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Caravan/Where But For Caravan Would I? : An Anthology/2000 The Decca Record Company Ltd. 524 755-2



多くのマニアにとって、60年代終りから70年代初めにかけての濃厚な時代に出現した創造的なロック・ミュージックの中で、イングランドの地方の町、カンタベリーから現れたいくつかのバンドは、当時最も首尾一貫した興味深い音楽を生み出していた。それらいわゆる“カンタベリー・シーン”(現在多くのビッグ・ネームは否定するが)から出てきたグループのうち、キャラヴァンほどオリジナリティと永続性を持ったものはなかった。

期待された当時のバンドの多くは、商業的成功を達成することはできなかったが、キャラヴァンは以下のアルバム、“Caravan”、“If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You”、“In The Land of Grey & Pink”、“For Girls Who Grow Plump In The Night”、“…And The New Symphonia”そして“Cunning Stunts”においてきわめて優れた音楽的高みに到達した。彼らの長きに渡って続く魅力は、独創性をもった英国的アプローチがライヴや楽曲に反映されていたことであり、それらのほとんどは(そして現在も続く)先見性をもつグループの大黒柱といえるパイ・ヘイスティングスによって書かれたものであった。

ワイルド・フラワーズというバンドの残党たち(メンバーにはブライアンとヒュー・ホッパー、ロバート・ワイアット、リチャード・シンクレア、そしてケヴィン・エアーズらが一時在籍)、つまりパイ・ヘイスティングス(ギター、ヴォーカル)、リチャード・シンクレア(ベース、ヴォーカル)、リチャードの従兄弟デイヴ・シンクレア(キーボード)、そしてリチャード・コフラン(ドラムス)は、1968年1月キャラヴァンを結成した。キャラヴァンはロバート・ワイアットとケヴィン・エアーズがオーストラリア人のビートニク、デイヴィッド・アレンと共に名バンド、ソフト・マシンを立ち上げたことにより解散したワイルド・フラワーズの後に結成されたバンドであった。ソフト・マシンはまもなくヒッピーの同志を見つけ、ロンドンのミドル・アースやUFOクラブに出演するようになり、ロンドンのアンダーグラウンド・シーンの象徴ピンク・フロイドと共にシングル・デビューを果たした。ソフト・マシンの最初の成功により、すぐにキャラヴァンに目が向けられることになった。パイ・ヘイスティングスはいう。“僕らがミドル・アースでプレイしていた時、トニー・コックスという一人の男がやってきたんだ。彼はソングライターでプロダクションに入りたがっていた。彼はロビンズ・ミュージックのイアン・ラルフィという男を知っていて、その彼が僕らに連絡してきたんだ。彼は僕らの曲、‘Place of My Own’をすごく気に入ってすぐにファースト・アルバムのレコーディングをしようと出版契約をオファーしてくれた。”

1968年10月にMGM/ヴァーヴ・レコードからリリースされたデビュー作“Caravan”は素晴らしい出来となり、当時のサウンドを見事に映し出していた。それは例えばピンク・フロイドの“Piper At The Gates Of Dawn”、プリティ・シングスの“S. F. Sorrow”、トラフィックの“Mr. Fantasy”、そしてファミリーの“Music In A Doll’s House”のようなブリティッシュ・サイケデリック/プログレッシヴ・ミュージックの傑作群と同等の価値を持っている。このアンソロジーではそこから4曲収録されている―“Place of My Own”はファースト・シングルに選ばれた。一方“Love Song with Flute”ではパイの兄弟ジミーがフルートでデビューを飾っている。以後彼はゲストとしてほとんどのアルバムに参加することになる。サイケデリックの影響は“Magic Man”に顕著だ。“Where But For Caravan Would I?”は彼らの長編トラックへの初の試みで、複雑な構成をもった曲だ。このアンソロジーではこれら4曲はCDでの初のモノラル・ミックスとなる。当時はステレオよりもモノラルが重視され、しばしば同じアルバムのモノとステレオではかなり異なったサウンドになっていた。

ファースト・アルバムは好評だったが、4人の生活を楽にはしてくれなかった。パイはいう。“僕らはレコード会社から週7ポンドもらって生活していたけど、どこにも部屋を見つけることができなかったよ。リハーサルはケント州にあるグレーヴニーというところの村のホールでやっていた。ある日デイヴがテントがあるといったんだ。で僕らもみんな持っていた。結局ホールの外にみんなテントを張ることにした。寒くなってくるとホールの中に張った!”

残念ながら“Caravan”はMGM/ヴァーヴが英国から撤退したため、数ヶ月間しか店頭に並ばなかった。バンドは将来性あるスタートを切ったのだが、レコード契約がなくなってしまった。やがてバンドにテリー・キングという正式のマネージャーがつくことになった。そしてデッカ・レコードと契約し、その友好的な関係は以後6年間続くことになった。

1969年暮れから1970年にかけてレコーディングされた“If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You”はデッカでのファースト・アルバムで、愉快な“ダブル・ミーニング”のタイトルが付けられた。イングランド的なウィットな詞とメロディが織り込まれたこのアルバムには、多くの名曲が入っていた―“And I Wish I Were Stoned”、“Asforteri 25”、そしてアルバム・タイトル・トラックだ(以上は全てここに収録さている)。また同セッションでレコーディングされていた中には、未発表に終わっていた“A Day In The Life of Maurice Haylett”があった。これは彼らのサウンド・エンジニアに捧げられた曲で、BBCラジオ・ワンで何度か演奏され、アーカイヴされたがその後紛失してしまった。ここに収録されたヴァージョンは、このアンソロジーの準備のためにテープをリサーチしていたところ発見されたものである。

“If I Could Do It All Over Again…”はバンドが必要としていた然るべき場所への露出を促すことになった。彼らはBBCテレビの“トップ・オブ・ザ・ポップス”ショーにさえ出演し、アルバムのタイトル・トラックを演奏した。ひき続き高校、大学へのライヴ・サーキットを回り、1971年、おそらく今では最も有名なアルバム、“In The Land of Grey and Pink”をレコーディングするためにスタジオに戻った。このアルバムがリリースされて以来廃盤になっていないことは重要な意味を持っている。アルバムにはさらに優れた作品、“Winter Wine”(多分リチャード・シンクレアの絶頂期)、“Love To Love You”、“Golf Girl”そして22分の壮大な“Nine Feet Underground”が収められ、人々は“…Grey And Pink” は“完璧な”キャラヴァンのアルバムと見なし、以後のバンドの成長に大きく貢献した。元々レコードでは時間的制約から編集された“Love To Love You”と“Golf Girl”は、このアンソロジーで初めて新たにリミックスされ、フル・ヴァージョンとして収録される栄光を与えられることとなった。次作のレコーディングに先立ってキャラヴァンは最初のメンバー・チェンジを強いられることになった。デイヴ・シンクレアがロバート・ワイアットの新しいバンド、マッチング・モウルに参加することになり、代わりのキーボード・プレイヤーを探す必要に迫られ、デリヴァリーのメンバーで、ジャズに影響を受けた当時全盛を極めつつあったスティーヴ・ミラーに白羽の矢が立てられた。

ミラーはジャズのバックグラウンドがあったため、むしろオルガニストというよりもピアニストであった。1972年の“Waterloo Lily”は、キャラヴァンのスタイルの変化を印した雑多な内容となった。“The Love In Your Eye”がハイライトだ。ヘイスティングスは説明する。“僕らはスティーヴのプレイに合わせて自分たちのスタイルを変える必要があった。そして以前よりもブルース/ジャズ的なアプローチをするようになったんだ。”“Waterloo Lily”でのバンドの方向性の変化は、キャラヴァンの信者たちから様々な受け止められ方をした。ヘイスティングスはいう。“しばらくはうまくいったけど、それは僕の望むメインの方向じゃなかったんだ。で僕らは再びメンバー・チェンジした!”

“音楽的相違”による大混乱の繰り返しによって、リチャード・シンクレア(ハットフィールド・アンド・ザ・ノース結成へ)とスティーヴ・ミラー(デリヴァリーへ戻る)の脱退という結果を招いた。短期間にパイ・ヘイスティングスとリチャード・コフランは、ベースのスチュアート・エヴァンス、キーボードのデレク・オースチンを引き入れた。もう一人の新加入メンバーはマルチ・プレイヤーのジェフ・リチャードソンで、彼のメインはエレクトリック・ヴィオラだったが、ヴァイオリン、ギター、フルート、バンジョー、そしてクラリネット(!)までも堪能であった。ヘイスティングスは共通の友人に紹介され、ジェフは1972年の暮れにキャラヴァンのオーディションに訪れた。彼の加入はバンドに新しい方向性を持ち込み、古くからのファンに加えて新しいオーディエンスを獲得するに至った。リチャードソンのヴィオラ・プレイはキャラヴァンの古いナンバーに新鮮な空気を吹き込み、新しいナンバーの音楽的可能性を拡げることになった。

すぐにこのラインナップでステイタス・クォー、リンディスファーン、そしてスレイドとのオーストラリア・ツアーが計画された。“君の想像するとおり、僕らはあまりうけなかった!”パイは笑う。この悲惨な公演旅行から戻るとパイは、オースチンとエヴァンスを御役御免にし、ベース・プレイヤーのジョン・G・ペリーを加入させた。デイヴ・シンクレアはマッチング・モウルを去り、再びキーボードとして戻ってきた。シンクレアはニュー・アルバムのためのキーボード・パートをマスターするために数日間を与えられた。バンドは“For Girls Who Grow Plump In The Night”をレコーディングするためにデッカのスタジオに入った。

再び元のメンバーが集まったこのアルバムは、その当時最高レベルに達した音楽的野心にあふれている。“Memory Laine Hugh”と“Headloss”は、オーケストラで締めくくられる作品、“L’Auberge Do Sanglier/A Hunting We Shall Go”と共に強力だ。これらは全てこのCDで聴ける。

“For Girls…”の成功に乗じてキャラヴァンは1973年10月28日、ドルリーレーン(ロンドン中央部:王立劇場がある通り)のロンドン・ロイヤル劇場でザ・ニュー・シンフォニアと共にコンサートを行った。これはプロデューサーのデヴィッド・ヒッチコックが提案した企画で、バンドは指揮者のマーチン・フォード、アレンジャーのサイモン・ジェフスと組み、古いナンバーと2曲の新曲にオーケストラを加えたものだ。コンサートは1枚のアルバムとして録音され、1974年4月にリリースされた。ヘイスティングスがミックスを担当した結果、アルバムは大好評となり、本腰を入れて実況録音された“For Richard”(元々は“If I Could Do It All Over Again…”に収録)は、最高のヴァージョンとなった。パイはこのコンサートがキャラヴァン・ファンにとって拠り所となったと認識しているようだ。

1974年春、ジョン・G・ペリーが新しい活動の場を求めてバンドを去った(結局クォンタム・ジャンプに落ち着き、“The Lobster”のUKトップ20ヒットを放った)。代わりに元カーヴド・エアのベーシスト、マイク・エッジウッドが加入した。その年の8月までにキャラヴァンはアメリカでのコンサートを依頼され、マネージャーのテリー・キングを残し、マイク・コープランドと彼のブリティッシュ・タレント・マネージメント(BTM)と組むことになり、カーヴド・エアとルネサンスらにツアー・アクトとして参加することになった。

1974年後半、次のアルバム、仮タイトルの“Toy In The Attic”のプロモートのため世界的なツアーを行い、新しい編成となったキャラヴァンは、大西洋の両側でライヴ・バンドとしてかなりの名声を獲得した。アルバム・リリースに先立って、USヘヴィ・ロック、エアロスミスが最新アルバムを同じタイトルでぶつけてきたため、タイトルを変更することになった。代わりに付けられたタイトルは見事な頭韻変換を伴った“Cunning Stuns”だ(Cunting Stunts;ハメハメ技のもじり?)。この過激なジョークはリチャード・コフランによるものだった。アルバムは初のUKアルバム・チャートに入り、驚いたことにデッカ・レコードもレコード店も全く問題にしなかったのである。しかしベルギーの音楽誌のアルバム・チャートでは14位初登場の際、全ての文字が逆さ読みになっていた!ジェフ・リチャードソンは思い出す。“僕らはどこでもトラブル・メーカーだった!イタリアでも同じことが起こったよ!”

前2作ほど首尾一貫してはいないが、“Cunning Stunts”は“The Show of Our Lives”と“No Backstage Pass”という二つの傑出したトラックが入っている。“Stuck In A Hole”はアルバムからカットされ、アメリカとイギリスでシングルとしてリリースされた。そのシングル・ミックスはこのCDで初出となっている。

アルバムのプロモーションのためのヨーロッパ・ツアーの後、デイヴ・シンクレアが再び去ることになった。彼の脱退は6年間に及ぶデッカ・レコードとの契約終了を意味していた。このアンソロジーはそこまでの軌跡である。

キャラヴァンは70年代にさらに2枚のアルバム、“Blind Dog At St. Dunstans”と“Better By Far”をそれぞれBTMとアリスタに残した。しかしその時までにはパンク・ロック旋風によってセールスとコンサートの動員に影響が出ていた。80年代初頭、テリー・キングのキングダム・レーベルから、“The Album”と“Back To Front”がリリースされた。しかしバンドはすでにその機能を停止していた。

8年間の沈黙の後、オリジナル・ラインナップ―パイ・ヘイスティングス、シンクレア、コフラン、そしてシンクレア(デイヴ)が戻り、一回きりのライヴを行った。これは英国のセントラル・テレビ(イングランド中部に放送)の要望によるもので、1990年7月24日にノッティンガムで行われた。セントラル・テレビは“Bedrock”というシリーズ番組を持ち、それは70年代のバンドがスタジオ・ライヴをする番組だった。このTV番組の成功に後押しされ、そのライヴは“Caravan Live”としてCDになっている。そしてバンドはついにライヴ・サーキットに戻り、リチャード・シンクレアの代わりにジェフ・リチャードソンが戻り、ベテラン・ベース・プレイヤーのジム・レバートンと、新加入のダグ・ボイルとサイモン・ベントールという編成になった。

1990年代はさらに5枚のアルバムをリリースし、今も活発に活動を続け15枚目のスタジオ・アルバムを準備中だ。このアンソロジーは、彼らの永遠の創造的才能に対する敬意として捧げられたものだ。

マーク・パウエル
写真と、思い出を語ってくれたパイ・ヘイスティングスに感謝する



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