィズはこれとBoy In The Galleryでギターをプレイしている。これはマリー・ロイドによって有名になったミュージック・ホール・ソングで、マイク・ヘロンは1960年代初頭のエジンバラのフォーク・クラブでクライヴが歌っていたのを覚えている。

また6つのエドワード時代のバンジョー・チューンがソロでプレイされている(うち1つは最初のISBのアルバムに入っていたクライヴの見本的ナンバー、“Rule Britannia”と“Niggertown”両方を引用している)。そしてトラディショナルのCoventry Carolは、雑誌‘バンジョー、マンドリン&ギター・クラブ’に載っていたクリスマス・キャロルのセレクションからだ。これはクライヴがアルフレッド・ロイドのところで最初に経験を積んだ典型的マテリアルだった。Ma-Koush-LaI Hear You Calling Meは、偉大なアイリッシュ・シンガー、ジョン・マコーマックによる78回転レコードがソースだ。Smiling Throughはクライヴの兄弟がよく歌っていた歌で、Stories Of Jesusは、クライヴの学生時代に端を発する―「これは朝集まって歌っていたうちのひとつ。老婦人がピアノを弾いてね」 イーデンは効果的なストリング・カルテットをかぶせるために、ジャズ・アレンジャーのマイケル・ギブズに依頼した。

アルバムには世界中を席巻していたサイケデリック革命の形跡は全く見当たらない。「人々はよくアシッドをやればファンタスティックな音楽が書けるといっていた。でも僕は全く影響を受けなかったね」 クライヴはいう。「LSDなんてくだらなかった。僕は何にもやらなかった。僕はただ落ち着いていたかっただけなんだ」 しかしイーデンはそのアルバムにはっきりと喜びを示していた。なぜならそれが最新のポピュラー・トレンドに対抗していたからだ。「私はその粗野なところが好きだった」 彼はいう。「彼のやり方を正確に表明したものだったし、当時の世界が夢中になっていたものと全く調和しないね」 アルバムを‘Banjoland’と名付けた彼は、様々なレーベルに売り込みをかけた―しかし喜んでチャンスを与えてくれる者は誰もいなかった。「彼はみんなに働きかけていた」 クライヴはいう。「でも当時、‘エドワード時代のバンジョー音楽’なんていったって、レコード会社はみんな逃げてったね」 その結果、イーデンはしぶしぶアルバムを棚上げにし、以来ずっとそのままの状態に置かれた。

がっかりしたクライヴとウィズはその後すぐに、BBCのラジオ番組Country Meets Folkでプレイした。そのセッションで彼らがレコーディングしたFair And Tender LadiesSwanoa Tunnelが彼らのデュオとしての最高傑作だとジョーンズは考えている。どちらもずっと聞くことができなかったが、今回ここにボーナスとして収録された。他の2つのボーナス、Low Down ManOld Maid’s Songは、1967年遅くにウィズの家で非公式に録音された。そしてこの頃、2人は袖を分かち、それぞれはソロとして続けていくことになった。「なぜ僕たちがいっしょにプレイするのをやめてしまったのかは覚えていないけれど、多分お互いにうんざりしたんだと思う。でもクライヴは僕に大事な教訓を教えてくれた―簡素なアートだ。実際、楽曲を飾りで埋めるのは簡単なことなんだ。彼はどんなテクニックだって持っていたけど、それを使わずに目的を達成してしまうんだ」

翌年クライヴはコーンウォールに移り、そこで彼はフェイマス・ジャグ・バンドとともに1枚のアルバムを制作し、それからもう1つのグループを結成し、その強力なCOBで全盛期を迎えた。以来、彼は大工、庭師、楽器職人、教師、その他多くの職に就き、さらに再編インクレディブル・ストリング・バンドのメンバーとして大西洋の両側でオーディエンスを楽しませている。何年にもわたり、多くの形態で彼が生み出してきた音楽が、魅力的でないなどと主張する者はほとんどいないだろう。時折、殺風景で一貫して反商業主義的であるが、‘Banjoland’はそれを定義づけた要素の多くを立て直し、その魅力に匹敵するほどのアルバムである2004年の彼の‘All Roads Lead To Land’さえ生み出した。一貫してその循環は途切れずに連続している。


グレアム・フッド、2005年10月


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