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Caravan/Caravan & The New Symphonia/2001 The Decca Record Company Ltd. UICY-2393



控えめに言っても1973年はキャラヴァンにとって、あわただしい出来事の多い年だった。リンディスファーン、スレイド、ステイタス・クォーとのオーストラリア・ツアーに始まり(コンサート・プログラムではせいぜい変てこなバンドとして扱われただろう)、新メンバーだったデレク・オースチン、スチュアート・エヴァンスの脱退とベーシストのジョン・ペリーの加入、キーボードのデイヴ・シンクレアのカムバックがあった。

メンバーは直ちに“For Girls Who Grow Plump In The Night”のレコーディングのためにスタジオ入りした。そのアルバムは完全にパイ・ヘイスティングスの手によるナンバーで固められた。デイヴ・シンクレアのキーボードとジェフ・リチャードソンの熱いヴィオラ・プレイはすぐに評論家たちから高く評価された。“…Plump In The Night”は称賛されるに値する作品であり、ファンも次第に増えていった。一貫して高いレベルを保つアルバムのナンバーはパイによれば、“僕はその頃ピークにあったし、ジョン・ペリーの影響と支えがあったんだと思う。ジョンは特に曲作りの面で力になってくれて、それがアルバムが首尾一貫した作品になった理由だ。”

アルバムのラストはいかにキャラヴァンがバンドとして、タイトで音楽的高みに達していたかを示していた。“Hunting We Shall Go”はインストゥルメンタルだが、これは最後の数ヶ月間のライヴでどんどん発展していったナンバーだ。これは最初にアコースティック・ギターとヴィオラがフィーチャーされていた。“L’Auberge Du Sanglier”は、バンドがしばしば訪れていたフランスの宿にちなんで名付けられた。これはマーチン・フォード(以前バークレー・ジェイムス・ハーヴェストと仕事をしていた)とジョン・ベルによる見事なオーケストラ・アレンジが施されていた。アルバムへ素晴らしいクライマックスを提供したことはさておき、“Hunting We Shall Go”のセッションは、マーチン・フォードとバンドの間の信頼感をすぐにもたらすことになった。パイ・ヘイスティングスはこう説明する。“マーチンはジョン・ペリーの友人だったんだ。そのことが結局ザ・ニュー・シンフォニアを招いてセッションを指揮することになった経緯だよ。その後マーチンは僕らに、セッションがすごく楽しかったから同じオーケストラを使って僕らと一緒にコンサートをしたいといったんだ。で僕らのプロデューサーだったテリー・キング、デヴィッド・ヒッチコック、デッカ・レコードの支援を受けることになった。彼らは皆素晴らしいアイデアだと思ってくれて、すぐにコンサートの準備に取りかかってくれたよ。”

ヒッチコック、キング、そしてデッカ・レコードの間で準備された企画は、ザ・ニュー・シンフォニアとのコンサートの実現だけでなく、コンサートを後世に残すため現場であったロンドン、ドゥルーリーレーンのロイヤル劇場に可動式レコーディング・スタジオを持ち込むというものがあった。日付はキャラヴァンが“Plump In The Night”のために英国のあちこちを短いツアーで回っていた中から、10月28日が選ばれた。パイは思い起こす。“僕はコンサート2週間前の時点でコンサート・アルバムのために2曲の新曲を書くように言われていたんだよ!”

音楽誌にはすぐに広告が載り、チケットはたちまち売り切れとなった。満員となる会場でオーケストラと共に演奏することは、神経をすり減らすものだった。しかしヘイスティングスがいうように、それはリハーサル時間が短すぎることに起因していた。“僕らは全ての曲をオーケストラとリハーサルするのに4時間セッションが2回しかなかったんだ。コンサートの前日スタジオで1回と、当日ロイヤル劇場のステージで1回だけだった。あらゆる問題があったね。僕らはオーケストラの後ろで演奏しなきゃならなかった。つまり彼らは僕らの前に座っていたから、えらく不恰好なコンサートになってしまったね。ストリング・セクションが僕らの音が大きすぎると注文をつけたから、僕らは自分たちのモニターを彼らに向かないように上に向けなきゃならなかったよ!”彼はいう。 パイはまたオーケストラのメンバーの傲慢な態度を覚えている。“ちっ!ロック・ミュージシャンのくせにっていうようなことをいってたよ。ただし僕らが8分の19のリフを彼らと合わせる前まではね。みんな僕らについてこれなくてそこいら中で取り乱してた!”彼は笑う。

オーケストラをつける曲はパイ・へイスティングス、マーチン・フォード、そしてアレンジャーのサイモン・ジェフズが選んだ。パイは面白いことをいっている。“僕は “The Love In Your Eye”のような曲はマーチン・フォードとサイモン・ジェフズと一緒に少しずつ暗記しなきゃならなかった。なぜなら僕は譜面が書けないからね。で手元に戻ってきた譜面にはこんなことが書いてあった。‘ここでギター・ソロ’、‘もう一回ギター・ソロ’、‘さらにもう一回ギター・ソロ’あと‘長いやつ’とかね!それを見た時は‘俺はとんだろくでなしだ’と感じて自分に腹が立ったよ!”コンサートは二部構成となった。前半部は“…Plump In The Night”からのレパートリーとなった。熱心なキャラヴァン・ファンのラジオ・ワンDJ、アラン・ブラックが進行を紹介した。それに続き最新スタジオ作から印象的な活気溢れるナンバー、“Memory Lain, Hugh”、“Headloss”、“The Dog, The Dog, He’s At It Again”、そして“Hoedown”が演奏された。ヘイスティングスの陽気な冗談がバンドと聴衆の雰囲気を和らげ、ザ・ニュー・シンフォニアとの第二部のためのウォーミングアップとなった。

サイモン・ジェフズによる秀逸な紹介により、後半のオーケストラとの共演によるコンサートがスタートした。ジェフズの言葉はそのまま“Introduction”とクレジットさている。続いて息を飲むような素晴らしい“The Love In Your Eye”が演奏された。オーケストラはキャラヴァンのクラシック・ナンバーに新しい一面を加えていた。“A Mirror For The Day”はパイがコンサート当日の朝に詞を書き上げた曲で、彼は目の前に譜面台を立てて歌わなければならなかった!“Virgin On The Ridiculous”も新曲でこれも譜面台が使われた。コンサートの最後はいつものキャラヴァンの必殺ナンバー、“For Richard”で、オーケストラと共にクライマックスを迎え完了した。

バンドはオーケストラとのアンコールを求める拍手喝采のなか、ステージを引き上げた。しかしアンコールの予定は設定されていなかった。パイは思い起こす。“僕らがアンコールを受けている時、弦楽奏者たちがステージの袖に集まって話をしていたのを覚えているよ。彼らは予定に入っていなかったアンコールは追加のギャラをもらわなければ応じられないと僕らにいったんだ。彼らは契約通り演奏しただけだからとね。僕らは彼らの頭の固さにムカついて、‘じゃ勝手にしろ!僕らだけでやるから。’っていってやったよ。そうしたらその後また話し合ったらしくて、結局彼らはステージに戻ってきた!”

オーケストラのメンバーたちとのちょっとしたいさかいはあったものの、アンコールの“A Hunting We Shall Go”は忘れられない演奏となった。しかしながらアンコールのために突然バンドとオーケストラがステージに現れたことがレコーディング・エンジニアたちを慌てさせることになったようだ。可動式スタジオのミキシング卓のいくつかのマイクのチャンネルがオフになっていたのだった。パイ・へイスティングスは、このコンサートがキャラヴァンのファンにとって特別な意味を持つ場となったと思っているが、ピンと緊張感の張り詰めた経験であったと感じている。“結局はうまくいったよ。でもドゥルーリーレーンのロイヤル劇場は、奥行きのあるステージを備えたとても大きな会場だ。そのことと僕らがオーケストラの後ろにいなきゃならなかったことは、つまりお客さんからかなり離れていたということだ。だからバンドが落ち着くのにしばらく時間がかかったね。ステージ上は満員になった。でもすごく上手くいったよ。”

ジェフ・リチャードソンはコンサート中のマイクロフォンについての、のっぴきならない状況を覚えている。“可動式スタジオの人間が2本のマイクをセットにして設置していたんだ。それらのマイクは同時に作動しなきゃいけなかった。ところがサウンド・チェック中に何と全てのマイクのペアの間に火花が発生して飛び散ったんだ!”彼は笑う。“振り返ってみれば、コンサートはハプニング性には欠けていたね。まあそれはオーケストラとの共演によるものなんだけど。”

電気ショックの可能性のある危険と、過去の経験から、バンドのメンバーは何人か危惧を抱いていたようだが、コンサート自体は批評的にもアーチスト的にも素晴らしい成果を上げた。NMEのリンゼイ・ボイドは書いている。“キャラヴァンは常に私たちのお気に入りのバンドの一つだ。あのオーディエンスの反応がなければコンサートはあれほど良いものにはならなかったであろう。”

ライバル誌、サウンズのポール・ウィアーはさらに興奮して伝えた。“いくつかのバンドがオーケストラに中途半端に手を出してきたが、その分野でキャラヴァンにかなうものはほとんどいないだろう―キャラヴァンにはその価値が充分ある。一部の限られた人々にしか見ることができなかったあのコンサートはしかし、デッカがそのライヴ・アルバムを発売すれば世界中の人々が救われることとなるだろう。”

キャラヴァンはその栄誉あるコンサートにあぐらをかいている時間はなかった。彼らにとってそれはいつもの仕事であり、コンサートのたった二日後にはジョン・ピールのラジオ・ワンのレコーディング・セッションをこなし、その年の終りまでイギリスとフランスを忙しく回る一連のコンサートに着手している。1974年も彼らは気を緩めることなく1月には10日間のフランス・ツアー、2月にはロンドンの威信あるレインボウ・シアターでのコンサート、ポアティエ(フランス)とトゥールーズ(同)でのコンサート、そして3月にはバルセロナへ渡った。

“Caravan and The New Symphonia”は1974年4月19日、英国でデラムからリリースされた(SML-R 1110)。アメリカはロンドン・レコードだった(PS 650)。バンドに対する称賛はセールスに結びつかなかったが、さらに2ヶ月のイギリスとフランスのツアーを断念させるには至らなかった。しかしながら、メンバー交代劇という問題が頭をもたげてきた。

パイは説明する。“ツアーの間、ジョン・ペリーはずっとルパート・ハインとセッションをしていて、その時ルパートはクォンタム・ジャンプを結成しようとしていたんだ。ルパートはチャルフォント・セント・ジャイルズにスタジオを建設中で、ジョンはそこへ行って多くの時間を過ごし始めていた。それが僕らのスケジュールとぶつかり始めたんだ。ジョンとのセッションの方が確かに金払いが良かったし、僕らのようにいつもツアーに出ているわけではなかったからね。”

ジョン・ペリーは1974年6月3日、ロンドンのライシーアム劇場で、キャラヴァンとの最後の公演を行った。そのコンサートでは彼の役割はコンガ・プレイヤーとして参加するというものになった。

マイク・ウェッジウッドはベース・プレイヤー、アレンジャーとしてレコード制作に関わるという確固たる地位を築いていた。彼は以前カーヴド・エアとキキ・ディーでプレイしていた。“マイクはデヴィッド・ヒッチコックの提案でオーディションのためにケントにやってきたんだ。”パイはいう。“彼はジョン・ペリーとはタイプの違うプレイヤーだった。僕らの新しい方向性はハードなものじゃなくなってたからね。マイクはスタイルの違う歌唱と作曲法を身に着けていたし、とても良いベース・プレイヤーだったね。”

キャラヴァンはタバーカ・フェスティヴァルのためチュニジアへ行くまでに新メンバーでの体制を整えるのにわずかに2週間の余裕しかなった。8月にはベルギーとオランダでもコンサートが予定されていた。バンドを取り巻く状況は、ジョン・ペリーの脱退後も落ちつかなかった。また、8月にはキャラヴァンはマネージャー、テリー・キングの下を去り、マイルス・コープランド(ポリスのスチュワート・コープランドの兄)と彼の会社ブリティッシュ・タレント・マネージメント(BTM)と手を結んだ。そしてカーヴド・エア、ルネサンスと同じ傘下に入った。“テリー・キングとの契約が満了したからマネージャーを変えたんだ。”パイはいう。“マイルス・コープランドは僕らが2、3年前彼のところのバンド、ウィッシュボーン・アッシュと一緒にキングストン科学技術専門学校でプレイしてた時に、僕らのことを知っていたんだ。その時にマネージメントが必要なら連絡してくれといわれていた。僕らはアメリカで成功したかったから、テリーとの契約が終わってちょうど新しいマネージメントを必要としてた時にマイルスに言ったんだ。‘アメリカで成功したいんだ。力になってくれるかい?’ってね。すると彼はこういった。‘なんてこった!よし2ヶ月以内に成功させてやろうじゃないか!’彼とテリー・キングのエージェンシーとの間にはあらゆる問題があった。僕らはテリーとの契約でギグを予定してたんだが、その時激しい口論があった。でマイルスからアメリカ行きの電話があった。実はツアーの準備はジョン・ペリーが抜ける直前には完了していた。ジョン・ペリーについてすごく残念に思うのは、そのツアーの時にジョンがすでにいなかったことだよ。仲間として一緒に頂点に達していたかもしれないと思うから。”

9月27日、キャラヴァンは9週間を超えるアメリカ・デビューとカナダ・ツアーの50公演目をプレイしていた。その評判は最高に良いもので、“屋根裏の遊び(toys in the attic:次作の仮タイトル)”が間近にぼんやりと見え始めていた。いや、おそらくそれはもう一つの“巧妙な技(cunning stunts:次作タイトル)”だろうか?

マーク・パウエル

注:抜け目ないマニアはこのリイシューCDはオリジナル・アルバムとは著しく違うことに気づくかもしれない。デッカのテープ保管倉庫を調査したところ、ロイヤル劇場での1973年10月のその夜の前半ステージのマルチ・トラック・テープを発見した。今回初めてここに全てがリマスタリングされたわけだ。また同調査ではアンコールの“A Hunting We Shall Go”と、バンドと聴衆の冗談を交えたやり取りも発掘した。これも今回初登場だ。これらの発見は、ヴィニール・レコードによる時間的制約にしばられることもなく、CDにまるまる収めることができ、実際の曲順に並び替える決定もなされた。こうやってキャラヴァンの歴史において、永遠でさらに充実した意義深い夜が送り出されることになったのだ。


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