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Caravan/Waterloo Lily/2001 Decca Music Group Ltd. UICY-20132



60年代後半から70年代初めにかけての向こう見ずな時代に登場した、創造的なロック・ミュージックを愛する多くのマニアにとって、イングランド南東部の地方都市カンタベリーから現われたバンドは、その時期もっとも一貫して興味深い音楽を生み出していた。いわゆる“カンタベリー・シーン”(主役級のバンドたちの多くが、そのシーンの存在を否定するが)から登場した中で、キャラヴァンほどオリジナリティにあふれ、長続きしたバンドはいなかった。

Caravan
Waterloo Lily

1971年4月8日に『In The Land Of Grey & Pink』(Deram SDR-R1)がリリースされた時、そのアルバムは批評家とキャラヴァン支持者両方から大絶賛された。アルバムを形成するフォーク、ジャズ、そしてロックの独特な融合が、30年近くたった今でも高く評価される一方で、その時代に出た他のアルバム群は、評論家によっては嘲笑の的となっている。

バンドは4月後半のUKツアーを引き受け、5月にはBBCラジオ・ワンの番組“イン・コンサート”のためにライヴ・セッションを行なった。6月は公式には休暇に当てられていたが、にもかかわらずパイ・ヘイスティングスはウェスト・ハムステッドにあるデッカ・スタジオに赴いた。アコースティック・ギター1本でデモ・テープを録るためだった。(仮タイトルの)“Pye's June Thing No.2”(パイの6月の歌 その2)は短いが、作者の記憶から長い間消え去っていたチャーミングな歌だった。“Ferdinand”についても同じことがいえるが、それもその日に録音された。パイは回想する―「なぜ僕があの日スタジオに向かったのかは、よく覚えていないんだ。なぜ他のメンバーがいっしょじゃなかったのかもだ。デモは当時僕が頭に描いていた基本的なアイデアを反映しているけど、どういうわけか発展することはなかった。もしかすると、バンド内に問題が起こり始めた時期だったのかもしれない」

ツアーへの取り組みと『...Grey & Pink』が生み出した高評価が、大きな商業的成功を実現させなかったのは、バンド・メンバーとファン双方にとって失望すべきものだった。ヘイスティングスはいう―「あの時点で僕たちはマネジメントとレコード会社両方から大きな投資を受けるべきだったんだ。でもどういうわけか、それはなかった。誰かが僕たちにそれ以上投資する価値はないと判断したんだ。僕たちはみな、いいアルバムを作ったと思っていたし、前進しなければバンド内に緊迫状態を引き起こすことを分かっていた」

その緊迫状態は、1971年8月7日にデイヴ・シンクレアがキャラヴァン脱退を表明した時に明らかとなった。元ソフト・マシンのドラマー、ロバート・ワイアットから誘われたデイヴは、ワイアットのファースト・ソロ・アルバム『End Of An Ear 』でキーボードをプレイし、続いて彼のニュー・プロジェクト、マッチング・モウル(Soft Machineのフランス語にあたるmachine Molleを再解釈したもの)に参加した。

1975年、デイヴ・シンクレアは詳しく説明している―「僕は全てが停滞しているように感じていて、他のミュージシャンからインスピレーションが必要だと思った。僕は他の人々とプレイしたかったけど、キャラヴァンにいるからには両立はできなかったんだ。前に僕はソフト・マシンを去ったロバート・ワイアットと少し話をして、それで僕もキャラヴァンを去った。僕がポルトガルにいる時に、ロバートがイングランドに戻るよう手紙を送ってきたんだけど、僕はリスボンで足止めを食っていて、強制送還されることになっていた。やっとのことでイングランドに戻って、僕たちはゆっくりとマッチング・モウルを立ち上げた」

デイヴの脱退は、バンドにとって大きな問題だった。「彼は簡単に替えのきくメンバーじゃなかったんだ」 パイは回想する。「彼は英国の大抵のキーボード・プレーヤーの中でずっと先を行っていた。キース・エマーソンとリック・ウェイクマンはさておいてね」

バンド続行と仲間のカンタベリー・ミュージシャンに助けを求めようと決心したリチャード・シンクレアは、いとこの代わりにジャズ・ロック・バンドのデリヴァリーからスティーヴ・ミラーを招き入れた。この新しいラインナップは、オーガスト・バンク・ホリデーにクラクトン(イングランド南東)で行なわれたウィーリー・ロック・フェスティヴァルでライヴ・デビューを飾った。1971年晩秋までに、キャラヴァンは再びプロデューサーとしてデヴィッド・ヒッチコックを迎え、『In The Land Of Grey & Pink』に続くアルバムのレコーディングのために、デッカのトーリントン・パーク・スタジオに入った。

新生キャラヴァンが新しい音楽的方向性に向かおうとしていたのは、最初のリハーサルから明らかだった。それはパイ・ヘイスティングスにとっては気の進まない方向だった。「リチャード・シンクレアは以前のキャラヴァンの風変わりなスタイルからはなれたがっていて、よりジャジーな方向へ進みたがっていた」 彼は回想する。「リチャードはスティーヴがすごくジャズ寄りのミュージシャンだったから、彼を呼んだんだ。それに彼にデイヴ・シンクレアのようなプレイを求めるのは事実上、不可能だった。スティーヴはそういうスタイルに興味もなかったしね。唯一の道は、僕たちがスタイルを変えて彼に合わせるかどうかしかないようだった」

たしかに最初のセッションは、よりジャジーになった新しいキャラヴァンを示していた。“Steve's Number One”という仮タイトルのついたミラー・ナンバーのレコーディングに多くの時間が費やされた。このインストゥルメンタルは結局“It's Coming Soon”と改名され、コフラン、ヘイスティングス&シンクレア作のインスト、“Nothing At All”に混ぜ合わされた。この10分の作品は、以前バンドがアプローチしたいかなるプレイからもかけはなれ、サキソフォニストのロル・コックスヒルと、セカンド・リード・ギタリストにスティーヴの兄弟のフィル・ミラーをフィーチャーしている。キャラヴァンの典型ではないが、インストゥルメンタル・ジャズ・ロックの好例だ。

またロル・コックスヒルは、アルバムのタイトル・トラックとなるシンクレア・ナンバーを特色づけた。“Waterloo Lily”は評判の悪い大女の物語だったが、よりシリアスな音楽的アプローチになったにもかかわらず、依然キャラヴァンがユーモア・センスを維持していることが示されていた。

1971年11月8日には、よりキャラヴァンらしいトラックがレコーディングされた。“Looking Left, Looking Right”は、スタジオでパイがテイクを重ねているうちに生まれたリフから発展していた。レコード盤の時間的制約から省かれたトラックは、トランペットにマイク・コットンをフィーチャーし、それは2つのセクションに分けてレコーディングされていた。“Pye's Loop”と名付けられたセカンド・パートは、リスナーが歌が終わったと考えるところで、徐々に戻ってくるように仕掛けられていた。「僕はその歌はジャズ志向と時間的制約両面の犠牲になってしまったんじゃないかと思うね」 ヘイスティングスはそう考えている。29年間、デッカの倉庫に棚上げにされたのち、両トラックはミックスされ、再び組み立てられ、今回初めてこのCDに登場した。

11月11日、ミラー作の“Three Blind Mice”がレコーディングされた。パイのリード・ヴォーカルと、リチャード・シンクレアによる効果的な折り返しのヴォーカルをフィーチャーしたこの歌は、リリース直前に“Songs and Signs”と改名された。エレクトリック・ピアノ・ソロはジャズ・プレーヤーとしてのミラーの才能を見事に示し、彼の音楽的アイデンティティがあらわとなっている。

『Waterloo Lily』はパイが最新版を作ろうと考えていたもっとも野心的なレコーディングの1つをフィーチャーすることになった―パイ作の“The Love In Your Eyes”だ。パイは説明する―「“For Richard”への僕の返答だったんだ。僕はその曲を引き継ぐのにふさわしいあのラインの曲をもう1曲書かなきゃならないと考えていた。最初に基本のメロディが浮かんできて、それから歌をひっぱっていく様々なリフを思いついた。デヴィッド・ヒッチコックはストリング・セクションが必要だと感じていて、デッカにオーケストラのための予算を求めた。で、彼らはそれに同意した。当時彼らは僕らのアイデアに対して協力的だったね」

メインのオーケストラ・セクションは、コリン・フレッチャーが書き、一方でパイの兄弟のジミーがセッションのためのミュージシャンたちの確保、“To Catch Me A Brother”と名付けられたセクションでのすばらしいフルート・ソロ、そしてアレンジメントの追加において重要な役目を担った。「僕はジミーにオーボエ・プレーヤーのためのスコアを書いてくれるように頼んだんだ。僕には書けなかったから。彼は当時、BBCラジオ・オーケストラのために働いていて、多くのすばらしいプレーヤーを知っていた。それで彼はみんなをセッションに連れてきたんだけど、彼らは昔ながらの大酒飲みでもあった!テイクの合間に彼らはみな姿を消して、パブに行ってしまうんだ。僕たちがもう1回テイクを録らなきゃならない時は、バーから彼らをひっぱってこなきゃならなかった。でも彼らはすごく愉快な連中だったから、僕たちは本当によく笑ったね!僕が体験した中でも最高のセッションの1つだった」

ヘイスティングスはこの初めてのオーケストラ・アレンジメントへの試みを誇りに感じている。「当時、オーケストラを使うっていうアイデアは、正しい方向だと思ったんだ。多くのバンドがオーケストラを使って、うまくいく時もあれば、そうじゃない時もあった。僕は自分の曲でぜひとも試してみたかった。ストリングスは“The Love In Your Eye”をとてもうまく引き立てていると思う」 この歌は未来のキャラヴァンのハイライトとなり、今でも彼らの最高の作品として見なされている。“The World Is Yours”はもっと伝統的なヘイスティングスのオリジナルで、アルバムを締めくくるのにふさわしい魅力を放っている。

アルバムの最後の仕上げが1972年初頭に行なわれ、締めくくりにバンドはフランス・ツアーに乗り出し、モントルー・フェスティヴァルに出るためにスイスへ向かった。いつものジョン・ピール・セッションは、4月11日にレコーディングされ、1972年5月19日、ついに『Waterloo Lily』(Deram SDR-R8)がリリースされた。

見開きジャケットのカヴァーには、ウィリアム・ホーガース(英風俗画家:1697-1764)の風刺的な作品、“Rake's Progress”(放蕩息子一代記)から酒場の場面をフィーチャーしていた。見開き内側にはデヴィッド・アンスティによるコミカルなイラストが載っていた―ウォータールー・リリーの栄華を描写した、その悪名高い大女の絵だ!

心待ちにされていたにもかかわらず、アルバムは彼らの前の作品ほど受けはよくなかった。ほとんどのコメントは、アルバムで表明された音楽スタイルのミックスに向けられていた。「僕たちのファンに関するかぎりでは、今までとは全く違ったアプローチだったから、彼らの多くはあまり好きになれなかったんだ」 パイはいう。「新しい分野を開拓して、何か違うものにトライしたことで、僕たちはいくらか新しいファンを獲得したけど、逆にファンを失いもしたね」

1972年6月のUKツアー中に、音楽的方向性についての議論が頂点に達した。パイは回想する―「しばらくして、全くうまくいっていないことがはっきりした。僕はこのことについて、リチャード・シンクレアとたくさん議論したけど、彼はさらにもっとジャズ志向にもっていきたかったんだ。僕はロック的な方向へ戻したかったから、残念ながら僕たちは衝突してしまった」

その相違点を解決できないまま、コフラン、ヘイスティングス、ミラー、そしてシンクレアは、そのラインナップでの最後のコンサートを、1972年7月25日にソリハル市民ホールで行なった。共演はジェネシスだった。スティーヴ・ミラーはまもなくバンドを去り、数日内にリチャード・シンクレアも去って行った。

1995年、シンクレアは脱退理由を回想した―「バンドにスティーヴがいると全くうまくいかなかったんだ。パイとリチャード・コフランのプレイにとっては、音楽がちょっとルーズっていうか締まりに欠ける感じになってしまうからだ。僕たちがブルースとジャズへ手を伸ばし始めていた一方で、パイの考えは僕たちの昔からのファンが支持する方向へ向かっていくことになったんだと思う。そういうわけで、ついに分裂となった。僕はその後、ハットフィールド&ザ・ノースのメンバーになる人たちともっと幅広いセッションをしていた。まず第一に、僕は多くの優れたミュージシャンを知っていたスティーヴ・ミラーと働きたかった。それから僕は彼の兄弟のフィルを紹介された。フィルは当時、ロバート・ワイアットのマッチング・モウルでギターを弾いていた。それからすぐにハットフィールド&ザ・ノースが生まれたんだ」

当時のキャラヴァンの支持層について、シンクレアは次のように考えている―「僕が抜けるまでは、本当の支持は打ち立てられていなかったと思う。その音楽はじわじわと売れ続けていった。『In The Land of Grey & Pink』は役目を果たし続けていた。1972年までは、オーディエンスは何100人単位で、フェスティヴァルでプレイした時は何1000人になることもあったけど、イングランド周辺のギグでは、基本的に数100人だったんだ。そういう人たちは僕たちにとても献身的だった。あと最先端になりつつあったジェネシスみたいなバンドにもね。

僕が脱退を考える時までに、キャラヴァンは4年間の仕事をやって、3枚のアルバムを作ったあとで知られ始めていた。僕たちはヨーロッパとイングランドのツアーをたくさんやっていたし、いつも定期的なコンサートがあった。でも僕らはお金を稼いだことはなかった。その時以来の支持はずっと続いていると思う。キャラヴァンはよりロック寄りに向かっていったけど、パイの独特なねじれた感覚は常に維持されている。それから彼らは初期のファンとはちょっと違ったオーディエンスを引きつけた。2番目のラインナップよりもはるかにその時のキャラヴァンを好んだ人たちは、そのロック的要素を気に入っていた」

いく人かが考えていたことが最後の一撃となってしまったが(リチャード・シンクレアの脱退のこと)、キャラヴァンは続いていく運命にあった。「スティーヴ・ミラーとリチャード・シンクレアが辞めたあと、僕はリチャード・コフランにバンドを続行していく決心を伝えた。彼は同意してくれて、それから僕はマネージャーのテリー・キングのところへ行って、そのことを話したんだ」 パイは説明する。「テリーは新しいキーボード・プレーヤーとベーシストのためのオーディションを何度か設定した。僕はオーディションなんてやったことがなかったから、知らない人がバンドでプレイするなんて全く初めての経験だったね」

この時のオーディションによって、ベーシストとしてスチュアート・エヴァンス(元Thank You)とキーボード・プレーヤーとしてデレク・オースチン(元キーフ・ハートリー・バンド)がやって来た。この交代の前に、へイスティングスは傑出した若きヴィオラ・プレーヤーで、その時カンタベリーに住んでいたジェフリー・リチャードソンを紹介されていた。リチャードソンのプレイの腕前にたちまち魅せられてしまったパイは、すぐに彼をバンドに引き入れた。

1972年9月までに、新生キャラヴァンはロードに出たが、オーストラリアと夜毎太る女(次作タイトル)のことは、まだパイ・へイスティングスの目にちらついていただけだった。

マーク・パウエル


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