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Chilli Willi & The Red Hot Peppers/Bongos Over Balham/2006 Sanctuary Records Group Ltd. CMRCD1329



「僕たちはアメリカでビッグになりたいし、うんと稼ぎたいね。他のみんなもそう思っているようにね。でも基本的に僕たちはライヴ・バンドだから、永遠にギグをやり続けるだろう」(ピート・トーマス((Dr)) 1974年5月11日 メロディ・メーカー)

ピート・トーマスの述べた切望にもかかわらず、チリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・チリ・ペパーズはアメリカでビッグになることはなかった。彼らは金を稼ぐこともなかった。最も悲しいのは、トーマスが“永遠にギグをやり続ける"と楽観的に語ってから、たった9ヶ月後に彼らが最後のショーを行なったことだ。わずか2年間しかバンドは続かなかったが、それでも彼らは1970年代初頭のロンドンで起こったパブ・ロック・ムーヴメントから登場した中で、最もルーズで最もスウィングするバンドの1つとして、あらゆる人々から十分に思い慕われていた。カントリー、ブルース、スウィング、R&B、ブルーグラス、そしてルーツ志向に根ざしたあらゆるアメリカン・ミュージックをミックスした“ウィリス”は、それら全てをカヴァーするだけの多彩さをもち、それプラス、バンドの共同リーダー、フィル“スネイクフィンガー”リスマンによるオリジナル・ソングは、ルイ・ジョーダンの名高い“Choo Choo Ch'Boogie”から、ブリル・ビルディング・ティーン・ポップの“I Wanna Love Him So Bad”まで、様々な説得力あるカヴァーと結びついていた。

マルチ・プレーヤーのリスマン(ギター、フィドル、ラップ・スティール、ヴァイオリン、ピアノ、そしてリード・ヴォーカル)に加え、バンドは彼、あるいは他の世代も含めて最高のギタリストの一人をかかえていた。そのマーチン・ストーンは、サポート・ミュージシャン及び、未来のスティッフ・レコードの最高権力者ジェイク・リヴィエラの狡猾なマネジメントなど、すぐれたバックボーンをもっていた。しかしどういうわけか、これら全てはバンドを大成功へと導く要素とはあまりいえなかった。まあ、かまうものか、だ。ここではバンドの唯一のアルバム、『Bongos Over Balham』(チリ・ウィリとしての正式デビュー作『Kings Of The Robot Rhythm』は、まず第一に完全なバンドの姿ではなく、リスマン/ストーンによる控えめなカントリー・ブルースの試みだった)を心に留めておこうではないか。このCDは一握りのデモ、ライヴ音源、そして彼らが驚くべき260のギグを敢行した1974年からの無名のトラックによって肉付けされている。

チリ・ウィリのルーツは1964年にさかのぼる。その年、マーチン・ストーンとフィリップ・リスマンは、あるR&Bグループがメロディ・メーカーにギタリスト募集の広告を出したオーディションで並んで待っていた時に初めて出会った。2人とも学校を出たばかりで、彼らは即座に意気投合した。無名のR&Bグループのことは忘れることにし(マーチンによれば、“信じがたいほど悲惨なバンド”だったらしい)、その代わり彼らは自分たちのバンドを結成した。残念ながら、ジュニアズ・ブルースと名付けられたそのバンドはギグを手に入れるのに苦労し、クロイドン新聞でのマーチンの本業である下っ端リポーターとしての助力も効かなかった。「地獄だったね」 彼は笑いながらいう。

「僕はマディ・ウォーターズになって、女を一列に並ばせることを夢見ていた。でもジュニアズ・ブルースはギグができなくて、僕は週7ポンドで“Women's Institute Donkey Derby”(訳注:婦人会ドンキー・ダービー?分からない。Donkey Derbyはロバによる競馬。女性が先を争って一列に並ぶ歌ばかりを歌っていたということか?)をカヴァーしていた!」 ジュニアズ・ブルースがばらばらになった時、マーチンは“ロックハウス・バンド”というグループに加入した。それから短命に終わった“ストーンズ・メイソンリィ”に移った。これはマイク・ヴァーノンの独立系ブルース・レーベルだったパーダ(Purdah)から1枚のレアな“誠実な政治家”についてのシングルを出したヴェテランたちだった。リード・ヴォーカルにクリス・ユールデンを擁したストーンズ・メイソンリィからサヴォイ・ブラウンへの移行は速やかに行なわれたが、マーチン・ストーンはイングランド南西部のバーンスタプルで麻薬を押収され、その責任を負う形で、すぐにサヴォイのマネジメントからクビを宣告された。

サヴォイ・ブラウンの音楽にさらにLSD的な要素をもちこんだマーチンは、次にクラブ・モッド/ソウルの残党バンドだったジ・アクションに参加した。1968年5月、彼らはサイケデリック・アンダーグラウンドの根城、ミドル・アース・クラブでザ・バーズの前座を務めた。そのイヴェントはストーンの未来に重要なインパクトを与えることになった。「バーズはちょうどカントリー的な方向へシフトするところだった」 彼は回想している。「僕はそれに夢中になった。ポップ・ミュージックなんてクソくらえだ!僕はカントリー&ウェスタン・ミュージシャンになりたいと思った!それで僕たちはグループ名をマイティ・ベイビーに変えて、カントリー・ロックをやり始めたんだ。僕の好みからすると不十分だったけどね。僕はみんなでロンドンのライシーアム・シアターにフライング・ブリトー・ブラザーズを見に行ったことを覚えている―大きなステージの真ん中に小さなアンプを寄せ集めて、グラム・パーソンズとクリス・ヒルマンがかん高い声で歌っていた。僕は決してマディ・ウォーターズにはなれないけど、がんばればああいうかん高くて哀れっぽい声を出せるんじゃないかと思ったね・・・」

おめでたくも麻薬でラリったマイティ・ベイビーは、2枚のアルバムをリリースするだけの期間を持ちこたえたが、バンドの大部分のメンバーがイスラム・ムスリム信仰に改宗したのち、1971年の終わりにばらばらになった。グループで唯一ムスリム教徒にならなかったギタリストのアラン“Bam”キングは、初期パブ・ロック・グループの1つである“クラット・サイガー”(Clat Thyger)を結成したが、初期パブ・ロック・シーンの中心地だったフォーテス・ロードのタリー・ホーで毎週火曜のレギュラー出演を果たしたにもかかわらず、結局は“How Long”のヒットを放ったエースに身をゆだねることになった。その間、マーチン・ストーンは家屋塗装業者となったが、彼はフルタイムのミュージシャンとしてシーンに返り咲くことを考えていた。

一方でストーンは旧友のフィル・リスマンを通じて、ロンドンのアンダーグラウンド・ネットワークの中をぶらぶらとうろつき、自身の風変わりな領域に磨きをかけていた。ジュニアズ・ブルース消滅後、リスマンはロンドン拠点の“スマイリー”というグループでプレイしていたが、その後、60年代の終わりに、より共感できるミュージック・シーンを求めてサンフランシスコへ飛んだ。そこで彼が参加したのが、やがてレジデンツという名になる変わり者の一団だった。リスマンは彼らの1971年暮れの未リリース・アルバムで悪名高いアルバム『Baby Sex』でプレイした。そのフロント・カヴァーは、デンマークの子供ポルノ雑誌からインスパイアされていた。レジデンツと共に活動する間に、彼はスネイクフィンガーというニックネームをつけられた。伝えられるところによれば(レジデンツに関する多くは“伝えられるところでは”ということばが使われねばならないが)、彼はバンドの希少なライヴ・パフォーマンスの1つで、ヴァイオリンを弾いていたらしい。その時、彼の仲間たちは彼の指の1本が“カッとなった蛇のように”くねくねと動くのを見た。

1972年までにリスマンはロンドンに戻り、マーチン・ストーンの兄弟のナイジェルと共同生活をしていた。「僕はあそこにこそこそ入っていくようになって、タンパ・レッドとウィリー・ネルソンの曲をやっていた」 マーチンは回想する。「ある日、僕はスネイクフィンガーに“バンドをやろう”といった。それがチリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・ペパーズの始まりだった。最初、僕たちはすごく南部臭い感じだった。フィルは安っぽいアコースティック・ギターとおんぼろのヴァイオリンで、僕はドブロとマンドリンだった。最初のギグはヘルプ・ユアセルフの前座だったと思う」

初めのうちはカントリー・ブルース・デュオとしての活動だった未発達なチリ・ウィリは、レヴェレーション・レコードのボスだったジョン・コールマンによってレコーディング契約をオファーされた。レヴェレーションは3枚組のアルバム、『Glastonbury Fayre』を出したばかりだった―このレコードは前年のグラストンベリー・フェスティヴァルで被った負債を減らすことを目的としていた(そこで偶然プレイしていたのがマイティ・ベイビーだ―3枚組LPにはそこから彼らの16分間のパフォーマンスがフィーチャーされている)。

アンダーグラウンド・アーチストのバーニー・バブルスによってデザインされた手の込んだジャケットの『Glastonbury Fayre』は成功し、20,000枚前後は売れたようだ。

「うぬぼれた私たちが、あの時点で取り組もうと決めたのが、チリ・ウィリ・プロジェクトだった」―ウィル・バーチの決定的パブ・ロック本“No Sleep Till Canvey Island:The Great Pub Rock Revolution”の中で、コールマンは回想している。「バリー・エヴェリットと私がチリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・ペパーズのデビュー・アルバム『Kings Of The Robot Rhythm』をプロデュースしたんだ」

再び忘れられないバーニー・バブルスによるデザイン(オリジナル盤にはチリ・ウィリのぬり絵になった蝶ネクタイの切り抜きインサートがついていた)を施した『Kings Of The Robot Rhythm』は、1972年11月にリリースされ、“I'll Be Home”と“Drunken Sunken Redneck Blues”含む一握りのリスマン作品を基盤としていた。マーチンが“極度に混沌としていて、不十分なプロデュースだ”とコメントしたにもかかわらず、アルバムは誠実で、人懐っこい控えめな作品が収められ、ブルース・シンガーのジョー・アン・ケリー及びかなり意外ではあるが、エレクトロニック・パイオニアの“ホワイト・ノイズ”のメンバーだったシンセサイザーのスペシャリスト、デヴィッド・ヴォーラウスを含む様々なゲストをフィーチャーしていた。

しかし進むべき道は、パブ・ロック・ムーヴメントの重要グループの1つであるブリンズリー・シュウォーツの存在によって指し示された。「2曲でブリンズリーズが参加したけど、それがロックンロールへ舵を切るきっかけを与えてくれたんだ」 ストーンは打ち明ける。「それでも僕たちはまだ楽しむことをメインに考えていた。ジョー・アン・ケリーはオーディションにマルチ奏者のアメリカ人を紹介してくれたんだけど、僕たちは怯えてしまって、彼を断らなくちゃならなかった―彼は僕たちにとってはあまりに優秀すぎたんだ!代わりに僕たちはポール“ダイスマン”ベイリーを入れた!それからリズム・セクションとして、ポール“ベースマン”ライリーピート・トーマスを入れた。そうして僕たちは活動を始める準備が整った―世界初の悪質イングリッシュ・ウェスタン・スウィング・オーケストラだ!」

実際ウィリスはラウンドハウスでのクリスマス・イヴのギグで、ホークウィンドの前座としてドラムレスの4人組でステージに立っていた。しかし1973年1月のピート・トーマスの加入によって、全てのコマがそろった。ポール・ベイリー同様、トーマスはシンガー/ソングライターのロビン・スコット(“M”として1979年に“Pop Muzik”を大ヒットさせることになる彼だ)と共にプレイしていた。一方ポール・ライリーは、ブラニング・サンフラワー・ブルース・バンドでプレイしていた。

ブルース、ウェスタン・スウィング、R&B、そしてカントリー・ロックのアーシーでグッドタイムな混合となった新生ウィリスは、ローディーのガールフレンドがブッキング・エージェントとして、レヴェレーションに雇われたことがかなりの助けとなり、シーンにインパクトを与え始めた。1973年4月までに、彼らはタリー・ホーとラッセル・ガーデンズのケンジントンでレギュラー出演を果たしていた。ウェスト14地区にあるケンジントンで、ブリンズリーズ、ダックス・デラックス、そしてビーズ・メイク・ハニーも定期的にギグを行なっていた。またウィリスは同月、ジョン・ピール・ショーのためにセッションを録音した。これは続く1年半にわたるラジオ・ワンでの5つの録音の最初に当たるものだった。

また彼らは新しいロード・マネージャーを獲得した。フランスの似たような規模のクラブで、レ・ヴァリエーションズというバンドのために働き、彼らのために歌詞の翻訳もやっていたアンドリュー“ジェイク”ジェイクマンは、ケンジントン・マーケットで売店を経営し、ダリル・ウェイズ・ウルフのローディーとして働く前に、ノッティンヒル・ゲイトの店“レコード&テープ・エクスチェンジ”で店員を務めていた(その証拠として彼はレコード・コレクションをもっていた)。ジョン・コールマンは見たところ、力の及ぶかぎり、ウィリスを自分のものとしていたが、異常にやり手だったジェイクマン―あるいはジェイク・リヴィエラ―の前では時間の問題だった。“ジェイク・リヴィエラ”というのは、彼がバンドのマネージャーを引き受けた時に自身で新しく採用した名だった。

マーチン・ストーンはいう―「ある晩、僕たちがサウサンプトンを出発していた時、1台のパトカーが僕らを追い越した。ジェイクはビールの缶をパトカーに投げつけて、それは屋根に当たってはね返ったんだけど、パトカーは何事もなかったように走り去って行ったんだ。(間をおいて)で、こういったね―“ヘイ、ジェイク!マネージャーに昇進したいかい?!”ってね」

「その時に僕たちはうまくいき始めたね。僕たちはスタジアム級の会場には向かなかったし、ボールルーム・レベルでさえなかったけど、英国中のパブで100万回プレイして、音楽プレスは僕たちを気に入ったんだ」 この時までに、レヴェレーションは倒産していた。ジョン・コールマンはロンドンを去り、リヴィエラがクイーンズ・ゲイト・テラスのコールマンのフラットに移り住み、そこから彼はありえないような企てとして、チリ・ウィリのファンジンとともに、“ダウンヒル・マネジメント”を運営した。「僕たちは“Up Periscope”(潜望鏡を上げよ)にするつもりだった」 マーチンは回想する。「僕たちは全てを整えたが、実際うまくいかなかったと思う。今から思えば、それはジェイク流の戦略なんだけど、実はバンドとの共同アイデアだったんだ。ジェイクらしいアイデアの多くは、僕たちとの関係の中から生まれた。僕たちはすごく似たようなユーモア感覚をもっていたからね」

レヴェレーションがシーンから去ったことで、ジェイクはB&C/カリズマ・レーベルの系列だったムーンクレストとのレコーディング契約を仲介した。1974年3月終わりから4月上旬にかけて、ウィリスはセカンド・アルバムを構成することになる曲をレコーディングするために、エンジニアのヴィック・ケアリー(Vic Keary)といっしょにチョーク・ファーム・スタジオに入ったが、リスマン作の皮肉の効いた“Goodbye Nashville, Hello Camden Town”(これはほとんどパブ・ロック全体をアメリカン・ルーツ/カントリー・ミュージックに向かわせることになった)や、ジェリービーンズのガール・グループ・クラシックである“I Wanna Love Him So Bad”(ふさわしく男性版に変えられた)などはアルバムから漏れることになった。バンドが“Goodbye Nashville, Hello Camden Town”を気に入っていたことをマーチンは覚えているが、彼らはレコーディングしたそれを最終ヴァージョンとして満足してはいなかった。

これらセルフ・プロデュースのセッションの成果は際立って立派なものであったが、ない知恵をふりしぼって考えた末、レコード会社は名声あるプロデューサーが必要だと判断した。自分たちのレコード・コレクションにざっと目を通したウィリスは、レニー・ワロンカー、テッド・テンプルマン、そしてジェフ・マルダーといった名を挙げたが、みな話をとりつけることができないか、興味を示されずに終わった。しかしながら、元モンキーズで、その時のアメリカのカントリー・ロック・シーンで重要人物だった上に、より適任だったかもしれないマイク・ネスミスが喜んで仕事を引き受けた。

相棒だったペダル・スチール・ギタリストのO.J.“レッド”ローズとともに、ネスミスは4月28日の日曜にラウンドハウスで行なわれる、ウェスト・コースト志向の英ファンジン、“ジグザグ”のための資金調達ギグでプレイするために、英国に到着した。この盛大な祭りは、ロンドン・パブ・ロック・マフィアの様々なメンバー―キルバーン&ザ・ハイロウズ、そして当然ながらチリ・ウィリも入っていた―はもちろん、ジョン・スチュワートをフィーチャーしていた。少なくともギグの一部はレコーディングされた。そこから我々がこのCDに収録したのが、“Drunken Sunken Redneck Blues”、トラディショナルの“Fire On The Mountain”、そして彼らがはっきりと“パブ・ロックの国民的アンセム”として紹介したすばらしく喚起作用ある“Six Days On The Road”だ。

ラウンドハウス・ショーの2日後、チリ・ウィリはネスミスとローズとともに、ロンドンのウィルズデンにあるモーガン・スタジオに入った。しかしそれは愉快な体験とはならなかった。「僕たちはマイク・ネスミスをプロデューサーとして招いていた。みんな彼のファンだったし、モンキーズも彼のソロLPも大好きだったからね」 マーチン・ストーンは説明する。「でもネスミス氏を含んだ僕たちは難しい時を過ごすことになったと思う。彼は熱心なクリスチャン・サイエンスの信者だってことが判明して、ミキシング卓には聖書が置いてあった。僕たちが会った中で一番まじめくさった顔をしたユーモアのないプロデューサーだったんだ。でもレッド・ローズはすばらしい男で、たいていは笑っていたけどね」

4月30日から5月3日の間に、ネスミスは半ダースのタイトルをざっと見渡した―“Friday Song”“Desert Island Woman”、皮肉なタイトルとなった“We Get Along”(僕たちは仲良し)、“Truck Drivin' Girl”“Choo Choo Ch'Boogie”、そしてファースト・アルバムに入っていた“I'll Be Home”のリテイク・ヴァージョンだ。そして彼は部屋から出て行った。彼がプロデュースしたうちの2曲だけが、次のアルバムに収録された。その時でさえ、彼のプロダクション・クレジットがないことでかえって目立つことになった。「僕たちは彼が去ったあとで、彼のミキシングをいじくったんだ」 マーチンは認める。「でも彼が正しくて僕たちが間違っていた。彼のミックスは僕たちのよりずっとよかったから。僕たちは彼のいうことを聴くべきだったと今は思っている」

ネスミスが関与しなくなったことでウィリスはムーンクレスト・レーベルに、アルバムをロニー・レーンのモビール・スタジオ(移動式レコーディング車)を使ってレコーディングしたいと申し出た。ムーンクレストはロン・ネヴィソンといっしょに働くことを条件に、それに同意した。ネヴィソンはその頃、ザ・フーの『Quadrophenia』のエンジニアリングを手伝い、似たような役割でレッド・ツェッペリンの『Physical Graffiti』にとりかかろうとしていた。バンドはその条件を受け入れた―「僕たちはロニー・レーンのモビールをコーンウォールにあったジェイクのガールフレンドの農場にもちこんで、牛小屋の中でレコーディングした」 マーチンは回想する。「ロン・ネヴィソンはジェイクの監督のもとで、エンジニアとプロデューサーをやった。とても楽しかったね・・・」

1974年5月27日から7月4日にかけて、ネヴィソン、ジェイク、そしてウィリスはムーンクレストからのアルバム、『Bongos Over Balham』(最初は『Teatime On The Trail』と呼ばれていたらしい)に収録されることになるトラックで、とりとめもなく働いた。バンドのメンバーによっては、少し散漫すぎる仕事ぶりが目に付いたようだ。のちにポール・ライリーは不満を述べている―熱狂的なスポーツ・ファンのネヴィソンが、自分のロールス・ロイスの後部座席にもちこんだポータブル・カラー・テレビで、ウィンブルドン・テニスやワールド・カップ決勝を観ている間に、録音テープが止まってしまった。

「“Dan Dare”(英SF漫画)から出てきたみたいだったね」 マーチンは笑う。「70年半ばのイングランドはそんなものだった―僕はポータブルはもちろん、カラー・テレビなんて見たことがなかった!彼はたしかにスポーツ・オタクっぽかったけど、いいやつだった」

しかしセッションは最終的に完了し、『Bongos Over Balham』はグループの1974年の姿を示したすばらしい代表作となった。ファーストの『Kings Of The Rhythm』の場合と同様、楽曲は大部分がリスマン作であり、彼の典型的なフィドル・ワークを生かした“Truck Drivin' Girl”、愛らしい“We Get Along”、そして明らかに自身を神話化した“9-5 Songwriting Man”などが入っていた。にもかかわわらず目を引くのが、2つのカヴァーだった。ルイ・ジョーダンの“Choo Choo Ch'Boogie”(アメリカン・カントリー・バンドのアスリープ・アット・ザ・ホイールがその頃、USマイナー・ヒットを放っていた)は、抗しがたい魅力でオープニングを飾り、一方でバンドの正当性を示したグレイトなジェシ・ウィンチェスターの“Midnight Bus”もあった。

またトラッド・ブルース・ソングの“Just Like The Devil”は、ゲスト・リード・ヴォーカルとして旧友のジョー・アン・ケリーをフィーチャーし、彼女はキャロル・グライムズとペンタングルのジャッキー・マクシーとともにペパーレッツの一員としても参加していた。他に脇役としてクレジットされていたのが、Will Stallibrass(ハーモニカ)、ブリンズリー・シュウォーツのボブ・アンドリュース(ピアノ、アルト・サックス)、前述のレッド・ローズ、マリンバにRitz Brothers(実際はマーチンとフィルだった)、そしてたしかに最小の貢献ではあるが、“ガチャガチャ・ノイズ”には、あるいは誰かの偽名かもしれないEtleeb the Giant Beetleが参加していた。

バーニー・バブルスによる典型的なシュールなスリーヴに収められた『Bongos Over Balham』は、ついに1974年11月に店頭に並んだ。プレス・リリースは謎の人物、“ヴァイナル・モーグル”(Vinyl Mogul:“レコード界の大物”?)によって行なわれ、彼は“バンドの真のファースト・アルバム”と述べ、最後に“買うべき。これはあなたの冷蔵庫にピッタリだろう”と締めくくった。謎の人物とは、もちろんジェイクのことだった。広告コピーライターとしての彼の背景を反映した簡潔でシュールでユーモアに富んだことばは、彼のマーケティングの天武の才能を示していたし、2年後にはスティッフ・レコードを抜きん出た存在にすることになった。

バンドは順当にアルバムのプロモーションに乗り出し、12月にラウンドハウスで行なわれたこっけいなタイトルのイヴェント、“ビッグ・クリスマス・ビート狂想曲”でヘッドライナーを務めた。それからジェイクのマスター・プランが続いた―半伝説的な“Naughty Rhythm Tour”(粗悪リズム・ツアー)は、ブリストル大学と翌日のギルフォード市民ホールを手始めに、1975年1月11日にスタートした。ツアーは2月の終わりにノース・ロンドン科学技術専門学校で幕を閉じたが、たしかにチリ・ウィリはブレイクした―しかしあるいは彼らのマネージャーが予想していたようには展開しなかったかもしれない。

「ジェイクのノーティー・リズム・ツアーは50年代と60年代のポップ/R&Bのパッケージ・ツアーの再現だったんだ」 マーチンは説明する。「ココモとドクター・フィールグッドと僕たちは交代でトリを務めた。でもすぐに、フィールグッズが毎晩主役を務めるべきだってことが明白になった。ウィリスは多様すぎたし、ココモはディスコ色が強すぎたんだけど、フィールグッズはすばらしすぎたんだ」

「僕たちはドクター・フィールグッドによって影が薄くなっていた」―ポール“ダイスマン”ベイリーはウィル・バーチに打ち明けた。「彼らはオーディエンスをノリノリにしていたけど、僕たちはそうじゃなかった。ジェイクは間違いなく、1つのチャンスに遭遇していたと思うし、チリ・ウィリを改造するか、フィールグッズに乗り換えるかの選択に直面していたんだ。彼は後者の方に魅力を感じたのかもしれない」

「フィル・リスマンはすごく幻滅するようになったんだ。人々が彼の並外れた才能を気にもとめていないかもしれないって事実が、彼には理解できなかったからだ」 ジェイクは反論する。「彼がリー・ブリローを楽しんでいるオーディエンスを見た時、ブリローは単なる銀行員に過ぎなかったし、2つのコードもほとんど分からない昔ながらの酒飲みで、ちょっと酔っ払っていたね」
リスマンとストーンの関係が不安定な時期にさしかかり、ジェイクがフィールグッズに熱い視線を投げかけ、そして商業的成功の兆しがなかったことで、ウィリスはほとんど終わりに近づいていた。現在、マーチン・ストーンは認めている―「ノーティー・リズム・ツアーの間、僕たちはジェイクと解散するための共同決定をした。僕たちはあまりに多くの印象に残らないギグをやって疲れ果てて、いらいらしていた。僕たちは契約上の義務を果たしたんだ。それからフィルはレジデンツの一員になるためにアメリカに戻って、ジェイクはフィールグッズと働いて、そのあとスティッフ・レコードを立ち上げた。僕はピンク・フェアリーズに入った」

ウィリスの消滅(不幸にも、アルバムからの遅きに失したシングル、“Breathe A Little”のリリースと同時だった。B面はネスミス・セッションからの残り物で、他では聞けない“Friday Song”だった)は、彼ら最後の一対のレコーディングを残すことになった―リスマン作の新曲だった“Don't Hurt The One You Love”“Words”は、魅力あふれる“ドゥービー・ブラザーズ-ミーツ-フィリー・ソウル・サウンド”に仕上げられていたが、永遠にリリース待ちとなってしまった。ピート・トーマスはジョン・スチュワートとともに活動するためにアメリカへ旅立った。のちにスチュワートは、パブ・ロッカーのエルヴィス・コステロの不成功に終わったバンド、ジ・アトラクションズに加わった。ポール・ライリーはコステロとグレアム・パーカー両者からの申し入れを断ったが、Roogalatorでダニー・アドラーとともに活動した。一方ポール・ベイリーは、Bontemps Roulezで浮上したが、リズム・セクションがブリンズリー・シュウォーツの2人のメンバーとともに、グレアム・パーカーのバンド、ザ・ルーモアを結成した時に解散した。

しかしながら、チリ・ウィリ・ストーリーには短い付け足しがあった。「僕たちは80年代半ばに1回のギグのために再結成したんだ」 マーチンは明かす。「あの時に僕たちは2曲をレコーディングした。だからずっとあとのチリ・ウィリの未リリース・トラックがまだ2つあるんだ。“Streets Of Baltimore”(ボビー・ベアのヒットで、グラム・パーソンズもレコーディングした。ウィリスは1974年7月のジョン・ピール・セッションでも録音していた)と、ダグ・カーショウの“Mama And Papa Had Love”だ」 不幸なことに、パーマネント・ベースでストーンとリスマンが再び手を組むという望みは、1987年7月1日にリスマンが心臓発作で倒れた時につぶされてしまった。彼はまだ38歳だった。

彼らが消滅してから30年以上たち、マーチン・ストーンにはチリ・ウィリ・アンド・ザ・レッド・ホット・ペパーズについて、楽しく懐かしい思い出しか残っていない。「僕はスタジオでレコーディングしたどれもが好きになれなかったね。僕の耳には他の人たちがグレイトに聞こえて、自分のはクソに聞こえた。自尊心のなさみたいなのが僕の認識に反映されているんだ。でも曲自体は好きだね。それは僕の人生でグレイトな思い出にあふれたすばらしい時期を表わしているし、チリ・ウィリはすばらしい努力の成果だった。僕たちはイギリスのミュージシャンだったから、フライング・ブリトー・ブラザーズには決してなろうとはしなかったし、本物のアメリカン・ブルーグラス/カントリー・ロック・サウンドを身につけようとはしなかった。ただし、僕たちは豚小屋みたいなところでライヴをたくさんやったから、少なくともその意味においては、もしかすると僕たちは本物だったのかもね!」

デヴィッド・ウェルズ
2006年4月

このCDリリースへのマーチン・ストーンの協力に感謝する。その他、ポール・ベイリー、ポール・ライリー、タラメイック・テラスコープ(Ptolemaic Terrascope:英音楽雑誌)、そしてウィル・バーチの“No Sleep Till Canvey Island:The Great Pub Rock Revolution”(Virgin Publishing, 2000, ISBN 0 7535 0411 1)にも感謝する。


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