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Clarence Carter/Snatching It Back/1992 Atlantic Recording Co. / Rhino/Atlantic R2 70286



“そうだな、じゃあ教えてあげよう。君が教会出身だろうが、田舎出身だろうが、そして僕の声が聞こえるところにいる君はもしかしたら郊外出身かもしれないが関係ないってことだ。” クラレンス・カーターは彼の失われた傑作“Making Love(At The Dark End Of The Street)”の中のクライマックスで、最も声を張り上げて歌っている。彼は自らの大きなテーマのひとつ―不義の愛を説いている―と同時に、彼の音楽の普遍性をも発している。なぜなら彼は南部ミュージックの最も伝統的な側面と、ディープ・ブルースマンとして最もモダン化された部分の両方を併せ持つアーチストだからだ。

他のサザンソウルを標榜するライバルたちと違って、カーターの音楽的アプローチの仕方は、常にアコースティック・カントリーブルースに立ち戻ることにある。とりわけ彼は盲目のブルースシンガー/ギタリストたちの連綿と続く循環の最後尾に位置していた。つまりブラインド・レモン・ジェファーソン、ブラインド・ウィリー・マクテル、ブラインド・ウィリー・ジョンソンその他の子孫である。彼ら同様、カーターも暗がりの中で少しの怯えを常に抱えていた。

カーターの場合、愛それも裏切りの愛が、偉大な神聖なる暗喩となっていたのである。ある意味彼は、特にブラインド・ウィリー・ジョンソンの伝道ゴスペル・ブルース・スタイルを持っていたと言える。彼がメロディをストレートに歌うときでさえ、その中には訓戒が感じられる。彼のボーカルはしばしば感嘆と改ざん、話し言葉、喘ぎ、そしてハミングを特徴とする。それらはみなゴスペルからきているのである。 一方、ギタープレイは先輩たち(当時の盲目の天才、レイ・チャールズは除く)よりも広範囲に渡るユーモアセンスを持ち、時々下品なしわがれ声の含み笑い(説によるとアラバマ、モンゴメリーのDJ、ミスター・リーの模倣らしい)は、彼の多くの作品に出てくる。この深みのある皮肉っぽい態度は、意識的にも無意識的にも彼が盲目であるという事に基づいた暗喩である。例えばそれは“I Can’t See Myself”と“I’d Rather Go Blind”である。彼の全ての過去へのリンク、このスピリットはカーターを現代の天才的パフォーマーたらしめ、さらに他の絆―街角のミュージシャンから今日のラッパーに至るまで―へとリンクしている。

1936年1月4日、アラバマ、モンゴメリーにカーターは生まれた。彼はジョン・リー・フッカー、ライトニン・ホプキンス、ジミー・リードらのレコードを聴いてギターをマスターしていった。そしてモンゴメリーのアラバマ州立大学へ進み、音楽課程を修了した。卒業するまでに彼は、レコーディングに関する様々なスキルを身につけていった。 彼は歌いギターを弾くだけでなく、キーボードもこなし、作曲、アレンジもこなした。譜面はブライユ点字法によってであった。1963年頃、カーターとカルヴィン・スコットは一緒に歌い始めた。彼らはクラレンス・アンド・カルヴィンとして小さなレーベルであったフェアレーン・レコードに2曲のシングルを吹き込んだ。

1965年クラレンスとカルヴィンは、マッスルショールズのリック・ホールのフェイム・スタジオに85ドル払い、“Step By Step”と“Rooster Knees And Rice”をレコーディングした。デュークとの契約は切れたが、アトランタのDJ、ジーナス・シアーズ(元チャック・ウィリス他のマネージャー)がアトランティックのジェリー・ウェクスラーに先鞭をつけ、このレコードは姉妹レーベルのアトコからリリースされた。“Step By Step”はヒットこそしなかったが、クラレンスの朗々たるボーカルは話題を呼び、スコットが交通事故によって去った後もカーターはソロとして活動することになった。“Thread The Needle”のあと、すぐにスタイルを変え、“Tell Daddy”はエタ・ジェイムスの“Tell Mama”の大ヒットに貢献することとなった。

彼は1968年1月、“Looking For A Fox”でアトランティック・レコードのスターとなった。半年後カーターは素晴らしい‘裏切りバラード’、“Slip Away”でトップテン・ヒットを放った。それから3年以上、彼はポップチャートの下位で揺るぎないR&Bアーティストとして君臨し続けた。最大のヒットは、70年のトップテンに食い込んだ“Patches”だ。71年暮れには“Slipped, Tripped And Fell In Love”(これはエタ・ジェイムスにとっての“Tell Daddy”同様、アン・ピーブルズの持ち歌をカーターが拝借したものだ)を発表している。

カーターは70年代半ばまでリック・ホールと仕事を続けた。それからは、いくつかの小さなレーベルでアルバムを発表したが、アトランタ拠点のイチバン・レーベルが最も多く、R&Bチャートでよく健闘していた。典型的カーター節は、大きな声とジャズマスター・ギターをかき鳴らすものだった。それは強力なマッスルショールズのソウルグルーヴとメンフィス・スタイルのホーンによって縁取られていた。例えばバラードであれば、そこにはある種の説教スタイルが入り、ジャンプナンバーではあれば、彼の好色なくすくす笑いが入るところが必ずある(この無意味な笑いは、クリスマスソングである“Back Door Santa”においてはパーカッション的な役割を果たす)。

彼は殆んどのラヴソングを深みのあるバリトンで歌う。それはうっとりするような“Soul Deep”(ボックストップスから借用)から、意気消沈したような“I’d Rather Go Blind”まで全てである。しかし彼の十八番は無数の側面を持った語りである。 多くはロマンチックな喜びが台無しにされたりとか、抗しがたくスリリングな罪というものを希薄にするような不義を表現する。“Slip Away”がきっかけとなり、彼の説教スタイルとして頂点となった“Makin Love(At The Dark End Of The Street)”が生まれるに至った。“Makin Love”は4分の語りとたった30秒の歌唱である。ここでカーターはディープソウルの原初的ナンバーである、ジェイムス・カーの“The Dark End Of The Street”を取り上げ、それをゴスペルブルース・スタイルの説教で作り直している。そして部分的にストリングスを挟み込ませている。

同時にカーターの性表現における説教は、納屋の前庭からマイル・ハイ・クラブへと場所を移していったのだ。オープニングの何小節かはかなりの非常識さと、ゆったりとしたくすくす笑いだ。最後のセリフで彼は人間の性質に則って説教をする(あなたの知ってる通りだ)“Slip Around”へと続くわけだ。彼の声の響きを伴ったむせび泣きだ。サウンドは彼の心からダイレクトに花開き、感情の爆発は大きく、抑えられない人間の堕落した本性なのである。

サザンソウルのゴールが性的なものと精神的なものの融合だとすれば、ここではもう区別がつかなくなっている。融合が完全に達成された稀なひとつは、カーターが説教を止め‘Aaaaat the dark end of the street’と歌いだすその瞬間だ。不条理と深遠の融合においては、カーターの“Makin Love”よりもロックンロールのにおいのするレコードはないだろう。そして同時に、ロックとソウル両方の側面を持った、偉大かつ不思議な曲のうちの一つだ(いかにリック・ホールはこれをリリースするのに神経を使ったであろう?B面の“Snatching Back”であれば話は簡単なはずだ。ローリングストーン誌の記者、ジョン・ランドウは彼にそのことを話している)。

多くは確かに真実だ。普通ではないオープニングは、最後のドラマのカタルシスに向けて不可欠である。偉大なソウル・アーチストだけが、まだ確立されていない、常軌を逸した考えを思いつくものである。カーターは彼のキャリアを通じて、そういった要素を保ち続けてきた。それは“Patches”の感傷であり、陽気なくすくす笑いは、彼の最後の真の古典“Sixty Minutes Man”をもたらしたのだった。これはアトランティックから離れた後、フェイムからリリースされた。風刺的に描くことによって彼は通りの暗闇(dark end of the street)に潜むソウルの深遠を見つけたのだ。ソウルシンガーにとってこれより偉大な貢物は滅多に見つからないものなのである。

デイヴ・マーシュ


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