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Keith Christmas/Timeless & Strange/2004 Sanctuary Records Group Ltd. CMRCD 756



60年代後半を振り返ってみると、英国の音楽産業―一般的には、真に個性的な才能を見つけ出す機知あるいは先見性に欠ける―は依然新しいビートルズやディランを発掘することを考えていた。しかしもちろんそれは絶望的な希望ではあったが、後者と同等の自国の才能を見つけ出そうと、レコード会社の重役やA&RマンたちはLes CousinsやBanjiesのようなロンドンのクラブへ出向いていた(レコード会社の本社から1〜2マイル離れたところで“ニュー・ディラン”が出現するという期待であった。もちろん全く馬鹿げたことだ)。こうして多くの重要な才能が発掘されていった。そのうちの一人であったKeith Christmasは、英国フォーク/ブルース・ブームの波にそれほど呑み込まれていなかった手薄な地域から出現し、ライヴを続けていた。この今回初めてリリースされた彼の初期作品のアンソロジーは、1969年のデビュー作、Stimulusに収録されていたトラックの当時の未発表ライヴと共に、主に70年代初頭の2枚のアルバム、Fable Of The WingsPigmyに焦点を当てたものである―それらはとりわけ肥沃な時期に出現した最高の英国シンガーソングライターのLP群のうちに入る作品だ。

1946年、コルチェスター(イングランド南東部)郊外1〜2マイル離れたエセックスのWivenhoe村に生まれたキース・クリスマスは、最初、バース大学に通っていた1965年にブリティッシュ・フォーク・クラブの地下の世界に巻き込まれていった。彼が大学在学中のイングランド南西部地方は、フォーク/カントリー・ブルース・シーンが繁栄するようになっていった。例えば地元のイアン・A・アンダーソン(のちのフォーク・ルーツ誌編者)とアル・ジョーンズはクリフトンのBroadside Folk & Blues Clubに出演し、Matchbox/Saydiscという小さなレーベルでレコーディングを行なっていた。これは1970年代初めにアンダーソンのカルト・インディ・レーベル、Village Thingに発展していくことになる。1966年、トルバドール・クラブがブリストルにオープンし、急速に南西地方はフォーク/ブルース・シーンの中心地となっていった。クリスマスは1967年になってこの地域のクラブに出演するようになり、ゆっくりと技術を磨き、初期のオリジナルとなる‘Examination Blues’(もちろん学生に相応しい哀歌だ)などのナンバーをプレイし始めた。彼の折衷主義はクリームの‘Cat’s Squirrel’で見せる狂乱的で素早い指さばきのアコースティック・ギター・プレイでコンサートを締めるなどして形を整えていった。

まだ学生だった1969年までに、クリスマスはソーホーのグリーク・ストリート49番地にあるLes Cousinsクラブでのオールナイトのパーティーにゲスト出演するために地元のクラブ・シーンを飛び出した。フォーク吟遊詩人にとって重要なクラブだったLas Cousinsには、よく未来の大物を発掘しようと企業家がやって来ていた。そのうちの一人に、フォーク界で高く崇拝されていたプロデューサー/マネージャーのサンディ・ロバートンがいた。彼のもとにいたアーチストはザ・リヴァプール・シーン、スティーライ・スパン、アンディ・ロバーツそしてマイティ・ベイビーなどであった。ロバートンがオーディエンスの中にいるのを知ったキースは、アル・ジョーンズが先頭に載ったビラにうまく入り込むことに成功した。アル・ジョーンズはすでにロバートンの下でデビュー・アルバム、Alun Ashworth-Jonesを制作していた。キースに感銘を受けたサンディは、数日のうちにキースを彼のマネージメント会社、セプテンバー・プロダクションに招き入れた。ロバートンはキースをチェルシーにあったジョー・ボイドのサウンド・テクニクス・スタジオにMighty Babyと共に連れていった。クリスマスはそこで16時間のマラソン・セッションを行ない、アルバムStimulusの全7曲をレコーディングした。“サンディはアルバムを内密にプロデュースしたんだ。” クリスマスは当時ジグザグ誌に語っている。“で、それをハーヴェストとRCAに持ち込んだら、両レーベルとも受諾してくれた。ハーヴェストは交渉にちょっと時間がかかったから、その時点で僕らはRCAと取引することになった。”

Stimulusは11月初旬にリリースされたが、実際は全く満足のいくようなアルバムではなかった―クリスマスはジグザグのインタビューを通じてそのようなことを言っている。“最初にアルバムを聴いた時は本当に落ち込んだね。それを聴くまでに僕はもっと成長してたっていうか・・・こう言うことにしよう。‘すごく感動的なレコードじゃないけど、全く妥当なファースト・レコードだと思う。’” ロバートンはよく自社作品でマイティ・ベイビーをバッキング・バンドとして雇っていた。彼らは問題なく素晴らしいミュージシャンであったが、彼らのロック色強い傾向は、クリスマスのより内省的なスタイルに合わないところがあり、何曲かではシンガーがバッキングに沈み込んでしまっているように見える。さらにアルバムは明らかに素人臭いミックスを被っていた。ロバートンはまだプロデューサーとしてのコツをはっきりとつかんでいなかった。“ファースト・アルバムは予算がなかったんだ。” 現在キースは回想している。“僕らは4トラック・スタジオでレコーディングした―多分エンジニアはベースとドラムスを一つのトラックに、僕のギターはピアノやなんかと一緒に押し込めなきゃならなかったように思う。”

しかし一方で、アルバムはある2曲を含んでいる―とりわけ‘I Know You Can’t Lose’(ここでは当時のライヴ・レコーディングとして聴ける。3ヴァース目はアルバムでは聞けなかった部分)と‘Travelling Down’だ―これらは愛らしくリリカルな‘Metropolis’が証明するように、より心地よい処理が施され申し分ないところだ。そしてもしかするともう一つの注目すべき点として、UKのみのオリジナル・プレスであるStimulusは、クリスマスの過去の作品中、最も高価なアイテムかもしれない。1960年後半/1970年代初頭のフォークロック工芸品のコレクターによって約50ポンドの値がつけられている。

Stimulusはクリスマスの名でリリースされた初のレコードだったが、彼は1969年夏にレコーディング・スタジオに赴いたのはこれだけではなかった。彼は8月にベカナム・アーツ・ラブ・フェスティヴァルで、デヴィッド・ボウイ、アンジー・ボウイと共演した(“僕はアーツ・ラブでのボウイのお気に入りゲストの一人だった―彼はクラブを運営していて、フロアにスポットを当てたりしていたんだ”)。そこには他にもカウンター・カルチャーの魅力的な仲間たちが出演していた。ジョン・ピール、ストローブス、ブリジット・セント・ジョンなどだ。ボウイはシングル、‘Space Oddity’をリリースしたばかりで、そのヒットによってレコード会社はできるだけ早くアルバムを制作したがっていた。クリスマスはそのLPにセッション・ミュージシャンとして雇われ(最初UKではDavid Bowieとして、アメリカではMan Of Words、Man Of Musicとしてリリースされたが、1970年初めにRCAによってSpace Oddityとして出し直された)、‘Letter To Hermione’や‘God Knows I’m Good’のような曲でフェンダー・アコースティック・ギターを弾いた。“僕は4〜5曲をやった記憶がかすかに残っているけど、その2曲を除いた多くは後から加えられたんだ。” 彼は回想する。“ボウイは当時はまあフォーキーだったね―12弦ギターをかき鳴らしていたよ・・・僕は彼が激しく弾く中でピッキングを主体としたプレイをしていた。”

Stimulusでの失敗を取り戻したかったクリスマスは、1970年暮れに再びプロデューサーのロバートンと共にスタジオに戻った。ロバートンはこの時までに自分のアーチストをRCAからより小さなB&Cレーベルに移していた。レコード産業は依然ロンドン中心であったし、南西部の学生であったキースの身分によってアーチストとしてはレコーディング・セッションの進行に支障をきたすことになった。“僕はスタジオの最終期限を気にしながらプレッシャーの中で曲を書いていたね。で、ロンドンに出向いて友人たちと過ごして数日間でアルバムをレコーディングした(予算が増えたおかげで前よりも日にちとセッション時間が多くとれた)―何回か僕はロンドンに行ったり来たりしてレコーディングしていった。ミックスには立ち会わなくて、サンディが全てやったよ・・・僕はギグと学生をブリストルで続けていた。レコードが出来上がった時にホワイト・レーベルのサンプル盤をもらっただけだったね。”

かなり無計画なやり方だったにもかかわらず、クリスマスのB&Cからのファースト・アルバムFable Of The Wingsは前作よりもはるかに満足できるような出来映えだった。Gordon Huntley(マシューズ・サザン・コンフォートでステージを務めていた)による好意的ではあるが出しゃばりなスチール・ギターは、より気の合うバッキング・ミュージシャン、Pat Donaldson(bass)とGerry Conway(drums)らがとって代わった。‘Waiting For The Wind To Rise’‘Lorri’でのエレクトリック・フォークロックのバッキング・サウンドは、Stimulusが目指していたようなサウンドに到達していた。一方、‘Kent Lullaby’のようなトラックはニール・ヤングの‘Ohio’と同じく、ケント・ステート(オハイオ州のKent State Universityの略)での州兵による4名の学生射殺について書かれていた―そして素晴らしいタイトル・ソング(マーチン・カーシーのバンド、ブラス・モンキーがカヴァーした)は、イングリッシュ・フォークの神話と伝説を現代に伝え、クリスマスの巧みなギター・ワークを見事に示し、彼の成熟したソングライティングをも示していた。他でアルバムのハイライトとなるのが、‘The Fawn’だ。セカンド・ヴォーカルにはShelagh McDonaldがフィーチャーされている―彼女もロバートンのセプテンバー・プロダクション所属アーチストで、ジョニ・ミッチェルに影響を受けた2枚のアルバム(クリスマスは数曲を提供し、アコースティック・ギターを弾いている)は今では70年代初めのシンガーソングライターの分野においてファンから高く評価さている。

1970年11月にUKでリリース(アメリカとヨーロッパも同様)されたFable Of The Wingsは、商業的な成功は全く収められなかったものの、カルト的支持を打ち立てた。にもかかわらず、クリスマスは1971年に建設工業技術の理学士号を修了してバース大学を卒業した。彼は仲間やクラブ・サーキットから多くの誘いを受け、キング・クリムゾン、テン・イヤーズ・アフター、ザ・フーらと同じ広告に載り、活動を続けた。彼はまた1970年8月の最初のグラストンベリー・フェスティヴァルに出演した。はっきりいって彼の音楽的キャリアの中で重要なイヴェントとは感じられなかったが。“無意味なギグだったね。” 彼は認める。“その時はまだ人は多くは集まってなかった―僕は午後プレイしたんだけど、その晩に別のギグの予定があったから待っていられなかった。ちょっと混乱していたのを覚えているね。当時の他の多くの野外イヴェントと変わらなかったよ。少なくともギャラはもらったけどね!”

キースは活発なギグ・スケジュールを求め、彼のソングライターとしての名声はどんどんと大きくなっていった。加えてシェラ・マクドナルドが彼の曲をカヴァーし、ブリストルのフォーク・ユーモア主義者Fred ‘Oldest Swinger In Town’Wedlockが‘Robin Head’含むクリスマスの曲を3曲レコーディングした。‘Robin Head’はキース自身サンプラー・アルバム、49 Greek Streetでプレイしていた。このアルバムはロバートンと契約していたアーチストたち(のちの世界的ヒット‘Pop Musik’のMであるロビン・スコット含む)をフィーチャーしたLes Cousinsクラブをトリビュートしたものだった。

1971年夏、クリスマスは多くのファンが―さらに言うなら彼自身も―最高作と見なすアルバムをレコーディングした。サンディ・ロバートンと、2年前にStimulusに参加していたドラマー、Roger Powellの再召集を除けば、Pigmyはこれまでとは全く違うラインナップを堂々とそろえていた。それは元ゾンビーズのキーボーディスト、Rod Agentからジャズ・サキソフォニストのRay Werleigh、加えて、間もなくバブルガム・ポップ・ソウルのヒット‘Sugar Candy Kisses’を放つことになる兄弟のMac & Katie Kissoonによるバッキング・ヴォーカルなどだ。しかしもっと重要なのは、その頃ニック・ドレイクとの仕事で最もよく知られ、シェラ・マクドナルドとも同じような仕事をしていたアレンジャーのRobert Kirbyかもしれない。カービーはアルバムの最も強力な2曲で完璧な貢献をしている。それはStimulus収録の息を呑むような再録‘Travelling Down’に対するアレンジメント(London Symphony Orchestraがフィーチャーされている)であり、これは曲の本質的なはかなさを見事に表現するに至っている。もう1曲がアルバムのラストの大作、LSO(London Symphony Orchestra)による雰囲気ある最終章のパフォーマンスが聞ける‘Forest And The Shore’である。しかしながら、特にカービーの弦と合唱の素晴らしいアレンジが曲のクォリティ、思慮深さ、ほろ苦さ全体に渡ってマッチしているのが、‘Timeless And Strange’‘Evensong’だ―クリスマス自身のギターとヴォーカル・パフォーマンスはそのつまびきと小声で歌うスタイルが彼の熟達した能力を示し、ディラン風のフォークロッカー、‘Waiting Grounds’のように、より分かりやすい形となって現われている。

1971年9月にリリースされたPigmyは、かなりの評判となった。しかしB&Cの配給を行なっていたTony Stratton Smithの比較的小さなCharismaレーベルは、新しい才能をブレイクさせる能力に著しく欠けていたことが露呈してしまった。ロバートンのB&Cとのコネクションは、翌年会社が倒産してしまったのちに難しいものとなっていた。企業主はまた所属アーチストとの依存関係を断ち切ってしまった。宙ぶらりんの状態となり幻滅したクリスマスは、あっさりとフォーク・クラブ・サーキットから手を引き、ラリった仲間であったMagic Muscleのメンバーと共にヒッピー的進路をとることにした。そのMagic Muscleのベーシスト、Adrian ShawはPigmyに参加していた。“僕はMuscleのほとんどのメンバーとブリストルで共同生活をしていた―Cotham Row 49番地だ。当時はかなり悪名高かったね!Fable Of The Wingsのジャケット写真はそこで撮られたんだ―それからバースのフラットに引っ越した。1年後、サンディが僕に他の契約を結ぶことができなくなったと言ってきて、僕と、彼のところのアーチスト全員も解雇してしまった後に、僕はフラットを引き払った。ばかみたいに僕は契約できないはずなんてないと信じていたね。そして僕はサマセット(イングランド南西部)の農場に移って、‘グレイトフル・デッド’スタイルの音楽コミューンを立ち上げようと思ったんだ。しかしすぐにそれはダメになってしまった―Magic MuscleはCotham Rowを引き払って他の数人の仲間とやって来て、ニューズベリー農場の小屋はいっぱいになってしまった。僕はバンドのメンバーになったことはなかったし、彼らと一緒にライヴもしなかった。でも農場で僕らはジャム・セッションをした。僕はよく急いで耳が聞こえなくなるほど大騒ぎをしていた部屋から飛び出したもんだった。すごい耳鳴りなんだ!”

しかしそういった牧歌的な笑い話にもかかわらず家賃はただであった。1973年、クリスマスはソロに戻る前に短期間、多国籍のクラシック/ロック・フュージョン・バンド、Esperantoのセカンド・アルバム、Danse Macabreでリード・ヴォーカリストとして参加した。翌年、彼はエマーソン・レイク&パーマーのレーベル、Manticoreと契約を結び、2枚のアルバム、Brighter DayとStories From The Human Zooを発表した。前者はグレッグ・レイクとELPの作詞家ピート・シンフィールドによるプロデュースであった。しかしそのような援護があったにもかかわらず、それらのアルバムはクリスマスのキャリア、あるいは名声をさらに上げることに失敗してしまった。“Manticoreのアルバムでは僕はフルタイムのプロ・ミュージシャンで、すごく念入りに仕上げたんだけど、たしかにあの2枚はFablePigmyみたいな感触は感じられないね。” 現在の彼は認める。

ロサンゼルスで2年間を過ごした後、クリスマスは1976年にロンドンに戻り、元ロキシー・ミュージックのギタリスト、フィル・マンザネラと共に新バンド、801を結成しツアーして回った。また徹底したカウンター・カルチャー・フェスティヴァルでDeeply Valeとしてプレイし、2回目のグラストンベリーも経験した。しかし1970年代後半の英国音楽シーンはパンクとディスコ到来に向けて地殻変動が進行していた。フォークをベースとしたアコースティックなシンガーソングライターにとっては仕事の口を見つけるのに難しい時代となっていった。クリスマスは1981年に活動を停止し、ロンドンを拠点に家具修繕ビジネスを始めた。しかし10年経た後、彼はデザイン技術講師として再びトレーニングを開始し、またフォーク/ブルースのライヴ・サーキットへ戻っていった。その時彼はブルース・バンド、Weathermanを結成し、アルバムWeather Oneをレコーディングした(最初はRun Riverから1992年にリリースされたが、最近になってVoiceprintから新装発売された)。続いてアシュリー・ハッチングスによるプロデュースのソロ・アルバム、Love Beyond Dealsをレコーディングした。それに続いたのが彼の妻ジュリア(www.kcjc.co.uk)とのパートナーシップだったが、彼の最も新しい活動は今年(2004)初めにリリースされたAcousticaだ。これはアコースティック・ギター・インストCDとして広く称賛を受けた。35年以上経た後、まず彼はライヴを再開した。非の打ちどころのないテイストとテクニックを持つギタリストとしてキース・クリスマスは今も健在だ。もちろん彼の初期作品であるこのアンソロジーも同様である。

デヴィッド・ウェルズ

キース・クリスマス・ウェブサイト:www.keithchristmas.co.uk


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